あしたのために(その二) =書く=


−目次−

■書く際の基本ルール


■呼吸するように自然に書く

■こんな学生は必ず合格する

■ある女子学生とのやりとり

■クライマックスの瞬間を詳しく書け

■文章の神様はディテールに宿る

■書く際の基本ルール


 ゴールドバーグは、『クリエイティヴ・ライティング』の冒頭付近で、書く際のルールとして、次の六項目を挙げている。

 

1.手を動かしつづける(手をとめて書いた文章を読み返さないこと。時間の無駄だし、  なによりもそれは書く行為をコントロールすることになるからだ)。

2.書いたものを消さない(それでは書きながら編集していることになる。たとえ自分の  文章が不本意なものでも、そのままにしておく)。

3.誤字脱字、句読点、文法などを気にしない(文章のレイアウトも気にしないでいい)。

4.コントロールをゆるめる。

5.考えない。論理的にならない。

6.急所を攻める(書いている最中に、むき出しの何かこわいものが心に浮かんできたら、  まっすぐそれに飛びつくこと。そこにはきっとエネルギーがたくさん潜んでいる)。

 

 これを見てまず感じることは、私たちが国語教育の中で、繰り返し教え込まれた作文の書き方とはずいぶんかけ離れた、むしろ対極にあると言ってもいいルールではないかという驚きだろう。私たちは、ひらがなカタカナの正しい書き方に始まり、漢字の書き取り、文法、段落の区切り方、そして最後には書いたものに真っ赤にペンを入れられるというやり方で作文指導とやらを受けてきた。つまりガチガチのコントロールである。私たちはまさに自分で自分に手錠をはめさせられてきたのだ。ゴールドバーグのように書くためには、私たちはまずその手錠から自分自身を解放しなければならないようだ。

 そのためには最後の六番目が特に重要である。あなたの心にふと浮かんできたむき出しの何かこわいもの、直視すべきでありながら、恐怖のあまり目をそむけてきた何か、真っ先に書くべきでありながら、書くことを避けてきた個人的なタブー。わき見をせず、まっすぐそれらに飛びつき、つかんで離すなというのだ。身の毛もよだつ残酷な体験である。できれば避けて通りたいだろう。しかしそれから目をそむけず、しっかり見据え、面と向かい、それを乗り越えるなら、あなたは確実に人間的成長を遂げるだろう。

 誰にでも、人に絶対言えない秘密、人生の汚点、恥部、悪癖というものがある。できれば記憶の奥底に沈めておきたいそれらは、ある特別なコトバを耳にした瞬間、リアルな皮膚感覚を呼び起こし、内臓を揺り動かし、生々しい映像を伴って蘇ったりする。あなたの心の琴線に触れ、あなたの最も深い部分にダイレクトにアクセスし、その深い部分に眠っている何かを呼び覚ますキーワード。他の人が聞いても別に何の反応も示さないが、あなたにだけ効果のあるコトバの時限爆弾。それをここでは仮に「心のパスワード」と呼ぶことにしよう。

 たとえば単純な話、あなたが街を歩いているとき、ふと別れた恋人と同じ名を呼ぶ誰かの声を聞いたら、思わずビクッとして振り返るだろう。そして本人がいるのだろうかと思って辺りを見回すかもしれない。そして彼(または彼女)と別れたときの情景がフラッシュバックのように次々と蘇るかもしれない。

 私は「イラ草」という言葉を聞くと、小学校の頃、学校に行く途中、雑草の生い茂った空き地に横たわっていた死にかけの野良犬を目にしたその情景を、強烈な異臭とともに鮮やかに思い出す。その臭いが、死にかけの犬の放つ臭いだったのか、犬をとり囲む雑草の臭いだったのかわからないし、その雑草がイラ草だったのかどうかもわからないが、とにかくそのときの強烈な臭いと、死のイメージと、「イラ草」という言葉の響きが、

おそらくは当時の私の不安定な心理状態とともに、私の記憶の中で混然一体となっている。

 あなたには「心のパスワード」と呼べるものがいくつあるだろうか。試しに、思いつく限りリストアップしてみるとよい。ただちに十個思いつくなら、それらを契機として、あなたはいい文章が書けるに違いない。百個思いつくなら、あなたは大作家になれるかもしれない。モノを書くとはそういうことだ。書くことにタブーなどない。むしろ個人的なタブーを打ち破るために書くのだ。

 さて、それでは改めて、その中のとびっきりのひとつに意識を集中してみていただきたい。あなたは当然それを人に知られたくない、秘密にしておきたいと思っている。そのことを思い出すだけで、あなたの顔は紅潮し、心臓の鼓動は高鳴る。それは、あなたの思考や行動を、折に触れさまざまな形で規定したり、束縛したり、抑止したりしているかもしれない。あなたはできればそのことから解放され、自由になりたいと思っているが、なかなか思うようにはいかない。しかし、よくも悪くも、あなたはそのことにある種の個人的なこだわりを持っているのに違いない。つまりあなたはそのことに強いエネルギーを感じているのだ。今はそのエネルギーは負のエネルギーとして作用しているかもしれないが、それを正のエネルギーに転換することもできる。

 そこでまず、それはあなたの役に立つため、正当な理由があってそこに存在しているのだと思っていただきたい。理由があるからこそ自らの存在をことさらにあなたにアピールし、ことあるごとにあなたの思考や行動に影響を与えようとしているのだ。だからその存在を認め、肯定し、愛し、抱きしめるがいい。そのことに影響され、束縛されている自分自身を許し、受け入れ、放任するがいい。自分にこう言い聞かせるのだ。

