あしたのために(その五) =スランプの抜け出し方=


−目次−

■インプットが足りないとアウトプットできない

■精神には許しと癒しを

■肉体には労働と試練を

■頭の中身を眼に見える状態にする

■話す(書くこと以外のコミュニケーションとして)

■遊ぶ

■気分転換のさまざまな方法

■最良の読者を持つ

■動機の器を何で満たすか

■想像力を解放する「しかけ」を考案する

〜基本テキスト〜

 あなたがもし、「心のパスワード」にも思い当たるものがいくつかある、クライマックスと呼べる瞬間にも憶えがある、書くべきネタもたくさん持っているし、そのディテールも鮮やかに思い描くことができる、にもかかわらず一行も書けない、書きたいという意欲がなかなか湧いてこないというなら、あなたは俗に言う「スランプ」というやつに陥っているのかもしれない。スランプに陥ることは何も恥ずかしいことではない。それはごく日常的に起こる現象だ。恥ずかしいのは、いつまでもそこから抜け出せないでいることだ。

 そこで最後に、スランプから抜け出すための処方箋をいくつかご紹介して、このテキストを締めくくりたいと思う。

 

■インプットが足りないとアウトプットできない

 書きたくても書けない理由の八割は、インプット、つまり読むこと(言語経験)が足りないのだと私は思っている。インプットが足りなければアウトプットはできない。脳も日々新陳代謝を繰り返している。栄養を与えてやらなければ活動しない。脳に(あるいは心に)栄養を与えてやるつもりで読もう。

 文章家の仕事は読むことから始まると言ってもいい。まず新聞を読もう。世の中の動きを知ろう。そして興味をそそる記事があったらスクラップしておこう。脳への知的刺激という意味では、映画や演劇を読む、芸術作品を読む、音楽を読むということでもかまわない。

 さて、次にあなたはご自慢の本棚(マンダラ)の前に立つ。そして五感を研ぎすまし、本棚で息を弾ませ、あなたに手招きしている一冊を探す。そのときの自分に最も必要な本は、あなた自身が一番よく知っている。自分の直観を信じよう。その日のフィーリングにぴったりの一冊を本棚から選ぶ楽しみは、ものを書く人間だけが味わえる特権だ。

 もしそういう一冊が本棚になかったら、書店か図書館に駆けつけよう。そして同じように意識を集中して、自分に読まれたがっている一冊を探そう。文章家の人生とは、いい本に巡り会うことから始まるのかもしれない。本との出会いを大切にしよう。

 読むことは速効性のある薬だ。スランプに陥っているあなたにうってつけの本とは、読んだ瞬間に、あなたの引き出しから言葉が溢れ出てくる本だ。それは何よりの処方箋である。自分の本棚にしろ、書店や図書館にしろ、目的の一冊に巡り会えたら、それを手に取り、パラパラとページをめくってみて、興が乗ってきたら少し集中して読んでみよう。飽きたらすぐ止め、違うことをしてもいい。そしてまた読み始める。その際、書いてある内容や文脈はそれほど気にする必要はない。処方箋として読む本はキャンディ・ポットのようなものだ。形も大きさもさまざまな、色とりどりのキャンディが詰まったポットだと思えばいい。あなたはその中から一番おいしそうなキャンディをひとつつまみ出し、口の中でころがし、味わってみる。くれぐれもポットの中のキャンディを全部いっぺんに口の中に放り込まないこと。それでは消化不良を起こしてしまう。たったひとつの言葉と出会うため、本を開くのだと思えばいい。

 そんなことを繰り返しているうちに、やがていくら読んでも言葉がすんなり入ってこない、何を読んでもちっともおもしろくないと感じる瞬間がやってくる。それはインプットが完了したことを示す。あなたの器はすでに栄養補給を完了し、飽和状態になっている。さあ、今度はアウトプットする番だ。迷わず机に向かおう。

 私もゴールドバーグの『クリエイティヴ・ライティング』を読み返しながら、このテキストを書き続けた。書くのに疲れては読み、読むのに飽きたら書くという繰り返しで、最後には読み終わりと書き上がりが同期するようなタイミングとなった。私はこの本からたくさんのエネルギーをもらって、それを推進力にして前に進んだ。まさにこの本は私にとってのキャンディ・ポットだったというわけだ。

