第1章 グロウ・ダウン
     ・・魂がこの世に
        着地(降誕)すること


 この世に生まれてくるということは

 眠りと忘却にすぎない

 肉体の中に宿り、我々の星である魂は

 はるかかなたから来て

 あらゆる場所にあらゆる姿で生まれる

 しかし、生まれる前のことを

 完全に忘れているわけではない

 肉体の衣のうしろに

 栄光の雲をたなびかせて

 我々は神のみもとの故郷より

 やって来るのだ

 幼年期には天は我々のまわりにあるのだ

           ・・ウィリアム・ワーズワース

−目次−


  ■プラトンが描いた「魂の降誕(グロウ・ダウン)」の神話


  ■魂のイメージにみあう着地点

  ■「成長=上昇」のメタファー

  ■「肉体、両親、場所、環境」の4つのイメージがもたらすもの

  ■「降誕(グロウ・ダウン)」のメタファー

  ■魂と肉体が引き裂かれる子供たち













■プラトンが描いた「魂の降誕(グロウ・ダウン)」の神話

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 魂は成長(グロウ・アップ)しない、魂はこの世に降誕(グロウ・ダウン)するのだと、ヒルマンは考える。このときヒルマンの念頭には、成長のモデルとして「根を天にもっていて、ゆっくり下へと人間世界へと降りていく木」のイメージがあるようだ。

 

●「トマトの木や高い木でも、光に向かって伸びていくときには、下方へも同じように根を張っているものだ」(H)

 

 この考えは、プラトンの『国家』の中に登場するエルの物語にその「根」をもっている。プラトンの語るこの物語は、次のようなものだ。

 パンピュリア族の血筋をうけるアルメニオスの子である勇敢な戦士エルは、戦争で命を落とす。10日ののち、他の戦士者とともに収容されたとき、彼の屍体だけ腐敗していなかったため、埋葬されずに家まで運ばれ、二日後にまさに野辺送りの火にふされようとしたとき、薪の上で彼は生き返った。そして彼はあの世で見てきたことを語る。つまりエルの物語は、今で言う「臨死体験」なのである。

 彼の魂は肉体を離れたのち、他の多くの魂とともに、ある不思議な場所に到着する。そこには大地に2つの穴が並んで開いていて、天にも別の2つの穴が開いていた。その天と地の間には裁判官がいて、やってくる者たちを次々に裁いては、正しい人々を天に開いた一方の穴から天国に送り込み、不正な人々を地に開いた一方の穴から地獄へ送り込んでいた。エルはそこで裁きを免れ、死後の世界の報告者として、そこで行われることをよく見聞きするよう言われる。そこで彼がよく見ていると、地に開いたもう一方の穴からは、汚れとほこりにまみれた魂たちが上がってき、天に開いたもう一方の穴からは、別の魂が浄らかな姿で下りてきていた。長い旅路を終えたそれらの魂たちは、互いに挨拶を交わし、それぞれ天国と地獄で経験したことを語り合うのである。

 これらの魂たちはやがて再び現世に戻されるのだが、まさにこれは魂同士の情報交換であり、ソクラテスが『メノン』(岩波文庫)の中で展開している「想起説」、つまり「人間の魂は不死であり、何度も生まれかわりを繰り返しているため、今ここに生きている人間は、すでにありとあらゆることを学んでしまっている。したがって、『学ぶ』とか『探求する』とか呼ばれている行為は、すでに知っていながらも忘れてしまっている事柄を想い起こすことにほかならない」という考えと合致する。

 さて、天と地から集まった魂たちはそれぞれ7日間をそこで過ごすと、8日目に再び旅に出る。そして旅立ち後、4日目に到達した地点で彼らは、天と地の全体を貫いて延びる光の柱を目にする。さらに1日の行程を進むと、その光に到着した。その光の中央に立つと、天空から光の綱の両端が延びてきているのが見えた。その綱の端からは、アナンケ(必然)の女神の紡錘が延びていて、それによってすべての天空が回転するようになっていた。その紡錘はコマのように軸とはずみ車で構成されていて、そのはずみ車は、軸棒を中心にして、ちょうど大きな椀の中に一回り小さな椀がぴったり収まっているようにそれぞれ大きさも厚みも輝きや色も違う8つの車が重なり合って層をなしている。岩波文庫版の『国家』の訳注によると、これらのはずみ車は太陽系の惑星および恒星の軌道を表し、厚みは軌道同士の間隔を表しているという。

 紡錘はアナンケの女神の膝の中で回転している。その一つ一つの輪の上にはセイレーン(その歌声で聞く者の心を魅惑する妖女たち)が乗っていて、さらに、アナンケの三人の娘たち(ラケシス、クロト、アトロポス)が、等しい間隔をおいて輪になり、王座に腰をおろしている。この三人は、モイラ(運命の女神)たちであり、セイレーンたちの奏でる音楽に合わせて、ラケシスは過ぎ去ったことを、クロトは現在のことを、アトロポスは未来のことを、歌にうたっていた。そして、クロトは間をおいては紡錘の外側の回る輪に右の手をかけて、その回転をたすけ、アトロポスも同様に内側の輪に左手をかけてその回転をたすけている。ラケシスは、左右それぞれの手でそれぞれの輪に交互に触れていた。つまり紡錘の輪の外側が現在を、内側が未来を表し、過去はその両方にかかわっているということか。これは、現在の視点から過去を媒体として未来を見透かすという考えの現れだろうか。この考えについては第5章で詳しく検討することになる。

