■息子からの第二信




 父よ、長い丁寧な手紙をありがとう。あなたの返信の長さに甘えたわけではないのですが、ご返事を差し上げるのが本当に遅くなってしまいました。申し訳けありません。数回に分けられて頂いたあなたの第一信の最後の文面を手にしてから、すでに季節が二つめぐり、三つ目の季節を迎えようとしている今、われわれをとりまく状況も急激に様変わりしたように思います。海外ではソ連が崩壊しました。国内では角界で世代交代が行われた(千代の富士が引退し、若貴が台頭してきた)ようです(こうして較べてみると日本は平和ですね)。
 わが家でいえば、保谷の家の設計が仕切り直しになりました。考えてみれば、自分の住む家を設計するということは、自分のこれからのライフスタイルを数十年先まで見越してハッキリさせろということですから、大変なことですね。スタイルだけでなくセンスまで問われるとなればなおのことです。
 さて父よ、微に入り細をうがつ文面を拝見すると、不思議なもので、これほどまとまった量のあなたの文章を読むのは、三十年来親子でありながら初めてのことのように思います。なにしろあなたは小説を書く書くと言い続けながら、それらしきものをしたためた形跡もないまま今日に至っているのですから。厚みのある封筒を受け取って、封を切るときには、宝石箱の蓋を開けるような胸のときめきを感じました。
 ところで、腰と肘の具合はいかがですか。少し気分を変え、身を入れて返事を書きたいからという理由で、湯治も兼ね、夫婦そろって温泉に旅立ったと母より聞き及んでおります。旅の宿でこの長い返信を書いてくれたのですね。その情熱は有り難いのですが、無理をしているのじゃないかと少し心配になってきました。晩年に至って病に倒れるというつらい経験をし、うちのめされているだろう父親にとって、せめて生きる張りのようなものになってくれればと思って始めた往復書簡の試みですが、反対に命を縮める結果になりはしないかと、実のところ内心ヒヤヒヤしているのです。オジやオバに恨まれそうで・・・。くれぐれも無理な身の入れ方はなさらぬように。
 それにしても父よ、今回改めてあなたの文章をじっくり読んでみて、その文体の若々しさ、みずみずしさには驚かされました。今までたまっていた思いが一挙に噴き出したという感じですね。書く意欲のようなものがひしひしと伝わってきて、すがすがしいほどです。しかもカート・ボネガットもかくやと思われるスラップショットの新手まで繰り出して・・・。
 あなたの子供の頃の蝉の思い出、そして姉の誕生を軸とするあなたと母の新婚生活のドラマを物語るとゆうに二百枚になるというあたりを読むと、あなたの想像力と執筆意欲は五十年の時の隔たりを乗り越えてなお旺盛のようです。こうして親子書簡の試みを思い立った当初から予想していたことではありますが、あなたにとっての六十年、わたしにとっての三十年、そしてあなたの記憶に残っている祖父や祖母の人生、さらにはこれから歩むはずの大輝の人生をも守備範囲に入れるとしたら、それこそ原稿用紙が何百枚あっても足りないでしょう。時間の守備範囲でいえば、家の設計どころの話ではないわけです。それを考えると、やっかいなことを始めてしまったという気がします。はたして個人がこの世に存在できる限られた時間の中ですべてを語り尽くせるでしょうか。いくら書いても、個人が成し遂げるには膨大すぎる本編のための予告編にとどまってしまうのではないかという妄想に取りつかれそうです。何か目に見えない大きな力に後ろからこづかれているようで、目の眩む想いがします。あなたの旺盛な意欲に較べ、なんとも情けない話ですね。
 とはいえ、家庭年代記ではないのですから、何もエピソードを時系列に並べる必要もないし、テーマを首尾一貫させる必要もないですよね。われわれの手紙のやりとりに何らかの一貫性をもたせるとしたら、お互いの意識の流れに自由に櫂を下ろすということかもしれません。紅茶に浸したマドレーヌ菓子を見てマルセル・プルーストがそうしたように・・・。平衡感覚を取り戻す意味からも、このあたりで、あなたの返信を受けて自分としてどんな方向へ舟を漕ぎ進めるべきかを整理しておき、あなたへの第二の手紙を書き続けるための指針にしたいと思います。
 あなたが返信に書いてくれた内容に促され、わたしの書きたい気持ちを奮い立たせてくれそうなモチーフを、次にいくつか挙げておきます。

