■父からの第一信




息子へ

 お前の第一信を受け取ってから、すでに数か月が過ぎてしまった。簡単な返信を書くにも何日かかけてしまう悪い性癖の持ち主なのでこれくらいは仕方ないか、と思うのは当方の思い上がりなのである。頼まれた原稿を書くにもぎりぎりまで延ばして、いよいよ追い詰められた状態へ持ち込んでしまう。その方がいい原稿になる、と思い込んでいる節がある。そういうことを言う物書きがいて、いつの頃からか私もそれにあやかるような積もりになっている。本当にそうだという保証も証拠もどこにもなく、また、これは正確に試しようのないことだろう。
 ところで、お前との往復書簡というのは、これまでに一度もないことだったな。どちらかが戦場にあるとか、そんな状況があったなら、人一倍息子が好きで気になる相手だから私はお前に手紙ぐらいは書いたろうし、お前だって書いただろうと思うけれど、そんな状況は一度もなかったよね。特別の事でもなければ、息子に手紙を書くなどというのはとても照れくさいことだものね。この頃は余り耳にしなくなったが、社会の変化に伴う子供達の反抗や不適応の原因に「親子断絶」のことが論じられていた頃、「親子はもっと対話すべし」などと言う人がいて、それに対し「そんな照れくさいことが出来るか」と腹を立ててみせる識者面がいたりしたけれども、親子の対話などというものは、必要ぎりぎりのところで大なり小なりやっているものなのじゃないか。それはちょうど、ひどい不眠症をかこつ人でも実は必要最少の睡眠は取っているので、だから死なずにいるのだそうだが、それと似ていないこともないね。だからチチとお前との間にも、これまで対話はあったわけだ。大半は忘れてしまっているけれど。
 今回、往復書簡という形で、二人で、何等か「文化的成果」を生産しようと申し合わせたのには、チチとお前(或いは、ハハや姉やその夫や、お前の女房や、おじやおばなどまでが、直接・間接に参画するかもしれない)が、夫々勝手・気侭にやってきて、各自が内部に蓄積してきたものを、このあたりで出し合って、或いはぶつけ合って一つの文化的形式にまとめてみたら面白かろう、思い掛けない結果が期待できるかもしれない。今始めないと、機会は失われるかもしれない、という一種の危機感も生じていて、それが双方をうながしているとまあ、見るわけだ。言うまでもなく、それは私の発病である。
 前々から私は生涯に一冊位は自分の本を作りたい、と思っていた。そのことをお前に話したこともあったかなあ。それを気に掛けていたお前は、既に三冊本を出した自分に比べてチチはなんとなくモタついているところへ持ってきて、脳梗塞などというつまらないことになり、放っておいては本どころの話ではないなという「子心」から、今回の思いつきになったというわけか。
 さて、お前の手紙を繰り返し読んで、私の書きたい意欲を掻き立ててくれたいくつかの事柄の中から。物の順序から言ってこの返信に書くことを二つ選ぶとすれば、次のようだろう。

