第2章 両親の影響という幻想

あなたの子は、あなたの子ではありません。

あなたを通ってやってきますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです。

あなたの家に子の体を住まわせるがよい。

でもその魂は別です。

子の魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢の中にでも、そこには立ち入れないのです。

子のようになろうと努めるがよい。

でも、子をあなたのようにしようとしてはいけません。

      カリール・ジブラン『予言者』(至光社)より

−目次−

  ■両親の影響という幻想

  ■子供のために親は出会う

  ■「両親の力」というイデオロギー

  ■子供に希望を託す親

  ■カウチに寝そべる「不在の父親」

  ■消費経済システムが両親幻想を煽る

  ■子供の幸福が親の生きる道か?

  ■新しい親子関係を目指して

  ■自然・・もう一人の親として

  ■魂の導き手としての祖先










■両親の影響という幻想

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 そもそも両親とは何者なのだろう。遺伝学は、それは私たちの遺伝子の源だと言う。「蛙の子は蛙」父親も母親も蛙ならば、その子供も蛙でしかない。遺伝学は蛙に個性があるとは言ってくれない。私たちの遺伝子の半分は父親の遺伝子からのコピーであり、もう半分は母親の遺伝子からのコピーだという。しかし遺伝学は、父親と母親の遺伝子のどの半分を自分は受け継いだのかまでは語ってくれない。それは運命、あるいは偶然の産物であるとしか言わないのだ。二人が出会った瞬間に、二人の卵子と精子が出会った瞬間に、私たちの運命は決まると、そして二人の性格や関係性が私たちの性格を決定すると、決定論者は言う。私たちは両親の家系図の枝葉の一つにすぎないと、そして私たちを取り囲む文化のもうし子でしかないのだと。

 しかし、それは幻想であるとヒルマンは言う。

 

●「現代の文化を強くとらえて離さない幻想があるとしたら、それはわたしたちは両親の子供であり、母親と父親の行動こそが運命の第一の道具であるという考えであろう。両親の染色体が、わたしたちの染色体となるように、両親の欠点、両親のあり方はわたしたちのものとなる。二人の無意識・・抑圧された怒り、満たされなかった望み、夜の夢など・・が、わたしたちの魂を作り上げている。そこから逃げ出すことはできないし、この決定論からは自由にはなれない。個人の魂は、家系に由来する生物学的な産物であると想像され続けている。肉体が生物学的に両親の肉体から生まれ出てくるように、わたしたちの心は両親の心から成長してきたのである」(H)

 

●「しかし、その一方で小さな小人が別の考えをささやいている。『おまえは違う。おまえは家族のほかのみんなとは違う。おまえは、本当は家族の一員ではないんだ』胸のうちに、疑念を抱くものがいる。その声は家族を幻想、幻惑だというのである」(H)

 

 確かに、私には両親と似ている部分もあるが、私の中には両親とも、他の兄弟とも決定的に違う、相容れない何かがあると感じる。私は本当は両親の子供ではないのではないか。私は遺伝学的な「鬼っ子」なのだろうか。それとも橋の下から拾われてきたのだろうか。家族の他の構成員とのそうした心理的な隔たりは、私たちの出自をぐらつかせ、私たちをたまらなく不安にする。

 

 

■子供のために親は出会う

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 私たちのそうした根源的な不安に対し、どんぐり理論は「素朴な解決案」を提供してくれる。

 

●「あなたのダイモーンが、その担い手、つまり『両親』を選ぶように卵子と精子を選ぶのである。受精は必然(ネセシティ)の結果であり、その逆ではない。このように考えれば反発し合う二人の出会いや不釣り合いなカップル、すぐに子供ができたけれど子供を遺棄してしまう多くの親・・とくに偉人によく見られることだが・・などを説明するのが楽ではないだろうか。二人は自分たちのための結びつきによって一緒になるのではなく、特定のどんぐりを担った、かけがえのない子供をもうけるべく一緒になるのだ」(H)

 

 二人が出会い、愛し合った結果、子供が生まれるのではなく、子供のために親は出会うというわけだ。そしてその二人を出会わせるために彼らの親同士が出会い、そのまた親同士が出会う...。どんぐり理論は、永遠に遡られる逆因果の連鎖のようなものを想定しているのだろうか。

 「そんなバカな」と遺伝主義者、因果論者なら言うだろう。「そんなでたらめなことを容認したら、最後に起こるたった一つの事柄があらゆる事象の目的ということになってしまうではないか」と。つまり彼らは「どんぐり理論とは、過去の出来事が背中を押すようにして現在の出来事が進行する(因果論)のではなく、未来に実現されるべき最終の目的が過去と現在の出来事を自分のところに引き寄せようとするように進行させているという目的論に荷担するものではないか」と言うに違いない。この目的論については、第5章で詳しく見ていくが、ここでの問題は、「今起こっていることは、次に起こることに決定的な影響を与える」という因果論の考えを容認すべきかどうかということである。

 いずれにしろ、私たちに必要なのは、あらゆる現象をうまく説明し、納得させてくれる実証主義的な科学でも学説でもなく、「生きられる心理学」である。

 たとえば、「子供の魂は二つの世界にまたがっている」という考えが、子供に対する親の見方を変えるように、「子供のために親は出会う」という考えは、親が離婚を経験した場合などによく陥りがちな「この子は自分たちの間違った出会いによって生まれてきてしまった子なのか」といった嘆きから親を引きとどめるだろう。この嘆きは、「この子は、本来なら(自分たちが間違った出会いをしなければ)生まれるはずでなかった子なのだ」という破壊的な考えへと発展する危険性をはらんでいるが、どんぐり理論は、私たちがそうした因果論(つまり「子供は親の出会いの結果である」という考え)の罠にからめ取られないように警鐘を鳴らしているのだ。もちろんこの考えは子供の意識にも変化をもたらす。「自分は生まれてこない方がよかったのだ」という考えが、「自分をこの世に送り出すために両親は出会ってくれたのだ。その目的を達成したからこそ二人は別れたのだ」という考えに変わるかも知れない。

