序章 魂の理論



・・守護霊とは、あなたの内部にあって、あなたの潜在能力、言い換えればあなたの独自性の種子を宿している、運命を導く「他者」である。

この守護霊と衝突してはならない。

守護霊はときに否定的な力として働き、直観や微妙な人生の出来事を通して、われわれが特定の方向に踏みださぬよう警告する。

そうかというと、守護天使や人生の先導者のような役割をはたしてくれたりもする。

霊的な生き物について熱心に書いたW・B・イェイツは、葛藤が個人と守護霊との接触を生むことを強調した。

「守護霊は似たようなものを好まず、自分とは反対のものをもとめる。というのも、人間と守護霊とは互いの心の渇きを癒しあうからだ」
     トマス・ムーア『ソウルメイト、愛と親しさの鍵』(平凡社)より

−目次−

  ■「動物物語」が提示するもの

  ■人間の個性とは何か?

  ■「子供は親、時、場所を選んで生まれてくる」

  ■人間は「魂」を積み荷とする船である


  <用語解説>

  ■どんぐり  ■ダイモーン/ゲニウス/魂(ソウル)  ■パラディグマ

  ■召命  ■個性/性格(キャラクター)/天賦のイメージ(かたち)


  <各章の概説>

  ■グロウ・ダウン(第1章)

  ■両親の影響という幻想(第2章)

  ■遺伝か環境か(第3章)

  ■両親のファンタジーと子供の自立(第4章)

  ■運命(第5章)












■「動物物語」が提示するもの

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 スティーブン・R・コヴィーは、その著書『7つの習慣』(キング・ベアー出版)の中で、R・H・リブズの次のような非常に興味深い『動物学校』というおとぎ話を紹介している。

 

●「昔々、動物たちは、新しい世界の様々な社会問題を解決するために、何かしなければならないと考えて、学校を設立することにした。科目はかけっこ、木登り、水泳、飛行であった。学校を円滑に運営するために、すべての動物にこれら四科目の履修が義務づけられた。

 アヒルは水泳の成績は優秀だった。先生よりもうまかった。飛行もいい成績だったが、かけっこは苦手だった。それを補うために、放課後居残りをさせられ、そのうえ水泳の授業時間まで削って、かけっこの練習をさせられた。やがて、足の水かきが擦り減り、水泳も平凡な成績に落ちた。しかし、学校は平均的な成績でいいとされていたので、アヒル本人以外は、誰もこのことを気にかけなかった。

 ウサギは、かけっこにかけては最初から優等生だったが、水泳が苦手で居残り授業ばかりさせられているうちに、神経衰弱を起こしてしまった。

 リスは木登り上手だったが、飛行の授業では、木の上からではなく、どうしても地上から飛べと先生に強制され、ストレスがたまる一方だった。疲労困憊の末、肉離れを起こし、やがて木登りもC、かけっこもDにまで落ちた。

 ワシは問題児で、厳しく更生する必要があった。木登りの授業では、いつも一番早く木の上に到着したが、先生の指示する方法にはどうしても従おうとしなかった。

 結局、学年末には、泳ぎが得意でかけっこもまあまあ、木登りも飛行もそこそこという少々風変わりなウナギが、一番高い平均点を獲得して卒業生総代に選ばれた。

 学校側が穴掘りを授業に取り入れてくれなかったことを理由に、モグラたちは登校を拒否し、その親たちは税金を納めることに反対した。そして子供を穴グマのところに修行に出すと、後はタヌキたちと一緒に私立学校を設立し成功を収めた」

 

 この物語には、現在の学校教育が抱えるありとあらゆる問題点が含まれているように感じる。子供を均質化しようとする教育方針、子供本人以外は誰も気にかけない重要な真実に対する無理解、指導者によるやり方の強制、問題児と呼ばれる子供たちが投げかけるメッセージ、登校拒否の裏に隠された本当の理由、私たち大人は何に税金を納めるべきなのかということ、などなど...。

 その中でも特筆すべきは、次の二つのポイントだろう。一つはもちろん「子供の個性を重んじる教育の重要性」ということだ。ただしこの物語で描かれていることは、むしろ「子供を均質的に指導・評価することの愚かしさ」という反証であり、なぜそのような教育が行われてしまったかの理由を「学校を円滑に運営するために」と表現している点が興味深い。つまり個性重視の教育と円滑な組織運営とは、相容れない対立概念であるというわけだ。もう一つは、モグラの親たちが子供の登校拒否をきっかけに、納税という既成の社会秩序に疑問を呈し、学校よりも子供の個性を伸ばしてくれるであろう(つまり穴グマの)ところに子供を託し、志しを同じくする者たち(タヌキたち)とともに新しい教育機関を設立し成功を収めたという点である。つまり言い換えれば、一部の親たちが、子供の「逸脱行為」に導かれるようにして、既成概念への反省に目覚め、自分たちが本来やるべきことを、子供をほったらかしにしたり、エゴによる暴走というかたちではなく、仲間とともに成し遂げ、しかもそれが社会によく受け入れられたということだ。このポイントは前者よりも重要だろう。

 

 

■人間の個性とは何か?

