犯罪




凶悪犯罪者の七割にトラウマが発見されたからといって、

犯罪とトラウマを短絡してはならない。

トラウマを持つ犯罪者が、すべての犯罪者の圧倒的多数を占め、

さらにその数がトラウマを持ちながらも犯罪を犯さない人間の数を

はるかにしのぐという統計が出たのなら、少しは統計の言い分に耳を傾けよう。

それでも、人がなぜ犯罪を犯すかを考える場合、

トラウマがないにもかかわらず犯罪を犯す人間と、

トラウマを持ちながらも犯罪を犯さない人間のことを考える方が重要である。





凶悪犯罪(特に青少年の)などが起きると、専門家の間でさえ、
現在の情報の氾濫や価値観の多様性化に原因を見出そうとするものが現われる。

受け取る情報が増え、価値観が多様化するのは、
それだけ自由選択の幅が増えることを意味する。

それは、圧政になればなるほど情報が制限され、
社会が画一化された価値観に流れることからもわかる。

したがって、情報の氾濫や価値観の多様化を嘆く人間は、
あたかも恐怖政治を望んでいるかのようにさえ聞こえる。

自由の幅が広がったとき、それを嘆いたり戸惑ったりするのは、
支配され統制されることに慣れてしまっている証拠である。

問題は、情報が氾濫したり価値観が多様化することではなく、
そうなったときに自分に最もふさわしい情報や価値観を選び取る力がない
(あるいは、あってもその力が抑圧されている)ことである。

自由が与えられたときに、どうしていいかわからずに戸惑うか、
あるいは晴々と目を輝かせるかによって、その人の被統制度⇔自律度がわかる。






完璧な聖人こそが、最も凶悪な犯罪者である。

聖人よりも小悪を犯す人間の方が信頼に値する。






衝動的犯行とは、心が魂に動かされた結果である。