 「私には何も後ろめたいことはない。どんなことが明るみに出ても、私は何も失うことはない。私に属するすべてのことは、私にエネルギーを与え、私を生き生きさせ、私の繁栄と幸福と成長に貢献するために存在している」

 そして、それがあなたのライフワークに果たす役割、利用価値について、あなたをもっと生き生きさせ、豊かにし、幸福にするためにそれをどんな役に立たせることができるかについて考えていただきたい。さらに、自分一人で背負わずに、いつ誰にどんな形でそのことを打ち明けるかについても考えてみるといい。

 さて、どんなことが心に思い浮かんだろうか。それとの新しいつき合い方、意識の変化、とるべき行動などについて、何か新しい発見やヒラメキがあっただろうか。もしあったら、すぐに行動に移すべし。そして書くのだ。

「人間の特別な性癖・・ものごとに夢中になること・・について書かれたものが、なぜないのだろう。他のだれからも理解されない自分だけが夢中になるものについて書かれたものが。その答えは、それこそまさに、あなたが書くテーマだからだ」(ディラード)

 

■呼吸するように自然に書く


 書くことを可能にするのは人生経験ではなく、言語経験だと言った。言語経験とは読むことと書くことの二つだとも言った。それを踏まえた上で改めて言おう。書くことは書くことによってしか学べない。いくら本を読んでも、書かない人間はいる。一方、ごく例外的だが、ほとんど読まずに書く人間もいるだろう。いずれにしろ、どんなに読んでも書かなければ書けるようにはならない。

 人間は誰でも呼吸をするのと同じくらい自然に文章を書くことができる。プロのライターだけが書くのではない。どんな人間も呼吸するのと同じように書く。呼吸の仕方のうまい下手はあっても呼吸ができない人間はいない。人は無意識のうちに呼吸する。文章のうまい下手はあっても文章を書けない人間はいない。人は意識せずに書くことができる。書けない(呼吸できない)のはその自然の能力を阻害したり抑圧したりしている要因があるからだ。だからまずは、固定観念、先入観、心の鎧・カセ・こわばりを解き、自然に呼吸する(書く)ことから始めよう。

 私たちは、学校教育の中で、さんざん国語教育や作文教育を受けてきたはずなのに、何か本当に書きたいと思う題材を手にしたときでも、いざ書こうとすると、とたんに息苦しさを感じ、筆をとることに抵抗する自分自身をもてあましたりする。その大きな原因のひとつは、「読書感想文」というやつではないかと私は思っている。私たちは、やれ作文の授業だとか、夏休みの宿題だとかとかこつけて、課題図書とやらのリストを渡され、「読書感想文」を書くことを強いられてきた。この「読書感想文」という文章教育は、生まれついての詩人やストーリーテラーを、できそこないの評論家に格下げすることぐらいが関の山である。だいいち、現場の教師たちは、ある本を読んだ感想について生徒たちが書いた文章を読んで、いったいどんな感想を述べ、どのように評価すれば、作文教育が成り立つと思っているのだろうか。

 あれは小学校の六年か中学の頃だったろうか。夏休みの宿題か何かでヘミングウェイの『老人と海』を読んだ(読まされた?)のだが、ハッキリ言って何の感動もなかった。文豪と呼ばれる作家の傑作と呼ばれる作品を読んでも感動しない自分を恥じ、そのことを知られたくないと思った私は、「もし誰かがこの小説を読んで感動したとしたら」という想定で感想文をでっち上げたのである。その感想文の評価がどんなものだったかは覚えていない。私にはどうでもいいことだったからである。今では自分の気持ちに忠実になれなかったにがにがしさだけが残っている。私とヘミングウェイの不幸な出会いとしか言いようがない。事実あれ以来、私はヘミングウェイを読まなくなってしまった。「読書感想文」という名の国語教育は、私と文豪の幸運な出会いのチャンスを見事に断ち切ってくれた。

 今回の通信講座の中で、作文の課題として一冊の本をとり挙げ、受講者に読んでいただくこともあるかもしれないが、私はその本の読書感想文などはいっさい要求するつもりはない。書いてあることをバラバラに解体し、スクラップし、値踏みするのではなく、まずはその本の世界へ深く入り込み、一体化し、その息づかいを存分に味わい、それを契機に何かを考え始め、何かに気づき、目覚め、そして最終的にはその世界から飛び出て、書くという営みへ向けて自由に翼を広げることをこそ望む。

 

 書くことを息苦しくしてしまう大きな原因はもうひとつある。書くことを目的と考えてしまうことだ。書くことは目的ではなく手段だ。呼吸することが生きる目的ではないように。

 国際PENという組織がある。PはPoet(詩人)、EはEditor(編集者)、NはNovelist(小説家)をあらわす。つまり活字文化に携わる者たちの世界的組織である。もうずいぶん前のことになるが、その組織の国際大会が日本で開催され、世界各地からそうそうたるPENたちが集まってきた。それを記念してNHK教育テレビが討論番組を企画した。出演者として日本からは大江健三郎、アメリカからはウィリアム・スタイロン、フランスからはアラン・ロブ=グリエが参加した(他にも参加者がいたかもしれないが憶えていない)。その討論の中で、核問題が出たとき、スタイロンがこんな意味の発言をした。「アメリカが日本に原爆を落としたのは、あの状況下では、双方の犠牲者を最小限に抑え、戦争を早期に終結させるために止むを得ぬ処置だった」と。ユダヤ人大虐殺の悲劇に翻弄される人間の悲しみを見事に詠い上げた傑作『ソフィーの選択』を書いたあのスタイロンが、こんなお粗末な発言しかできないのかと、私は情けなく思った。それを受けてロブ=グリエは、「日本人は広島・長崎の悲劇ばかりを強調するが、パールハーバーや南京のことを言わないのは不公平ではないか」という意味のことを言った。欧米人が日本人をやり玉にあげる際の典型的な論調である。小説作法においてはありきたりでないロブ=グリエらしからぬありきたりな発言だと思った。それに対し、大江は「広島・長崎の悲劇を痛ましいと感じる人間が、パールハーバーや南京の悲劇を憂慮しないということはあり得ない」という意味の発言をした。この討論、誰に拍手を贈るべきかは明白だろう。