 さて、魂たちはそこに到着すると、ただちにラケシスのところへ行くように命じられる。そこで神官が次のような神の意を魂たちに伝える。まず、死によって終わる周期(つまり現世での生涯)が再び始まるということ。運命を導くダイモーン(神霊)を、自分自身で選ぶということ。これから籤(番号札)を配るが、その籤の順番で、さまざまな生涯の見本の中から、自分でひとつの生涯を選ぶということ。選択の責任は自分にあるのであり、神にはいかなる責任もないということ。そうして神官はすべての者に向けて籤を投げ、それぞれの者は自分のところに落ちた籤を拾う。ただしエルだけは除外された。

 次に神官は、そこにいる者の数よりはるかに多いさまざまな生涯の見本を彼らの前に広げて見せた。1番の籤を引き当てた者は、最大の独裁者の生涯を選んだ。しかし、そこには自分の子どもたちを殺して食らうことや、その他数々の禍いが運命として含まれていることに気づいた彼は、自分の選択を嘆き、神官の忠告を無視して、その責を自分に帰することなく、運命と自分のダイモーンを責めた。この者は天上の旅路を終えてやってきた者の一人だったが、前世において、よく秩序づけられた国制の中で生涯を過ごしたおかげで、真の知を追求する(哲学する)ことなく、ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。概して、天上から来た者たちにこの手のしくじりをしでかす者が多く、一方、地下からやってきた者たちの多くは、自分も苦しみ、他人の苦しみも目の当たりにしてきたので、いい加減な選び方はしなかった。

 いずれにしろ、生涯の選択はたいていの場合前世の習慣によって左右されていた。かつてオルペウスのものだった魂は、女たちに殺されたため、女の腹から生まれるのを嫌い、白鳥の生涯を選んだ。節度を知らぬつわものの戦士であったアイアスの魂はライオンの人生を選び、また駿足の若き女走者であったアタランテは男性の競技者の人生を選んだ。最後の順番を引いたオデュッセウスの魂は、前世の苦難が身にしみていて、名を求める野心も涸れ果てていたので、厄介ごとのない一私人の生涯が片隅に顧みられずにあったのを見つけて選び、1番の籤が当たっていたとしても自分はこの生涯を選んだだろうと言った。

 さて、こうしてともかくすべての魂たちが生涯を選び終えると、みな籤の順番に整列してラケシスのもとに赴いた。この女神は、これからの生涯を見守って、選び取られた運命を成就させるために、先にそれぞれが選んだダイモーンをそれぞれの者につけてやった。ダイモーンは魂をクロト(klotho=紡錘でよじる)のもとへと導き、その手が紡錘の輪を回している下へ連れて行って、各人が籤引きの上で選んだ運命を、この女神のもとで改めて確実なものとした(それに特定のねじれを加えた、の意味か?)。そしてこのクロトに手を触れてから、今度はアトロポス(atropos=曲げることのできない、変化しない)の紡ぎの席へ連れて行って、運命の糸を、取り返しのつかぬ不変のものとした。そこから魂は後ろを振り返ることなくアナンケの玉座(膝)の下へ連れて行かれた。つまり選び取られた生涯は、それぞれ過去・現在・未来を司る女神のもとで、その順に批准され、最後に三女神の母であるアナンケ(必然の女神)によって批准されたわけである。

 最後に、魂たちは忘却(レーテー)の野と呼ばれる炎熱の平原を渡る。喉を枯らした魂たちは、放念(アメレース)の河の水を決められた量だけ飲まされるのだが、自制のきかない者たちはその量を超えて飲んだ。それぞれの者は、飲んだとたんに一切のことを忘れてしまった。そして、みなが寝静まった真夜中に雷鳴がとどろき、大地がゆらぎ、魂たちは流星のようにそれぞれの新しい生へと運び去られた。エルだけは河の水を飲むのを禁じられていて、気がつくと、火葬の薪の上に横たわっていたという。これがエルの物語の概略である。

 このエルの物語をもとに、プラトンは、私たちが善い生と悪い生とを識別する能力と知識を授けてくれる人を見いだして学べるなら、という条件つきで、次のように述べている。

 