 

■精神には許しと癒しを

 あなたは書き続けている間、およそ人間が抱き得るありとあらゆる感情を経験するだろう。嫉妬、羨望、憧憬、野心、虚栄心、自惚れ、奢り、怒り、憎悪、悲壮感、寂寥感、焦燥感、自己嫌悪、虚無感、充実感、・・・。

 あなたの中で激しい葛藤が巻き起こる。天使と悪魔が、聖人と俗人が、夢想家と打算家が、職人と商人が、アリとキリギリスが、優越感と劣等感が、大人と子どもが、ヒットラーとマザーテレサが、いつ終わるとも知れないかまびすしい論争を繰り広げる。たとえばこんな調子だ。

 

悪魔「オマエはいったい何をやっているんだ。そんなもの書いて何になる。やめてしまえ」

天使「いえ、あなたはよくやっています。あなたの書くものはすばらしい。とてもいい仕事をしていますよ。きっと読む人を感動させ、後世に残るでしょう」

悪魔「何を言ってやがる。自惚れるのもいい加減にしろ。オマエがやらなくたって、誰かがやるさ。もっとうまくね」

天使「そんなことはありません。これだけ努力しているのだから、必ず認められますよ」

悪魔「認められなかったらどうする。それまでの努力は水の泡だぞ。落ち込みも激しいのじゃないか」

天使「どうしてそんなに否定的なことばかり考えるの。もっと自分を信じたらどう?」

 

職人「君は腕のいい職人だ。みんなに職人芸を見せてやれ」

商人「何を言ってるんだ。お前より腕の立つ職人はいくらでもいる。そいつらに勝てるとでも思っているのか。職人芸はそいつらにまかせておけばいい」

職人「いや、そんなことはない。確かに彼らもいいが、君だって悪くない。君には才能がある。自分を信じろ」

商人「信じる者は救われる、ってか。甘いね。筆一本で喰っていけると思っているのか。そんなのごく限られた特権的な人間だけだ。それよりもっと身入りのいい堅実な仕事を探せ」

職人「それでも君は職人か。君は身入りのために書いているのか。職人ならもっと職人らしく誇りを持って信念を貫け。自分の道を信じて進むのだ。そうすれば道は必ず開ける」

商人「何をカッコつけてるんだ。職人だって喰わなければならないだろう。何の保証もないんだぞ。まずは生活の安定だ。職人芸もいいが、採算ということも考えろ」

職人「手を抜けって言うのか」

商人「そうじゃないが、やりすぎはよくない。七割の力で息を長く持続させるのがプロというもんだろう」

職人「どんなことにも手を抜かずに全力を尽くすことこそ、長い目で見れば一番経済的なのではないか」

商人「それはわかるが、じゃあ、腕のいい職人と呼べるほど、修行を積んだといえるのか」

 

アリ「何を怠けているんですか。さっさと仕事をしなさい。始めなければ終わらないんですよ。締め切りが迫っているじゃありませんか」

キリギリス「まあ、そんなにあわてるなよ。ノンビリいこうぜ。まずは一服だ。あんたには休憩が必要だ」

アリ「ろくに働いてもいないで、何が休憩ですか。まだまだ先は長いんですよ。働かざる者喰うべからずですよ」

キリギリス「説教はごめんだね。やるときはやるさ。今は気分が乗らないだけさ。今日の分は明日頑張ればいいのさ」

 

子ども「あの人はどうしていつもあんなしかめっ面をしているんだろう。もっと楽しく笑えばいいのに。どうしてもっとこっちを振り向いてくれないんだろう。ボクもういやだな。こんなところにいたくないよ」

大人「そんなこと言うもんじゃありませんよ。あの人だって苦しんでるのよ。あなたも逃げ出したりしないで、ここで頑張らなきゃ」

子ども「でも、ボクはもっと楽しく幸せに暮らしたいんだ。ボクのことを愛してくれる人に囲まれて、もっと伸び伸び暮らしたいんだ」

大人「でもあなたにはここでやらなければならないことがあるでしょ。他人からは逃げ出せても、自分からは逃げられないわよ」

 