 スタイロンやロブ=グリエの発言は、対立や闘争を招きこそすれ、協調や共存をもたらすものではないだろう。一方、大江の発言は、虐殺の悲劇や核の問題は、どの国のどの国に対する責任ということではなく、人類全体が地球に対して負うべき責任であるということを見通している人間の発言だろう。これは、大江が書くこと以上の何かを目的として作家活動を続けていることを端的に示している。

 ついでにもうひとつ、こういう話をしておこう。「原爆の図」を描いた画家の丸木位里は、アメリカの大学に招待され、「原爆の図」を携えてキャンパス内で展覧会を開いた。その大学が催したシンポジウムの席で、丸木はロブ=グリエが大江に言ったことと同じ意味のことをある教授から言われた。そこで丸木は帰国後、「南京大虐殺の図」を描いた。私はそれを丸木美術館で観たが、「原爆の図」に優るとも劣らない迫力だった。画家がその絵に注いだエネルギーの量を思うと、めまいがするほどだ。画家とはそういうパフォーマンスをするのだ。

 書くことを目的として文章家になろうというのは志しが低すぎる。あなたがもし就職試験に合格することを目的に書くなら、書くことに関するあなたのキャリアは、内定をもらった時点で終わることになる。だいいちそんな文章で試験官を納得させることはできない。

「頭の中に映画化権を思い浮かべながら書かれた小説は、かすかだが間違いなく腐った匂いがする」(ディラード)

内定をもらうことを目的に書かれた文章をかぎわけられないほど試験官の鼻はつまってはいない。こうべを高く揚げ、自分の真の目的に向かってまっすぐに書くべし。

 

 人はもともと呼吸するのと同じように自然に書くことができると言った。ただし呼吸は命の根本に関わる。呼吸の仕方次第で人間は健康にもなるし病気にもなる。幸福にもなるし不幸にもなる。書くことも同じだ。ライターへの道の第一歩は、まず人がどのように呼吸する(書く)かを学ぶことだ。その上でプロのライター(呼吸のプロ)を目指す。呼吸のプロ・達人と呼べる人がいるとしたら、それは呼吸によって自分も健康で幸福になり、他人の病も癒し、幸福にすることのできる人である(こういう人は実際に存在する!)。このことだけは忘れないように。プロのライターも同じである。

 さあ、呼吸を始めよう。

 

■こんな学生は必ず合格する


 あなたはマスコミへの就職を目指している。具体的な職種としては何だろうか。新聞記者、テレビ番組の制作者、アナウンサー、出版社の編集者、広告代理店の制作者、コピーライターなど・・・。その目的の職種に合格するため、あなたは今書くことを学ぼうとしている。どうすればマスコミの論作文試験に合格できるような文章が書けるのかと。しかし、試験に合格できるような文章を書くことを学ぼうとすると、試験に合格する文章を書くノウハウ以上のものは得られない。試験に合格すること以上の目標を目指して書くことを学ぶなら、試験に合格することは、書くための目的ではなく単なる手段、最終目的にいたる単なる通過点にすぎないことに気づくだろう。

 あなたに、希望する具体的な職種があるなら、あるいは一生かかっても是非実現したいライフワークがあるなら、とっておきの合格の秘訣を教えよう。学生であることを今すぐやめるのだ。そして、たとえばあなたがテレビのディレクター志望なら、今この瞬間からテレビのディレクターとして考え、行動し、生き始めるのだ。そうすればあなたはやがて、就職試験などやすやすとクリアーしてゆく自分を見い出すだろう。

「書くという肉体労働によって、心の壁を打ち砕くことができる。それは、空手で板を割るとき、板の向こう側まで手が突き抜けることを念じて行なうのとよく似ている」(ゴールドバーグ)

「まき割り台をめがけて斧を降り下ろすのだ。まきをめがけてはだめだ。まきを通過し、まきの下の台をめがけるのだ」(ディラード)

 

 去年の五月、私は日本ジャーナリストセンターのマスコミ受験講座で、NHK受験者のためのコースを担当した。十数名の受講者の中に、たぶん合格間違いないだろうと思われる女子学生がひとりいた。彼女はドラマの制作を希望していた。中国に留学したときに、クラスメイトに客家系インドネシア人がたくさんいることに気づき、東南アジア華人たちの歴史に興味を抱いた。そして陳舜臣の『風よ雲よ』『旋風に告げよ』などの小説を読み、大河ドラマの制作を思い立つ。さっそくNHKのディレクターと会い、ドラマの企画を持ちかけ、熱いドラマ談義を交わして、試験を頑張るよう励まされる。それをきっかけに彼女は、次々とNHK関係者と会い、最後にはエグゼクティヴ・ディレクター・クラスの大物に何度も呼び出され、ドラマ談義に花を咲かせたらしい。「きみは合格間違いなし」と私は彼女に太鼓判を押してやった。「きみは天守閣にまで攻め入り、刀を大上段にふりかぶって、敵の大将の首を今にも切り落とそうとしているのだ。ふりかぶった刀をそのままふり下ろす勇気さえ持てば大丈夫だ」と言うと、彼女は「はあ、そんなもんでしょうか」と、いっこうにピンときていないようなのだ。ドラマ制作の夢を追うことにご執心で、試験に合格することなど眼中にないといった様子なのだ。つまり、彼女はNHKに入る入らない以前に、すでにドラマの制作者として行動し、実現の可能性を探り、立派に仕事をしていたのである。テーマを見つけ、資料を読み、現地調査をし、企画を練り、関係者にアタックして説得を試みる・・・。