1、私の発病のこと
2、チチとなりハハとなるということ

1、一九九〇年五月十一日の朝、それは起こっていた。六時頃か、尿意を催して起き上がろうとしたが、いつものようでない。左腕にほとんど力が入らない。その時明確に左側の不自由を自覚したのかどうかは覚えがないが、無意識に行動を右腕に切り換えて、布団の上に先ず上体を起こした。同時に「来たか」と思い、次いで、左足を引き寄せて、右手指でそのふくらはぎの辺りをつねってみるという不思議な行動を試みている。痛覚はあるようだ。ともかく左腕が利かないと分かって、漠然とした不安が湧いてきた。これから先、どういうことになるのか。先ず何よりも安静だろうが、その前に小用だけは済ませておきたい。隣の布団にハハの姿がないのは、もう階下に下りているのか。耳を澄ましても、何も聞こえてこない。なぜか大声を立ててハハを呼ぶことにためらいがある。その時声がでないのではないかという恐怖が襲ってきていた。それを試すことになるのがはばかられる。それにさからうことが出来ない。白っぽいものが自分を取り囲みにきて、見える世界が不透明になり、これはたまらないなあ、と思っている。そんな状態が数分あったろうか。
 それから間もなく、私はどうにかこうにか立ち上がって(或いは、たやすく立ち上がったのかもしれない)トイレに行ったのだろう。その状況が、或いは状景が思い出せないが。小用を足している状景も、階段を下りて行く状景も思い出せない。明らかなのは、台所から階段を下りて廊下の端に立っている私を見ているハハの顔が見えたことだ。私はその顔に向かって「おい、おかしいんだ」と言ったように思う。ハハは直ぐ見分けて、あっと言う間にチチの目の前に飛びついて来た。チチを受け止め、がっちりと支えた。何かチチに向かって言ったか。どうも声がはっきり聞き取れない。その頃になって、体中から力が抜けた。チチは体重のすべてをハハに預けたのではなかったかな。ハハはかつてない力でチチを抱えて茶の間に運び入れた。柱につかまり立ちさせてハハは手速く押し入れの布団を取り出して適当に広げ、その上にチチを横たえた。
 その頃までは、チチは研究所へ出勤する気であったらしい。特に自分の体をハハに預けて安堵感で極めて楽観的になっていた。なんとなく軽く行けそうだ。
「研究所に行かなければ」
「とんでもない。途中で倒れたらどうするの。それどころじゃないわよ」
とハハは怒った。「とにかくお医者に看てもらいましょう。Yさんがいいかなあ」
ハハは電話に取り付いた。Yさんは、お前たちの祖父母や、お前たち自身のかかりつけだった。覚えているだろうか。ところがこの先生も、チチと同じ年齢ですっかり行動力を失い、出来れば往診などしたくないご仁だから、案の定「往診できないから、救急車で来い」という口上のようだ。
(あの役立たずめ。入院設備もない町医者に救急車で行く馬鹿がいるか)
チチは、横たわったまま、ハハの電話での応答を聞いていて、腹を立てた。
「yさんは駄目だ。ともかく救急車にしよう」
「救急車でどこに行きましょう」
「来れば、どっかにつれてってくれるさ。サイレン鳴らさないように言ってよ」
 それから数分の後、次第に我が家の方に近付いてくるサイレンの音を聞いた。左隣の増山夫人の声や、救急隊員の声や、ハハの声などが入り混って、静かな住宅地が騒然となってきた。こうなると当人であるチチは却って他人事のようにそれを聞いていたわけだ。
 これは事件の発端の部分だ。しかし非常に重要な部分だと私は思う。なぜだか分かる。分からないだろう。その時私は自分の意識が非常にはっきりしていて、一部始終を理解していたと思い込んでいるのだが、どうもそうでもないらしい。例えば台所から私の異常を認めて、飛んで来たハハが、何か言ったらしいのだが、それが分からない。何と言ったろう。その言ったことばを聞き覚えてないのは残念なのだが、実はハハが私を抱き止めたという事実がことばに勝って、私はハハのことばを必要としなかったのだと今は理解している。
 その時からずっと、今も、勿論これから先もずうっと、チチとハハは距離を置く関係から、向き合う関係を飛び越えて、「寄り添う関係」に双方の身を置き代えたのだ。ずっと以前から我々は夫婦だし、二人の子をもうけたし、たのまれ仲人役もずいぶんしたし、何も今さら「寄り添う関係」などと言わなくても仲の良い男女ではあったろうに、二人が寄り添う意識でのこの世の過ごし方が非常に安楽なものだということには気付かずにいた。これは、見てくれのことではなく、気持ちの問題なのだろうか。いや現実に「寄り添う」姿が相互にも他人様からも見えていなければ無いに等しい。むしろ他人の目にこそ「寄り添う二人」が晒されなければ力を持たないのではないか。
 この日から私は生まれて初めて入院生活を経験することになるのだが、一体どれほどの期間入れられているものなのか皆目見当がつかなかった。まさか四週間で退院出来るなんて、当初は思いもよらなかったのだよ。
 チチの意識は極めてはっきりしていて、一部始終をすべて理解している積もりだったが、今振り返ってみて、そうではなかったことに沢山気付かされる。
 救急車の隊員は私の目の前に三人現れて練馬関町の消防隊だとハハに自己紹介している声が聞こえる。中の一人が、敷き布団一枚に転がっているチチの顔を見下ろしながら、
「だいじょうぶですよ」と言っている。なるほど、こういう科白が「どうしました」とか「いかがですか」などと言うよりも大切なのだ。我々がこうして来たからには、最早大丈夫だというわけだ。その科白が、極めて有効なものであることにチチはその時感動していた。ハハが経過を話している。「夕べ、遅くまでお酒を飲んでいて」などと言っている。チチは午前一時頃までコラムの原稿を書いていたのだ。それに一段落付けて、眠れそうもないから、寝酒にした。いつものことで、大ぶりの灰皿には、煙草の吸いがらが山になっている。それをしかと目に止めている。酒を飲めばまた煙草である。今日の最後にしようと思いながら、煙草に火をつける。非常に疲れていることがよく分かる。この疲れ方なら、すぐにも眠れそうだ、と思っている。で、机の上をちょっと片付けたかどうだったか。チチはいつものように書斎を出た。何ら変わったことはない。自分の布団に倒れ込んだのもいつものやり方だ。それが枕下の時計で二時半頃である。とすると、入院して判明した病状は午前二時半から六時までの間に起こったものなのだろうか。

