科学と宗教




人が「〜は宗教っぽい」と言う時、

それは「黒塗りのベンツはヤクザっぽい」と言っているのと同じである。

得体の知れない未知のものへの恐れであり、

本当の中身を知ろうとはしていないのである。





個人のリアリティーよりも、

科学的リアリティーを重んじることは、

科学という宗教の信者になることにほかならない。






偶像崇拝とは、自分の内臓をとり出して、

ホルマリン漬けにして飾るようなものである。

とり出された内臓は、本来の役割を失い、ただグロテスクなだけとなる。






人は、

あこがれのヒーローや尊敬する人物の写真を額に入れて飾ったりするが、

その人物が自分の一部であることを知る人間は少ない。







救済を目的とした思想を宗教と呼ぶようになって以来、

科学は人を救わなくなってしまった。






科学とは、真理の一部にすぎない。

問題は、物事が科学的かどうかではない。

物事を科学的な態度でみているかどうかである。

科学的態度とは、

現象の一部始終をありのままにとらえる(肯定する)ことから始まる。


ある現象を「非科学的である」と退けるなら、

それは科学的態度とは言えない。

「科学」と「非科学」という二元論に陥っているにすぎない。







ある理論に当てはまらない現象に出くわしたとき、

私たちが取るべき態度はおそらく二つだろう。

つまり、その現象を説明できるように理論の細部に手を加え、

あるいは拡大解釈してつじつまを合わせるか、

あるいは理論そのものを疑うかだ。







統計的手法では、現象から法則を導き出すために例外を排除する。

その瞬間から統計は、例外をも含めた、まったく新しい

(そして、より真理に近い)法則を導き出すことを諦めてしまう。

このとき統計学は科学であることを放棄する。

一方、真理はこうだ。「現象に例外などない」






「太陽が地球の周りを回っている」という見方が常識だったときに、

ソクラテスは「地球が太陽の周りを回っているのだ」と言って糾弾された。

今はソクラテスの見方が常識となっている。

これをコペルニクス的転回というが、

試しにコペルニクス的転回を、もう一度転回してみたらどうなるか。

「太陽が地球の周りを回っている」という見方を再び採用してみるのだ。

おそらく、この見方によって不都合となるのは、

ロケットの軌道計算のときぐらいだろう。宇宙には基準などない。






楽園を追われた者こそが、楽園を知り、楽園を統治する。