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 まず、「個性重視の教育」という点から見ていこう。そもそも「個性」とは何か。この物語では動物が主人公であるから、アヒルはウサギよりも泳ぎがうまい、あるいはウサギはアヒルよりも走るのが速いというかたちで、それぞれの「種」が本来もっている特殊性、種に固有の能力を意味しているはずだ。したがってそれは、どんなに泳ぐのが苦手なアヒルでも、ダントツに泳ぎがうまいウサギよりも圧倒的に達者な泳者であるというかたちで発露されるはずである。だからこそ、ウサギにアヒル並みの泳ぎを要求するという、無理を通り越して無謀でさえある均質性あるいは凡庸さへの希求が、ウサギ本来の個性をも存続を危うくし、身体機能を低下させるばかりでなく精神さえ衰弱させるという悲劇が生まれるわけだ。

 ただし、人間の個性の場合は、「あらゆる黒人は、他のいかなる種族よりも圧倒的にリズム感がいい」というようなかたちで、種によって発揮されるわけではない。種を超えて一人一人微妙に違ったかたちで発揮されるのが人間の個性のはずである。もっと言うならば、それは「ジョンはボブよりもリズム感がいい」という比較ですらない。

 それでは、人間にとって「個性」とは何だろう。その個人を、他の誰でもない、かけがえのない、ユニークな(唯一の)存在たらしめている性質(キャラクター)、他の何ものにも還元できない原型、いかなる既成の理論体系やシステムでも類型化できないその人物固有の存在意義のようなものが本当にあるのだろうか。

 

 

■「子供は親、時、場所を選んで生まれてくる」

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 少し脇道に逸れよう。私はある仮説をもっている。それは「あらゆる子供は、明確な意志をもち、いつどこで、誰を親としてこの世に生まれるかを自分で選び取っている」というものだ。つまり、出来の悪い因果な親(時代、世界)に生まれた子供を慰める方便としてよく使われる「子供は親(時代、国)を選べないのだから」という言い方は、ものの道理として揺るがしがたく正しいように見えて、実はまったく人間の真実を言い当てていないということだ。

 ただし私は、それほど遠い昔からこの仮説を抱いていたわけではない。つい最近まで私も「子供は出自を選べない」という「幻想」にとりつかれていて、「なぜ自分はこんな世の中に、こんな親の子供として生まれてきてしまったのか」と、あれこれ思い悩み、自分の運命を呪い、そうしたオプセッションが、自分に子供ができると「(よくも悪くも)なぜこんな自分からこんな子供が生まれてしまったのか」という考えへと私を推し進めていた。私でなくとも、この幻想を頑なに信じる親は、本来親子の絆であるべきものを親子の「呪縛」へといとも簡単に変質させてしまうだろうし、障害児や奇形児でも生まれようものなら、「こんな子供が生まれたのは自分のせいだ」とばかり、因果律の甘い罠に抗しがたく絡め取られてしまうだろう。

 しかし私は、自分の子供とのつき合いの中で、こちらの予想を見事に裏切る彼らのパフォーマンスに驚かされるたびに、まったく逆の仮説を抱き始め、今では自分の仮説に確信をもつにいたっている。つまりややロマン主義的に言えば「妻と私がこの子たちを生んだのではない。生まされたのだ。もっと大袈裟に言えば、たとえ妻と私が出会わなかったとしても、この子たちは生まれてきただろう」ということだ。私にその確信をもたらしてくれたのは、アメリカの心理学者ジェイムズ・ヒルマンである。

 

 

■人間は「魂」を積み荷とする船である

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 私にはもう一つ仮説がある。よく人間を分析的に語る際に、「心と体」あるいは「精神と肉体」という二元論をもち出すが、人間を構成する要素としては心(精神)と体(肉体)だけでは足りない。そこに「魂」を加えなければ人間にはならない。さらに、精神は肉体なしでは成立し得ないが、魂は肉体なしでも成立する。たとえ肉体は滅んでも、魂は不滅である、というものだ。式に表すと、次のようになるだろうか。

