第4章 両親のファンタジーと子供の自立

・・たしかに子どもの物理的・生物的身体は両親の遺伝コードを受け継ぎ、母親の肉体から生まれてくるし、子どもの身体や感情や知性は、親子関係や文化の広範な影響のなかで育まれる。

しかし子どものスピリットや魂は、どこかほかのところからやってくる。

子どもの魂は、たしかに両親との身体的・感情的・知的関係にも一部かかわっているが、その関係にのみ属しているわけではなく、はるかに広大な永遠普遍ですらある枠組みのなかで存在している。
 このことを心得ていると、親たちは、子どもの芽生えつつある自我が引き起こす感情的トラブルに巻き込まれなくなり、子育てのストレスや緊張から解放されるようになる。

親たちはもはや子どもの運命を握る人物ではなくなり、旅の同伴者のような存在へと変わっていくことだろう。
トーマス・アームストロング『光を放つ子どもたち』(日本教文社)より

−目次−

  ■「いい親」というナルシシズム

  ■いい親とは?

  ■教育は誰の仕事か

  ■教師と生徒、師匠と弟子の恋

  ■両親のファンタジー

  ■子供の自立










■「いい親」というナルシシズム

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 「コンプレックス」「トラウマ」「ダブル・バインド」「パラサイト・マザー(子供の人生に寄生する母親)」「父親不在」「母子カプセル」「母原病」「共依存」「コントロール・ドラマ」「機能不全家族」「アダルト・チルドレン」

 心理学が日々生産し続けているこの手の概念は枚挙にいとまがない。自分の遺伝子を受け継いだ子供に対する責任はすべて親にあるということか。親は子供に対する責任を問われるのか、それとも遺伝子に対する責任を問われるのだろうか。

 

●「このような心理学主義が、注意の対象を子供たちから親にすり替えていることに気をつけてほしい」(H)

 

 「子供は両親の生き方や態度を忠実に映す鏡である」という言い方をよく耳にする。確かに小さい子供は、親に限らず、身近にいる人間の口真似をよくする。しかし、子供は親を映す鏡なのだから、そこには人格もキャラクターも存在しないというのだろうか。いったい親は日々自分の姿を子供という鏡に映してみて、どうしようというのだろう。

 

●「そして親は、こう自問し始める。『わたしはうまくやっているか」、子供の生まれつきの性質ではなく、両親自身の問題について疑念と不安が大きくなっていく。わたしは、正しい態度をとっているか。厳しすぎやしないか。あるいは甘すぎるのではないか。十分いい(グッド・イナフ)親だろうか」(H)

 

 悩める親は、まるで理想的な親の像、家庭の雰囲気、親子関係のようなものがあるかのように考え、自分はそこから差し引いて親として何点かと自分を値踏みし始める。

 

●「これらはすべて両親の力という幻想の中にあるほとんど避けられない自己言及的ナルシシズムを表している」(H)

 

 親が両親幻想のナルシシズムにひたっているとき、当の子供を見ているだろうか。親であり、同時に一人の生身の人間でもある自分自身を見ているだろうか。むしろ子供という概念、親という概念、親子関係という心理学的な概念を見ているのではないか。

 子供を概念でとらえると、子供はとたんに教育し成長させなければならない対象に見えてくる。今目の前にいる現実のその子ではなく、「子供」という概念だけが映っている親の目には、「子供はこうあるべき」「男の子はこうあるべき」「女の子はこうあるべき」というようなモデルが出来上がっていて、子供がそこから少しでも外れると、教育を施して、軌道を修正してやらねばならないと思い込む。

 

●「・・・アルコール依存症であるとか自殺傾向があるとか、被害者であるとか境界例であるとかなどと一人の人間を見だすと、分類概念を見ているのであって人を見ていないことになる。これでは魂についてではなく、社会学についての話をしていることになる」(H)

 

 

■いい親とは?