 その結果、彼女の中で思いもよらぬ結論が出た。彼女はNHKの試験をあっさり放棄してしまったのである。「合格間違いなしと思われた講座のトップランナーがなぜ?」と私は思った。つまり、一連の就職活動と私との個人面談の中で、彼女は自分の最終目的は大河ドラマの制作であり、必ずしもNHKへの就職ではないということに気づいたのだ。さらに、彼女は自分でドラマを作るというより、作らせる、つまりプロデューサー的な仕事の方が向いているということにも気づいた。ますますNHKに就職しなければならない必然性はなくなった。NHKの制作者たちと外側からつき合い、ともに実現の可能性を探っていけばいいのだ。すでに人脈は開拓しているのだから。彼女は結局、日本の大学を外国に誘致する事業を手がける法人組織に就職し、今では中国と日本を行き来している。もちろんドラマ制作の夢は捨てていない。彼女は会う人ごとに自分の夢を語り、いつか必ずその夢を実現させるだろう。私は彼女の職業選択は正しかったと信じている。ある意味で、NHKに就職するより、ドラマ制作実現への近道を選んだと言えるかもしれない。

 彼女の例で注目すべき点は、就職活動そのものが、自分のライフワーク探しの契機となっているということだ。おまけにそのライフワークに対する自分の適性まで見抜く結果となっている。まさに、仕事探しとは自分探しの旅なのだ。

 

■ある女子学生とのやりとり


 去年の三月、私はある専門学校が東京近郊の女子学生を対象に行なった「個性的な作文を書こう」という講座の講師を務めた。受講者はマスコミ志望者に限らなかったので、私はとにかく時間内に自分のことを書かせ、皆の前で発表させた。私も書いて最後に発表した。合評会のようなこともやりたかったが、時間が足りなく、受講者には若干の不満が残ったようだった。そこで私は、人数が少なかったということもあり、受講者へのアフターサービスとして、ファックスや手紙での作文指導をしばらく続けた。まさに通信講座の試みである。このときも今回の通信講座とまったく同じ方針をとった。つまり、学生の書いた文章にはいっさい赤を入れず、コメントとアドバイスだけ返すというやり方だ。その中のひとりの女子学生とのやりとりを以下に示そう。

 彼女はまず次のような作文を送ってきた。

 

・・「学生時代力を入れたこと」

 私は大学生活の大半を競技ダンス部の活動一色で過ごしてきました。毎日授業が終わると高田馬場にあるダンスプロの経営するスタジオに行き、レッスンを受け練習をして夜十一時に帰宅していました。帰りは遅く朝は早い為に疲れがたまり、体はふらふらでしたが練習は続けました。どうしてこれ程までダンスばかりしていたのには訳がありました。それは私が上級生と固定を組んだ為に他大学のカップルより劣ったのと私の相手が部活での競技部長であった事や、毎月一つ多い時は三つの競技会が学連で主催されていて、組んだ半年間は全ての競技会で一次予選落ちしたからです。私は負けず嫌いな性格で競技会で一次落ちして泣いているのは性に合いませんからよく私達の出番が終わった後は準決勝、決勝に上がった他大の人達を観察して私達の踊りと比較してどこが違うのか何が足りないのか観戦しながら話し合いました。つまりこの競技会では負けても次の試合で勝つ秘訣を必ず持って帰ったという事です。そして細かい技術を練習し、体力をつける為に踊り込みました。でもどんなに練習しても他大学の人達も大学の背番号を背おって勝つ為に私達と同じ位練習しているので急には勝ちませんでした。焦ったり、勝つ見込は無いのではと不安になり、相手とよく喧嘩しました。でも私は本気で勝ちたいのなら喧嘩している時間も無駄であると気付いたので努めて言い争いはやめました。この様に不安な状態を八ヶ月程過した結果、ついに春の東都戦では十一位を、秋の東部戦では七位を取れるまでになりました。とても感動しました。私はこの三年間で目標を持ったならば諦めずに努力する事、しかもただ努力するのではなく、客観的に見て良いと思われる方法で本気で頑張ればうまくいく事を学びました。

 

 作文の後に、彼女の次のようなコメントがあった。

 

・・こんばんは。TMです。今送った作文を見て下さい。よろしくお願いします。私自身として、書いている途中に、内容はともかく、書き方がつまらないと思いました。先生はどう思いますか?

 

 これに対して、私は次のようなコメントを送り返した。

 

・・ファックスをありがとうございます。ご返事が遅くなり、申し訳ありません。

 さて、送っていただいた作文ですが、「内容はともかく、書き方がつまらない」という自己評価は、その通りだと思います。その原因は、この手の「青春グラフィティ」ネタを書く場合に、貴女だけではなく、他の学生さんも共通に犯す誤りのひとつなのですが、単なる経過説明に終わってしまい、クライマックスが全然描けていないという点にあります。

 たとえば、次のような書き出しで始めたら、だいぶ読み手の印象は変わってくると思います。

 「一九○○年○月○日○時○分、私は○○さんの手を握り、○○人の観衆が固唾を呑んで見守る中、音楽がスタートするのを待っていた。その瞬間私は、大学生活の大半を費やしてきた競技ダンス活動のクライマックスを迎えようとしていた...」