 

人間 = 肉体 + 精神 + 魂

 魂 = 人間 − (肉体 + 精神)

 

 どうやらヒルマンも同じ考えをもっているようだ。以下に、現代のユング派を代表する最も影響力の大きい心理学者であり、「元型的心理学」の創始者でもあるヒルマンの理論を借りながら、私自身の仮説の立証を試みてみたいと思う。

 まず、彼の思想の全体像を概観する意味で、理論の中心となる概念を用語解説の形式で一覧し、ついでに、第1章以降で何が論じられるかも大ざっぱに見ておこう。

 

※ヒルマンの引用はすべて『魂のコード』(河出書房新社)より。引用の後の(H)は、ヒルマンの略。

 

 

■どんぐり

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 人間は、それぞれの運命、生き方のイメージのようなものがコード(暗号、記号)として書き込まれた魂の器ないしは計画書のようなものをもっている、とヒルマンは考える。彼はこれを「どんぐり」と名づけている。

 

●「植物学的にいえば、どんぐりは被子植物で、内に植物の胎児を内包している。樫のエッセンスがここにすべてある」(H)

 

 つまり植物のどんぐりが樫の木になるべきすべてのエッセンスを内包しているように、人間のどんぐりも、その人をその人たらしめている(あるいはやがてそのようにするであろう)すべての要素を内包しているというわけだ。ただし、どんぐりとは従来の心理学がエゴ(自我)と呼ぶものとはまったく異なる。

 

●「運命の声が書き込まれた、一粒のどんぐりが人にはあるのだと想像してみよう。

 人は本当の伝記を、つまり、どんぐりの中に書き込まれた運命を奪われてしまったのだと、わたしは強く思う。わたしたちがセラピーに行くのは、それを見いだすためだ」(H)

 

 どんぐりの中に書き込まれた一人一人の運命、魂の計画は、その実現が難しい世の中に私たちは住んでいる、とヒルマンは考えているようだ。

 

●「宿命が引き起こす衝動は、周囲の環境の無理解や誤解によって抑えられてしまい、その結果無数の症状を引き起こすことがよくある。気難しさ、自己破壊衝動、事故を引き起こす傾向、あるいは『過敏(ハイパー)』な子供たち、というかたちの症状だ。しかし、これらの言葉はすべて、自分の無理解を隠そうとする大人たちが発明したものである。どんぐり理論は、子供たちの逸脱(ディスオーダー)に対して、まったく新しい理解の仕方を提供する。この理論は、原因よりも召命を、過去の影響よりも直感的な啓示の方を重大なものとして扱うのである」(H)

 

 私もつねづね眉唾だと思っていたが、どうやら子供の「反抗期」などというものも、大人が大事なものから目をそむけていられるよう勝手に捏造した概念にすぎないようだ。反抗期とは、子供が自分のどんぐりに気づいてもらえずイライラして、やむなく周りの大人たちに発してくるシグナルなのだ。だから大人たちは子供が反抗期から抜けるとホッとするが、それは単に子供のどんぐりが抑圧されたにすぎない。どんぐりを抑圧すると、後々どういうことになるか、想像するだに恐ろしい。

 

●「あらゆるセラピーの学派は声を揃えて、個人を形成している鍵は抑圧だという。しかし、抑圧されているのは過去ではなく、どんぐりであり、またわたしたち自身ときちんとつながることができていない過去の失敗たちなのだ」(H)

 

 どんぐりの計画を困難にしているものは、実は私たちの世界に深く根を下ろしている、心理学が作り出した幻想、一種のイデオロギーなのだ、とヒルマンは説き、そのイデオロギーの解体をもくろむ。

 

 

■ダイモーン/ゲニウス/魂(ソウル)

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 ヒルマンの魂の理論は、プラトンが語る魂の再生の神話に端を発しているが、その神話では、魂は肉体をともなってこの世に再び現れる前に、それぞれ独自の守護霊をあてがわれ、それに導かれて再生の旅路を進むとされている。そしてこの霊による守護はこの世の旅路においても継続される。

 