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 それでは、どんな親がグッド・イナフな(十分いい)親なのだろうか。いったい親は子供をどうすべきなのだろう。子供の人生にどう責任をとり、何を与え、どういう態度をとるべきなのだろう。機能不全家族と言うが、それでは家族として健全に機能するとはどういうことなのだろうか。最低限、雨露をしのぐ屋根を用意し、服を着せ、食事を用意することか。しかし、アダルト・チルドレンなら、それでは十分ではないと言うだろう。ならば、価値観を押しつけず、強制せず、支配しようとせず、もちろん暴力もふるわず、必要なときには援助をおしまず、それ以外のときには口出ししない親か。

 まず、支配や強制に関して言えば、大人の狡猾さで子供は支配できても、子供のダイモーンを支配することはできない。親がどんなに強制しようとしたり支配しようとして頑張っても、ダイモーンの召命はそれをはるかにしのぐほどの強さで子供に働きかける。

 

●「内なるどんぐりは、強迫的だ」(H)

 

 また、親が子供にふるう暴力(「体罰」「せっかん」あるいは「愛の鞭」、何と呼ぼうとかまわないが)は、アルコールや薬物の乱用によって衝動的かつ慢性的にふるう場合は別として(この場合は、なぜアルコールや薬物に溺れるかが問題となるが)、子供の態度を「見るに見かねて」という但し書きがつけられている。しかし、問題なのは暴力の引き金を引いたのは子供か親かということだろうか。

 私の経験から言えば、問題なのは、暴力に訴えざるを得なくするほどに親を怒らせ苛立たせ、あるいは切迫した不安や恐怖を感じさせているのは、子供の態度ではなく、親自身のダイモーンであるということだ。親が暴力によって黙らせたがっているのは、子供ではなく自分自身のダイモーンであるということだ。たいていの親は、子供に暴力をふるうほど、なぜ自分が苛立っているのか気づかない。だからその理由を子供にもとめるしかないのだ。「私がこんなにイライラするのは、お前がちっとも親の言うことをきかない悪い子だからだ」という具合である。自分のどんぐりの召命に耳をふさいでいる親は特にそうだ。

 子供が親に暴力をふるう場合も、立場が逆なだけで、事情は同じように思える。つまり、自分のダイモーンの召命に応えるすべを知らない子供が苛立つのだ。あるいは自分のダイモーンの召命に従おうとする子供を親が理解せず、子供の怒りが爆発するという場合もあるだろう。

 内なるどんぐりに忠実な親は、自分のダイモーンを安らかに憩わせるすべを知っているため、滅多なことでは苛立たないし、たとえ苛立ったとしても、それを子供のせいにしたりはしない。そういう生き方をしている親をもてば、子供は自分のダイモーンとのつき合い方を親から学べる。その場合、何も親と子の召命が一致している必要はない。また、親が子供のどんぐりがどのようなものかを知っている必要もない。「子供は親の背中を見て育つ」という昔からの言い習わしは、「親は自分の人生を一生懸命生きていさえすれば、子供を放っておいても、子供はそういう親の姿を見て、自然に育つ」という意味以上のものがあるように思う。そこには幸福な親子関係が成立し得る条件がある。

 それでは、必要なときには援助をおしまず、それ以外のときには口出ししない親が「いい親」なのだろうか。

 

 

■教育は誰の仕事か

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 子供の教育が問題になるとき、決まって取り交わされる議論がある。親は学校が子供の教育をしっかりやってもらわなければ困ると言い、教師は家庭教育が先決だと言う。最近は子供のしつけもまともにできない親が増えていて、学校がしつけまで肩代わりしなければならないと教師は嘆く。教科のカリキュラムをこなすだけでさえ大変なのに、しつけまで押しつけられてはやっていられない、というわけだ。

 さらに、実利的な教育でさえ学校だけでは足りないとみえて、学習塾や各種専修学校が乱立する。しつけが行儀作法の類を意味するのなら、そしてそれが親や学校にできないのなら、それを専門とする機関もある。こうした状況を称して「教育の外注化」と言うそうだが、これは今に始まったことではない。もともと教育とは、家の外で専門家が行っていた。今と同じように、昔から親は自分の子供の教育のために、誰か他の人に喜んで(?)お金を払っていたのだ。

 

●「両親のような直接的な保護者が、子供のどんぐりを見抜き、その中に誰がいるのかを知り、その意図をくむと期待することなど、無謀である。教師や指導者が世界にやってくるのは、そのためだ」(H)

 

●「世話をするものである両親は師匠にはなりえない。役割、仕事が違うのだ。両親は、雨露をしのぐ屋根とテーブルの食事を与え、学校に送り迎えするだけで十分だ。安全な場所を、心安らぐ場所を供するのは容易いことではない。そのような仕事をしなくてもすむからこそ、師は自分の役割が果たせるのだ。つまり、人が歩む道を見いだし、魂(ハート)のうちのイメージに合うファンタジーをもつことができるのだ」(H)