 しかし、ここで簡単に結論を出すことはやめよう。

 

 

■「両親の力」というイデオロギー

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 生物学的な意味だけでなく、文化の中でも、親の存在がいかに私たちに影響を与えているかを示すのに、ヒルマンは実に興味深い例を紹介している。

 現在30歳の一卵性双生児の男性が、生まれたときに引き離され、それぞれ養父母に引き取られて別々の国で育てられた。二人とも病的なまでの潔癖主義で、服はいつもきちんとし、時間に正確で、赤くむけるまで手を何度も洗う。一人はその理由を、完璧主義で整頓癖のある母親に帰しているが、もう一方はまったくだらしのない母親への反動だと説明している。

 遺伝主義者なら、このエピソードを遺伝要因が環境要因よりも優勢であることを示す典型例だと主張するだろう。つまり、たとえ正反対の環境に育っても、遺伝子が同じなら同じ性向を現すというわけだ。しかしヒルマンはそうは考えない。

 

●「わたしには、この話は理論にとってかわって事実を説明する神話の存在を示しているように見える。潔癖症に加えて、この一卵性双生児は潔癖症についての理論まで共有していることを見逃さないようにしよう。彼らは二人とも『母親』がすべての背後にあると考えているのだ。わたしたちの文化の中では母親の神話は大きな権威をもつ理論の力となっている。わたしたちの国(アメリカ)はこの理論に固執し母親を支持する、お母さん子の国なのだ」(H)

 

 つまりこの双子は、自分の母親ではなく、「母親」という幻想、母親の存在とは子供に絶大なる影響を与えるものなのだという社会的な神話を見ているというわけである。これは何もアメリカに限ったことではないだろう。

 この母親神話を背後で支えているのは「グレート・マザー」という概念だと、ヒルマンは指摘している。つまり生身の母親の背後には「グレート・マザー」という普遍的な「母親像」がとりついていて、ヒルマンが「両親の幻想」と呼ぶ一種の信仰体系を支え、私たちを実際の母親ではなく、その「グレート・マザー」に縛りつけているというのだ。

 

●「グレート・マザーは人間の母のかたちをとって現れる。彼女はよい存在でもありまた悪い存在でもある。抱き締めたり、養ったり、罰したり、貪ったり、すべてを与えたり、独占しようとしたり、ヒステリックだったり、不機嫌だったり、忠誠心にあふれていたり、気楽だったりする。しかし母親がどんな性格をもっていても、母には母のダイモーンがあり、彼女の運命はあなたの運命とは別ものなのだ」(H)

 

 だから私たちは、普遍的な「グレート・マザー」ではなく、今目の前にいる母親を見なければならないだろうし、さらにその母親を見るだけではなく、その母親のダイモーンを見なければならないだろう。もちろん母親の方も子供そのものを見るだけでなく、子供のダイモーンにも注意をはらう必要がある。

 ヒルマンはこうした母子関係を説明するのに、ピアノの巨匠ヴァン・クライバーンとその母親の例を紹介している。彼が小さいうちから息子のピアノの才能を見いだしたクライバーンの母親は、母親であると同時に指導者としても振る舞ったという。

 

●「母親の力が偉大であることは、特に子供のダイモーンを見いだしそれを守ろうとするとき・・とりわけクライバーンの母親のように指導しようとするときには・・議論の余地もない。

 けれど、ダイモーンは母親に先立っている。いや、その母親を前もって選んだのかもしれない。・・少なくともどんぐり理論ではそう主張する」(H)

 

 どんぐり理論は、クライバーンの音楽家としての魂が、自分のグロウ・ダウンのために保護者と指導者の両面をもつ母親を選んだというわけだ。

 このように、子供の召命に理解を示す母親ならいいが、「子供の召命に無理解で、その性質を見誤った母親」の場合にはどうなのだろう。あるいは、子供の方が「母親と争い、その心、癖、その考え方を嫌った」場合には? 「その場合の相違も両親の神話を崩すにはいたらない」とヒルマンは言う。

 

●「両親の神話は、母親が無償の支援を与えたとしても、自己中心的でナルシスティックな無関心な生き方をしても揺らぐことはない。伝記は反対の事実を同じ結論へとねじ曲げる。自分がいかに今のようになったかを語るわたしたち自身を含め、伝記作家たちは、真っ赤に皮が剥けるまで手を洗い続けたあの双子のように、両親の神話を語り続けるのである」(H)

 

 両親幻想の信奉者にとっては、母親が潔癖主義であろうがだらしがなかろうが、子供の潔癖症は母親に由来するというわけである。

 