●「わたしたち一人一人の魂は生まれる前から独自の守護霊(ダイモーン)を与えられている。それがわたしたちがこの世で生きることになるイメージやパターンを選んでいるのである。わたしたちの魂の伴侶、ダイモーンは、そこでわたしたちを導いている。しかし、この世にたどり着く前に、わたしたちは彼岸で起こったことをすべて忘れ、白紙でこの世に生まれ落ちたと思い込む。しかし、ダイモーンはあなたのイメージの中に何があるか、そしてそこにはどんなパターンがあるのかを忘れはしない。あなたのダイモーンはあなたの宿命の担い手でもあるのだ」(H)

 

 この守護霊は、古来よりダイモーンと呼ばれたり、ゲニウスと呼ばれたり、あるいはただ単に魂と呼ばれたりしてきたが、厳密に言うと、それぞれ意味するものは少しづつ違うようだ。たとえば、トマス・ムーアはその著書『ソウルメイト、愛と親しさの鍵』(平凡社)の原注において、次のように解説している。

 

●「R.B.オニアンズは、魂(ソウル)、ゲニウス、ダイモンに関する古代人の信念について細かく論じている。三つの言葉は密接に関連しているが、それぞれの言葉は独特の特徴をもっている。ダイモンは神秘的な導きや助けをほのめかす。ゲニウスは人格や精気をもたらす内部に住む霊といったニュアンスが強く、生殖の重要な要素でもある。ソウルはこうした霊がさずけてくれるものの享受者である」

 

 さまざまな偉人の伝記を渉猟して、彼らのダイモーンの現れ方を研究したヒルマンによれば、ダイモーンは明確な意図をもち、発達も成長もせず(つまり大人とか子供という概念をもたず)、ある威厳をもち、ときとして荒々しく強迫的に振る舞うこともあるという。以下、ダイモーンに関するヒルマンの記述をいくつか見てみよう。

 

●「ダイモーンは子供ではない。またインナー・チャイルドですらない。・・実際、ダイモーンは幼い子供の体の中に宿っている魂、つまりこの完全なヴィジョンと、未熟な人間とを混同することを絶対に許さないだろう」(H)

 

●「ダイモーンは、威厳をもたねばならないのだ。ダイモーンを見下してはならない。子供はダイモーンの威厳を守ろうとするものだ。『いたいけな』年頃のか弱い子供が、不公平やウソに対して抗い、自分を貶める誤解には荒々しい反応を見せるのは、そのためだ。子供に対する虐待ということで言えば、その定義を性的なもの以外の領域にまで広げなければならないだろう。子供の虐待は、性的なものだから悪いのではない。人格の核にあたる尊厳、つまりどんぐりの神話に対する虐待だからこそいけないのだ」(H)

 

●「守護霊(ゲニウス)は、誰にでもついている。けれど、人は守護霊(ゲニウス)でもないし、天才(ゲニウス)になれることもない。ゲニウスやダイモーン、あるいは天使は人につき従う不可視の非人間であって、ゲニウスがついている人間と同一ではないのである」(H)

 

●「古代世界でのダイモーンはどこか他の場所からやってきている。彼らは、人間でも神でもなく、その二つをつなぐ『中間領域』(metaxa)に属する存在だった。そして魂もまたここに属するのだ。ダイモーンは神というより、生まれつき内在する心的リアリティだ。それは夢の中に現れる存在であり、また予兆、予感、あるいはエロティックな衝動としてシグナルを送る存在でもあった」(H)

 

●「幼い頃には、人間とダイモーンはしばしば同じものだと混同されることがある。子供は守護霊(ゲニウス)に吸収されているため、この誤解は無理のないことではある。子供にできることは少なく、一方、ダイモーンの力は大きい。子供自体を例外的だとか特別だと見たり、あるいは叱責すべき対象と考えたり、機能障害(ディスファンクショナル)のトラブルメーカー、暴力的犯罪者の卵として、査定したり、間引いてしまうことがあるのはそのためだ」(H)

 

●「ダイモーンの要求は理性と折り合いがつくとは限らない。ダイモーンはダイモーンの非合理な必然の運命に従う」(H)

 

●「ダイモーンの意図を理解し、その働きを阻まないようにしなければならない」(H)

 

 

■パラディグマ

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 ギリシャ語の「パラディグマ」は、英語に訳すと「パターン」になる。つまり「型」のこと。どんぐりに書き込まれたイメージ、その人の生き方のパターンのようなものを指す。英語の「パラダイム(規範、枠組み)」もここからきているようだ。

 

●「パラディグマとは、あなたの運命全体を方向づける基本的なかたちのことだ。あなたにつきまとい、あなたの人生に影を落としているこのイメージは、運命や幸運をもたらす。けれどこのイメージは倫理の教師ではなく、良心と混同してはならない」(H)