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、代々続いた公証人セル・ピエーロのもとに非嫡子として生まれた。母親については「カテリーナ」という名前以外ははっきりわかっていない。セル・ピエーロはレオナルドが嫡子だったら自分の跡を継がせたかもしれないが、当時の習わしとして、非嫡子が父親の跡を継ぐことはなかったため、セル・ピエーロは14・5歳になったレオナルドの進路選択に比較的ルーズだった。それが後に天才を生むことになる。

 レオナルドは当時から素描を描いていたが、親族には美術に眼識のある者がいなかったため、慎重な法律家であったセル・ピエーロは、出来のよい素描を何点か集め、友人であった、メディチ家の御用美術家アンドレーア・デル・ヴェッロッキョのもとへ持参した。ヴェッロッキョはいっぺんでレオナルドの才能を見抜き、さっそく自分の工房に弟子入りさせたのである。

 パブロ・ピカソは、しゃべることを覚える前に描くことを覚えたという。当時、食堂の装飾画家をしていた父ドン・ホセは、パブロが物心のついた頃にはすでに息子の才能に注目していて、次第に自分に代わって絵筆を息子にもたせるようになっていた。ある晩、父親は大きな静物画を息子に任せて出かける。帰ってみると鳩の部分が完成していて、その脚はまるで生きているようだった。それを見たドン・ホセは、その場で10歳にも満たないパブロにパレットと筆と絵の具を渡し、「お前の才能は私などよりはるかに優れている」と言って、自分はその後二度と絵筆をとらなかったという。

 やがてドン・ホセがバルセロナのラ・ロンハ美術学校に美術教師の職を得て、一家は引っ越す。パブロは、本来なら資格のない14歳という年齢だったが、父親の尽力によりこの美術学校の受験の機会を得、見事に合格してしまう。そして15歳のときにはアトリエを与えられる。ところがパブロは16歳になったとき、伝統に固執する学校や、毎日のようにアトリエに顔を出す父親の影響から逃げようと、単身マドリードへと旅立つのである。

 この二人の天才芸術家とその父親とのエピソードは象徴的である。一方の父親は少なくとも息子の芸術的才能を見抜く眼力をもっていて、自分の才能にいさぎよく見切りをつけ、息子の成長に寄り添おうとする。もう一方の父親は、自分に眼力がなく、息子の可能性を計りかねていたが、少なくとも専門家に判断を託すだけの知恵と誠意はもっていたことになる。

 ここで再び、『動物学校』の物語において、自分の子供に何が一番必要かをよく知っていたモグラの親たちが、適任者である穴グマのところに子供を修行に出し、後は自分のダイモーンの命ずるままに生きたということを思い出していただきたい。

 問題は、何がその子にとって幸せなのか、何を身につければ、あるいはどのように生きればその子の内なるダイモーンを喜ばせることになるのかを、誰が知っているか、「魂の教育」ができるのは誰なのかということである。しかし、今の親も教師もそんな発想すらないように見える。なぜなのか。教師が「非専門化」していることが問題なのだろうか。教育を自分の召命と感じている教師が少なくなっていることが問題なのだろうか。それとも「両親の力」という幻想が、あまりにも広く深く世の中に根を下ろしてしまっている結果なのだろうか。

 いずれにしろ、今や家庭も学校も教育を施す場ではなくなっているようだ。昔は違っていたのだろう。こういう状況はいつからなのだろう。少なくとも私が学校教育を受けていた頃から、事情は変わっていないように思える。変わってきたのは、おそらく子供たち本人の事情なのだろう。最近の子供たちの荒れ方、乱れ方を見ていると、大人たちに対して、「責任のなすり合いはいい加減にしろ」と叫んでいるようにも思える。魂が窒息状態でもがいているようにも見える。

 

●「その人物(師)はもう一人の特別な人、しばしばわたしたちが恋に落ちる、あるいは、わたしたちに恋に落ちる人物だ。そこでは教師と生徒は一本の木になる二つのどんぐりである。二人は互いに似たような理想を響き合わせている。自分一人を選んでくれる、呼応し合う魂を見つけるほどの幸福はない。どれほど長く、わたしたちは、本当の自分を理解してくれ、自分が何者であるか語ってくれる人を求め続けることか。幼い頃の恋や若いうちのセラピーの誘惑は、あなたのことを本当にわかってくれる(あるいはそう信じる、すくなくともそのふりができる)人に会いたいという欲望から生まれてくるものだ」(H)