 この瞬間、貴女の脳裏には、苦しかった練習のこと、負け続きだった競技会のこと、パートナーとの確執、不安と負けじ魂が交錯するあなたの内面の動き、そしてそれらの果てに到達した貴女の心の境地が、走馬燈のように渦巻いていたはずです。そして、曲がスタートし、頭をからっぽにして、すべてを出し切ったとき、貴女は満足のいく結果を手にしていたのでしょう。そのときの感動は必ずや読み手と分かち合えるに違いありません。

 このような点に留意し、もう一度書き直してみてください。

 

 彼女から返事がきた。

 

・・お久しぶりです。先日は私の自己PRの添削をして頂いてどうもありがとうございました。その後先生からのアドヴァイスをもとにいろいろな文章を書いています。あとすこしで完成するのでまた送ります。ところで、今回は私が履歴書に書いてきた内容を添削して貰いたいのです。書類審査や一次面接で、落ちてばかりいるのでどこらへんが悪いのか二人の友人と母親に六枚の履歴書を見せたところ私が思っても見なかった感想が、かえってきました。

  ○ 勝負にこだわる勝ち気な性格

  ○ 余裕がない

  ○ 何を得たいのか書いてない

の三点です。私自身よくよく考えてみると競技ダンス部において一年生のころは成績をださなくてはいけないプレッシャーがなかったので、心配事もなく体調もよく気楽に活動していたのです。しかし固定についてからは前記の反対でしたからどうしてもほんわかしたことは、なかなかないんですよ。ただ得たものについては少しほんわかしたものがあります。それは、

「注意を受けたことはありがたく聞いて実行すると、自分のためになるし相手も今後もいろいろ教えてくれる。↓自分が向上する。」

「人の悪口は言わない。↓自分も言われる立場になるし、悪口をいって自己満足していると自分自身がのびない。」

の二点です。

 これを書けばいいのかなと書いている最中に思いましたが書く欄がないのです。学校指定の履歴書の欄は、“学生生活において力をそそいだこと(サークル活動等)”です。うーん。どうしたらいいのでしょうか?それではご参考までに今までの文章を読んで貰えますか?

 

 私は競技ダンス部に三年間所属し、学連の主催する競技会に出場し勝つためと、下級生を指導して大学全体のレベルを上げるために、努力してきました。具体的には、私は上級生と組んだので他大学のカップルと比べると踊りが劣り、負けっ放しだったので、今までの練習方法を改め私の踊りのよい部分はそのまま伸ばし、劣っている点は自分で考えると共に仲間に比較して貰いアドヴァイスをしてもらうなどして新しい目標を競技会が終わる度に作ってきました。この様にしてきたのは私が負けず嫌いな性格だからです。そしてその後の一年間は工夫のかいがあり六つの競技会で、三枚の賞状を勝ち取れて満足してます。

 

 どうでしょうか?う〜ん、余裕無さそうな人物が浮かび上がってきました。私の心の中に。先生はどの様に感じましたか。はうううう。次にあるのは違う履歴書に書いたものです。

 

 私は競技ダンス部に在籍し、約三十もの学連の主催する競技会に出場してきました。初めのころは負けてばかりいたので、練習する時は次にあげる点を特に注意しました。ただ練習するよりも仲間に踊りを見て貰って意見を聞く。うまい人を観察して私に足りない点を見つけたものに自分の考えを加える。そして練習する。この工夫の成果が後半の競技会に現れたので満足できる部活動をやれました。

 

 以上です。後の四枚もにたりよったりでかわりません。今これを打っていてなにかヤバい感じがしてきました。六枚の履歴書はもう取り返しがつきませんけれどこれから書く履歴書には違った内容を打ち出した方が良いのでしょうか。御指導をお願いします。

 

 彼女の質問に対して、私は次のような回答を送った。

 

・・ファックスをありがとうございます。さて、さっそくですが履歴書の「学生生活において力を注いだこと」の欄に何を書くべきかについてお答えしましょう。

 率直に言って、貴女も他の七割の学生が犯している間違いと同じ間違いを犯しています。それは「青春グラフィティ」調や「卒業生答辞」調になってしまっているということです。特に「いろんな人と出会い、いろんなことをして、いろいろ学んだ」式のあれやこれやは絶対禁物です。なぜならほとんどの学生が判で押したようにこの調子で書いているからです。採用試験の試験官は、多い人で一人あたり数一〇〇〇枚の応募書類を審査します。したがって、書いてある内容はもちろん、書き方もみな似たり寄ったりの書類をいい加減読み飽きていて、うんざりしています。私が試験官だったら「いろいろ」とか「いろんな」とか「〜など」という文字が目に入っただけで即座に没にします。

 貴女の場合も極めてきわどいラインを浮き沈みしているようです。私がこういう学生にいつもアドバイスするのは、やはり前回貴女にファックスした主旨と同じで、「学生時代に経験したことの中からポイントを一つに絞り、その経験のクライマックスをできるだけ詳しく細かく具体的に描け」ということです。その経験(クライマックス)によって、自分がどう変わったか、何を得たか、どんなパーソナリティを獲得したかなどは、いっさい書く必要はありません。それは貴女が書くべきことではなく、読み手に感じ取らせるべきことです。「このようなクライマックスを経験している学生なら、きっとこんな性格であり、そういう性格なら本人が志望する職種に適性があるに違いない」と読み手に思わせるような書き方が必要なのです。

 「でも、数ある経験の中から一つに絞ってしまったら、偏狭な人間だと思われないか」という疑問が湧いてくるかもしれません。そういう人には次のようなイメージ・ワークを是非やっていただきたいと思います。

 

○ 今までのあなたの人生における最大のクライマックスは何かに、心のフォーカスを合  わせてください。

○ その瞬間、あなたはどこに居ましたか?

○ 誰と一緒でしたか?

○ 何をしていましたか?

○ あなたの目には何が映っていましたか?

○ あなたはその時何を感じていましたか?