●「両親の力の幻想は、なんらグロウ・ダウンに益するものではない。それは人をどんぐりから引き離し、母(ママ)と父(ダッド)のもとへ引き戻す。父と母はもう亡くなっていたり、そばにいなくてもその影響に執着させてしまうのだ。こうなると、自分は両親を原因として作られた結果にすぎなくなってしまう。その英雄的なまでの個人主義にもかかわらず、アメリカは人間が根本的に両親たちによって作られたものであり、それゆえに根本的に過去に起こったことの犠牲者で、過去においてぬぐうことのできない汚点をつけられたと考える、母親を重視する発達心理学に固執している。国家をあげて心理学的に自分たちの背後の過去を見て、過去の虐待をあばき出そうとやっきになっているのだ。恐らく、そこからの回復は母親神話をよけて通ることから始まる。わたしたちは、両親(ペアレンティング)の犠牲ではなく、両親というイデオロギーの犠牲者なのだから。そして母親の致命的な力の犠牲というより、母親にそんな力を与えている理論の犠牲なのだから」(H)

 

 たとえば、FBIの犯罪捜査に用いられる「プロファイリング」という技法に代表されるように、犯罪心理学は、凶悪犯罪の原因の多くを、犯罪者の幼児期の被虐待経験などのトラウマ(心的外傷)に求める。また、グレゴリー・ベイトソンの「ダブル・バインド(二重拘束)」理論は、親の発する言葉の意味内容と親が子供に示す実際の態度との間の二律性(たとえば、ちっとも嬉しそうな表情を見せずに「愛している」と言うような)が人を狂気に陥れるとしている。

 つまり、両親の影響とは、生身の両親の影響というよりは、「両親とは絶大な影響力を子供にふるう」とする理論やイデオロギーの影響なのだと、ヒルマンは指摘しているのである。私たちは「子供の頃に親からそんな虐待を受けたり二重の拘束を受けたりすれば、犯罪に走ったり気が狂っても無理はない」という考え自体の犠牲になっているというわけだ。

 

●「(このイデオロギーでは)あなたは子供たちを傷つける直接の原因になる。ただ欲求不満や失敗を導くだけではない。犯罪や狂気の原因になるのだ。このイデオロギーは、女性を両親の力という幻想の罠に、子供を母親への責任転嫁の考えへと閉じ込める。しかし、母親の解体は破壊的なことではない。それは、束縛を作り上げている幻想をゆるめていくことをねらっている」(H)

 

 

■子供に希望を託す親

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 私たちは、自分が属する今の世界に希望がもてないと、いとも簡単にその希望を手放し、次の世代に押しつける。叶えられなかった夢、成し遂げられなかった業績は、次の世代の宿題として放り出される。このようにして、課題はバトンリレーのように延々と次の世代に引き継がれる。確かにその方がたやすいし、この考えは、親から子へ、子から孫へと連綿と繰り返される命の営みに対する信頼感のようにも聞こえる。

 しかし、私たちは何を根拠に次の世代がその宿題をこなせると信じているのだろうか。特に、子供とは親を原因とする結果であり、親から絶大な影響を受け、それに縛られ、そこから脱すべくもがきながら一生を送るとされる被害妄想的なイデオロギーの支配する世界では。

 

●「いにしえの人々や部族共同体では子供たちに連続性、無限の将来を見いだし、そこに生命のつながりを見ようとした。周期的な変化や移住生活などは、その基盤を揺るがすことはない。神話は生活を生き生きしたものにしたし、希望などという言葉すらなかった。生命の連続性への信頼が薄れて初めて希望の概念が歴史に、そしてわたしたちの心に登場したのだ」(H)

 

 生命の連続性への信頼がある世界では、今やるべきことが先送りにされることはない。大人たちは、今日自分たちがやるべきことを、明日子供たちに託すことなどしない。今日ある命は明日も続くと信じられる世界では、希望などという概念すらない。希望がないからこそ、希望は次の世代に託される。未来に希望をもてない世界だからこそ、何が何でも希望を創り出さなければならないというわけだ。

 しかし、その「未来の希望の星」であるはずの子供たちに、私たちはどんな神話を信じさせているだろうか。

 

●「現代の主要な神話は、聖書の最後の文書である『ヨハネの黙示録』を思わせる終末論的なものになっており、子供たちは今や大破局のイメージの中に生き、それに反応しようとしている。当然のことながら子供たちの自殺率も驚くべき上昇傾向にある。自分の惑星が資源の枯渇や種の絶滅、喪失などによって崩壊しつつあって、それは満足できる人間関係を築いたとしても取り返しがつかないのだと考えることが、子供たちにいかに悪影響を及ぼすことか。この神話は、これらはすべて人間の手には負えない難題だという。公認された破局の筋書きによれば、唯一の希望は神による救済であり、そのときに与えられる二度目のチャンスばかりなのだ。ハルマゲドンの宇宙論的なSFを前にして、親たちがみんながけっぷちに向かっているというのに、心理学のSFは子供たちの荒廃の原因を機能不全の両親としているのだ」(H)

 

 何という仕打ちだろうか。終末論的な神話は、物理世界は未来に何の希望も見いだせないほど終局にきていて、私たちがどんなに頑張ってそれを阻止しようとしても、もはや手遅れであり、あとは神の審判を待つばかりであると語っては、絶望で子供たちの歩みをとどめさせ、もう一方で、心理学は相変わらず時系列的因果論を信奉し、子供たちの心の荒廃を「両親」という取り除けない原因に押しつけては、子供たちの心をかき乱しているわけだ。何か目に見えない悪意が働いているのだろうか。人々に終末論的な神話を信じさせ、その一方で両親幻想に強大な力を与えることで得をする人間がいるとでも言うのだろうか。

 

 

■カウチに寝そべる「不在の父親」

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 犯人探しをする前に、父親幻想がどうなっているかを見てみよう。