 

 

■教師と生徒、師匠と弟子の恋

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 ヒルマンは、さまざまな偉人たちが、魂の師匠あるいは生涯のソウルメイトと出会う様を、彼らの伝記を掘り起こして紹介している。天才的な闘牛士マノレーテは、後に彼の指導者にしてマネージャーとなるホセ・フロレス・カマラによってその比類なき才能を見いだされた。フランクリン・ルーズベルトは、若いリンドン・ジョンソンの天才的な政治センスを見抜いた。ジョージ・ワシントンも、22歳のアレグザンダー・ハミルトンを最も重要で信頼のおける側近として選んだ。ジョン・ヘンスロウという名の教師は、科学探検のメンバーとして、当時22歳の風采の上がらないチャールズ・ダーウィンを選んだ。軍学校のオールドミスの英語教師エンター・キャサリン・ウッドは、トルーマン・カポーティの文学的才能の最初の発見者となった。イスラエル史の成立にかかわり1973年戦争当時に宰相を努めたゴルダ・メイアにとっては、娘を洗練されたキャリアウーマンにしたがる理解のない母親から逃げ出した16歳の彼女を身請けする姉の存在があった。アルチュール・ランボーは、10代の頃に21歳の教師イザンバールを魂の盟友(ソウルメイト)だと見いだした。若い白人教師のオリーラ・ミラーは、10歳のときのジェイムズ・ボールドウィンを見いだし、二人の友情は生涯を通じてのものとなった。

 

●「このような、心(ハート)の愛情でつながる人間関係はもはや信じられなくなっている。これらの絆を、わたしたちは性器を通じて見るようになってしまったのだ。わたしたちは、イマジネーションに基づいた絆があることを想像できないのだ。現代の文化の中では、欲望は無意識の中では性的なものであり、接触は体のつながりを求めているに違いないとされる。心を開いての告白は、実際には相手を誘惑し支配しようとすることだというのだ。しかし、ここに挙げた二人組たちからは、一つの共通のヴィジョンが引き出せる。彼らは、空想(ファンタジー)に基づいて恋に落ちたのだ」(H)

 

 ボールドウィンとミラーにとっては、ともにファンだったディケンズがその恋の媒体となった。カポーティとウッドにとってはノルウェー語のシーグリ・ウンセットの本だった。ルーズベルトとジョンソンの場合は天才同士の会話だった。二つの魂は、ファンタジーを共有することで強く結び合わされる。

 

●「指導することは、一方の想像力(イマジネーション)がもう一方の想像力(ファンタジー)に恋をするところから始まる」(H)

 

 ごくまれに、幸運にも子供の指導を自分の魂の召命と感じる親がいて、親と師を兼ねる場合がある。しかしその場合も、親と師の性質にはっきりとした境界を設ける必要があるようだ。ヒルマンは、ピアノの巨匠ヴァン・クライバーンの母親の例を引いている。彼女は、彼にピアノを教えている何年かの間に、こう言っていたという。

「教えているときには、わたしはあなたの母親ではありません」

 

●「厳しい師たることと、どちらかといえば世俗的な責任をもつことである両親の役目を区別しそこなうと・・親が指導者たろうとしたり、師匠が家族たろうとすると・・弟子と師匠の間に痛ましい決裂が起こるだろう。師弟関係の終結のほとんどの理由は、若い側の人間がそこに父母を求めることだという」(H)

 

 仲のよいカップルの一方が急に母親のようにこまごまと相手の世話をやき始め、小言を言い、自分の色に染めようとし始めると、互いのダイモーンに対する恋心はとたんに冷めてしまい、関係がギクシャクし出したりするのもそのためだろう。

 

 

■両親のファンタジー

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 それでは親は子供にとって何でもない存在なのだろうか。ただ死なないように命を生物学的な意味でケアするだけの存在なのだろうか。親は子供の人生に何もしてやれることはないのだろうか。心理学的にナルシスティックにならずに、親としてどう振る舞えばよいのだろうか。親は子供に対して、自分の果たせなかった夢を託すことはしないとしても、何の期待も望みももってはいけないのだろうか。こうなってほしい、ああなってほしい、こういう人間になってほしいという願いや想いを抱いてはいけないのだろうか。それは子育ての目標と呼ぶべきものなのか。それとも、親の勝手な幻想なのか。