 救急隊長さんが心当たりの救急病院に次々電話をして、どうやら田無の佐々病院と行き先が決まったところで、チチはタンカにのせられ、救急車まで下げられて行った。その間にハハは一階二階と戸閉めをして、救急車に乗り込んだらしい。車は、住宅地を離れたところからサイレンを鳴らして田無の方に向かったはずだ。この辺りの地理は熟知している筈の頭の中に、通過して行く道筋が全く思い描けない。ものの二十分もかからずに車は佐々病院に着いた筈である。その佐々病院も、よく知っていた筈なのに、どこに車は横着けになったのか。全く分からない。気持ちは、ますます落ち込んでいく。一種の貧血状態にあるように思う。この貧血状態は、文字通り血の気を失っていくもので、別に血が体外に流れ出なくても起こる不思議な症状で、チチはこれまでに何回か経験している。意識もモーローとしてきて、人格も別人になったような感じである。この状態が、それから長く続いた。
 ストレッチャーの頭の所に、加代子の顔があるのに気付いたのは一体どんな状態の時だったのか。加代子はどのようにして現れたのか。ハハの姿はどこに行ったのか。でも、加代子がいるからいいや。加代子が、「ハイ、娘です」などと誰かに答えている。「じゃ、ご一緒にお願いします」などと言われている。ああ、加代子が来てくれたんじゃ、もう大丈夫だ。などと思っている。何が大丈夫なのかはよく分かっていない。しかし、ハハ一人よりもハハが心丈夫だろう、というチチの考えなのだ。チチはそう思っていた。
 その時撮ったCTスキャナには、どういうわけか、何も現れていなかったのだそうで、それで中二日置いて再度CTスキャナの撮影をした。その結果は、ハハが医者に呼ばれて聞きに行った。当事者の私には、何の説明もない。馬鹿にするな。当事者こそ大切にしろ。ハハの話では「脳梗塞」というのだそうである。脳の右側のしかるべきところに、二箇、白い詰め物が見えると言う。大したものだ。チチは脳の血管に詰め物をこしらえたのである。勿論笑いごとではないので、これによってチチの中枢神経の或る部分(つまり詰め物から先の部分だろう)は死んでしまった、というわけだ。一回目のCTに何も現れなくて、二回目に梗塞が現れたというのは、何なのだろう。CTに現れなかったほど軽いものだったのだ、という医者の話が、ハハを通して伝えられ、それが二回目に現れたのは、一番大切な入院第一夜、二夜あたりの当人の不注意がしからしめたのだというもう一つの話が、またハハを通して伝えられた。冗談じゃない。
 救急車で運び込まれた直後の診察で、医者はチチに左手で医者の手を強く握ってみよと求めた。チチは強く握った。きのうまでとほとんど変わらない握力をチチ自身も感じた。医者は、「力はあるね」と独語した。次いで左足の裏に医者は手を当てて、「押し返すように」と言った。これにも十分の力があった。「力はあるから、軽く出たと思うよ」と言った。だから、症状は軽度のものだったのだ。そこで問題の第一夜を迎えることになる。
 病室は三二〇一号、三号棟の二階の一号室ということらしい。三人部屋で、三つのベッドは黄色いカーテンでゆったりと仕切られている。それぞれの足元の上方に患者を見下ろすようにテレビが備え付けられている。チチは、窓際のベッドで、真中のベッドには、たった今入院したという中年の紳士が荷物の整理をしているところだった。三島さんという商社マンである。入口のベッドはその夜には空いていて、明日入院する人がいるとのことである。ストレッチャーでここまで運ばれたチチはまだ家を出たままの服装だから、ハハはパジャマを買いに行ったらしい。ベッドに寝せられたチチには直ちに点滴が始められた。
 この点滴という医療行為は一体いつ頃から、誰によって始められたのだろう。チチは前々からこれを恐れていた。現代医学で最もむき出しとなった先端的でかつ暴力的な治療法の一つだろう。患者は苦痛と忍耐によってこれに協力させられる。自分にもしこれをやらねばならない状況が生じたら、一時間は愚か十分も我慢出来まいと思っていた。看護婦は「ごめんなさい」などと言いながら、うまいことチチをなだめて右手の甲の細く浮き出た血管に針を埋め込み、薬液のぶら下がった支柱からのビニール管と連結した。ポタポタと雨垂れ式に落ちて来る薬液の出具合いを調整して、「この中の液が残り少なくなったら、ボタンを押して読んでくださいね」と言い残して行ってしまった。おだやかな午後の陽が大きなガラス窓から一杯に差し込み、まだピカピカの病室の隅々までを明るみの中にさらしている。そこに黄色いカーテンを引き回すと、隣のベッドとはあたかも鉄壁によって隔てられたような具合いになる。心理的に個室が出現するのだ。これは、病院という特殊地帯の入院患者という特殊な立場によって初めて体験される状況なのだろう。誰もそのカーテン一枚の中の世界は侵すことが出来ない。一枚の布に与えられた文化的意味の沢山ある中のこれは一つであるが、これに安心して寄り掛かっている人間とは、何と不思議な存在だろう。チチも今、カーテンに囲われて安定している。
 ハハはなかなか帰って来なかった。加代子はどうしたのだろう。そうか啓一の方は幼稚園へのお迎えがあったか。まさかそれには間に合ったのだろうな。こんな時気が急いて、運転などあやまらなければいいが。あれもこれも心配の種だ。
 五時。病院の夕食。看護婦がベッドの台までトレーを運んでくれているところに、一抱えの荷物をかかえてハハは帰って来た。チチの口に夕食を運び、点滴が終わるのを待ってチチをパジャマに着替えさせ、枕元の棚や引き出しを整理したりして、すでに窓の外は暮れていた。
「もうお帰り」とチチは思い切りよく言った。「タクシーを呼んで」
「うん。もう今日の用はないかしらねえ」
「ないさ」
「トイレはいいの?」
「さっきやったし、もういいと思うよ」
「一人でトイレに行っちゃだめよ。看護婦さんに必ず頼んでね」
「うん。そうする」
「本当によ」
「分かった」
 なぜそう念押しをする。チチの一番気になるのはそのことなので、心配ならそばにいてくれればいいんだ。それはできないのである。この病院は完全看護ということで、付き添いの寝泊まりは、明日をも知れぬ重患のみである。八時、見舞客の退出時間になってしまった。九時、消灯である。ハハは遂にその時間ぎりぎりまでいて帰って行った。
 ハハが帰ってしまった後、全く予想外の不安がチチを襲った。まだ家にいる時に感じた貧血感とは全く違って、どこかへ落ちて行く途中に何の支えもつかまるあても見出せないような不安である。ハハを呼び戻したい衝動である。ハハにとり付いていたい欲求である。それほどの不安の訪れは、勿論、予測出来なかった。なぜか? 左半身の麻痺が、今朝よりも進行していたのである。特に左腕が、意識の世界から完全に脱落してしまって、一度寝返りを打ってみたところ、左腕が体について来ない。左足は、まだいい。わずかに意志によって体に引き寄せることが出来る。しかし、それもほんのわずかな動きに過ぎない。まだ脳梗塞という病名を教えられない段階で、まして、その病状の変化には全く未知であるだけ、不安は増幅されて、始末がつかなくなっていく。