○ あなたの病に関する解釈から癒しに向かって
○ 息子の自立と親のつんのめり
○ テクニカルライターというわたしの仕事
○ 息子に対する父親の照れと父親に対する息子のはにかみ
○ 大輝の誕生秘話


●「あなたの病に関する解釈から癒しに向かって」

 さて父よ、今回のあなたの病は、長い間書棚の奥に眠っていた一冊の本を手に取らせるという効果をわたしに与えてくれたようです。スーザン・ソンタグの「隠喩としての病い」という本です。この著者に関しては、もう十年以上前に短編集を読み、これはタダモノではないと思い、それ以来マークしてきた人物でもあります。現代アメリカのニュージャーナリズム、あるいはニュークリティシズムの文壇・論壇にあって異彩を放つ人物といってもいいでしょう。女史は同書において、自らの癌体験をもとに、隠喩としての病(特に結核と癌)が、歴史的・社会的なコンテキストの中でどのような扱われ方をされてきたか(つまり人が「まるで結核のように〜」とか「まるで癌のように〜」という表現を使うとき、あるいはそういう表現に出くわしたとき、いったいどのようなイメージを喚起するのか)、その記号論的構造を見事に解き明かしています。これを読んだとき、わたしははたと膝をたたきました。あなたの「脳梗塞」という病に対し、自分としてどう振る舞うべきか、わたしに何かできることがあるとしたら、それはどういうことなのかを気付かせてくれたように思ったのです。何もこのような問題意識をわたしが当初から持っていたということではありません。大病を担ったあなたに対し、自分としてどう振る舞ったものか、ややうろたえるようなところがあった、というたかちで無意識的には持っていたかもしれません。この本は、それを意識的な振る舞いへと促すに充分な説得力を持っていたということです。
 女史は、十九世紀において結核が担わされてきた隠喩としての意味を、現在では癌が後を引き継いでいると主張しています。結核も癌も、その語源からして「病的な腫れ物、突起、突出したもの、生育したもの」を意味し、「ゆっくりひそかに浸蝕し、腐食し、腐敗させ、消耗させるもの」と定義されてきたというのです。つまりどちらも「知らぬ間に執念深く生命を盗み取る何か」を意味するというわけです。癌は結核のように伝染するものではありませんが、それでも医学的な事実とは無関係に道徳的な意味で伝染するとされてきたというのです。つまり患者との接触はタブーの侵犯につながると・・・。この点において、癌は心臓病などと別扱いされてきたようです。たとえば、癌だと知らされることの恐ろしさは、死の宣告を受けるに等しいという恐ろしさではなく、病を禁忌と感じ、事実を隠蔽しなければならないような風潮があったり、不吉なもの、感覚的におぞましく、吐き気がするようなものとして感じられてしまう恐ろしさなのだ、という具合に。そして「結核と癌にとりついた隠喩は、それが波及力の特に強い恐るべき生き物であることを暗示している」というのです。
 女史は、こうした前提に立ち、次に結核と癌が歴史的に、あるいは社会的にどのような隠喩としての意味を担わされてきたかを、文学者や哲学者などの言葉、あるいは文学作品や芸術作品においての扱われ方をふんだんに引用しながら列挙しています。それらをまとめてみると、次のようになります。

●「結核」の隠喩
 ○ 眼に見える徴候(体力減退、咳、気怠さ、発熱、そして喀血)。
 ○ 見せかけの症状(顔の紅潮、食欲増進、性欲増大)。
 ○ 肉体の軟化(粘液質の痰)。
 ○ 時間的な疾駆(生をせきたてるという意味で)。
 ○ 貧困と零落(不衛生や栄養不足)。
 ○ 湿っぽいじめじめした都会の病気|気候のいい処への転地療養や旅行の奬め(魂の   航海)。
 ○ 苦痛の少ない突然の安楽死(格調の高い静かな死)。
 ○ 魂の病気(体の器官の中でも肺という霊化された崇高な器官にのみとりつくことか   ら)。
 ○ 「病める愛」「焼き尽くす情熱」(情熱過多、官能への惑溺)。痩身、透き通るよ   うな肌(上品さ、繊細さ、感受性の細やかさ、天使的心理、性的魅力、ロマンチシ   ズム)。