○ そのクライマックスからあなたは何を受け取りましたか?

○ その経験の意味、送られてきたメッセージ、その後のあなたに与えた影響は?

○ それまでのあなたの人生は、そのクライマックスのためにすべて用意されたものだっ  たとします。そう考えると、改めて自分の人生の意味、何を成し遂げようとしている  のかについて、思い当たることがありますか?

○ これからのあなたの人生が、もうすぐやってくる第二のクライマックスのための準備  だと考えてください。どんなクライマックスがあなたを待ち受けていると思いますか?

 

 「自分の学生生活は極めて平凡で、人に自慢できるような経験もクライマックスも何もなかった」という学生がよくいます。しかし、それはウソです。本人が気づいていないだけのことです。本当にそんなに退屈な人生だったとしたら、若い体が黙っていなかったはずです。自分の経験を無駄にする人間はいます。しかし、人生に無駄な経験などありません。自分の経験したことを日々問い直し、その意味を塗り変えていくことによって、人間は成長するのです。したがって履歴書とは、そうした自分の人間的成長の痕跡がうかがえるものでなければなりません。読み手はそれこそを履歴書から読み取りたいと思っているのです。

 

 これに対し、彼女からこんな返事がきた。

 

・・先日はどうもありがとうございました。先生の御指摘のとおりわたしの文章は内容を表現するというよりも事実の羅列であると実感しました。わたしの母もわたしが先生からのFAXを見せると先生の御指摘は正しいとうなずいていたのです。ああ、客観的にみても羅列なのだから、人事部の担当者は当然わたしの履歴書は避けただろうと思います。もっと早く先生に見せていたらとわたしは自分ののんびりさにがっかりです。今までの履歴書がもったいない。それからまた自己PRを書いたので添削して貰えますか。

 

 その日、東部二部戦、曲が流れると同時にわたしはパートナーと共に踊りだしました。日頃の練習の成果をだし次の目標に向かうために。ところが結果はチャッ・チャでは高得点を頂いたが、サンバでは予選落ちでした。なぜなのか。

 その日から課題に向かい二人でそして指導者、周りの人々と話し合いながら努力を続けてきました。その結果東京都知事杯において優勝しました。全ての人にありがとうと言いたいです。

 

 どうでしょうか。わたしはすっきりとまとめたつもりなのですが。傍線部分がわたしの大学生活のクライマックスです。このとき後輩がサンバで決勝に進み複雑な気持ちでしたし、今までの練習は生易しかったとひどく後悔しました。この日は、精神的な修羅場でした。

 それでは、御指導をよろしくお願い致します。

 

 これに対して、私はこんな返事を出した。

 

・・ファックスをありがとうございます。さて、今回の貴女の自己PR文ですが、これがもし、前回のファックスのように、履歴書の「学生生活において力を注いだこと」の欄に数行で何を書くべきか、という命題のための文章だとしたら、これでいいかもしれません。しかし、どのような文脈で扱われるかにもよりますが、純粋に自己PRのための記述だとしたら、「ちょっと待った!」と言わざるを得ません。

 まず第一に、確かにご自分でおっしゃっているように、すっきりとまとまっています。「わが青春」というドラマのあらすじを書け、という命題の答えとしては合格です。しかし、あらすじはあくまであらすじ。「それで、ドラマの本編は?」という疑問は当然起こってきます。それを作文でたっぷり語って聞かせるわけです。あらすじ自体は作品ではありません。本編に読者の関心を促すための道具に過ぎません。また、クライマックスという意味では、貴女が傍線を引いた部分より、その後の貴女が感想を述べている「このとき後輩がサンバで決勝に進み....この日は精神的な修羅場でした」という部分の方がよほどクライマックスの雰囲気を伝えています。重要なのは、その時の貴女の心の動きと、それをきっかけとした人間的な成長のプロセスなのです。

 第二に、自己PRとは、自分の特技やセールスポイントなどを一方的に主張するだけのものではないということです。自己PRとは、自分が社会との関係において、何をして生きていきたいと思っているのかを宣言することです。自分は社会に対して何を提供し、それによって何を生み出したいと思っているのか、社会とどのような関係を築きたいと思っているのかということです。したがって、自分がどのような職種を希望しているか、その職種に行き着いた過程がどのようなものだったか、その職種に対して自分にいかに適性があるか、ということが表現されていなければなりません。したがって、相手の会社がどのような業種であるかに関係なく、あらゆる業界に通用する、貴女にとってのたったひとつの自己PR文というものが存在するハズです。ダンスのことを書いてはいけないという意味ではありませんが、現状のままでは、一流ダンサーを目指す女性というイメージしか伝わらないでしょう。貴女が本当にアピールすべきことは、ダンス活動を通して何を得、その得たことを用いて、社会にどう貢献したいと思っているかということです。なぜなら、そのPR文を読んで、人事の担当者があなたの人事プランを考えるからです。人事プランとは「まず最初に誰の下で何年修行を積ませ、次にどこへ配属して何をさせる...」といったものです。これが具体的に相手の頭に浮かばないようであれば、その会社とは縁がなかった、自分はそこで働くべき人間ではなかったと思った方がいいでしょう。したがって、自分にとっての唯一理想的なPR文をしっかり作っておくことは、社会との不幸な関係を避ける手段ともなるのです。これはたいへん重要な作業です。手を抜かずに、完璧を目指してください。

 

 そして彼女は、最初に私に送ってよこした作文を最終的に次のように書き直し、試験に望んだ。

 