 じっと横たわっている限り、体中に痛い所は全くない。むかつくような気持ち悪さも少しもない。あるのは、はっきりした意識の下での脱力感である。どうやら半身のいろいろなところに現れているらしい脱力そのものが、不安の源なのであるらしい。自分の体であるにかかわらず意志通りに働かないとは。
 この脱力がもたらす不安の焦点は、実は排泄にあった。排泄の自由こそ目下の問題なのである。人が物心付くころまでにすっかり訓練を受けてしまった人前に晒すものではないとされる排泄の行為、きたないものとされる排泄の観念、存在の証明の意義を取り上げられてしまった排泄が却ってチチをさいなむわけだ。
 これは明らかに一種の神経症なのだろう。たとえば高所恐怖症とか閉所恐怖症のようなものは、自分が今高い所におり、または狭い場所にいることを十分に承知していて、しかもそこから容易に抜け出せない状態への恐怖だから、平坦な広がりへ出してしまえばケロリと普通の状態に戻ってしまう、あれである。もしも今が今、我慢の出来ない尿意を催すことになったらどうしよう、というわけだ。何とか自分で処理できないか。そのときが来たら、やってみるほかないな。要するに、看護婦には頼みたくないだけの話なのだが。たったこれだけのことなのだが。
 ハハがチチに念を押して行ったことには理由があるんだね。お前も知っていようが、ご近所の浦田さんのご主人ね、数年前に四十歳そこそこで亡くなったのは、脳血栓で倒れてやはりこの病院にかつぎ込まれた二週目頃に、快方に向かっていたにもかかわらず、排便を一人でやろうとして、トイレで倒れ、そのままいけなくなった。そのことをチチに納得させようというわけなのである。情けないことになってしまった。
 で、チチはその夜、どうなったかと言えば、正にやってしまったのだよ。
 次第に苛立ってくる中で、とうとう我慢仕切れない尿意がやってきたとき、愚かにもチチは一人でシビンを取ろうとした。シビンはベッドの脚に取り付けられた金具の中に納まっている。それは十分に目測してあって、自由な右手で容易に取り出せる位置にあると見当はついていたからね。落下防止の手すりにつかまって、ようようの思いで半身を起こしたね。このままでは、却ってシビンから右手は遠くなるので、右腕をベッドに突っ張りながら少しずつ体の向きを右手へ変えて行ったものだ。そのほんのわずかずつの動きが、想像をはるかに越えた疲労へつながる。その後もしばしば経験し、リハビリの最中の今も怖れるところだが、不自由なところに意志の力を加えて動かそうとすると極めて強い疲労がやってくるんだよ。リハビリはそれの連続なのだね。
 ああ、なんてこった。ベッドの上で少しずつ向きを変えていく時、ベッドのマットが一方に沈んでいく計算は全く度外視していた。体の右下にようやく折り曲げてあった右足の膝が、その時、ベッドの枠の下のわずかなすき間にするっと入り込んで、抜けなくなってしまった。これは不測の事態だ。利き足の方の自由がなくなると、ほんのわずかでも体を動かすことができない。シビンには届かない。尿意は強まる。冷や汗が出てくると意識の方があやしくなってきた。青ざめてきた顔色が見えるような気がする。浦田さんの状態だな。ハハが怖れていたことだな。その時になってチチはようやくあきらめ、体を後ろに倒して枕元のボタンを押した、というわけ。
 次の日、チチは看護婦に言われてしまった。
「遠慮しないで言ってくださいね。私たちはプロなんですから」
チチは激務の看護婦さんを何人か、たわいもないチチの観念のため、却ってくたびれさせてしまった。どうか、ハハには内緒にしておいてください。
 お前がやってきたのに、チチは全く気付かなかった。
「敦が用意してくれたよ」と言って、ハハが金の入ったのし袋二袋をチチに示した。
「え、どうして」
「お世話になってるお二人の先生にね」
「お前がそう言ったの」
「言わないけど、敦が自分で」
 チチは思わず絶句した。何と敦が気の付いたことを。一体いつそんな大人のやり口を身に付けたんだろう。
「いつ持って来たの」
「お昼ちょっと過ぎかな」
「どうして顔を見せなかった」
「忙しいんでしょ。それにパパは眠っていたから」
 チチはそれで黙ってしまった。昨夜の大活躍でチチは心身共に弱っていた。今日は朝から、点滴を受けながらトロトロしていた。それに隠れようのない気恥しさで、看護婦たちの顔をまともに見られない気分だ。一番の気がかりは、どの人とどの人が世話してくれたのか、よく分からないことだった。こんな時は、何と挨拶したものだろう。チチは仕方なく無理にでも大人の平静さを装って、入室してくる看護婦のどの顔にも目の挨拶を送ったものだ。
 そういう気遣いに重ねて、夜が近付くにつれ、ハハの帰ったあとの不安がまた、ちらちらと顔を出す。間もなくハハが帰る時刻が来ると思うだけで、体の中の虚空が広がってくる。ハハが帰る直前まで、チチは排尿をこらえ、また、水分の摂取を控えに控えて、体内の水気を空っぽにしようと努めた。ところが何と、考えてみるまでもなくあの点滴というやつは絶え間ない水分の補給でもあるわけだ。
 訴えによってもらった薬のせいもあったろうが、その夜は、敦がやって来たと聞いた一事によって安堵感が生み出され、それが何度も何度も虚空を埋めに来てはいたが、苛立ちの方も夜の深まりに併せてのしかかって来るから、チチは非常灯の照らし出す病室の白っぽい空間にある小説の構想を綴ろうとして、却ってささくれた神経を逆撫でにしていたようなものだ。有難いことにそれでも眠りはやってきてくれる。
 あれは、いつのことだったろう。ハハが帰ってしまった後に、お前がひょっこり夜の空気をまとってチチのベッドのわきに立ったのさ。そしていきなり「どうした」などと言っている。「どうした」とは言ってくれるよ。どうしたもこうしたもないもんだ。こうしたていたらくだよ。その時だったね。お前がウォークマンというのか、超小型の音の機械を持ってきたのは。それは新製品で優秀な奴だ。三〜四十分もかけて、お前は操作を教えてくれて、テストに「鯨のうた」を聞かせてくれた。二人の間に特別な挨拶はいらない。そんなことは照れくさくて、重たくてかなわないからね。美由貴のことを二言三言話して、お腹の中の未知の子も元気だと聞けば満足した。その夜から、不安な不眠の夜から開放された。求めていた要求の半分程は与えられたのだね。たとえばこんなことだ。
1、見たい時にテレビを見たい。
2、読みたい時に本を読みたい。
3、書きたい時に文章が書きたい。
4、行きたくなったらトイレに行きたい。
5、「おい」と声を出せば、話相手がやってくる。
 一番虚空に響き渡ってチチを充実した気分にしてくれたのは、マーラーの「大地のうた」だったね。これを聞いている間は、文句がない。「音楽のおくりもの」は、チチをある懐かしさで一杯にした。この「ある」というのは、決して特定のものではないのだね。あの人この人、あの場面この場面というのでは、すぐに疲れてしまう。