 

 

■召命

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 私はこの言葉が好きだ。召命(コール)という言葉の姉妹語は運命(フェイト)や宿命(デスティニー)という言葉だが、これらの言葉には、私たちのあずかり知らないところで私たちを動かす「神の摂理」とか、私たちをマリオネットのように未来から操る「あらかじめ決められていたシナリオ」といったイメージがつきまとう。これに対して「召命」という言葉には、私たちを名指しで訪れる呼び声(コール)という意味合いがある。メガホンのように両手を口元にかざし、はっきりと私たち一人一人に向けて発せられる魂の呼びかけ。セイレーンの歌声のように、それに耳をふさぐことも、そこから目をそむけることもできない抗いがたい誘惑。自分は物事に熱中するタイプではなかったはずなのに、それでも私たちを駆り立てずにはおかない衝動。それが「召命」だろう。

 

●「召命は、遅らせたり、いっときは見過ごすこともできよう。あるいはそれがあなたを完全に支配することもあろう。しかし、結局、最終的に召命は姿を現す。運命は、運命を主張し始めるダイモーンは、決して立ち消えない」(H)

 

●「要するに、召命は一人一人個別の、興味深いかたちで現れるということがわかるだろう。すべてに共通するパターンなどない。それぞれのケースで個別のパターンがあるのである」(H)

 

 

■個性/性格(キャラクター)/天賦のイメージ(かたち)

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 「個性」というのが、この試論のメインテーマの一つでもある。なぜなら、個性の起源は、遺伝説にしろ環境説にしろ家族というカテゴリーの中で論じられてきたからだ。私は個性を一種の「その人らしさ」ととらえている。つまり「明るい」とか「内気な」とか「頑固な」といった特定の形容詞には還元できないイメージの総体を示すものだろう。

 たとえばある人物がある現象に遭遇したとき、独自の反応なり対処の仕方、振る舞い方をする。その人物をよく知る私たちはそれを見て、「いかにも彼(彼女)らしいな」と言ったりする。その「らしさ」を私たちは言葉で言い尽くすことはできないが、その人物がどんな現象に対しても、ある特定のパターンやイメージにのっとった振る舞いをすることを知っていて、その振る舞いには一貫性があることも理解している。逆にそのパターンやイメージにそぐわない振る舞いをすれば、「らしくない」ということも即座に判断できる。その個性が、いったいどこからやってくるのかを探ることが、今回の論考の主眼となる。

 

●「あなたという人格は、プロセスや発達の結果ではない。もし発達などというものがあるなら、あなたこそが発達する本質的なかたち(イメージ)である。ピカソがいうように、『わたしは発達などしない。わたしはわたしである』のだ」(H)

 

●「あなたは、ある性格(キャラクター)をもって生まれてきた。それは所与のもの(ギフト)。そう、それはまさに、古い物語が言うように生まれながらにあなたの守護霊が与えてくれた贈り物なのである」(H)

 

●「どんぐり理論では、一人一人の人間は生きることを要請されている個性(ユニークネス)、また人生の中で実現される前からすでに存在している個性をもっているのだと説く」(H)

 

※以上、ヒルマン理論の主要な用語を見てきたが、ただし、ヒルマン自身、これらの用語をその定義通りに明確に使い分けているわけではないことをご了解いただきたい。

 

●「わたしは、このどんぐりをさまざまな名前で呼ぶことにする。文脈に応じて、イメージ、性格(キャラクター)、運命(フェイト)、ゲニウス、召命(コーリング)、ダイモーン、魂(ソウル)、宿命(デスティニー)などなど、自由に用いたい」(H)

 

 これは、合理主義的な心理学が語る空疎な言葉の響きを嫌うヒルマンの態度決定ともとれる。

 

 次に、第1章から第5章までの内容を概説しておく。

 

 

■グロウ・ダウン(第1章)

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 まず第1章では、ヒルマンの「どんぐり理論」がよって立つプラトンの魂の再生神話を詳しく見ていく。その神話によれば、魂たちは次に生きることになる生涯を自分で選び、ダイモーンに導かれてこの世にやってくる(降誕する)のであって、運命は自分で選び取ったものであるという。

 

●「わたしたちは自分自身で魂に見合う肉体、両親、場所、環境を選んだのであり、しかも、それは神話が語る通り必然の原理に導かれていることなのだ。ややもすると、悪し様に言いかねないわたしの肉体、わたしの両親は、わたし自身が選んだものである。それが理解できないのは、わたしがただそれを忘れているからだ」(H)