ヒットラー「お前は最低の人間だ。虫けら以下だ。生きる価値もない。もちろんお前の書いたものなど何の価値もない。ゴミだ」

マザーテレサ「自分を責めてはいけません。自分いじめはやめなさい。自分に優しくなれなければ他人にも優しくはなれません。あなたには生きる価値があります。あなたはこの世に存在しているだけで価値があるのです」

ヒットラー「じゃあ、聞くが、お前に価値があると誰か言ったのか。さあどうだ、答えられないだろう」

マザーテレサ「自分の存在価値を認めてもらいたければ、まず他人の存在価値を認めるのです。人に愛してほしかったら、まず人を愛するのです」

 

 彼らの声が頭の中で鳴り響いている間は、あなたは一行も書けないかもしれない。そんなとき、あなたがとれる態度は二つだ。ひとつは、彼らの騒ぎを完全に黙殺すること。もうひとつは、気のすむまで彼らにしゃべらせてやること。場合によっては、彼らの会話を一部始終記録にとってやってもいい。やがて彼らはしゃべり疲れ、あなたの高まった感情は静かに収束し、phカウンターの針は中性を示す位置でピタリと止まるだろう。その瞬間、あなたの中からわき水のように純度の高い言葉が溢れ出てくるに違いない。そうしてあなたはスランプを脱する。

「あなたの中の独裁者と反逆者が戦いたがるなら、勝手にそうさせておこう。ただしそのあいだにも、あなたの正気の部分は静かに起き上がってノートに手を延ばし、心の中のもっとも深く穏やかな場所から書きはじめなければいけない」(ゴールドバーグ)

 

 

 

■肉体には労働と試練を

 本を読んでも魅力的なキャンディに出くわさないし、そもそもあまり読む気になれないなら、あなたはまったく別のものを求めているのだろう。そういうときは、思い切って書くことからなるべく遠くへ離れてみるといい。私はなるべく肉体を使う活動をお薦めする。アルバイトやボランティアをするのもいいだろう。スポーツでもかまわない。旅に出るのもいい。日頃やってみたいと思っていながら、なかなかチャンスがなくてできなかったことをやってみよう。ただし、それらのことは書くことからの逃避だとは考えないこと。それらもすべて書くための肥やしになる。机にばかりかじりついていると重要なものが欠落してしまう場合もある。それを補ってくれそうな活動が理想的だろう。そこに大きなヒントが隠されていて、意外な突破口が見つかるかもしれない。

 書くことからなるべく遠くへ離れると言っても、どこまで遠くか、期間はどのくらいか。それはあなた自身が一番よくわかっているはずだ。自分の感覚に忠実になろう。活動している間に、新しいアイデアが生まれたり、書きたいという意欲がふつふつと湧いてきて、足の裏がムズムズしてきて、居ても立ってもいられなくなり、知らず知らずのうちにあなたは机に向かっている自分を見い出すだろう。

 

■頭の中身を眼に見える状態にする

 書くべきことの全体像が頭にありながら書けないとしたら、その原因のひとつは頭の中身が眼に見えないということにある。だから、思考を眼に見える状態にしてやればいい。絵に描いてもいいし、ポイントを図解してもいいし、地図やスケジュール表や計画表をピンナップするのもいい。また、受験生がよく「必勝」などのスローガンを大きく紙に書いて壁に貼っておくが、それも心理的効果があるだろう。

 映画の制作では、撮影すべきシーンやカットを一覧表にして、撮影が終了するごとに塗りつぶしていく。進行状況もわかるし、スタッフの励みにもなるだろう。

 ノートや原稿用紙にだけ書くという発想をやめ、あらゆるものに書いてみよう。キルケゴールという哲学者は、家の中を歩き回りながら、思いついたことを壁という壁に書き留めていったという。何か頭に浮かんだら、決して後回しにせず、その場ですぐに書き留める。その瞬間は二度とこないし、きたとしても長い時間の意識的努力を要する。自分は抜群の記憶力を持っていて、一度心に浮かんだことは絶対に忘れないと思っている人でも、それを後になって思い出すには、思い浮かんだ時間の何百倍もの時間とエネルギーを要する。キルケゴールはそのことを知っていたのだろう。彼の方法は、ヒラメキと言語化が直結しているというだけでなく、「人は階段の途中で何を考えるか」とか「トイレの中ではどんな発想が生まれるか」といった付加情報まで得られる。