3、のどの片側にも麻痺が生じて、そこに物がつかえるような気がする。それがすっぱかったり、辛かったりすると咳込みが始まってなかなか止まらない。
4、左眼だけを閉じることができない。カメラを操作しようとしてこれが分かった。
5、舌を出すと、舌先が左側に片寄って、まっすぐ伸ばせない。発音に多少の障碍が出ているだろうか。
 さて、これら肉体の異常とは別に、明らかに心理的な異常が起こっている。俗にいう「泣き中気」とか「笑い中気」のことだね。「おこり中気」もあるらしい。チチにも現れた。今は、かなり落付いているのではないかな。これらの感情の変動は、止めようとして止めようがないのだね。人から見ればこれもたわいのないことから、とめどない笑ったり泣いたりが始まる。
 加代子に連れられて、佑子と啓一が会いに来た。その帰り道、佑子が、泣き声になって「おじいちゃん、どこに行っちゃうの」と母にとも祖母にともなく言ったのだそうだ。送って行ったハハが、帰って来てそうチチに話したとたん、チチは胸をふるわせ、その波はだんだん大きく広がって、とめどがなくなった。しかし、どっちかと言えば「笑い」の方が多かったのではないかな。チチがつまらないことで笑い始めると、容易に止まらない様子を見ていてハハも笑い出し、二人して止めどなくなるというようなことがよくあった。今もないわけではない。その時、一緒に笑っているハハがいつも側にいたということが、或いはチチを慰めたり励ましたりしたのだろう。教え子の橋本秀雄・和子夫妻が見舞いにきた。秀雄の家では、父親が先に脳卒中で亡くなり、今、長兄も同じ病気で倒れ、秀雄は、二人の看護を徹底してやってきた。この「笑い中気」「泣き中気」について、感情の起伏が極めて激しくなって、容易に抑制が利かなくなるのが脳の障碍の特徴だろう、と言っていたが、正にその通りだろう。一四〇億箇の脳細胞のほんの一部が死滅しただけで、人間はいろいろな分野のコントロールをなくしてしまうのだね。
 さて、チチの病気については、このぐらいにしておこうじゃないか。
 まだチチが入院中の五月二十一日にお前たち夫婦の間に男児「大輝」が誕生したことにまつわって、話しておきたいことがいろいろあり、その方に筆を進めたくてうずうずしているのだが、どうだろう。

