はじめに







■あなたは何者なのか?

 数年前から私は、大学生や専門学校生を対象とした就職指導の現場にたずさわっている。論・作文の書き方、面接の心得、履歴書や志望書の書き方などが指導の内容である。各企業の過去の試験問題を収集分析し、傾向と対策をわり出し、予想問題をつくり、学生に演習させる。そうした作業の結果、企業が学生に要求する事柄、学生から引き出したいと思っている情報を、たったひとことでいうならどういう表現になるかということがハッキリわかってきた。それは次のような問いかけだ。

   「Who are you?」(あなたは何者か?)

 この根源的で哲学的(あるいは心理学的)な命題に対して学生から解答を引き出すべく、企業はあの手この手を使って学生に難問をあびせかける。作文の課題にしても、面接で聞かれることにしても、また応募書類に書き込む項目にしても、その背後にはかならずこの問いがかくされている。たとえば作文の課題には、こんなものが出されたりする。

  ○ 「私の転機」

  ○ 「自分の嫌いな自分に手紙を書いてください」

  ○ 「5年後の私」

  ○ 「あなたにとって理想的な社会人とは?」

 そしてこの根源的な問いにかんして、そくざに明快かつ効果的な解答が返せる学生は、ほとんどいない。それができれば、文句なく合格なのだが...。

 一方、学生がそれまで積み上げてきた学校教育のなかでは、このような問いかけは、ある意味タブー視されているようにさえ思える。学校という場所は、ほとんどあらゆる分野にかんする広範な知識を提供してくれるが、たったひとつ、「自分は何者なのか」という問いに対する答えだけは提供してくれない。学校というところは、まるで客がいちばんほしがっている品物以外はあらゆるものが手に入る百貨店のようなものだ。

 学校教育を終えて、さあ、これから社会の一員になろうとするその矢先に、今まで考えてもみなかった問いをいきなりつきつけられて、学生がたじろぐのも無理はない。彼らは、今まで自分が何も学んでこなかったことに改めて気づく。学生に何とか希望するところへ就職していただくという立場上、私も彼らからこの問いに対する答えを引き出そうと、あの手この手でゆさぶりをかけるが、彼らはみな一様に頭をかかえ、悩み、もがき苦しむ。なかにはほとんどノイローゼ状態になる学生もいる。

 しかし、彼らに罪はない。世の大人たちだって、自分が何者かなんてわかってやしないのだ。かくいう私自身にしても、いまだに答えを探し回っている。しかし、象牙の塔におかくれあそばしている学者諸氏の書いたものをいくら読んでも、いっこうにかんばしい答えは得られない。やれ実存主義だ、やれ構造主義だ、やれポストモダンだとのろしを上げてみても、生身の私のあずかり知らぬところで打ちならされる「遠くの祭ばやし」にしか聞こえない。

 

■私は何者なのか?

 こうしてだれもが自問しはじめる。「Who am I?」(私は何者なのか?)私はどこからきて、どこへ向かうのか。そもそも、私はなぜ、何のために生まれてきたのか。両親の単なる行為の結果なのか。でも産んでくれと頼んだ覚えはない(この「覚えはない」という感覚は、この論考の重要なポイントのひとつとなる)。それとも何か目的があるのか。私がこの世に存在する理由とは?

 現代社会は、子供が生まれ落ちるその瞬間から、生存の危機がおそいかかるような世の中だ。出産時障害にはじまり、新生児突然死症候群、川崎病、小児成人病、幼児虐待、家庭内暴力、思春期心身症、摂食障害、依存症...、子供を産めばマタニティ・ブルーが待っている。そしてアダルト・チルドレン。次から次へとおそいかかる生存の危機によって、私たちは自分のサバイバル能力をためされているかのようだ。人生はサバイバル・ゲームなのか。私たちは祝福されて生まれてきたのだろうか。世界は私たちの存在を祝福しているのだろうか。それとも、生存競争に生き残れないものは、さっさと死ねというのだろうか。

 心理学を土台にした自己回復や自己啓発の書を読むと、口裏をあわせたように「他人や世の中は変えられないが、自分は変えられる」と書いてある。でも、どうやって? 私は生まれ変われるのか。いや、そもそも生まれ変わる“べき”なのか。「人を恨むな、感謝と祈りをもって生きよ」「私たちは生きているのではない。生かされているのだ」なるほど、ごもっとも。それで、どうしたらいいのか。

 瞑想? ヒーリングワーク? セラピー? たしかにそれらを体験すれば、リラックスして気持ちがよくなるだろう。場合によってはある種のヴィジョンが見えることもあるかもしれない。それで、その後は?

