悟りへ至る第一段階 〜part1〜 



■人間の真の欲求とは何か

 人間の性格や行動を決定する真の基盤が何かについては、心理学者によって学説がまちまちだが、すべての学説に共通する次のような基本的前提がある。

 「人間は自己のある側面を自覚しておらず、その側面から疎外されている」

 「人間は自己の一面を意識しておらず、その一面ともつれたコミュニケーションの関係にある」

 そこで、次の方程式が成り立つ

 自我 = ふだん自分が意識している自分(仮面) + 意識していない自分の側面(影)



■「仮面」(ペルソナ)とは何か

        自分に意識されているが、歪められ、狭められた自我の一断面。

        一般に、常識的で、道徳的で、理にかなっていると思いたい自分の部分。

        「そうすべきである(そうあるべきである)」「そのほうが都合がよい」と思い込んでいる自分自身。




■「影」(シャドー)とは何か

        自我の一部でありながら、仮面と対立する概念やイメージであるため、受け入れられずに疎外され、無意識の領域に沈められた部分。

        無意識的には感じていながらも、自分がそんな非常識で非倫理的で反社会的なことを感じるはずがないという理由で、打ち消され、感じないふりをされている感情や願望。

        仮面と影は対立する概念やイメージである。ちょうど、地球における昼と夜(太陽が当たっている半球と当たっていない半球)のようなもの。したがって、自分が意識的に欲するもの、好きなもの、感じるもの、求めるもの、意図するもの、信じるものの“正反対”が「影」であると思ってまず間違いない。

        自我にとって、影は仮面と同程度ないしそれ以上に重要である。だからこそ葛藤が起きる。

 

■影に対する抵抗感

       「まさか、ありえない、バカ気ている」と、激しい抵抗感を覚えるものであればあるほど、それは間違いなく自分の影である。受け入れ難いからこそ、自分の内側から発せられたものではなく、外側からもたらされたもののように感じられやすい。

       影も自分の自我の一部であることを認めないことは、自分で自分をつねって、痛くないふりをすることに等しい。

       いくら感じないふりをしても、痛みは消えない。無意識(無自覚)のままであるからこそ、人は自らの意志とは逆に、自分の影が発する命令(症状)に振り回されてしまう。

 

■「投影」とはどういう現象か

        投影とは、実際には自分自身の人格に属していながら、そのようには体験されない気質、態度、感情、あるいは行動の一部。それらは環境のなかの物や人物に帰され、自分からそれらの物や人ではなく、そういった物や人から自分に向けられたものとして体験される。

        投影は、次の3つの結果をもたらす。

@ 自分の影が投影されると、人はそういった自己の側面を、もはや自分のものとは感じなくなり、それらに基づいて行動することも、それらを活用し満足させることもなくなる。その結果、慢性的な欲求不満と緊張を引き起こす。

A そういった自己の側面が、自分の外側、自分を取り囲む環境のなかに存在するかのように感じられ、人は自分の発したエネルギーによってしっぺ返しをくらうことになる。

B 人は、投影すればするほど、投影したくなる。投影は、無自覚のままであることによってエスカレートする。環境のなかに投影された自らの影は、ますます畏怖すべき脅威的な様相を呈するようになる。



■投影の4つの主なカテゴリー

◎情動(肯定的/否定的)

 具体的な行為を伴うため、投影の向かっていく方向や対象が比較的はっきりしていて、自分が投げかけたものがその対象から投げかけられていると感じてしまう。

 

◎性格(肯定的/否定的)

 行為を伴わないため、投影の向かっていく方向や対象が特にないか、あっても対象からの実質的な働きかけはさほど感じない。


 

※情動や性格が肯定的なものであっても、自分の内側ではなく外側からもたらされると感じるなら、それは自分の影の投影である。

 

■投影している/していないの判断

 自分が影を誰か(何か)に投影しているか、それとも投影していないかの判断は、きわめてシンプルである。

 自分の身の回りの人や物や出来事が、自分に...

情報を与えるなら → 投影していない。

影響を与えるなら → 投影している。

 

■投影の3つのレベル

●投影対象がない場合(相手のいない投影)

 自分の影を投影している人は、自分の内側の感情が外側からもたらされているように感じている。しかし、具体的な投影対象がない場合は、ただ単に、得体の知れない何か(誰か)が、自分にそのような感情を押しつけていると感じるに留まっている。

 (例)夫:影の投影=「誰かが私にガレージを片づけるよう強く要求している」

      元々の影=「私は自分にガレージを片づけるよう強く要求したい」

    妻:投影していない=「ガレージの片づけは夫の仕事だから、私は放っておこう」

 

●投影対象がある場合(相手のいる投影)

 自分の外側に投影された影は、その内容が非常識だったり非倫理的だったりするあまり、いったいどこからそのような感情が自分に押しつけられているのか、人は必死に捜し求めようとする。そこへ、恰好の候補者(捜し求めているものを持っていそうな人)が現れると、影は得体の知れない何か(誰か)ではなくなり、落ちつきどころを見い出して、さっそくその候補者に投影されてしまう。

 (例)夫:影の投影=「妻が私にガレージを片づけるよう強く要求している」

      元々の影=「私は自分に(妻に)ガレージを片づけるよう強く要求したい」

    妻:投影していない=「夫がガレージを片づけるようだから、様子を見てみよう」

 

●自分も相手も投影している場合(相互投影)