●「癌」の隠喩
 ○ 眼に見えない徴候。
 ○ 見せかけでない真の症状(生命力の阻碍)。
 ○ 肉体の退化・硬化(癌細胞という魔性の懐胎)。
 ○ 空間的な増殖・拡散。
 ○ 豊かさや過剰(脂肪分と蛋白質の多い食事、あるいは豊かさの副産物としての有毒   排気物)。
 ○ 肉体の内部で行われる闘い。
 ○ 烈しい苦痛を伴う緩慢な悶死。
 ○ 肉体の病気(腸、子宮、膀胱、乳房、前立腺など、恥ずかしさを掻き立てる部分を   あたり構わず攻撃してくるところから)。
 ○ 情熱不足、性欲の抑圧、生物エネルギーの萎縮、希望の放棄。

 同書を読み進むにつれ眼に飛び込んでくるこうした病にまつわる隠喩を頭の中で玩んでいるうちに、わたしはよからぬ企みへと誘われる思いがしたのです。それは、あなたの「脳梗塞」という病が、あなた自身および周囲の人間たち(わたしも含めた)に対して、どのような隠喩を担っているかを、女史の記号論的手法に模して読み解くとどうなるかという企みです。とりあえず試しにやってみると、こんな具合です。

●あなたにとって「脳梗塞」とは、
 今までの不摂生な生活を清算するに足る重篤さであるもの。しかし、死に至るほど重くはなく、長患いでもないもの。症状が痛みを伴って進行もせず、伝染もせず、転移もせず、短期の入院(治療)で済み、以後は通常の生活には支障をきたさず、いわば小康状態を保てる程度のもの。しかし、再発すれば後がないだけの危機感を伴うもの。そしてその危機感が、今まで望みながらも成し遂げ得なかったことの実現へ向けての牽引車となってくれるもの。
 文明病であり、都市生活者(特に頭脳労働者)に似合うもの。暴飲暴食、コレステロールの多い食事などが誘因とされていることから、貧困ではなく富裕を象徴するもの。
 飲食物に関する摂生は強いられるが、絶対的な安静は強いられず、むしろ適度な運動を奨励されるもの。いわば今までのパターンとは一八〇度違う生活態度を要求するもの。つまりそれは「生まれ変わり」を意味し、第二の人生のライフスタイルを決定するキーワード「健康的な生活」を象徴するもの。
 患部は「脳」(つまり理性とか知性とか才能などのメタファーとしての)なのだが、症状は直接患部に現れて知的活動に影響を与えるものではなく、「肉体」(つまり精神とか心とか魂とかいうコトバの反意語としての)に現れるもの。
 症状の重さ(気の毒さ加減)は外からはっきり眼に見えるが、それは他人に不快感を与えたり忌み嫌われるものではなく、むしろ同情といたわりを誘い、他人の介護を自他ともに正当化できるもの。特に配偶者の献身的な介護に必然性を与え、夫婦の絆を堅くするに足るものであり、美談のネタになってくれるもの。