 ヒルマンは、イングリッド・バーグマンとその父親ヤスタス・バーグマンのこんな逸話を紹介している。ストックホルムの王立劇場のそばに写真店とスタジオをもっていたヤスタスは、娘に王女と同じ名前をつけ、さまざまな衣装を着せて、自分の前でいろいろな役を演じさせて撮影していたという。そしてイングリッドは11歳のときに、自分もいつか王立劇場の舞台に立つことを父親に宣言する。両親の力という幻想を抱く者なら、この親子に潜在的な近親相姦をみるだろうと、ヒルマンは指摘している。「しかし」とヒルマンは言う。

 

●「プラトン的な空想(ファンタジー)では、イングリッドの魂がまさしく、自分のどんぐりの欲求を満たすために適切な場所、適切な父親を選んだと考えるのである。彼女は、母親さえ正しく選んでいる。母親は早いうちに亡くなったために、嫉妬の三角関係によって邪魔されずにイングリッドの召命と父親の空想は結び合わされたのだった」(H)

 

 親というものは、子供に対して大なり小なり必ず何らかのファンタジーを抱く。「明るく元気な子供に育ってほしい」という万国共通のファンタジーに始まり、ヤスタス・バーグマンのように、かなり本人の趣味や個人的願望を反映したものまで。たいていの親は自分が子供にどのようなファンタジーを抱いているかを明確に意識してはいないだろう。ましてや、子供が自分の魂のイメージ(かたち)に合わせて、そのようなファンタジーを抱く親を選んで生まれてきたとは想像だにしていないに違いない。

 特に親が世襲の職業に就いているような場合は、子供(特に長男)の魂のイメージははっきりしている。つまり先祖代々の家業を継ぐか継がないかだ。もちろん継がない場合は、継がずに何をやるかが問題であることは言うまでもない。また、たとえ継いだとしても、そのやり方は先代たちとは異なるだろう。

 先ほど、ダ・ヴィンチとピカソの逸話を紹介したが、どちらの父親も息子の才能を潰さない父親だった。つまり裏を返せば、レオナルドもパブロも自分の天才を潰さない父親を選んだとも言える。しかもレオナルドの方は、日陰の母親を選ぶことによって、嫡子として当時の因襲にとらわれ、父の跡を継がされることを避けてもいる。

 また、無理解な母親から姉のところへ逃げ出したゴルダ・メイアの場合も、娘の将来に投げかけられた母親の空想が彼女の成功に重要な役割を果たしている。それがゴルダのダイモーンと反逆精神を解放し、自分の本質に従って歩き出すことを促したのである。

 それでは、親が子供に何のファンタジーも抱かなかったとしたら。つまり子供に何の望みももたず、子供はただ自分の好きなように生きればいい、親としての機能は果たし、子供を愛しはするが、勝手な価値観や願望を差し挟まないニュートラルな立場を取っていたとしたらどうだろう。

 

●「両親とともに、その場所、その境遇で生きようとするダイモーンにとって、最悪の雰囲気は家族があなたに対して何のファンタジーも抱いていないときに生まれてくる。そんな客観的、中立的、規範的で合理的な暮らしは、風の吹くこともない真空である。いわゆるよい両親は、自分の子供たちにファンタジーを投げかけるのを差し控えようとする。個々人が自分の人生を生き、それぞれが自分で決断を下すべきだ。だから『よい両親』は、偏見や自分の価値観や判断を差し挟まない、というわけだ。無条件の、肯定的な言葉だけが子供が必要とするすべてだとされる。『おまえが決めたことなら、どんなことでもうまくやっていけるはずだよ』『いつだっておまえの味方だからね』親ばかを支配しているこのようなファンタジーとは、親子のよそよそしさであるが、しかしそれは自立という幸福な呼び名を与えられている」(H)

 

 アメリカの子供たちは専用の子供部屋、専用のテレビ、専用の電話を与えられ、電話線を通じて、日々(あるいは毎夜)、「愛しているよ」という言葉が飛び交っていると、ヒルマンは指摘する。

 

●「アメリカは距離をとることに中毒しているのだ」(H)

 

 ヒルマンはこれを「マヒした愛」と呼んでいる。

 

●「しかし、それは断じて愛を意味しているのではない。人が誰かを愛するときには、ファンタジーや想いや不安で胸がいっぱいになるはずだからだ」(H)