・・「タケちゃん、やったじゃん!チャチャチャもサンバも両方準決勝に入ってるよ、見てきなよ。」同期のみずきちゃんが笑いながら教えてくれた。「えっ…ほんとに?ほんと?」私はリーダーを呼ぶと確かめに掲示板まで全力でダッシュした。スリッパが脱げそうだ。掲示板の前は私達の様に自分達が準決勝に上がれたかどうか確かめる選手の山が出来上がっていたが押し分けた。そして私は自分の名前をこれ程の気持ちで見たことがない。なぜなら私達の三年間の結果を示す一行だからだ。ふと周りを見るとリーダーは張り切ってるし、嬉しそうな顔、泣きそうな顔、当たり前そうな顔があった。(ああ、私達はいつも泣きそうだったよね。だってこの前の東都戦は決勝を狙ってて最終予選で落ちたんだよね。恥ずかしかったしもう練習する気が無くなったよね。だって東都戦が駄目じゃ更にレベルが上の東部戦勝てるわけないって思ったもの。)私達は仲間のいる席ににこにこしながら戻っていった。「おう!おまえらよく頑張ったじゃん。見にきた甲斐があったよ。おまえらよく一次予選でぼこぼこ消えてたもんな。最後の最後でやっとだな。」

「淳先輩、嬉しいです。決勝上がれるように頑張るんで見てて下さい。」

そう言いながらも、気合いを入れるどころか気持ちは今までの想いのほうへとんでった。予選落ちしたあと家にすぐ帰りたい気持ちを押さえて上手な人と私はどこが違うのか羨ましく思いながら見詰めた事。その違いに近づく為にポイントを絞って毎日練習した事。それなのに東都戦で負けて今日まで勝てないと思いつつも最後まで頑張らなきゃと不安定な気持ちをリーダーにも誰にも言わないで練習した宙ぶらりんな一か月間。投げ出さないで良かった。結果がでたんだ。十分後、大喚声のなか私達は準決勝進出十二カップルの一組としてフロアにいた。もうすぐ曲が始まる。力一杯踊ろうという気持ちを伝えたくてリーダーの手をにぎりしめた。

 

 彼女は私のアドバイスを忠実に守ってくれたようだ。私は彼女の文章を一文字たりともいじってはいない。誰の借り物でもない彼女の一〇〇%オリジナルな表現だ。しかも「ポリフォニー」という高等テクニックまで駆使している。ポリフォニーとは、その場に居合わせた複数の人物の声や動きを織りまぜ、描写に律動感や立体感を与えるという極めて高度な文学的手法である。もちろん彼女はそんなことは意識していないだろう。私も教えた憶えはない。すべて彼女の中から自然に出てきた言葉である。何か、質の高い青春小説の出だしを読んでいるような印象さえある。

 ここでもうひとつ重要なのは、彼女が教訓めいたことをいっさい書いていないという点である。さらに、「嬉しかった」「悲しかった」「くやしかった」「感動した」など、自分の感情を表わす表現も意識的に避け、自分のそのときの内面をすべて外部のものに託し、心理描写ではなく、人物の言動で描いている。にもかかわらず、読み手は彼女のそのときの烈しい感情の高まりを素直に分かち合うことができるだろう。負けず嫌いで、頑張り屋で、研究熱心な彼女のキャラクターさえうかがうことができる。きわめて魅力的な文章である。こんな文章を書く人物に、あなたも一度は会ってみたいと思うのではないか。そう思わせることができれば、就職試験の作文としては一〇〇点満点だ。蛇足だが、本人も非常に魅力的な女性である。今回も自作の全文掲載を快く承諾してくれた。

 彼女にも意外な後日談がある。彼女はアパレル業界を志望していて、あるアパレルメーカーの営業職の面接を受けた。最初は調子よく答えていたと思ったら、最後の「どんな営業をやりたいか」という質問で詰まってしまった。それがきっかけで自分がやりたいことは営業ではないということがわかった。就職活動とは「自分とは何か」ということを本当に問われるんですね、としみじみ言っていたのを思い出す。結局彼女はアパレル業界を断念し、今では父親の経営する建築設計事務所を手伝いながら、専門学校で建築デザインを学んでいる。以前から友だちの家などに遊びに行くと、家の造りが気になっていたらしい。もちろん父親の影響は大きいだろう。しかし影響されたのも、その影響に気づいたのも彼女自身である。アパレル業界は単なる華やかさへの憧れで、本当に自分らしさが発揮できるのは建築デザインなのかもしれないと気づいた、といったところか。

 

■クライマックスの瞬間を詳しく書け


 今挙げた女子学生とのやりとりで、私の言いたいことはほぼ言い尽くしていると思うが、念のためまとめておこう。

 これはマスコミ志望者に限らないのだが、就職試験を横目でにらみながら学生に作文を書かせると、ほぼ七割の学生が、判で押したように同じ書き方をする。まるで彼らの間に作文の書き方に関する暗黙の申し合わせでもあるかのようだ。おもしろいことに、メンツが入れ替わってもこの比率は不思議に変わらない。彼らの作文は、とにかくのっぺらぼうのように平坦で、盛り上がり・クライマックスというものがまったくないのだ。これも日本の作文教育の弊害なのか。いくら学生の作文を集めても、作文教育の不毛さを証明するサンプルを増やすだけのようで、虚しささえ感じてしまう。それとも日本人のほとんどが、何の盛り上がりもない平坦な日常を生きているという証しなのか。

 そんな中でも、残り三割の学生は、まあまあ一読に耐える文章を書いてくる。それでもマスコミ志望者としては、まだまだ合格点を差し上げられるレベルではない。これは文句のつけようがない、ひときわ光彩を放っていると、すぐさま判断できるような作文を書く学生は、おそらく一〇〇人に一人いるかいないかだろう。ごく稀ではあるが確実にいることはいる。作文の書き方など改めて教わらなくても、才能と経験と直観で書けてしまうのだろう。そういう人にはこのテキストは不要だ。