 現代の典型的な父親像は、普段は家族のために必死で働き、週末になるとゴロリと横になってテレビを見ている姿だろうか。「いつもはお前たちのために一生懸命働いているのだから、たまの休みぐらい何もせず、のんびりさせてくれ」というわけだ。しかしカウチに横になっているのは、休んでいる父親ではなく、「父親の不在」を表している。それは揺り動かして遊びに誘ってはいけない存在であり、そのタブーを破る者は怒りに触れることになる。居るように見えながら、そこに居ないことになっている存在。

 

●「肉体としてはここにいても、精神のレベルでは不在の父親が、カウチに寝そべっている」(H)

 

 家族のために働いているウィークデイの父親も、仕事に生きる父親ではなく「父親の不在」にすぎない。あるいは日曜日のゴルフも同じだ。たとえ接待ゴルフで仕事の延長だったとしても、家事と子育ての当番をさぼる不在の父親とみなされてしまう。

 

●「不在、怒り、カウチの上での怠惰などは、何かほかのもの、彼方への失われた誘いの声を探求しようとする症状なのだ。激怒と無気力(アパシー)の間を揺れ動く父親は、子供のアレルギーや逸脱行動、妻の欝や憤りと同じように、家族全員が共有するパターンの一部をなしている。といっても、それが属するのは『家族システム』ではない。『彼方』を『もっと』に置き換えることによって、感受性をマヒさせていく消費経済のシステムの一部なのである」(H)

 

 今や家族という共同体は、それぞれの構成員が、なぜこの世に生まれてきたのかを見つめ合うことでゆるやかにつながる、運命に関する共同体ではなく、それぞれが別々の層(グループ)に属し、別々のものを指向する単なる消費者集団に成り下がってしまっている。

 かくして父親は、「亭主元気で留守がいい」「粗大ゴミ」の流行語に代表されるような、集団からの疎外対象となってしまった。その結果、父親は何を思っているのだろう。

 

●「父親は、抑圧すべき怒りや欲望を極端なかたちで想像してしまい、自分は実は破壊的なのだと感じてしまう。その解決策は? さらなる仕事、さらなるお金、さらなる飲酒、さらなる重圧、さらなるモノ、そしてさらなるあふれる情報がもたらす娯楽。また、子供たちがどんどん消費者として育っていって、幸福がつかめるよう成熟した男としての自分の生活を犠牲にする、ほとんど熱狂的な献身である」(H)

 

 かくして、カウチの上の怠惰な父親像の対極に、まるで汚名挽回でもするかのように家族のために異様に頑張る理想的な父親像が立ち現れる。妻と子供を乗せた新品の4WDをさっそうと運転し、キャンプ場に乗りつけて、てきぱきと手際よくバーベキューの準備をし、釣りをすれば大物を釣り上げ、そして帰りには疲れた家族が車内で寝ているのも気にせず、運転手役を務めるタフでカッコいいお父さん。それを目指し、家族の声援に背中を押されるようにして父親は真剣に「幸せ家族計画」に取り組む。その涙ぐましい努力。今や、父親業とは、家族のためのサービス業となってしまっている。

 

●「恐らく、父親の真の仕事はコーヒーの入れ方や漂白の仕方、歯磨きの仕方を知っていることでも、年頃の子供の恋の悩みを解決することでもない。父の沈黙は、そこが本来の自分の世界ではないことを示すものなのだ。父親の居場所は、テレビのセットの中にはない。それは、舞台の外、どこかほかの、目には見えない場所なのだ。父親は、その片足をどこか別の場においておかねばならず、また自分の心(ハート)の願い、自身が体現するイメージを忘れてはならない義務がある」(H)

 

 もちろん、その義務は父親(男性)ばかりのものではない。家庭にあっても「心ここにあらず」といった母親(女性)も確かにいる。それでも心理学は「不在(アブセント)なのは父親」だと定義する。

 

●「そこで、わたしたちの心理学の仕事は、多くの父親の状況だと思われる、いわゆる親の役割の放棄やワーカホリック、絆を結ぶことへの怠慢、養育費の不足、ダブル・スタンダードなどを超えて、この『不在』とは何かを探求していくことなのである」(H)

 

 

■消費経済システムが両親幻想を煽る

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 どうやら両親幻想によって得をする人間が誰なのか見えてきたようだ。「経済成長」という名の上昇イメージ。販売員によって日夜繰り広げられる「売り上げ競争」。コマーシャルは、スタミナドリンク片手に仕事もバリバリ、遊びもバリバリ、たくましくも頼りになる父親像、美人で若々しく、働き者で面倒看のいい母親像、愛情豊かに育てられ、何の問題も起こさない素直で聞き分けのいい子供像を繰り返し生産し続けている。血の通った人間らしさは剥ぎ取られ、生身の家族は平均的な(あるいは普通の)「家族像」という仮面を被る。するととたんに比較が始まる。「お隣に比べてウチの〜は...」そして「もっと、もっと」のかけ声とともに消費が煽られ、父親はネジを巻かれる。しかし相変わらず父親はカウチに寝そべっている。「不在」の父親に対する不満は膨れ上がり、それにつれて父親の憤慨も増大する。このように消費経済システムは必ず「グロウ・ダウン」ではなく「グロウ・アップ」のメタファー、「増幅、膨張、拡大」のメタファーに彩られている。

 

 

■子供の幸福が親の生きる道か?