 

■話す(書くこと以外のコミュニケーションとして)

 書きたいと思う内容を、書き始める前に一度人に話してみるという手もある。自分が何を伝えたいのか、それはうまく他人に伝わるのか、そういう考え方でいいのか、何か過不足はあるかなど、思わぬ発見があったり、人の意見や感想が意外な方向へ自分を導くこともある、また、聞き手の反応をエピソードとしてそのまま文章に取り込むこともできる。

 書くことに限らず、計画を成功させる秘訣のひとつは、その計画を秘密にしないということだ。他人に計画を話すことによって、計画そのものの輪郭も鮮明になってくるし、問題点も見えてきたりする。つまり、計画が多くの人の脳ミソを経ることによって、より普遍化するわけだ。また、思わぬ助言や協力が得られたりもする。

 このテキストを書いている最中もそうだったが、あるまとまった量の文章を書いているとき、私は朝起きて机に向かい、その日の一行目を書き始める前に、誰かに電話をかけるということをよくしている。用件はそのとき書いている文章のことでなくてもいい。何かの用事にかこつけて、とにかく一日の始まりを誰かとの会話で始める。そうすると頭の切り換えにもなるし、何となく気分も乗ってきて筆が進むような気がする。

 

■遊ぶ

 徹底的に遊ぶというのも悪くない。それも、酒を飲んだりギャンブルをしたりということではなく、すっかり子どもの感性に戻って子どもの遊びを思う存分やってみるというのがいい。子どもの頃よく遊んだ場所に行き、当時と同じように遊んでみる。実際に小さな子どもを相手に遊べるなら、それに越したことはない。当時の友人を久しぶりに呼び出して遊びにつき合ってもらうというのもいい。人間観察にもなるし、普段は閉じている想像力の翼を広げることにもなるし、忘れていた旧い記憶を呼び戻すきっかけにもなる。

 妻と結婚する前、まだつき合い始めの頃、駅のホームなどで「『何が見える?』遊び」というのをよくやった。とにかくそのとき目に飛び込んできたものを「〜が見える」という表現で言葉にしてみる。私は「疲れて肩をガックリと落とし、家路に急ぐサラリーマンの背中が見える」とか「恋人を見送って寂しそうにしている女性の横顔が見える」とかいった表現になる。ところが彼女は「ひらひらの襟巻の白が見える」とか「ウールのワンピースの赤が見える」など、色の名前を盛んに言うのだ。彼女はそのとき染色の仕事をしていた。だから街に溢れるさまざまな色が、真っ先に目に飛び込んできたのだろう。私はもの書き、妻は染め職人、それぞれの職業的こだわりがあらわれておもしろかった。

 

■気分転換のさまざまな方法

 朝起きたら、まず太陽を浴びよう。人間の体も一種のソーラー・システムだ。太陽からエネルギーをもらうことができる。興が乗ったら、そのまま外で何か書いてもいい。机の上だけが書斎ではない。ただし、太陽はめまいがするほど浴びないこと。ある人から、一カ月で超能力が身につく方法というのを聞いたことがある。日の出とともに起き、手のひらを上に向けて太陽の光を受ける。ただそれだけだという。試したことはないが、興味のある人はやってみて、結果を報告してほしい。