 クライマックスとは、二時間の映画でいえば、一時間半が経過した以降にやってくるシーンということである。それを作文の冒頭に持ってくるのだ。たかだか数一〇〇文字から一〇〇〇文字前後の文章を書くのに、それ以外のシーンを積み重ねる余裕はない。しかもあなた自身が、これぞわが人生のクライマックスだと感じた瞬間で、しかも作文にして人に興味深く読んでもらえるネタなど、たかだか二〇年の人生の中でそんなに多くはないはずだ。そのことについて、前もってある程度まとまった文章に書いておくことは、作文試験の準備として決してやりすぎではない。

 もし、あなたが「心のパスワード」にもまったく思い当たるフシがない、あるいは先のクライマックスに関するイメージワークをやってみても何も思い浮かばないというなら、つまりどんなに思い出そうとしても、自分の今までの人生には何の盛り上がりも感情の高まりもなかったというなら、今すぐこのテキストを閉じ、人生のクライマックスを求めて外の世界へ出て行こう。

 

■文章の神様はディテールに宿る


 マスコミに限らずあらゆる業界・企業が学生の採用にあたって、その学生がどれだけ豊かで充実した学生生活をおくってきたかということは、最も気になるポイントのひとつだろう。それはその学生の能力だけでなく人格を評価する上でも重要なファクターになり得る。そうした採用側の思いが「学生時代に最も力を注いだこと」「今までで一番感動したこと」「これだけは他人に負けないと思うこと」などのテーマとしてあらわれる。それらの問いかけは、作文の課題としてだけでなく、応募書類や面接のときにも必ず問われるレギュラー問題だと考えてまず間違いない。学生の方もそのことをよくわかっていて「あれもした、これもした」「あんなことも経験した、こんなことも経験した」と、ついつい大風呂敷を広げたくなる。その結果、書かれた文章(語られた言葉)は、「青春グラフィティ調」(「グラフィティ」とはもともと「落書き」の意)になってしまったり「卒業生答辞調」(在学中あんなこともありました、こんなこともありました式の羅列)になってしまったりする。これも、七割の学生が犯している大きな誤りのひとつだ。

 学生側の気分としてはわからなくもないが、読まされる(聞かされる)側にしてみれば、何の感動も共感も受け取ることはできない。人生の豊かさやこだわりの深さではなく、むしろ経験を喰いちらかしてきたという印象を持つかもしれない。それは、人生のカタログとして、あるいは青春物語のあらすじとしての機能は果たすかもしれないが、その人物そのものではない。それは、カタログだけで商品がいっこうに送られてこない通信販売のようなものである。あるいは、メニューだけ見せて、料理をちっとも味あわせてくれないレストランのようなものである。

 経験の豊富さ、興味の広さ、交友関係の多さを自己PRの材料とするのはかまわないが、「いろんな人と出会い、いろんなことをして、いろいろ学んだ」式のあれやこれやは絶対禁物である。特に「いろいろやっているんだね」といった感想が相手から飛び出したら、何も伝わっていないと思って間違いない。

 たとえばあなたに海外旅行の経験がたくさんあったとする。それがあなたの自慢でもある。海外での経験が、あなたを子どもたら大人へと成長させてきたのでもあるだろう。そこであなたは、旅行先の地名を並べ立てて作文の規定の文字数を埋めたとする。しかし、それは単なる地名のリストでしかない。それを見た者は「大したものだね」と、やっかみ半分にやや皮肉っぽくほくそえんで身を引くだけだろう。反対にもしあなたが、旅先でのエピソードをひとつとり上げて、それについて詳しく語ったとする。そしてそれが、あなたらしさを端的にあらわすエピソードだったとする。そうすれば、人は身を乗り出し、耳を傾け、そしてあなたという人間をまるごと受け取るだろう。

 最も重要なのはディテール(細部)である。限られた文字数、限られた時間内に、どれだけ細かいディテールを詳しく語れるかが、相手の注目をどれだけ集められるかの分かれ目となる。人は声高な意見には耳を塞ぐが、ディテールを交えた語りには耳を傾ける。なぜだろう。ディテールにはリズムがあるからだと私は思う。あるエピソードを語るとき、それが自分にとって重要なエピソードであればあるほど、聞き手とともにそのときの感動を分かち合いたいと思うがあまり、人は感情を込め、身ぶり手ぶりを交え、抑揚をつける。親しい友人が登場すれば、その友人の声色を使うかもしれない。ネコが登場すれば、ネコになりきって演じるかもしれない。そこには自然にリズムが生まれる。そのリズムは文章にも宿る。書き手の切なる思いが文章に宿るのと同じように。それは命の輝きであり、すべてのものが関係性の連鎖で結ばれながら地球全体が形作られていることを感じさせてくれる。

 ある出来事からあなたが得た教訓をひとことで言ってしまえば、たとえば「人事を尽くして天命を待つ」とか「百聞は一見にしかず」とか「人のふり見て我がふり直せ」とかいった、手垢のついた陳腐で平凡なことわざに集約されてしまうかもしれない。しかし、ディテールはあなた独自のものだ。それは誰にも真似できない。それこそがあなたの個性なのだ。だから結論などいらない。余計な注釈などつけ加える必要はない。規定文字数いっぱいに、制限時間いっぱいにディテールを語るべし。文章の神様はディテールに宿る。

「私たちはものごとをあるがままに受け入れ、そのディテールを愛し、唇に『イエス』を乗せて前進できる人間にならなくてはいけない。世界から『ノー』が消え去るように。人生を無効にし、ディテールの存続をはばむ『ノー』がなくなるように」(ゴールドバーグ)



    

〜基本テキスト〜