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 もちろんこの父親の「不在」、居ながらにして居ないように見える状態、怒りや苛立ちは、「魂の不在」を表す。そして父親の魂を不在にしている原因は、やはり両親幻想だろう。子供を幸せにするために親がいるのだという幻想。しかし、ヒルマンは言う。

 

●「子供を『幸福』にすることが、親であることの目的であったためしはない」(H)

 

●「両親の力という幻想は子供たちに靴や教科書、ドライブできる休みなどと並んで、幸福を与えることが親の仕事だと思わせる。しかし、不幸が幸福を作り出せようか。幸福は古代ではユウダイモニア(eudaimonia)、つまり喜んだダイモーンを意味していた。正しい代価を与えられたダイモーンのみが幸せを子供の魂にもたらすことができるのだ」(H)

 

 親たるもの、まずは自分のダイモーンを喜ばせる生き方をしない限りは、子供を幸福にすることはできないだろう。

 子供を幸福にするためという大義名分から、自分のダイモーンを無視し、子育ての義務と自分の召命に応えることを混同して、自分のではなく、子供のうちのどんぐりをこの世に実現させることばかりを親が追求し始めたらどういうことになるか。

 

●「目を向けられぬあなた自身のダイモーンは不平を言い出し、またあなたの子供も両親の召命の肩代わりになったことで不平を言い出すだろう」(H)

 

 確かにクライバーンの母親のように、子供の天才(ゲニウス)を見いだし、それをグロウ・ダウンさせることを自らの召命と感じる親はいるのだろう。しかし、すべての親がそうであるとは限らない。むしろそういう親は少ないのではないか。

 

●「大人が自分の召命に無関心であるとき、あるいはそこからの逸脱に過敏に反応するとき、生き生きとした生は生きられなくなる。あなたの子供があなたの人生を生きる理由となったとき、あなたは、あなたが今ここにいる見えない理由を放棄することになる」(H)

 

 それでは、親の存在とは何だろう。すべての子供が自分の親を選ぶ理由とは何なのか。親が親としてなすべき仕事とは、「親業」とは何を指すのだろう。すべての親に共通する役割はあるのだろうか。

 

●「あなたが、大人として、社会人として、親としてここにいる理由は何なのか。それは、ダイモーンを受け入れやすい世界を作ることだ。文明を正し、子供がその中にグロウ・ダウンでき、また子供のダイモーンがそこで生きられるようにすることではないか。それこそが親の仕事だ。自分の子供のダイモーンのためにこの仕事を成し遂げるためには、まずは自分自身のダイモーンをはっきりと見いださねばならない」(H)

 

 ここで、『動物学校』の物語を思い出していただきたい。自分の子供に何が一番必要かをよく知っていたモグラの親たちは、穴掘りが得意な穴グマのところに子供を修行に出し、後はタヌキたちと一緒に私立学校を設立し成功を収めた。つまり、自分たちで無理に子供を教育しようとはせず、ふさわしい相手に子供の教育を託し、自分たちは、志しを同じくする者たちとともに自分の召命に従って生き、あらゆる意味で人生の勝利者となったということである。

 この物語でもう一つ重要なポイントは、ワシの振る舞いである。アヒルもウサギもリスも自分たちの特性を活かせず、心も体もぼろぼろになってしまったのに対し、ワシは問題児とされながらも、先生の指示を無視して「飛ぶこと」を貫いた。つまりワシは、ワシらしさ、ワシがワシであることの召命を生き貫いたのである。ワシが飛ぶことを怠ったとしたら、それはワシの世界に対する背徳行為ですらある。だから、「自分らしさ」に生きること、自分の召命に忠実であり続けることは、倫理的ですらあるのだ。

 

●「おそらく人間の仕事は、ダイモーンの意図に沿って行動をしていくこと、それに沿う行いをすること、ダイモーンのために正しいことをすることではないか。・・・こうしてダイモーンは人間倫理の源となる」(H)

 

 

■新しい親子関係を目指して

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 両親の力という幻想を抱く親は、「子供が幸福になるも不幸になるも、すべては親次第。親にこそ子供に対するすべての責任がある」と考えているわけだが、この考えは必然的に「他の誰でもない、この自分がこの子を幸せにすることが、親としての自分の責任なのだ」という意識を親に芽生えさせ、さらに「自分さえいれば、この子は幸せになれる」あるいは「自分がいなければ、この子は幸せにはなれない」という幻想を生む。

 こういう幻想を抱く親の言い分はたいてい決まっている。「私がお前を養っているのだ。食べさせ、服を着替えさせ、教育を受けさせ、幸せに向かうレールを敷いてやっているのだ。私がお前を幸せにするのだ。お前は私を信じていさえすれば、幸せになれるのだ。私がお前の守り神なのだ。だから言うことを聞け。敬意を払え。口のきき方に気をつけろ」という具合である。

 ところがその一方で、親は子供に自立を強いる。「私がいなくても、自分で幸せをつかみ、一人で立派にやっていけ」というわけだ。つまり「お前は私がいなければやっていけない」と言いながら、その同じ口で「早く一人立ちしろ」と迫るのである。これこそがベイトソンの言う「ダブル・バインド」だろうが、それによって子供が正気を失うかどうかは疑わしい。むしろこうした親の幻想を子供は簡単に見抜くだろう。そして、親がどのような幻想を抱いているかを子供が見抜いたとき、自立が促されるのである(両親の抱く幻想と子供の自立の関係については、第4章で詳しくとり上げよう)。

 いずれにしろ、子供を幸せにすることが親の責任だとするなら、その子にとっての(他の誰にとってのでもない)幸せとは何か、その子のダイモーンとは何で、どうやったらそのダイモーンを喜ばせることができるかを、親が知っていることが前提となるはずだ。