 人間の頭はスポンジのようなものだ。ある一定量絞り出したら、水分の補給が必要だ。最後の一滴まで絞ったと思ったら、サッと気持ちを切り換えて、違うことをしよう。水分を絞り出したスポンジは、吸水力を回復しているが、再び充分な水分を取り戻すまでには少し時間がかかる。そういうとき、私はストレッチ体操をする。ヨガや瞑想もいいだろう。瞑想と言うと、特別な訓練やテクニックが必要で、宗教家や特殊な人間だけがやる行為だと思っている人がいるが、普段私たちは、それに近いことを何気なくやっている。たとえば、静かな音楽を聞いたり、風呂にゆっくり入ったり、授業中ぼんやりしたり・・・。私はときどき炭火で玄米を炊いて食べるが、玄米をひとくち口に放り込んだ瞬間、深呼吸とともに瞑想状態に入ってしまう。

 食事を作って食べるというのも、いい気分転換になる。夜中に書きものをしているとき、一段落すると、私はよく自分で料理を作って食べる。ちょっと時間をかけて凝った料理などを作ることもある。おいしいものを食べると、単純に幸せな気分になる。心の贅沢である。

 顔を洗う、歯を磨く、身の周りのものを片づけたり、ちょっとした遣いに出るなど、日常の習慣的行動も気分転換になる。それは、書くための準備、言葉の海原へとジャンプするための助走であり、文章の神様を降臨させるための儀式でもある。心理学者のケーラーによれば、問題の解決は私たちがそれに積極的に努めていないとき、しばしば突然あらわれてくるという。スコットランドの著名な物理学者がケーラーに語ったところでは、科学の偉大な発見は三つのBにおいてなされたという。つまりバス(bus)、風呂(bath)、ベッド(bed)である。

 

■最良の読者を持つ

 あなたの書いたものをいつでも骨惜しみせず読んでくれ、率直な感想を述べてくれる身近な読者をひとり持つことは、顔の見えない一〇〇〇人の読者を持つことに勝る。その読者はあなたを育て、成功へと導いてくれる貴重な存在だ。ゴールドバーグも、身の丈ほどに山積みされたノートを、週末をつぶして読んでくれた友達の話を書いているが、これは得難い存在だ。

 自分にとって最良の読者を探すためにも、書いたものは隠しておかないで、誰かに読んでもらおう。自分は日記を書いているわけではなく、人に読ませる文章を書いているのだという単純な事実を思い出す役にも立つ。もちろんあなたはその読者に依存することなく、期待に応えなければならない。その分、励みにもなるだろう。

 

■動機の器を何で満たすか

 書き続けるための推進力として最も重要なものは「動機」である。どんなに魅力的なネタがあなたの頭の中にあっても、動機が薄ければ筆は重くなる。動機がまったくなくなれば、一行も書けないだろう。人それぞれ、動機を入れる器を持っていて、その器がいっぱいにならなければ、スムーズに書き続けることはできない。しかし器の大きさはまちまちだ。たったひとつの動機だけで書き続けられる人もいるし、抱えきれないほどの動機がないと書けない人もいる。とにかく、動機が多いほどスランプに陥りにくい。動機の器が一杯になれば、書かずにいられなくなる。書けなくなったら動機を探そう。

 動機とは「なぜ、何のために書くか」ということである。あなたはなぜ、何のために書くのだろうか。試験に合格するため、野心を満足させるため、名声を得るため、満足感や達成感を得るため、社会に何らかの貢献をしたいから、あるいは締め切りに追われているため、それとも何かの報酬を得るため。あなたは、書くことによって何を得るだろう。何かのご褒美か、賞賛の拍手か、賞状やトロフィーか、具体的な品物か、それともお金?お金を得るために書くというのは非常に強い動機になり得る。お金のために書くと言うと、眉をしかめる人がいる。「お金とは人を堕落させる汚れたもの」というイメージが今だに幅をきかせているようだが、それは使い方の問題だろう。お金を汚いものと思っている人間は、汚いお金の使い方しかできないだろう。確かにお金には強いエネルギーが宿っている。一〇〇円には、一〇〇円分のエネルギーを宿した物と交換できるだけのエネルギーがある。お金もまた物質だが、特別な価値を与えられた物質だ。そのエネルギーを負の方向に向けるか、正の方向に向けるかは、使う人次第だろう。ただし、文章は経済原理に乗りにくい。書かれたものの経済効果を測るのはなかなか難しい。