 試しにやってみたものの、これを手紙に書くべきかどうか、実のところ随分悩みました。ただでさえつらい経験をして落胆しているだろうあなたを、慰めるどころか、逆に滅入らせ、救われない気持ちにさせてしまうのではないかと思ったからです。「だからどうしろというのか。好き好んで病気になったとでもいうのか。私の意志が脳梗塞という病を選び取ったとでもいうのか」というあなたの困惑が聞こえてきそうです。「いや、あくまでこれは結果論であって、単なるコトバの遊びなのです。わたしの本意は、何かを暴きたててあなたを非難することでも断罪することでもないのです」と言い訳したところで眉に唾されるのが落ちかもしれませんが、まあ先を聞いてください。
 ソンタグ女史は、まえがきの中で同書の意図を次のように述べています。
「私の言いたいのは、病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには|最も健康に病気になるには|隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということ(中略)そうした隠喩の正体を明らかにし、それから解放されるために、私は以下の探求を捧げたいと考えている。」
 つまり、病気という言葉の持つ喚起力にとらわれず、それから自由になるために、その喚起するところのものを一度洗いざらい明るみに出しておこうというわけです。
 実のところ、わたし自身、あなたの「脳梗塞」という病気の持つ隠喩としてのイメージに大いに振り回されていた嫌いがあります。たとえば、第一信においてわたしは、あなたの病気の原因を、数十年に及ぶあなたの豪放磊落かつ不摂生な生活であると決めつけ、その割には症状が軽かったことに賛辞まで贈ってしまう始末でした。わたしが自分の抱いている病気に対するこうした悪しき隠喩に気付いたのは、同書を後半へと読み進んでからのことだったのです。
 結核と癌にまつわる前記のような数々の隠喩を列挙した後、続けて女史は、古今の病気観の懲罰思想的側面に言及し、古来病気は(ペストなどの伝染病がそうであったように)神の怒りを表す手段であったと同時に、個人の過誤、集団の違犯行為、祖先の犯罪などに対する懲罰・審判とも見なされてきた経緯を解読しています。さらに、病気は患者の意志によって成立するという心理学説をも指摘しています。つまり「病人こそ病気の唯一の原因である」「病気とは部分的には世界が犠牲者に押しつけるものであるにせよ、その大半は犠牲者が世界と自分とに押しつけるものである」「人間は(無意識裡に)病気になりたいと思うから病気になるのであって、意志の操作によって恢復できる、死なないでいることができる」とする恐るべき学説です。そして女史は「患者にしてみれば、知らないうちに病気の原因を作っていたのだと言われた上に、それは自業自得という気持ちにさせられてしまうのである。」と嘆いています。
 女史の探求はさらに「病の政治論・軍事論」にまで及ぶのですが、それはさておき、読み終えた後も、なぜか若干の不満がわたしに残りました。確かに同書は、われわれがいかに病気にまつわる悪しき隠喩にとらわれているかを立証していますが、それでは病に対してどのようなイメージを抱けばよいのかについては言及していません。過去は明らかになったが、それではこれからわれわれはどうすべきなのかについては、それこそまるで隠喩のようで判然としないのです。もちろんそれを意図した本でないことはわかります。病に対して何がしか特定のイメージを抱くこと自体、すでにコトバのあやに絡め取られてしまっている証拠なのだともいえるでしょう。しかし、われわれ人間が言語を媒体とするコミュニケーションに負うところの大きい存在である以上、あるコトバを眼にして、あるいは耳にして何らのイメージも喚起しないということはあり得ないはずです。そこでもしわたしが、何かからあなたを(そしてわたし自身をも)解放しようとするなら、そうした人間のコトバに対する喚起力を、いわば逆手に取って、病に関する正しい隠喩(そういうものがあるとしての話ですが)を提示するまでには至らないにしろ、少なくとも戯れ言や暴露や断罪ではないコトバを書き付けるのでなければ、あなたに送る第二信としては意味を持たないだろうと思ったのです。わたしがその道を見い出すためには、もう一冊本が必要でした。

 第一信において、いわゆる中小企業の経営者が例外なく抱くであろう苦労や不安や悩みを、わたしも間借りなりに抱えるようになったと書きましたが、そうした職業上の必要に迫られて、デール・カーネギーとかナポレオン・ヒルとかいう立志伝中の人物たちの物した成功哲学とか自己啓発とかに関する書物を、たまに手に取ることがあります。たいていはごく常識的なことしか書かれていないのですが(ただし、この常識というやつが「言うは易し、行うは難し」の類なのですが)、それでもたまには「犬も歩けば棒にあたる」で、なるほどと思わせる掘り出し物に巡り会うことがあります。これからご紹介する「マーフィーの成功法則」なるものも、その一つです。このジョセフ・マーフィー博士という人物がいかなる人物かは定かではないのですが、とりあえず氏の語るメッセージにしばし耳を傾けてみましょう。
 マーフィー博士は、潜在意識がいかに人間の自己実現に大きく関与しているかを説き、そのコントロールの仕方を指南しています。人間の潜在意識を利用した氏の成功法則とやらの中から、あなたにうってつけと思われる病気の克服法に関するものをいくつか並べてみると、次のようになります。