 しかし両親幻想に気を取られている親は、子供のダイモーンにはとうてい目がいかないし、自分のダイモーンさえ見ているかどうか怪しいものである。

 子供をいかに幸せにするかにばかり気を取られ、自分をいかに幸せにするかを考えない親、子供のケアにばかり明け暮れて自分の魂をケアしない親に育てられたら、子供は自分の魂のケアの仕方を覚えるだろうか。

 そもそも、自分を犠牲にして他人のために生きることは美徳だろうか。そういう人間は、魂がグロウ・ダウンしやすい世の中を作れるだろうか。

 一方、どんぐり理論は、両親の力というイデオロギーを解体し、幻想を捨てて、自分のダイモーンの召命に従うよう私たちを促す。その声は、ダイモーンの抗いがたい召命に比べれば、両親の力など大したことはない、その影響などは取るに足らないものだと言っているように聞こえる。

 両親の力という幻想を解体したら、母親は家事や子育てをさぼり、好き勝手な人生を生きるようになるだろうか。子供に対して冷淡になり、愛情を注ぐことをしなくなるだろうか。父親はどうか。生活費を稼ぐことを怠り、仕事をさぼり、家庭を顧みなくなるだろうか。子供たちはどうだろう。両親を敬わなくなり、自分にとって両親など何の関係もない、どうでもいい存在とみなすようになり、さっさと家を出ていって二度と戻らなくなるだろうか。どんぐり理論は、親子の絆を希薄なものにし、極端な個人主義を生み出すだろうか。

 事情はまったく逆だろう。解体するのは家族幻想であって家族そのものではない。

 まず第一に、ひとたび自分のダイモーンの召命に目覚め、その声に耳を傾け、それに従うことの充実感、運命につき従うことの意義を知った者は、他の人間が同じようにすることを喜ばないはずがないということだ。自分の召命に従う生き方をする親は、子供にもそういう生き方を望むだろう。そういう親子は魂のレベルで共鳴し合っている。

 もう一つは、ヒルマンが言うように、親がもし親であることの真の目的に目覚め、ダイモーンを受け入れやすい世界を作る仕事に向かうなら、子供は養い教育すべき対象から、目的を同じくし理想を共有する同志に変わるということだ。そういう親は子供の真の自立を願う。つまり、グロウ・アップではなく魂の降誕(グロウ・ダウン)をこそ願う。そこからは、必ずや新しい親子関係が生まれるに違いない。幻想は解体するが、家族は解体せず、ただかたちが変わる。家族という計画が変わるのだ。

 

 

■自然・・もう一人の親として

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 子供に及ぼす両親の影響が絶対的なものでないとしたら、実際のところ子供を最もよく育むものとは何だろう。それは、すでに私たちは忘れているかもしれないが、かつて私たちを最もよく育んだもののはずである。両親幻想のイデオロギーから解放されるためにも、もう一度「それ」に想いを馳せる必要があるかもしれない。

 私も、人の子の親になり、その子どもたちとのつき合いの中で、彼らの示す魅力的なパフォーマンスに接するたびに、改めて「それ」の存在の大きさに驚かされ、かつて自分もほとんど無自覚的にそこから多くの滋養をもらっていたのだろうと思うのである。

 『もし、赤ちゃんが日記を書いたら』(草思社)の著者ダニエル・スターンによれば、一般に子どもは三歳ぐらいまで、世界の成り立ちに関する情報をたっぷりと吸収し、四歳ぐらいになると、この世界について、自分の物語について堰を切ったように語り始めるようだ。私の息子も四歳のとき、いきなり世界を語り始めた。日記風に順を追って少し見てみよう。

 

1994年9月9日(4歳3カ月)

 「ゆうべは何か夢を見た?」という私の質問に答えて。

 「ゆうべは夢を全然見なかったよ。夏には夜しかないんだ。冬は空から降りて来るんだよ。雪は雪ダルマになって窓から入ってくるんだよ」

 

1994年10月4日(4歳4カ月)

 「花は雨に濡れても朝になると咲くんだね」

 

1994年10月20日(4歳4カ月)

 私は胃腸があまり丈夫な方ではなく、暴飲暴食をすると、そのダメージがデキモノとなって皮膚の表面に吹き出てくる体質である。特に口の周りがテキ面に出る。

 ある日息子は私の口の周りの吹き出物をしげしげと見つめたかと思うと、それに触りながら「これ、どうしたの?」と聞いた。「パパの体の中には毒がいっぱい溜まっていて、それが吹き出してきたんだよ」と答えると、そのときは「ふうん」と妙に納得した様子だった。

 しばらくして私が横になってテレビを観ていると、息子がソロソロと寄ってきて、真面目な面もちで「ねえ、パパの中の毒さんとお話ししていい?」と聞くのである。何だかわからないまま「いいよ」と答えると、彼は私の背後に回り、両手を自分の口にかざし、私の背中に近づけ、私の内部に向かってこうささやいた「毒さん、出て行ってください」

 

1995年1月5日(4歳7カ月)

 (当時5カ月の妹に)「ロボットのお兄ちゃんじゃないよ。外が人間で中がロボットのニセモノのお兄ちゃんじゃないよ。本当の人間のミホちゃんのお兄ちゃんだよ」

 

1995年4月26日(4歳11カ月)

 (鏡を見て)「あ、ダイちゃんの世界がもうひとつある!」

 

1995年11月11日(5歳5カ月)

 ある朝、ゴミを出しに行って戻ってきた妻が「急いでたからスッピンで行っちゃった」と照れくさそうに言うので、「ゴミと一緒に見栄も捨ててきたのか」と私がからかうと、横で聞いていた息子がすかさず言った。「ゴミと一緒に思い出も捨ててきたの?」