 「心の成長だ、精神の進化だ! 先をめざせ、もっと先を。もっと別の自分がいるはずだ。現状に甘んじるな。何か別の、来たるべき自分に想いを馳せよ」ああ、だれか、今ここにいるありのままの私をまるごと肯定してくれないのだろうか、「あなたはそれでいいのです。あなたはここにこうして生きているだけで価値があるのです」と。

 私は去年から、マスコミへの就職希望者を対象とした論・作文の通信指導講座を担当している。毎月、私の出す課題に対する参加者の作文が手元にとどく。そのどれを読んでも、やはりその文章の裏には、先の根源的な問いがかくされている。ある学生は、カラッポの器に不安ばかりがギッシリ詰まり、「自己存在価値」を日々求め続ける現代の若者像を「一億総エリートの悲劇」と呼んだ。またある学生は、「教えて欲しいのは決められたルールを型通り守ることではなく、生き方のヒントなのだ」と悲痛な叫びをあげていた。なかには、不倫や予期せぬ妊娠に悩み、人生相談の手紙を送ってよこす女子学生もいる。

 

■「家族」というキーワード

 先にあげた、子供たちをおそうさまざまな生存の危機に共通していえることは、それがどれも「家族」という共同体の現場でおこっているという点だ。「私は何者か」という根源的な問いにも、「家族」という概念がかならずつきまとう。「家族」というキーワードは、どうやら時代のなぞを解くカギのようだ。それは「家庭」という言葉におきかえられるような空間概念であると同時に、連綿と営まれてきた「血のつながり」という時間概念もあらわす。また、「氏」や「育ち」、あるいは「出自」という言葉におきかえられるような、私という存在の根源にかかわる概念でもある。それは、「団欒」という言葉があらわすように、あたたかい、くつろげる、安全な場所をイメージさせるかと思えば、「格子なき牢獄」のように、いきなり脅威的で強暴で攻撃的な相貌をあらわにしたりもする。家族は私たちを幸せにもするし病気にもする。

 21世紀を目前にし、「家族」は今、地球環境とともに崩壊しかけているかに見える。しかし実のところ、崩壊しかけているのではなく、変化しようとしているのだ。おそらく「家族」という概念は、今後さまざまなものが変化していくなかで、もっとも大きく変化する概念のひとつだろう。たとえば、子供たちや若者たちの暴力、犯罪、非行、あるいは不倫や援助交際といった「逸脱行動」は、何からの「逸脱」かといえば、それは「家族」からの逸脱ではなく、「家族」という概念からの逸脱なのだ。彼らはどのような逸脱行動をしようが、家族の一員であることをやめたわけではない。「家族」という概念から抜け出しているだけなのだ。したがって、彼らが抜け出したあとの「家族」の概念は変化せざるをえない。そして「家族」の概念の変化により、「逸脱行動」という概念も変化することになるだろう。

 私も二人の子供の親だが、すでに私のなかでは従来の「家族」の概念、つまり子供を庇護し養い教育すべき存在としての親、親の庇護のもとで学び成長し、やがて自立すべき存在としての子供という概念は解体している。その解体は、最初の子が生まれ落ちた瞬間から用意されていたようにも思う。いや、おそらくは私自身が生まれ落ちた瞬間から用意されていた「計画」だったのだろうと、今は感じる。

 ただしそれは、親としての役割の放棄を意味しない。父親としての役割ははたしつつも、子供を、養育すべき対象とみなさなくなったことにより、その子がなぜ私の子供として(いや、私を親として)この世に生まれてきたかがよくわかるようになったのだ。それはその子自身の人生の目的ということではなく、その子と私との一対一の関係性において、おたがいが相手に対してどのような目的意識をもっているかということである。それは、両親を中心に家族が回っているという「両親中心主義」の考えから、おたがいがおたがいに対する引力であるという考えへの変換でもある。

 そのような視点から見るなら、今まで私たちはいかに、その子供本人ではなく「子供」という概念とつきあってきたか、あるいはまた、家族そのものではなく「家族」という概念にふり回されてきたかがよくわかる。私は「子供」という概念とつきあうことをやめたとき、「父親」という概念の体現者であることもやめたのだ。解体したのは家族そのものではなく、「家族」という概念なのだ。

 私はこの論考を、先に紹介した作文講座の学生の「生き方のヒントがほしい」という叫びに対する講座の講師からの返答の試みとして、またそれと同時に、今まで人一倍「家族」という概念にふり回されてきた、そしてそろそろ40の大台に乗ろうとする私自身の30代の個人的な「卒論」の試みとして書いた。

 以降の論考において私たちは、「家族」という概念の解体、「家族」という計画の変更を、順を追って見ることになるだろう。それによって私たち一人一人が「家族」という概念の呪縛から解放され、自分がこの世に生まれてきた固有の目的に気づき、自分がこの世に存在する本当の理由に目覚めるきっかけとなるだろうと、私は信じてやまない。

 

  

魂の降り立つ場所〜