 

●「それは、刺激的なファンタジーの不足だ。わたしは、そのファンタジーとは両親たることの基本的な喜びと苦しみだと考えている」(H)

 

 

■子供の自立

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 ヒルマンは、「恐れも欲望も、強い怒りも野心も、畏みも恐怖も、イメージも表すべき言葉も」なく、波風の立たない完全な無風状態の家族の雰囲気は、決して子供の自立を促すものではないという点を指摘している。

 

●「子供を類型化し、針で打ちつけ、のたうちまわらせる家族のファンタジーは、それがかえって心(ハート)に自身の決断を下すように強いる。別なファンタジーをもつための決断を下させるのである」(H)

 

 子供は、がんじがらめに自分を支配し束縛し、勝手なファンタジーを押しつけようとする親からは、喜んで逃げようとするだろう。親が押しつけてくるファンタジーによって、自分がもつべきファンタジーがくっきりとあぶり出されてくるからだ。しかし、何の束縛も押しつけもない家庭では、子供は自分のファンタジーがいつまでも曖昧なままで、逃げるべき場所をとらえにくいのではないか。自立とは常に「〜からの自立」ではなく「〜への自立」なのだ。

 

●「子供が最終的に逃走しようとしているのは、両親の支配や両親のカオス状態からではない。彼らは、買い物や車を買い替えることや、すてきなものを追い求めること以外には何のファンタジーもない家庭に暮らす空虚さから逃げようとしている。子供にとっての両親のファンタジーの価値は、子供を対立させること、自分の心(ハート)は変わっているのだから、家族の考え方が投げかけている影によっては満足しえないということに、少しずつ気づかせていくことなのだ。男の子が欲しいと思っていたのに女の子が生まれたとき、娘をハリーとかシドニーとか、クラークと呼び、髪を短く切る方が、何の望みももたないよりもずっとましだ」(H)

 

 たとえばあなたが、女の子がほしいと思っている両親のもとに男の子として生まれてきたとしよう。親はあなたに女の子の服を着せ、ままごと遊びをさせ、おひな様のように育てたとする。しかし、それはあなたのファッションセンスに多少の影響を与えたとしても、あなたの性同一性にまで大きな影響を与えるとは限らない。それによって、もともとヘテロセクシャル(異性愛者)であるあなたをホモセクシャル(同性愛者)に変えようとすることは、ホモセクシャルをヘテロセクシャルに変えようとするのと同じくらい困難なことである。よしんばあなたが長じてホモセクシャルになったとしても、それは両親が抱いていたファンタジーや願望の影響ではなく、あなたのどんぐりが同性を愛することを欲した結果である。問題は、両親の抱いているファンタジーに、あなたの魂がどう対処するかということである。それによってあなたは自分の魂のかたちに気づくのである。

 

●「少なくともそこでどんぐりは挑戦を受けて、対決すべき現実と出会う。両親のファンタジーという現実に出会い、その結果、両親の力という幻想を見透かすことになる。つまり、自分が両親の影響だけで作られているのではない、ということを知るようになるのだ」(H)

 

 親は子供に対して勝手なファンタジーを抱く。ただし、親の抱くファンタジーに対して子供がどんな意味づけをし、どう利用するかは、子供の問題であり、親はそこにまで口を差し挟むことはできない。

 

●「子供の行動への介入は、世話する人のヴィジョンの反映なのだ。息子をほかの子供たちと同じように、元気に遊ばせるようにと新しい家から外へと追い出す母親。それは、息子を鍛えて家の中でも強くあるようにという願い(弱さへの過度の恐怖だ)、あるいは女々しい男や『オカマ』になることへの怖れのためではないだろうか。あるいは、母親の目には息子はハンサムな兵士のように見えているのではないだろうか。母親のさせること、禁じることの影響は、しつけの方針を左右している母親のファンタジーが与える影響ほどではない」(H)

 

 ここでヒルマンは、親が子供にどんな態度で接しているかより、その態度の裏には子供に対するどのような親のファンタジーが隠れているかの方が、子供に与える影響は大きいという点を指摘している。