○ 潜在意識には、受け入れたものをすべて無差別に実現してしまう性質がある。否定的  なことを考えれば、否定的なことが起こる。
○ 潜在意識は、たとえていえば万能の機械である。しかし、これは自分勝手には動かな  い。動かすのはあなたの顕在意識である。
○ 潜在意識を船にたとえれば、あなたの顕在意識は船長である。四十万トンのタンカー  でも船長が右といえば右にゆく。
○ 潜在意識に種子をまく一番よいときは、顕在意識が休止状態にあるとき、そして筋肉  がゆるんだ状態のときである。
○ 困難な問題に出合ったとき、「もう駄目だ」ということは、潜在意識の協力を拒否す  ることを意味する。
○ 潜在意識は人間の肉体としての存在を可能にしているものであるから、それに巧みに  働きかければ病気をなおすことができる。
○ 潜在意識に願望を引き渡すには繰り返しが必要である。
○ ロサンゼルスにいる人がニューヨークにいる母のために祈っても潜在意識が感応すれ  ば治癒が起こる。
○ あなたを作ったものはあなたである。あなたを変えうるのもあなただ。
○ 潜在意識にあなたの願望を送り込むには、それを視覚化すること、つまり絵にするこ  とが最も有効である。
○ 願望を簡単な文句にまとめ、それを子守唄のように繰り返しなさい。
○ 願望は別の言葉でいえば祈りである。祈りは達成されたものとして絵にして心に抱き  しめよ。
○ 十一カ月に一度、躰の細胞はすっかり作りかえられる。あなたの考えを変えることに  よって躰も一年以内に変わりうる。
○ 健康であることが正常で、病気が異常なのだ。調和の原理は先天的に内在しているの  だから、それを働かせるようにせよ。
○ 現在のあなたはこれまでのいろいろな習慣の束みたいなものである。習慣は潜在意識  の型のことなのであるから、まずこの型を変えよ。
○ あなたの人生で最も生産的な年は六十五歳から九十五歳までということもありうるの  だ。

 氏によれば、「病気は治らないのではないか」とか「事業は失敗するのではないか」とか「結婚できないのではないか」とかいった否定的な自己暗示は即座に打ち消し、肯定的な願望だけを、視覚的なイメージをともなった情景や具体的な祈りの文句として、繰り返し潜在意識に引き渡してやれば、ゆっくり、しかし着実に潜在意識がその願望の実現へ向けてわれわれを導いてくれるというのです。
 潜在意識への種子まきは、床に就いて眠りに入る前に意識的に筋肉をゆるませたときや、朝眼が覚めてまだ意識がはっきりしないときなどが効果的だそうです。
 氏はこのことを、祈るだけで不治の病が治ったとか、イメージトレーニングで大金持ちになったとか、素敵な相手と出合って幸福な結婚生活を送っている想像をしただけで、良縁に恵まれた、などといったエピソードを紹介しながら説明しています。
 これらのことを、単なる偶然だとか、まやかしだとか思うことは簡単です。もちろん博士のいうことをいちいち鵜呑みにすることは危険なことです。実際マーフィー理論の中には、ソンタグ女史のいうところの悪しき隠喩や病に関する危険な心理学説めいたものがうかがえなくもありません。
 しかし少なくとも、悲観的なことを考えていてもよい結果は得られないということはいえるでしょう。わたしが現在抱いている大きな危惧の一つは、あなたが今続けているリハビリが、治癒へ向かうそれではなく、つまり麻痺した神経を回復させるためではなく、筋肉を硬直させず、これ以上病状を進行させないためという極めて保守的で消極的な認識で行われていはしないかということです。そういうところで、「脳梗塞」という病にまつわる悪しき隠喩が機能し、われわれを惑わせているのではないかと・・・。
 わたしの知る限りでもこんな話があります。最近では癌の治療法の一つとして、手術や薬に頼るのではなく、自分の善玉細胞が癌細胞を攻撃し討ち負かす光景を繰り返し想い描くことによって、人間に本来備わっている治癒能力を喚起し、病を克服するというイメージ療法の例が報告されています。癌はいわば細胞の病ですから、患部の切除とか投薬という方法はしょせん対処療法にすぎないでしょう。人間の自然な治癒能力を発動させない限り根本的な治療にはならないということは、素直にうなづける気がします。また、逆にこういう報告もあります。「あなたは癌です」といわれると、その瞬間から「ああ、自分は癌なのだ」という暗示にとらわれ、「癌患者」という方向へ自分の頭の中をプログラムしてしまい、症状の進行を早め、ますます自分を病人らしく仕立て上げてしまう人もいるので、告知も善し悪しだという話です。ソンタグ女史の指摘しているように、隠喩の方が病気を作り上げてしまっているというよい例でしょう。
 あなたも、不眠症の人でも最低限の睡眠はとっているので死なないのだという話を書いていますが、この話もマーフィー理論を借りるなら、肉体の方では必要な休息は勝手にとっているのであって、問題は「心的態度」の方なのだ、「眼れないのではないか」という余計な恐怖心が「眠らなくてよい」という「心的態度」にとって代わって、それが潜在意識に引き渡され、潜在意識が眠りを妨げているのだとも説明できるでしょう。
 いずれにしろ重要なことは、マーフィー理論に触れたとき、わたしがこの場をかりてあなたに伝えたいメッセージは、病に関する然るべき認識論を展開すること(つまり、いまさらあなたの病にもっともらしい解釈を加えてあなたを困惑させること)ではなく、もっと別のことなのだと感じた、そのことなのです。先にも述べたとおり、人間のコトバに対する喚起力を利用するなら、今あなたが抱くべきイメージとは、「病気」(つまり、すでに起こってしまったこと)に関する正しいイメージではなく、「治癒」(つまり、これから起こるべきこと)に関する正しいイメージなのだということ、すなわち、病をいかに正しく認識するかではなく、病を克服した後のあなた自身をいかに豊かにイメージするかということなのです。「イメージばかりをいくら肥やしても、現実問題として病気の方はいっこうによくならないのではないか」とあなたは思うかもしれません。しかし、セシュエーを思い出してください。あの分裂病の少女は、セシュエー女史の胎内に回帰し、そして再び生まれ出てくるイメージを抱くことによって、治癒へと導かれたではないですか。
 病気論の展開はやめて、治癒へと向かう道を模索するため、マーフィー理論を借りてあなたへのメッセージをわたし自身のかけねなしの思いで語るとしたら、概ねこんな具合になります。