 少々書き漏らしたことがあったよ。
 発病以来チチが気付いたいろいろなことの中に疲労の問題がある。たとえば眠ってしまった左手指に活を与えて動かそうとする。親指と人差し指で何かをつまむためには、先ずその指で輪を作ることが必要だ。そこでその練習に二つの指に動かす意志を働かせる。ピクリとも動かない状態から、ほんの二〜三ミリ動かすまでに、莫大なエネルギーが必要なのだね。ものの二〜三十秒間で猛烈な疲労感が起こる。


●病中・病後拾遺

 どんな境遇の時も、深刻がらずに、軽みを持って生きることができたら、生き方としてすばらしい。そんな事例をこれまでの自分の中に一つでも二つでも見つけることができたら、それを伝えることで子や孫の生き方に役立つだろうと思うし、こうして文章に書き記す意味もあるというものだ。せめてその位のことしておかなければ「これをまさかの時に役立てなさい」などと言って、鹿皮の袋か何かに入れたいくばくかの金品をお前に託したくても金輪際できそうもない。

(1)
 救急隊員がドドッという感じで家の中に上がり込んできて、横たわっているチチを認め、最初に隊長さんらしい人が言ったことばを想像できるだろうか。「だいじょうぶですよ」と言ったのだ。何と劇的なことばだと思わないかい。
(2)
 リハビリテーションが始まって一カ月も経った頃だったと思うね。理学療法士の水間先生が言った。「そうそう、今の足の調子が自然できれいだね。きれいにいきましょう」
(3)
 チチと同日に入院した三島さんは商社マンで、静かな人だったなあ。朝食のトレーは、ハハが間に合わない時は、いつも三島さんがチチの枕元まで運んでくれた。奥さんは対照的に闊達な人で、彼を見舞って帰る時も、帰りっぷりがよかった。「さっ、帰ろ、帰ろ」という調子なのだね。
 チチが杖を頼りにトイレに行けるようになった頃、病室にようやく帰り着いて一番奥の自分のベッドに今にもたどり着こうとする時、真ん中のベッドの傍にあって通路にわずかばかりはみ出していた点滴用支柱の脚に、チチのスリッパの爪先が引っ掛かってチチはよろめいた。「おっとっと」とチチが言うのを、三島夫人は見て取ってすかさず
「修業が足りない」と大きな声で言ったものだ。居合わせた三島さんも、名束(ナツカ)さんも、名束夫人も、みんな声を合わせたように笑った。
 以来、何かにつけて「修業が足りない」が三つのベッドの上を飛び交うことになった。
 この名束夫人についても書くことがある。

(4)
 名束さんは、チチより二日遅れて入院した。定年を迎えた銀行マンで、今は功績によって気侭な地位を行内に与えられている人らしい。チチ並に半白の頭髪は後退している。落ち付いて老境に入るという感じの人だ。夫人は色の白い美人で、いつも控えめで静かだ。時々嫁いだお嬢さんが子連れで見舞いにきて、帰る時は、下の道路からこの二階を見上げて、お孫さんが「おじいちゃん」と遠慮勝ちの声を上げる。名束さんは、窓まで寄ってきて、孫娘に手を振る、という寸法なのである。その名束夫人のことである。「うちの女房はね、一昨年小林さんと同じ脳梗塞で倒れましてね、それも重症で、両手両足とも駄目になったんですが、今日ご覧の通り、知ってる人がそれと見なければ分からない程度に回復しました。小林さんはすぐよくなりますよ」
 そう言われて、チチはしげしげと夫人を眺めた。「そうなんですよ。一時は絶望的になりましたけれど、皆さんに励まされて、いいと言われたことには形振り構わず飛び付いて、がむしゃらにやってきましたの。今でもこの通り、お履き物はリハビリ用の靴で通してますの」と言ってどこから見てもとてもがむしゃらな人には見えない夫人がチチに足元を見せた。

(5)
 三島さんが退院して、後に小川さんが入院して来た。機械屋さんで特に発電施設の一式を請け負って後進国を渡り歩いてきたらしい。小兵だが豪傑の部類で、話の限りではなかなかの武勇伝の持ち主である。とは言っても理不尽な乱暴狼藉の類ではなく、他国民が大いによろこぶことをしてきたものらしい。聞き手の血沸きかつ肉踊るというものではない。そういう話にはじきに疲れてしまうので、いつも話は枕の部分だけ聞いて後は寝てしまうので、ご本人にはまことにすまないことをした。
 毎日お二人の娘さんが交替で世話に見える。上のお嬢さんは既に結婚して、まだ子どもがいないところから、お二人とも上手に父親に尽くしていた。小川さんはよくあれこれと指示して、次の日にはその通りの料理が病室に運ばれてくる仕組みになっていたから、チチも名束さんも、時には看護婦さん達もうれしくお相伴にあずかった。
 「こうして俺の言う通り作って来ても、上の子の方がどういうわけか美味しいんだよね」と言うのを二・三度聞いたけれど、チチにはどちらも同じ位に思えた。
 この小川さんの奥さんは一昨年肝硬変で亡くなったと言うから「また、どうして肝硬変などに」とチチが思わず聞き返すと、「俺が外地を飛び歩いている間中、ウィスキーで気をまぎらしていたらしいね。帰って来るたびに空瓶が山のように出ていたものなあ」

(6)
 やはりその頃の早朝(その頃というのは、入院二週間の頃)トイレから出てナースセンター前の広い廊下へさしかかった時、杖を持っているにもかかわらずチチはバランスを崩して、大きくよろめいた。廊下の片側には各室の患者にこれから配る直前の点滴用液や注射薬や、体温計やらをびっしりと搭載した大きなワゴンが二台並んで置いてあった。どういうわけか、こうした場合、体はそうしたくないワゴンの方へワゴンの方へとかしいで行く。その数秒の間にナースセンターから一人の看護婦さんが飛び出してきて、正に倒壊寸前のチチを正面から抱き止めたんだね。そして言ったもんだ。
「気を入れてなくちゃ、ダメ!」
よくぞ言われたものだ。もし、あの時、ワゴンにもたれかかったとしたら、相当量のガラス器が四散し、当直の看護婦たちがゆうべのうちに徹夜して患者毎に準備したものが、一瞬のうちに無駄になるわけだ。そう思ってチチは小さく震えた。チチを助けた看護婦は、今度はチチの左手側に回って左腕を支え、ベッドまでついてきてくれた。
「無理をしちゃだめよ。呼んでくれればついてって上げるんだから」