 子供の逸脱行動を極端に恐れ、子供を何とか社会の平均的な範疇に収めようとし、お決まりのコースに乗せようとする親がいる。いい学校を卒業し、いい会社に就職すれば、自分も子供も安泰だというわけなのだ。だから子供が学校に行きたがらなかったりしようものなら、首に縄をつけて引きずってでも行かせようとする。それは親として子供の幸福を願ってのことのように見えるが、実は子供のダイモーンを見てはいない。子供を自分の人生から踏み外さないように守り導く役割であるダイモーンを見てはいないのである。このような親は、当の子供と正面から関わろうとするのではなく、子供という社会的な概念とのみ関わろうとしているのであり、子供をしつけや教育の対象としては見ているものの、人生の同伴者、よりよい社会を作るための同志としては見ていない。実のところ、自分の子供にあまり関心がないのだ。つまり、子供を早く自立させるという名目で、実は子供と早く縁を切りたがっているのである。自分の都合から、一刻も早く子育てから解放されたいと思っているのである。

 したがって、このような親にとっては、子供が個性的であることは都合が悪い。なぜなら、子供の個性が自分の手にあまるようでは、彼らの定義による子供の自立が、自分のコントロールのきかないものとなるからだ。こういう親は、「自分がこの子を何とかするのだ」「この子は自分がいないとダメになるのだ」といったナルシシズムを根強く抱いている。子育ての主役は自分だ、親子関係の主導権は自分が握っているのだ、というつもりになっている。しかし、そのような親がいなくとも、子供は立派に自立できるし(実際、もっとましな親代わりは世界にいくらでもいる)、子供の自立を待たずとも、切りたければいつでも縁は切れるのだ。

 実際、子育ての苦手な親というものはいる。いや、子育てが得意な親の方が少ないと言った方がいいかもしれない。事実、子育てというのも一種の才能であり、だからこそ、子育てを自らの召命とする人間がいるのだ。自分の子供を好きになれなかったり、関心がもてないことは、恥ずかしいことでも何でもない。相性の悪い親子というものは必ずいる。自分の正直な気持ちをねじ曲げて、そうでないフリをする方がよほど恥ずかしい。いや、そればかりでなく、危険ですらある。なぜならそういう親は、「子供は内なるどんぐりのイメージに合わせて親を選んで生まれてくる」という魂の真実に目を向けようとはしないからだ。そういう親は喜んで他人の手にわが子を委ねる勇気をもたねばならない。さもないと、かえって子供は自分の魂のかたちに気づかず、自立は遅れるだろう。

 逆に、自分の召命に生きようとする親は、子供を子供と考えない。つまり子供を概念として見るのではなく、人生の同伴者、旅の道連れ、共通の目的に向かうパートナーとして見る。だからこそ、子供の自立を願うと同時に、子供とできるだけ長くつき合おうともする。子供の自立と親子関係の継続を相反するベクトルとはとらえない。子供の自立を絶縁とみなしはしない。子供が自分の庇護から巣立つことは、関係の終焉を意味するのではなく、子供が豊かさの運び手ともなってくれることを意味することを知っているのだ。

 そういう親はまた、子供が自分と似ていたり平凡であるよりも、その子の個性を重視する。なぜなら、子供を目的達成のパートナーとするなら、自分とは違う個性をもっていた方が都合がいいからだ。目的達成に自分と同じ人間は必要ない。したがって、こういう親は、自分と子供の相性の悪さを子育ての困難さとはとらえない。自分の召命と子供の召命があまりにも相容れないものであるなら、レオナルド・ダ・ヴィンチの父親のように喜んで子供を他人の手にゆだねるだろう。あるいはまた、なぜこの子の魂は、その計画の実現のために、つまりこの世へのグロウ・ダウンのために、かくも気の合わない親を選んだのかを理解しようとするだろう。それは、ゴルダ・メイアが、自分の価値観を押しつけてくる母親を選んだように、将来に待ち受ける困難、魂の企図を成就するためには避けられない困難を乗り越えるためにどうしても必要な頑固さ、辛抱強さ、反骨精神を養うためなのかもしれない。逆に、子供と相性のいい親は、イングリッド・バーグマンが自分を王女様のように扱う父親を選んだように、子供の魂がうまくグロウ・ダウンするためには、自分の個性を理解し好んでくれる大人が最も親しい関係で寄り添っている必要があるからなのかもしれないと考えるだろう。

 いずれにしろ、親が子供の召命を理解するかしないかにかかわらず、親の抱くファンタジーによって、子供は自分の魂のかたち、どんぐりのイメージに気づき、それによって自立を促されることに変わりはない。




  

魂の降り立つ場所〜