教育・親子関係




子どもにとって、親とはトンネルにすぎない。





教育者や指導者にできる唯一のことは、

何もしないということである。

相手を教育しよう、指導しようとすると、

とたんに「治療」や「矯正」が始まる。

それは否定を肯定に変えようとすることにほかならない。

否定は否定のままにしておくべし。


否定には必ず特定のイデオロギーが伴う。

肯定は、存在そのものを表す。





「しつけ」によって伝わるのは「おしつけ」である。

愛によって伝わるのは魂の意志である。






子育てから早く解放されたい

(子どもに早く巣立ってほしい)という心理と、

子どもへの依存心は、根が同じである。






「子どもを愛していない親はいない。

子どもに対する親の愛は普遍的である」と人はよく言うが、

それはおそらく間違いであろう。

子どもに対する親の愛は、実は思ったより受動的なのだ。

子どもの方から親を愛さない限り、

親はなかなか子どもを愛することができない。

あなたがもし、親から充分に愛されなかったと思うなら、

自分から他人を閉め出しておいて、

その人がどこにいるのか探しているのではないかということを

疑ってみる必要がある。






期待のないところには、裏切りもない。






何か新しいことを学びたいと思ったとき、

たいていの人間は学校へ通わなければと思ったり、

あるいは新しい技術を修得したいと思ったとき、

資格をとらなければと思ったりするが、

そこには大きな落とし穴がある。

人が学校へ通う目的は、必ずしも学ぶためとは限らない。

そこには何か別の目的が隠されている場合がある。

また人が資格をとろうとする目的も、

必ずしも技術の修得のためとは限らない。






威厳と権威は、似て非なるものである。

威厳とは、何事にも脅かされることのない決然たる存在のあり方を示す。

権威は、イデオロギーに陥りやすく、イデオロギーは必ず失墜する。






人は、自分が親から大きな影響を受けたと思いがちだが、

親が子どもに与える影響よりも、

子どもが親に与える影響の方がはるかに大きい。

自分が親にどのような影響を与えたかを知ることは、

自分がこの世に生まれてきた目的を知るのに大いに役立つ。





登校拒否、ひきこもり、少年犯罪など、

子どもが逸脱行動を起こしたとき、

たいていの大人は行動を非難して、

行動の理由を問題にしようとしない。





「有能な教師と出会うことで、有能な生徒が目覚める」と思いがちだが、

実態は、有能な生徒と出会うことで、

有能な教師が目覚めるのである。