(7)
 小川さんの下の娘さんと、小川さんが担当医のところに行っている留守に雑談した。
「父は、今二回目の入院ですけど、一回目の入院前は、ものすごく太ってたんですよ。ちゃぶ台の向こうにあおむけに寝ていると、こっちからは、お腹だけがちゃぶ台の上に盛り上がって見えたんです」
 その話を、後に彼にすると、胃癌の手術で入院の際、頼んでお腹の脂肪も取ってもらったら、それが五キロあったと言う。
「癌だったんですか」
「そう、極めて初期の発見でね」

(8)
 小川さんも名束さんも三島さんも、みんな食後には必ず面会室に行って煙草を喫っていたね。名束さんなんか「ぼくは医者に、煙草だけはやめないから、と言ってある」などと言っていたくらいだ。チチだけがそうでないのは却って奇異な感じのものだったが、禁煙が特別苦痛ということはなくて、今日に至っている。もっとも煙草を喫っていたら、或いは精神が安定して夜の苛々は軽くなっていたかもしれない。
 ところで、三島さん、名束さん、小川さんたちの正式な病名は何だったのだろう。

(9)
 入院したのが金曜日だったんだ。土・日とあって、月曜日の昼食時、一人の看護婦さんがまっすぐチチのベッド目指してやってきて、チチの顔をのぞき見しながら、「校長先生」と呼び掛けるんだね。そこに改めて見出したのは、何とチチが三年前まで校長をしていた新宿区立落合第一小学校のPTAの役員さんだったんだ。
「津端(ツバタ)さん!」とチチは言って絶句した。チチは、彼女の看護婦姿を上から下まで一気に眺めた。併設幼稚園に娘さんが在園中は確か幼稚園PTAの副会長さんをしてくれた。小学校では、何をしてくれていたかなあ。兎も角、このふっくりしたお顔、テキパキした物言い態度は勿論、お名前も覚えていた。
「先生が入院された土日は、私は子どもの病気で休暇を取ってました。娘はここに診察に連れてきたんですが、直で帰っちゃいましたからね。土・日と休んで、今朝出勤して入院患者に先生のお名前を見て、びっくりしたんですよ。すぐ飛んで来ようと思いましたが、月曜日は内科の外来が多くて、今まで手が放せなかったんです。それにしてもびっくりしましたねえ」
「いやあ、全く。ボクもびっくりしてますからねえ」
「でも、軽いそうだから、よかったわ」
「ベッド、起こしてくれますか」とチチは彼女に頼んだ。彼女は直ぐにベッド起こしのハンドルを回して、いい具合いに上半身を起こしてくれた。
「津端さんが看護婦さんだったとはねえ」
「娘が小学校に上がるまでは、休職してたんですよ。そのうちこの近くに家を作って引っ越したので、この病院に勤めることになりましてね。子どもも転校させました」
 津端さんには、入院中は勿論のこと、退院してリハビリに通うことになっても、そして今もなおお世話になってるんだから、知人とはありがたいものだと思う。こういうありがたさというのは、チチには沢山あって、人間関係の素晴らしさを思わないわけにはいかないね。