 どうやら彼は「思い出を捨てる」という表現に思い入れがあるらしく、そんなことがあった数日後、次のような場面が展開された。

 妹(当時1歳3カ月)が手慰みに花火の柄を折ったのを見て息子が怒る。妹が泣き出すと、それを見ていた妻が妹を泣かせた息子を怒る。妻が泣いている娘をあやすためにアクセサリーケースからネックレスを取り出し、娘に渡すと、それをきっかけに、息子特有の禅問答が始まった。

「ママは思い出を切っちゃうの!?。ネックレスは恋の思い出だよ。ほら見てごらん。買ったときから思い出なんだよ。あと115回怒ったら、思い出切れるよ。

 この前、公園行ったとき、帰りにママが道に迷ったでしょ。あれは思い出に浸っていたからだよ。そのときダイキが超能力で道を教えてあげたんだよ。

 ミホにも思い出があるよ。ミホが生まれたとき、ダイキとパパとママとミホの思い出がつながったんだよ。

 ダイキにも思い出があるよ。あの病院から生まれてきたんだよ。それから中野に行って、それから初めて保谷にきて、それから初めてここに来て、みんな初めてなんだよ。

 地球にも思い出があるんだよ。全部地球の思い出なんだよ。」

 

1996年2月28日(5歳9カ月)

 子どもは誕生の記憶を持っているというが、うちの子も覚えているのだろうかと思い、聞いてみた。

「ねえ、生まれたときのこと覚えてる?」

「忘れちゃった。あのときは“ゼロカレンダー”だったからね」

「ゼロカレンダー?!」

「うん。あのときはカレンダーが全部ゼロだったんだよ」

 

 うちの息子は特別思索好きでも空想癖があるわけでもない。むしろテレビとファミコン漬けの日常を送っている。それでもどこかから世界の断片を拾い集めては自分の中に取り込んでいるようだ。しかも自分の身の回りとか生活できる空間とかを飛び越え、いきなり大きな世界とつながり、そこから生活世界へ降りてくるような感じさえする。これは四歳以降の幼児の特徴かもしれない。

 両親幻想を信奉する親をもつ子供は、新しい世界を作る上で、親という頼もしい同志を失うばかりでなく、もっと大きなものを失うことになる。

 

●「両親の世界によって、宿命的に人生を形成されるということは、より大きな世界・両親を失うこと、世界を両親と考えられなくなることを意味する。しかし実は世界そのものもまたわたしたちを形成し、育み、また教えているのだ。

 現代の文明は環境破壊が招く破局を避けようとしているが、その自然との和解の試みの第一歩は両親の家という垣根を越え、世界を家とみなすことだろう。もし『ペアレンティング』(親たること)が、見守り、教示し、励まし、諭すことだとするのなら・・わたしたちは自分をとりまくあらゆるものによって『ペアレンティング』されている」(H)

 

 私たちは、子供の頃には確実にもっていたはずの、ハイデッガーが言う「世界内存在」という感覚を、いついかなる理由で手放してしまうのか。

 

●「両親の圧倒的な力にこだわり、両親に宇宙論的な力を与えるようになればなるほど、日々自然があなたの人生に与えている父なる、あるいは母なる恵みに気がつかなくなる」(H)

 

 環境破壊の「生みの親」である消費経済システムは、物理的な自然を破壊しただけではなく、「母なる自然、父なる自然」というメタファーまでをも破壊したのだ。

 

●「この現実の物理世界で信頼と喜びを子供から奪っているのは、彼らが必要としている生身の両親とのかかわり(ペアレンティング)ではなく、両親中心主義(ペアレンタリズム)であろう」(H)

 

 しかし、ここでもう一度、私たちの探求の出発点だったエルの物語を思い出していただきたい。私たちは、肉体や両親ばかりでなく、場所や環境も選んで生まれてくるのだったではないか。

 

●「伝記はその主人公を特定の場所におく所から始まる。自己は土地の匂いをただよわせながら生まれてくる。天使が人生にやってくる瞬間、天使は環境に入っていくのである。わたしたちは、第一日目からしてエコロジカルな存在なのだ」(H)

 

 子供はもともとエコロジカルな存在である。子供は両親の子供であると同時に、いや、それ以上に「場所・自然・環境」の子供である。

 だからおそらく胎教も、出産時トラウマも、出産直後の母子の絆の確立も、そして成育期のトラウマも、エコロジカルなファクターほどにも子供の人格形成に影響を与えはしないだろう。むしろそうした既存の心理学的概念は、両親中心主義に「教育」された親、つまり子供にとってどれだけ両親の与える影響が大きいかにおびえている親(特に母親)を再教育し、脅したりすかしたりするために有効に機能する。それらは子供の人格形成のためと言いながら、子供の人格形成にとって最も重要なファクターから子供を引き離し、再び両親の世界へと引き戻してしまう。

 

●「だから、わたしたちが心を砕いている来たるべきエコロジカルな災厄は、もう実際には起こっているし、またそれは進行中だ。自分を両親中心主義に結びつけたことで世界から自分を分離し、世界にあるものは、身近な家族よりも自分を形成する上では重要なファクターではなかったと信じたときに、エコロジカルな災厄は起こるのだ。両親の幻想は、自己認識に致命的な影響を及ぼす。そしてそれは世界を殺そうとしているのである」(H)

 

 子供を広い世界、父母なる自然と結びつけようといくらキャンプに連れ出しても、また子供を育む自然を守るという信念に燃えていくら環境保護活動に専心しても、両親中心主義や因果論の幻想にとりつかれている限り、子供に「自然・世界」つまり豊かな生命の惑星である地球と絆を結ばせ、エコロジカルな災厄を回避することはできないだろう。