 たとえばポマト(トマトとポテトの掛け合わせ)が、バイオテクノロジーを駆使して、ほかならぬ人間が作り上げたものであるように、あなたの現在の躰は、ほかならぬあなた自身の潜在意識が作り上げたものなのです。
 あなたが今まで病の方向へとプログラムしていた潜在意識を、今度は治癒の方向へと組み替えてください、バイオテクノロジーによって遺伝子を組み替えるように。そうすれば、必ずやあなたの左腕は動き、右肘の痛みは消え、腰はシャンとなり、左脚はしっかりと大地を踏みしめ、あなたの躰を支えるでしょう。あなたはもはや杖の力を借りる必要もなく、あなたの躰の機能はすっかり元通りになり、健康そのものになるのです。
 こんな情景を想像してみてください。この往復書簡が出版されベストセラーとなり、あなたは有名人です。出版社から執筆や講演の依頼が殺到します。テレビやラジオからも出演交渉がきます。あなたは原稿の執筆、講演会や座談会への出席、テレビ出演と、超売れっ子ぶりを発揮します。ただし、老境の文化人らしく、どっしりと構え、あくまで自分のペースで・・・。あなたは自由になった躰で小説も書き、絵も描き、どこへでも旅行し、新しい友人も作り、第二の人生を謳歌するのです。
 たとえばこんな具合です。あなたは自宅の書斎にいて、革張りの肘掛け椅子にゆったりと腰を下ろし、マホガニーの机に向かって、リラックスした気分で、じっくりと小説の構想を練っています。すると家の前に黒塗りの車が横付けされ、玄関のチャイムが鳴ります。母が応対に出、あなたの書斎のドアをノックして、講演会場への迎えが到着したことを告げます。あなたは「あっ、そう」といってゆっくりと立ち上がり、「ご苦労さん」と迎えの人間に声をかけ、鞄を持たせて車に乗り込みます。そして講演会では、あなたは数千人の聴衆を相手に、自分がいかに病を克服し、ベストセラーを生み出し、豊かな人生の果実を息子に語って聞かせたかを朗々と詠い上げ、彼らを笑わせ、泣かせ、感動させて、割れんばかりの拍手喝采を浴びるのです。講演が終わると、今度はサイン会です。あなたのファンが殺到します。中には、あなたのことを自分の父親のように慕っている若い女の子の姿もあります。あなたは唇に微笑みを浮かべ、晴れ晴れとした気分でファンと握手を交わし、自著にサインを入れ、満ち足りた時を過ごすのです。
 また、こんな光景もあります。あなたはアトリエの中で、近々予定されている個展のための大作の仕上げに余念がありません。母もわたしも美由貴も外出していて、家にはあなたと大輝だけです。大輝はしばらく一人で遊んでいましたが、やがてあなたのアトリエを訪れ、寂しいから一緒に遊んでほしいとせがみます。あなたは「よしきた」とばかり大輝を庭に連れ出し、午後の穏やかな日差しを受けながら二人でボール遊びをするのです。大輝はいきいきと眼を輝かせ、生命のエネルギーを漲らせながら喜々としてあなたの投げるボールを追いかけます。そうしてあなたは、自由に躰が動く悦びと、孫と共に汗を流せる幸福感にひたるのです。
 これらの光景は絵空事ではありません。もし、そんな奇跡は起こるはずがない、とか、自分は現在の躰でこれからの人生を生きるしかないのだ、というような否定的な考えが少しでも浮かんだら、即座に打ち消してください。これらの光景を実現することが、あなたの残りの人生の目的なのです。これらの光景を、あなたの潜在意識に繰り返し信号として送ってやれば、潜在意識は当たり前のこととして受け取らざるを得ず、放っておいても潜在意識の方で勝手に実現してくれるのです。それを信じ、これらの光景をなるべく具体的なイメージとして、あるいは詳細な言葉による祈りとして、毎日、朝眼が覚めたとき、夜眠りに就く前、そしてリハビリの最中にも、繰り返し想起し、あなたの細胞に覚え込ませるのです。実際、もっとも効果的な方法は、これらの光景を本当に(あなたの得意とする)絵に描いてみることなのです。
 人間の細胞が十一カ月で新しく作りかえられるとしたら、このイメージトレーニングを根気よく続ければ、一年足らずで健康な躰を取り戻すことも決して夢ではないのです。