(10)
 一・二年前の頃だけれど、(一・二年というのは、ずいぶん大雑把で曖昧な限定だけれどね、よくこんな言い方をするよね)中年の男性が、入院中に世話になった看護婦さんに懸想して刃傷に及んだ、というニュースがあったけれど知っているかな。全くしようもない男だけれど、とんだ思い込みが原因となっている。しかし、真の原因は、人間の淋しさにあるのだろう。どんな人間もいくばくかの淋しさを抱え込んでいるものだろうが、そのせいできっかけさえ出来れば淋しさを一気に満たそうとして人殺しでもなんでもするわけだ。そんな迷惑の例は古来ゴロゴロしている(例えば無理心中などというのが大抵そうだろう)。佐々病院の理学療法室(リハビリ室)というのはお前も一度ぐらいのぞきに来たかしら。六階の二教室分ぐらいあってね、南北が一面の大ガラス窓になっているから、あたかも空の一画を限るという良い感じの場所だ。ある日待ち時間にぼんやり北の空を見ていたら、突然東から飛行船の頭がぬっとばかりに現れて、それが北一杯の空をゆっくりゆっくり西に向かって進み、やがて西の視界から消えるのに一分ぐらいかかったと思うよ。
 入院十日位から、車椅子で午前の一時間位をそこへ通った。その頃になると脳の梗塞部分はすっかり安定した状態になるのだそうだが、この安定というのは、病状が治まって癒ったというのではないのだね。梗塞によって血の通わなくなった脳の中枢神経細胞は、いわば酸欠状態で死んでしまう。ここには回復ということがないのだね。死滅した神経細胞が受け持っていた機能は完全に失われる。脳の中枢神経の構造や機能のあらましについては、お前は良く知っているだろう。前にもこのことは書いたように思うが、リハビリというのは、死んだ細胞の近縁にあって生まれて以来まだ使われていない細胞につなぎをつけて全く新しい細胞に機能を作っていくことなのだね。これを理学療法の先生たちは「覚えさせる」と言っている。大輝が生まれて、チチがお初にお目に掛かった時から、これまでチチが全く注目しなかった生きとし生けるもののあらゆる運動機能の獲得は、眠っている間も絶え間なく行われていて、それは赤子それ自体の内的な力によるものだということを、実感させられたこれど、早い話が、大輝の手足を初めとする一見無意味に見えるバタバタ動きがそれなのだね。もしあれを何らかの外圧によって阻害すると、機能の発達も勿論阻害されるわけだ。大輝によって初めてそれに気付いたのは、チチと大輝の巡り合わせによるものなのだね(佑子も啓一も全く同じであったはずなのに、そのことに特に注目することはなかったのだから)。
 お前には、次のような経験はなかったろうか。
 蝉の幼虫が地面から這い出てきて、すぐ手頃の木に取り付き、自分の身丈に合う空間を十分に得られる所まで登って行く。たいていはその途中をチチに見付けられて、夏休み中はその気になれば、自宅の広い庭先からいくつでも幼虫を捕らえることができた。そんな奴にも不運なのがいて、小さな箱などに入れられたりする。そうなると、もう羽化の時、半透明な美しい薄緑の羽根は直線的に伸びられない。ほんの少しでも伸びていく羽根にさわるものがあれば、そこから羽根は縮み織りの織物のようにちぢかんで、やがて奇形な蝉の羽根として硬化してしまう。そうなると、蝉は短い障害を一度も飛ぶことなく終わるのだね。チチがそうと気付いたのは小学校の何年位の夏だったろうか。大まけにまけても、三年生位だったと思うよ。チチはそれと分かって縮んだ奴の羽根をしきりに伸ばそうとしたが、勿論伸びるはずはなかった。今ではそれが臨界期を無残にも越えさせてしまったひどい仕打ちだったことを知っているけれど、どう記憶を辿ってみても、誰かに教えられたということはなかったね。そうと気付くまでのチチは、奇形の奴を庭の茂みの中に放り投げてすましていたのだった。
 赤ん坊は、伸びる力をいささかも阻害されない環境が責任のある大人達によって与えられなければいけないわけだが、加代子や敦はどうだったのだろう。今さらうらみつらみを言われても間に合わないけどね。
 さて、話はひどく横道にそれてしまったけれど、リハビリ室には三十代と四十代の看護婦さんがいて、お二人ともいい感じの人だったな。その三十代の人だけれど、既に子持ちでとてもおだやかな人だった。彼女がある日珍しく手透きで、チチの左腕の電気治療に手を貸してくれていた。それを、六十代の通いの男性患者が見ていてね、こう言ったもんだ。
「この人は、俺にだけ特別にやってくれるんだと思っていたのに、誰にでもやってやるんだよなあ」
 チチは勿論、近くには他の患者も二・三人、めいめいが夫々違った治療をしていて、彼のつぶやきはきちんと聞き取れてね、その言い方が明けっ広げだったからみんな笑った。
 チチにも、こんなことがあったね。看護婦に小用の手伝いを頼むことにもようやく慣れたある夜、ベルの合図でやってきた若い当直看護婦が、チチの一物をシビンの口に入れるのに、「一寸、失礼」と言ってつまみ上げたんだね。暖かいタオルで体を拭いてくれたり、シーツを交換したり、点滴のセットをしたり、看護婦が患者の体に触れる機会はたくさんある。そんな中で看護婦に女性を見出した淋しがりやの患者が、自分に特別の感情を持つものとして看護婦の仕事を誤認するのは、よくある話なのだ。しかし、実際の話、多忙極まりなく疲労の限界にいる彼女たちに甘い感情の持ちようはないだろうね(チチの知人には、かくして看護婦と結ばれたが故に妻と別れた奴がいるにはいた。彼の行為はやっかみ半分に評判が悪かった)。

 このところハハはチチを車椅子に乗せたがって仕方ないんだよ。覚えているかな、お前たちのおばあちゃんを乗せて歩いた例の車椅子だが、ハハはどうも美談を作りたがっているらしい。というのも先日、ハハの知人が、その夫を車椅子に乗せているところに出会った、それ以来のことだと思うんだ。
 第一回目は、保谷厚生病院でリハビリを終えて、玄関まで出てきたら、車寄せに、例の車椅子が小さいなりにデンと横着けになっていて、そばにハハがいたずらっぽく笑って立っていた。
 チチはそこでいそいそ乗り込み、さて、杖を振り上げて叫んだものだ。
「それ、行け」
 車椅子はハハに押されて、みじめなきしみ音を立てながら、張り出し屋根の下を出発した。歩道に出ると、チチはますます調子づいて「それ、行け。進め、進め。どんどん進め」と杖を振り回した。ハハは「よしてよ」などと言い乍らそれでもどんどん押し続け、車椅子は傾いた歩道をミシミシミシミシ鳴り乍らかしいで行って、とうとう車道にはみ出て行った。
 こいつは生命がけだぜ。

 美談は着実に作られつつある。今日なんか西武池袋線の踏切を越えるのに、ハハの方が調子付いて「突撃」なんて言うんだからね。