 

 この神話は同時に、魂はこの世に降誕(グロウ・ダウン)するのであって、決して成長あるいは上昇(グロウ・アップ)するのではないという、いわば下から上へではなく上から下へ向かうイメージを私たちにもたらす。

 ヒルマンの思想的な朋友、魂の血族ともいえるトマス・ムーアは、次のように述べている。

 

●「伝統は何世紀も前から、われわれのなかに、二つの引力が働いていることを教えてきた。そのことを知るのは有益だろう。一つは超越、大志、成功、進歩、知的な明晰さ、宇宙意識といったものの方へ引っ張りあげる力、そしてもう一つは個人的な土着の生活の方へと引きさげる力。前者は明らかに舞いあがろうとする力である。それにひきかえ、後者は平凡であることを願い、黙々とささやかな満足をもとめる。魂はこうした豊かな可能性をはらむ平凡さのなかに住んでいる。自由に流れるような道に沿って、思い描いた目標にむかう上昇運動とは異なり、魂はこみいった方法でしっかりと人生にしがみついている」(ムーア『ソウルメイト、愛と親しさの鍵』)

 

 

■両親の影響という幻想(第2章)

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 この章で、私たちは二十世紀が生んだ大いなる科学的幻想に立ち向かうことになる。

 『利己的な遺伝子』の著者として名声を馳せたイギリスの生物学者リチャード・ドーキンスによれば、すべての生き物は遺伝子が生存競争に生き残り、自らの複製(コピー)を増やすという利己的な戦略(「自己複製プログラム」)のために創り出した精巧な乗り物(伝達手段)にすぎないことになる。もちろん人間も例外ではない。

 ドーキンスに代表されるような極端な還元主義は、心理学の分野でも幅をきかせているように見える。心理学の世界の還元主義は、私たちの精神も肉体もすべての起源は両親にあるという極端な因果論を唱え、両親に絶大な影響力を与えているようだ。それは単なる幻想であり、明らかに一種の信仰体系(イデオロギー)を形成していると、ヒルマンは厳しく追及する。

 

●「両親の影響力とは、実は両親に影響力があるという考え自体の影響力なのだ」(H)

 

●「わたしたちは、理論を実践する前から理論そのものによって犠牲になっているのだ」(H)

 

 そのいわば「両親中心主義」のイデオロギーから、「トラウマ」理論や「グレート・マザー」の概念などが派生してきているとヒルマンは考えているようだ。

 

●「現代の理論は、トラウマと取り組むべきなのだとさかんに思わせようとする。しかし、たとえ幼い頃に傷つけられたとしても、またどのような不運に石打たれ、矢で傷つけられることがあっても、わたしたちの中にははじめから、くっきりした個人の性格(キャラクター)のかたち(イメージ)が存在していて、それは消えることはないのだ」(H)

 

●「危険が迫っているときには母親へと逃げ込むことは珍しいことではないが、しかし、だからといって精神分析的な『科学』もまた母親のスカートの中に逃げ込まねばならないのだろうか」(H)

 

 家族(特に親)の心ない振る舞いによって、たとえ心や体が傷ついたとしても、あなたの魂は傷ついたりはしない。どんなにつらい過去を経験しても、あなたの魂は無傷だ。むしろ自分のダイモーンの呼び声に耳をふさいでいると、魂から手厳しいしっぺ返しがあるかもしれない。

 

●「わたしたちは、宿命が要求していることに直面せず、両親をだしに使って逃げているのだ」(H)

 

 ドーキンスにとって、人間が利己的な遺伝子の乗り物だとするなら、ヒルマンにとって、人間は魂の乗り物ということになるだろう。ドーキンスは人間の行動を語る上で存在を遺伝子レベルにまで解体したが、解体すべきは還元論や因果論の幻想だろう。ヒルマンはそれを、神話の体系を借り、「生きられる心理学」の構築、「生きられる世界」の復権によって実現しようとしている。

 

●「神話は救済という心理学的な役割をもっている。そしてそこから生まれ出る心理学は、この神話によって立つ人生にインスピレーションを与えることができるのだ」(H)

 