追伸
 実は、この手紙を書き綴っていた数週間に、思いがけなくさまざまな波が一挙に押し寄せ、わたしは心身ともに整理のつかない時期を過ごしていました。まず、一カ月ほど前に患った風邪がいまだに尾を引き、体調が今一つ完全でないところへもってきて、家の設計が新規蒔き直しとなり、その上税金の申告も重なり、バタバタと日々を送っていたのです。これで仕事も忙しければ諦めもついたのでしょうが、時期的に仕事が谷間に入り、かといってまったく途絶えるわけではなく、忙しいのか忙しくないのかわからない中途半端な状態だったため、へんな欲が出てしまい、馴れない頼まれ仕事を引き受けたり、去年免許を取ったことに気をよくして長年の夢だった中型バイクを買い込み、いそいそと一人で遠乗りに出かけたり、高坂の家族からスキーに誘われれば、ついウキウキとついていってしまったりという有り様でした。
 そして極めつけはこの手紙です。例によって仕事を終わらせてからの夜の時間を利用して毎日少しずつ書き継いだのですが、仕事でいい加減書きモノにはうんざりしているはずなのに、これがまた手に負えないことにやめられないのです。モノ書きの生理でしょうか。書きたいことが頭に渦巻いてしまうと、一種の飽和状態を引き起こし、もう吐き出さずにはいられないのです。ときには仕事そっちのけで昼間から、またときには日曜日も家でじっとしていられず、ついつい事務所に出てきてキーボードの前に座ってしまうという始末でした。
 もちろんこの手紙はあなたを励ますことが動機づけとなって成り立っていますが、実のところ一番励まされたのは、ほかならぬわたし自身だったのかもしれません。もっと正確にいえば、あなたを手紙で励ましたい、あるいは励ますことができたら、と思う気持ちがわたしの想像力を掻き立て、均衡を失いかけた心にまとまりをつけ、ある方向へ向けて盛り上げてくれたといったらいいのでしょうか。コトバを書き綴る瞬間瞬間、またしてもわたしは異空間へと導かれてしまったようです。どうやらあなたにあまり身を入れすぎるなと説教する資格はないようです。困ったものですね。