 自分の隠れた情動(肯定的であれ否定的であれ)を外側に投影している二人の人が出会い、それぞれが外側に求めているものを相手が持っていると、それらの間に需要と供給の関係が成り立ち、相互投影が起こる。

 図のAとEには需要と供給の関係(欲する人がいて、欲するものを与える人がいる)が成立している。

 まさにそこで感情的なトラブルや事件が発生する。

 (例)夫:影の投影=「妻が私にガレージを片づけるよう強く要求している」

      元々の影=「私は自分に(妻に)ガレージを片づけるよう強く要求したい」

    妻:影の投影=「夫がさっさとガレージを片づけるべきである」

      元々の影=「私は、自分でさっさとガレージを片づけたい」

 

■影がもたらす症状

        投影された影は、必ず何らかの症状として現れる。

        症状とは、消えてほしいと思っているのと同じ程度に、あってほしいと思っているもの。なぜなら、症状とは自分の影が投影されていることを表すパイロットランプ(自分にとって好ましくない情動や性格が、自分の外側にあることを示す印)であるため、常に点灯している必要があるから。

 

■症状が出たときの2つの注意

1.症状を打ち消そうとしてはならない。

 それは、自分で自分をつねっておきながら、「どうすれば自分をつねることをやめられるか」と問うことに等しい。何かつねられているような痛みを感じながら、その痛みを打ち消そうとすると、つねっているのが自分であることにますます気づかなくなり、症状はむしろ悪化する。

 

2.症状を取り除こうとすると取り除けないからといって、「取り除くまい」と頑張ってしまうのも逆効果。

 それは、自分で自分をつねっておきながら、誰かにつねられて痛くないふりをするのは自己欺瞞だから、もっとちゃんと痛がろうとばかり、さらに烈しく自分をつねってみせることにほかならない。それは、二重の意味で、単なる暇つぶしにすぎない。

 

■症状への正しい対処の仕方

一般に、影はそうであってほしくない自分、好ましくない自己イメージであるため、それを自覚し肯定すると、影の言う通りに自分が行動してしまうように思えるが、実は逆。自分の影に対して無自覚であるときにこそ、人は影の発する命令に従ってしまう。

影がもたらす症状を取り除くには、自分で自分をつねっていることに気づきさえすればよい。そのためには、むしろその症状を意識的に増幅させ、悪化させるべし。憂欝を感じたら、もっと憂欝になろうと努めよ。緊張を感じたら、もっと自分を緊張させるべし。

症状への執着こそが、症状からの唯一の解放である。自分が症状そのものになり切るまで、その負の部分と接し、それを表現し、演じてみること。ただし、「症状が消えてほしいと心から思ったので、意識的に症状を悪化させようと努力したがダメだった」というのは、自分の影と接していない証拠(上記の2に該当)。

症状を味わい尽くしたときに、はじめて自分がそれを生み出してきたことに気づき、症状に対する自分の隠れたニーズ(あってほしいという願望)は満たされ、それによって症状も自然に消える(投影された影が自我に統合される)。それは、倒れかけた自転車が、倒れようとする方向にハンドルを切ることで立ち直るのに似ている。

 


■影の統合

投影が起こると、自分の内面と外側の環境(図のAとB)との間に葛藤が生じているように感じるが、実は葛藤は自分の内面、つまり仮面と影(図のBとC)との間にある。したがって、統合の第一歩は、葛藤の状態を見せかけ(AとB)の対立から、本来(BとC)の対立に戻してやることである。

確実な決定や選択をするときには、常に物事の両面を完全に自覚していなければならない。もし、選択肢の一方が無自覚であれば、その決定は賢明なものとはならないだろう。ただし、投影した影を自覚したからといって、その選択肢に基づいて行動することを必ずしも意味しない。

特に否定的な情動や性格は、否定的であるがゆえに自己の一部だとはみなされず、投影されやすい。しかし、人間の否定的性向は、肯定的性向と切り離され、環境に投影された場合にのみ、暴力的で悪魔的な色彩を帯び、人はその幻の脅威に対して悪意をもって反応する。

否定的性向が自我に統合され、対応する肯定的性向と併置されるなら、害のない柔らかな協調的性質に変わる。

    「悪にさからわず、愛し、友としなさい(汝の敵を愛せ)」(聖書)

    「もし、悪魔がわたしから去ったら、天使も飛び立つ」(リルケ)

    「悪を憎むことは悪を強化する、つまり、反対は反対されるものを強くする」(ロナルド・フレイザー)

「人間同士が愛し合えるかどうかは、自分自身や他人のなかに還元できない卑劣な要素があることを認め、受容できるかどうかにもっぱらかかっている」(アラン・ワッツ)

 

■他人の投影対象とならないために(相互投影の回避)

        あなたがどのような性格であれ、またどのように行動しているにせよ、他人は自分の影をあなたに投影するかもしれない。

        特に夫婦や親子の間では、相互投影が起きやすい。

        相互投影を避けるには、まずあなた自身が自分の影を自覚し、それと向き合い、統合することである。そうすれば、相互投影を仕掛けられても、冷静に対処できるだろう。

 (例)

散らかっているガレージが気になるなら、夫の不精さには関係なく、さっさと自分で片づける。

ガレージの片づけが夫の仕事だと思うなら、放っておくか、やさしく夫を促す。

夫が逆上し責任を押しつけてきたら、その感情に相乗りせず、さっさとその場を立ち去る。それによって、夫は自分の無自覚な情動と向き合わざるを得なくなる。

        基本的に、人は自分の投影に自分で気づくしかない。自覚を促すことはできても、強要することはできない。