 福島の山中で夫と5人の子供に囲まれて暮らす橋本知亜季氏は、その5人の子供を、医者や看護婦、助産婦はもちろん、いかなる医療も介入させずに自宅で自然出産したという驚くべき経験の持ち主である。その5度の出産経験と子供たちとの山中生活を綴った著書『自然に産みたい』(地湧社)の中で橋本氏は、長女(当時七・八歳)とのこんなエピソードを披露している。

 

 「そういえばいつだったか、果遊と散歩の途中、春だったか秋だったか、とにかく空を意識したくなるような日、私の前を歩きながら、振り向かずに彼女は突然こう言った。

『母さん! かゆうは母さんの子じゃないんでしょ?』

『えっ!?』

突然の言葉に、なんのことだかわからず、声をなくしてしまった私。一瞬の間をおいて、彼女が続けた。『母さんから生まれてきたけど、母さんの子じゃなくて、宇宙の子なんだよね!』」

 

●「まずは、両親の家ではなく世界という家を信じられるようになるための心理学的な再構成をしなければならないのだ」(H)

 

 そのためにまずは、自分のダイモーンを憩わせよう。

 

●「魂は、問題を木々や川岸や動物の仲間や時間をかけた星空の観察などにつれていく。窓の外を、お茶を入れるときの沸き立つお湯を見ているといい。心のうちのダイモーンは絶望よりもメランコリーを選び、静かに喜ぶはずだ。ダイモーンはそこで安らぐ」(H)

 

 

■魂の導き手としての祖先

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 なぜ私たちのダイモーンは自然の中で安らぐのか。たぶんそれは私たちが自然の中に「祖先」を見いだすからだろう。

 

●「扉の外、茂みの中にはただ細菌や蜘蛛や流砂ばかりではなく祖先たちもいるのである。わたしたちは宇宙論的な両親の居場所を取り違えてしまい、その上に祖先たちをも失ってしまっている。両親たちは祖先をも呑み込んでしまったのだ」(H)

 

 因果の源に両親を置く両親中心主義にとって、「祖先」とは染色体を意味するにすぎなくなっている。父親の両親、母親の両親、そしてそのまた両親の両親という具合に、祖先は遺伝子の背後に居並ぶ死者の群れ、遺伝子の運び手と化してしまっている。

 しかし、「祖先は人間には限られていない」とヒルマンは言う。

 

●「血のつながった家族(これとていつも確定できるとは限らないが)のメンバーのうち、たとえば、祖父母、伯父や伯母のうち、十分力強く、知恵があってその名に値する者だけが、守護霊という意味での祖先とされるのである」(H)

 

 つまり祖先とは、遺伝子の中に宿る幽霊でも、家系図を順に遡ることによって見いだされる存在でもなく、この生きられる世界、生活世界に宿っている存在であり、両親もその世界の住人であるということだ。

 

●「もし人が激怒したり規律から外れたり、喧嘩早かったりつまらない人間になってしまったときには、悪い影響力を排除し、ことを正すために特定の祖先が呼び出される。しかし、その障害が両親のせいにされることはない。あなたに起こった悪いことは、呪術、タブーの違反、悪い空気や水、場所、遠く離れた敵、神の怒り、義務の不履行などに起因する。しかし、あなたの魂の状態が、母親と父親が30年も前にしたことのせいにされることなど、絶対にない! 両親は、ただあなたがその共同体に現れるために必要だっただけ、父母はあなたの魂をこの世界にやってくる儀式をしてくれただけなのである」(H)

 

 現代の、特に都市生活における家族文化では、家族が「核家族」という最小単位に分断されることによって、ますます祖先の影が薄くなっているかに見える。

 核家族化は、家族という生活単位の縮小化、細分化を意味するが、核家族化によって、個人の運命に対する家族(特に両親)の影響力はむしろ肥大化したようにも思える。核家族化によって矮小化されたのは、おそらく共同体という物理的な生活単位である以上に、その中で語られる神話だろう。ヒルマンはこの神話の力を復権しようとしている。科学的実証主義、唯物論、機械論、還元主義、二元論、決定論、因果論といった二十世紀の生んだ巨大な幻影たち、私たちを鋳型にはめ、生き生きとした世界で生きることを妨げる幻影たちに、神話の力で立ち向かおうとしているのだ。

 

●「両親の力という幻想と取り組むことは、むしろ宗教的回心に近いのだ。つまり、世俗主義からの、個人中心主義(パーソナリズム)からの、一神教からの、発達至上主義からの、そして因果性信仰からの回心に。この回心は、かつての見えない存在とのかかわりへの回帰、世界によって与えられる豊かで豊饒な影響力を信頼して受け入れるための大きな一歩を要求する」(H)

 

 その一歩をしるすために、私たちはまず、自分のダイモーンを憩わせ、それを両親中心主義の呪縛から解き放とう。子供たちに対しては、「誰のおかげで何不自由なく暮らせると思っているんだ」とばかり恩をきせるのではなく、「親に向かって何という口のきき方だ」とばかり権威を振りかざすのでもなく、「この子は私の子供です」と言う代わりに「この子の父親(母親)は私です」と言うようにしよう。そして彼らに自分たちの叶わなかった夢や手の届かない希望を押しつけるのではなく、彼らが自分のダイモーンの召命に従えるよう、生命と祖先に満ちあふれた豊かでエコロジカルな世界と絆を結べるよう、そっと扉の外へ押し出してやろう。



  

魂の降り立つ場所〜