 また、こういう動機もあるだろう。不安や恐怖を回避するため、あるいは誰かを陥れるため、復讐やうっぷん晴らしのため。こういう動機だけで書き続けられるなら、それもいいだろうが、おそらく長続きしないだろう。たぶん途中で息切れがするに違いない。そういうときは、書く動機をもう一度見つめ直した方がいい。動機が変われば、書き方も変わる。どうせなら、スムーズに書くことを許し、長続きのする動機がいい。

 書くことは手段であって、最終目的ではないと言った。このテキストは、マスコミ志望者のための作文講座のテキストとして企画されたわけだが、私はマスコミ志望者の作文の実力アップのためにだけ書いてはいない。もしそれが最終目的だとしたら、ボリュームは半分になっただろうし、時間や労力のかけ方も半分に抑えただろう。

「書くことには途方もないエネルギーがある。どんな理由であれ書く理由を見出したなら、あなたはもはや書く行為を否定できなくなる」(ゴールドバーグ)

 

■想像力を解放する「しかけ」を考案する

 野性のイルカと海で泳ぐことを「ドルフィン・オーシャン・スウィム」(略してDOS)という。以前からDOSに憧れていたが、三年前の夏に実現のチャンスが訪れた。知り合いの紹介で小笠原へのDOSツアーに参加させてもらうことになった。ところが折しもバブルの崩壊でわが家の経済は大ピンチ。しかも妻は臨月で、私のツアー中にも生まれそうな気配だった。はっきり言って小笠原くんだりまで旅行している場合ではなかった。しかし私は逃れられない運命に導かれ、周囲の冷たい視線を振り切るようにして船に乗った。しかし、相手はなにせ野性動物である。出会える保証があるわけではない。連日ボートをチャーターして波間にイルカの背鰭を求めて父島の周りを走り回ったが、いっこうに出会える気配はなかった。焦りと苛立ちだけが募る。お前は何をやっているんだ。親に借金までして、身重の妻を残して、小笠原くんだりまできて、出会える保証もない野性イルカの背鰭を追いかけているとは。

 同じツアーに、特別ゲストとしてディーン・バーナルという世界的なDOSのエキスパートが参加していた。私のそんな狂状を噂に聞いていたディーンは、最後のツアーで再会したとき、挨拶代わりにこう言った。「イルカは見えたかい?」「いや、見えなかった」私がそう答えると、彼はこう言った。「君はイルカを見なかったかもしれないが、イルカの方は君を見ていたはずだ」私はハッとした。そうだったのだ。イルカは私の狂状を海の底から見ていたのだ。だからこそ姿をあらわさなかったのだ。けたたましいエンジン音を響かせ、排気ガスをまき散らし、海面を引っかき回すように、ただやみくもに疾走するボートに、どんなイルカが好きこのんで近づくだろうか。私の肩からスーッと気負いが抜け、気持ちが楽になった。その日、私たちのツアーはイルカの大群に遭遇し、私はDOSを堪能した。

 書くことに行き詰まったら、視点を変えてみよう。人間の視点ではなく、イルカの視点から人間を、世界を眺めてみる。「私は」という一人称で書いていたら、「彼(彼女)は」という三人称に書き換えてみるのもいい。自分を客観視できて、楽に物語を語れるようになるかもしれない。逆に、ある人物について書くなら、その人物に成り代わって、一人称で自分を語らせるのもおもしろい。すでにお気づきの通り、私はこのテキストの中で一人称と二人称を使い分けている。

 また、時間を未来に設定し、未来の自分が現在の自分を振り返っているという想定も、想像力をかき立てられるかもしれない。

 あるいは、まったくの他人が書いた文章をそっくり引用しているという想定はどうだろう。たとえば、海岸に流れ着いた瓶の中に入っていた見知らぬ人からの手紙とか、架空の作家がラテン語で書いた文献をあなたが翻訳しているという想定など。

 文章が成功するか否かは、自分の想像力をどれだけ解放できるか、想像力の解放に貢献してくれる言葉の「しかけ」をどれだけ巧みに考案できるかにかかっている。それがうまくできれば、あなたはスランプに陥ることなく、書く意欲を最後まで持続させることができるだろう。