●「個人の宿命への召命は、決して無信仰の化学か非科学的な信仰か、といった問題ではない。独自性(インディヴィジュアリティ)はやはり心理学(サイコロジー)の問題・・それは、接頭辞である『サイキ』を対象にし、魂を前提とする心理学の問題なのだ。そうすれば心(マインド)は宗教という制度がなくとも信仰をもち続けることができるし、制度化された科学がなくとも現象を注意深く観察することができる。どんぐり理論は、この二つの古いドグマ、時代を通じて互いにいがみ合ってきた、そして西洋の精神が溺愛してきた二つのドグマの中間に、巧みに入り込んでいくのである」(H)

 

 

■遺伝か環境か(第3章)

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 この章で私たちは、「遺伝か環境か」、すなわち「性格(キャラクター)は遺伝する」という考えと、「性格(キャラクター)は後天的な環境によって形成される」という考えによる昔からの二元論に対し、どんぐり理論で挑むことになる。どんぐり理論はこう言う。

 

●「人生とは、遺伝と環境の相互作用であるという・・本当にそうだろうか。・・・もしわたしが、遺伝的なものと社会的な力のせめぎ合いの産物でしかないという考え方を受け入れたら、わたしは何かの単なる結果になってしまう。わたしの人生が、遺伝子の情報、両親がしたこととしなかったこと、またはるか昔の幼少期の経験などによって読み解かれていくにつれ、人生記はますます犠牲者の物語となっていく。わたしは遺伝子のコード、先祖からの遺伝、トラウマを与える体験、両親の無意識、偶然の社会的な条件などが作り上げた筋書きを生きていることになってしまう」(H)

 

 「最近めっきり父親(母親)に似てきたね」という言われ方を、誰でも一度は経験したことがあるだろう。実際、自分でもそのように感じることもある。それは親から受け継いだ生得的なものなのか、それとも両親とあまりにも一緒に暮らしすぎた結果なのか。

 それでも自分にはどこか両親とは違うところがあると感じる。むしろ親や兄弟や周りの人間からの影響を取り除いてなお後に残るものこそ、心理学的な性格分析では説明のつかない、「防衛規制」だとか「代償行為」だとか「嗜癖」といった心理学の概念には還元できないものこそ、自分独自のかけがえのないユニークな個性なのだと感じる。

 

●「分析的な方法は、個人というパズルをパーソナリティの因子や性向に、因子をタイプやコンプレックス、気質などに分解していく。個人の秘密を脳内の事象や利己的な遺伝子の産物に求めようとするのだ。さらに厳密な心理学の学派は、こうした問いをすぐさま実験室の外へ投げ捨てる。超常的な『召命(コーリング)』の研究を専門とする超心理学の分野、はるかかなたの植民地での呪術や宗教、狂気を研究するセンターに十把一からげにして押し込んでしまうのだ。さらに最も不毛で最も無味乾燥な心理学の説明では、一人一人の独自性はランダムな統計的な偶然によるものだとする」(H)

 

 そこで、ややもすると二元論の伝統の中に逃げ込もうとする研究者たちを、もう一度明晰な思考の舞台に引き戻すために、私たちは一卵性双生児の研究を見ることとなる。一卵性双生児は遺伝子を完全に共有するため、彼らの個性の発現の仕方は、何が遺伝の影響で何がそうでないかをつぶさに見せてくれる。また、出生後引き離され、別々の環境で育てられた双子を見れば、何が環境の影響で何がそうでないかがわかるはずだ。

 

 

■両親のファンタジーと子供の自立(第4章)

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 第4章では、想像力(ファンタジー)を介した魂の交流の問題に迫る。

 両親中心主義を信奉する親、つまり子供に及ぼす親の影響力は絶対的なものであると信じる親は、「私がいてこそ、お前がいる」という具合に、子供に対して創造主ないし権力者のように振る舞うかたわら、自分は「いい親」をやれているだろうか、子供に悪い影響を与えていないだろうかとばかり、年中おびえてもいる。そうした親の心境に「トラウマ」「ダブル・バインド」「アダルト・チルドレン」などの心理学的概念が追い打ちをかける。その結果生まれるものを、ヒルマンは親の「ほとんど避けられない自己言及的ナルシシズム」と呼ぶ。

 このナルシシズムに浸りきっている親は、肯定的にとらえるにしろ否定的にとらえるにしろ、自分こそ子供に影響を与え教育をほどこすべき唯一の存在と考えているわけだが、そのとき親は当の子供を見ているのではなく、「子供」という心理学的な概念を見ているのだ。ところが、子供の方はむしろ親以外のものから大きな影響を受ける。教育にしても、もともとは親以外の人間の仕事だった。親は子供を生物学的あるいは社会学的な意味で世話するのに手いっぱいで、教育にまで手が回らないのが普通である。だからこそ教師という仕事がある。昔から教育は「外注」されてきたのだ。

 教師と生徒、師匠と弟子は、肉欲をともなわない一種の恋愛感情、プラトン的な意味でのファンタジーによって結びついている、とヒルマンは分析する。

 

●「物事への見方を変えるためには、恋に落ちることが必要だ。恋に落ちたときには同じものが違って見えてくる。見方を変えることは恋するときと同じように救いをもたらす」(H)

 

 生活費を稼がなければならず、家庭を維持しなければならず、子供の食欲を満たし、下の世話をやき、身なりを整えなければならない親は、想像力(イマジネーション)を介して子供と結びつきにくいのかもしれない。

 

●「わたしたちが犯す最も大きな過ちは、両親に師としてのヴィジョンや厳しい教育を期待すること、また師が安全な新しい家や人間らしい生活を与えてくれると期待することだ」(H)

 

 それでは、親は子供に対して何のファンタジーも抱かず、期待も希望も持たない方がいいかというと、そうではない。いずれにしろ黙っていても、親というものは子供に対して何らかのファンタジーを抱く。子供がそのファンタジーを見抜き、それがあまりにも自分のファンタジーとかけ離れていると気づいたとき、子供の自立が起きる、とヒルマンは考える。

 どうやら、親子関係においても師弟関係においても、想像力が重要なカギを握っていることには間違いなさそうだ。

 

●「恋、友情、家族関係の失敗は、しばしば、想像力に満ちた知覚(イマジナティブ・パーセプション)を用いないことからくる。心の目で見ないとき、愛はまさに盲目となる。そんなときには、想像的な真実であるどんぐりの担い手として、相手を見ることができていないのだから。感情はそこにあるだろうが、何も見えてはいないのだ。ヴィジョンが曇れば、共感や相手への関心も曇ってしまう。ただ、気分を害されて診断を下したり類型論に逃げ込んでしまう」(H)

 

 

■運命(第5章)

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 この世に生じるあらゆる現象には意味がある。偶然に起こったように見えても、そこには何らかの必然が関与していて、ただ私たちにはそれが見えていない、あるいは見ないようにしているだけなのだ。理由のないことは起こらない。

 たとえば、あなたがふとした拍子に包丁で指を切ったとしよう。それはもちろん意図したことではなく、たまたま偶然の出来事だと考える。たいていの人間がそう考えるはずだ。ところが、特殊な血液の病気でもない限り、やがてその傷がふさがり、かさぶたができ、組織が再生するということを偶然だと考える人間はいない。

 つまり、指を刃物で切るという現象と、切り傷が治るという現象と、どちらも日常的に起こり得る現象なのに、一方は偶然の出来事であり、もう一方は必然的な現象であると見なしていることになる。これが科学的態度と言えるだろうか。

 最後の章では、プラトンが語る魂の再生の神話における一つの重要なテーマでもある運命の問題を掘り下げる。自分の運命を顧みる試みは、現在という視点から、過去を媒体として未来を透かし見る試みでもあるだろう。この「現在→過去→未来」という手法は、魂の再生神話にもはっきり見てとれる。

 

●「時間より非時間性を重視し、人生を過去からの順繰りばかりでなく、後ろ向きにも眺めることにしよう。

 人生を逆向きに読むと、幼い頃に熱中していたことが、いかに大きく現在の行動を先取りしていたかがわかる。大人になってからでは幼い頃できたことができないこともしばしばある。逆向きに人生を見ると、『成長』などは『かたち(フォーム)』に比べれば重要な人生上の鍵ではないことがわかる。発達などというものは、もともとのかたち(イメージ)の一面が現れるときに初めて意味をなす」(H)

 

 第5章では、もう一つ重要なテーマを扱う。「アダルト・チルドレン」と呼ばれる人たちについてだ。彼らは、家族(特に両親)にこだわり、過去の出来事にこだわり、運命に翻弄され、現代において、心理学が作り出した大いなる幻想に翻弄されている人たちの代表格といってもいい存在だからだ。

 

●「(子供が親に)期待すべきものを誤ると、ここで『アダルト・チルドレン』の、典型的な恨みが生まれてくる。彼らは、自分の両親が自分ときちんとかかわらなかったとか、本当の自分を見てくれなかったと嘆くのである」(H)

 

 私は、彼らが振り回されている幻想に鮮明な輪郭を与えることで、彼らをその幻想から解放したいと願っている。




  

魂の降り立つ場所〜