●「それによって、われわれの一人一人は、(さまざまな生涯の見本に含まれる諸条件が)善き生ということに対してどのような関係を持つかを考慮しながら、美しさが貧乏あるいは富といっしょになるとき、またどのような魂の持ち前とともにあるとき、・・・氏素姓の良さ悪さ、私人としてあることと公的な地位にあること、身体の強さ弱さ、物わかりの良さ悪さ、そしてすべてそれに類する魂の先天的ないしは後天的な諸特性が互いに結びつくとき、何を作り出すかを知らなければならぬ。そうすれば、その人は、すべてこれらの事柄を総合して考慮したうえで、もっぱら魂の本性のことに目を向けながら、魂がより不正になるような方向へ導く生涯を、より悪い生涯と呼び、より正しくなるような方向へ導く生涯を、より善い生涯と呼んで、より善い生涯とより悪い生涯との間に選択を行うことができるようになるだろう。そしてほかのことには、いっさい見向きもしないようになるだろう。なぜならば、われわれがすでに見定めたように、そのような選択こそは、生きている者にとっても死んでからのちにも、最もすぐれた選択にほかならないのであるから」(プラトン『国家』より)

 

 プラトンのこの言葉は、これから私たちが見ていこうとする事柄のよい見取り図となるだろう。一つは、人間とは先天的なものと後天的なものが混然一体となったものであるが、また同時にそれは魂の持ち前とともにあるものであるということ(これについては第3章で検証する)。もう一つは、魂の本性を見定めることが、人間の専心すべき道であるということ(これについては第2章および第4章で考える)。そしてもう一つは、より善い生涯とは、自分の見定めによって選択していく結果であるということだ(これについては第5章でとり上げる)。

 

 ところで、プラトンの伝統を受け継ぐプロティノスは、エルの物語を次のようにまとめている。

 

「誕生、特定の肉体、特定の両親、この場所、つまり外的環境と呼ぶものの中にやってきて、・・・まるで紡ぎあわされたかのように一つの統一体となる」

 

 一方、ヒルマンはこの神話を次のようにまとめている。

 

●「一つ一つの魂はダイモーンに導かれ、必然の力によって特定の肉体、場所、両親、環境に宿る。しかし、そのことをぼんやりとでも覚えているものは誰もいない。忘却の野で記憶は完全に消えてしまうのだ」(H)

 

 

■魂のイメージにみあう着地点

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 ヒルマンは、エルの物語に登場する「籤(+自分の選んだ生涯)」の概念は、「イメージ」のことを表していると解釈する。

 

●「籤はそれぞれ個別的で、運命の全体を示すものであるから、魂は自分の生涯全体を見渡すイメージを直感的に理解するにちがいない。そして、そのイメージが引きつけるものを選ぶのだ。『これがわたしの欲するもの、これがわたしが正当に引き継ぐもの』だと。わたしの魂は、こうして己が生きるべきイメージを選び出す」(H)

 

 魂はそのイメージにみあう両親、場所を選び、ダイモーンに導かれて特定の時に特定の肉体に宿る。いわばそれらの要素が一枚の織物のように紡ぎ合わされた統一体が、一人の人間なのである。

 

●「『籤』とはあなたが引き継いだイメージであり、世界の秩序の中におけるあなたの魂の割り当てであり、地上でのあなたの場所である。それらはあなたの魂が、この世にくるにあたって選んで、パターンの中に入れ込んだもの・・いや正確に言うなら、時間は神話の方程式の中には入ってこないものであるから、自分の魂がいまだ選び続けているものなのである」(H)

 

 そうして、死後の世界から再びこの世に肉体という乗り物を得てやってきた魂は、その乗り物とともに人生を歩みながら、俯瞰で世の中をながめ、自分のイメージに合った着地点を探す。

 あなたは生きられる世界を渉猟しながら、自分の落ちつく先はここだろうかと自問する。そこであなたの魂は「いや、そこではない」と無言のメッセージをあなたに送ってよこすかもしれない。そこであなたは再び別の場所を探し、そこが自分の安住の場所かどうか、居心地を確かめてみる。そしてまた目に見えない、耳に聞こえない返事を待つ。そうした遍歴を続けるうちに、やがてあなたの魂は、当初の意図にそった場所を見いだし、そこにゆっくりとグロウ・ダウンする。

 ここで言う場所とは、特定の空間的な場所というより、いわば魂が現実の世界と折り合いをつけるやり方、あるいはどんぐりの内の計画が現実世界に結実することを意味する。

 

●「イメージを開封していくのは、一生涯の仕事だ。イメージを知覚するのは一瞬だが、理解するには時間がかかる」(H)

 

 

■「成長=上昇」のメタファー

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 プラトンの描いた神話の世界では、人の人生とはそのようなもののはずだった。しかし、現実の世界はどうだろう。

 「小学校の次は中学校だ、中学校の次は高校だ、高校の次は大学だ、大学の次は会社だ。それでも足りない。さらに上昇しろ。係長の次は課長だ。課長の次は部長だ。マイカーの次はマンションだ。マンションの次はマイホームだ。『今』に安住するな。『ここ』に安住するな。今お前がいる場所は、通過点にすぎない。最終ゴールに向かって最短距離を走るべき長い人生のマラソンコースの途中にすぎない。とどまるな。お前のいるべき場所はここではない。もっと別のところだ。もっと上だ、上を目指せ」

 私たちの住む世界は、「成長」という名の上昇主義に彩られているように見える。大人たちは、子供とは日々成長してあたりまえと信じている。

 

●「一九世紀には、成長の概念は上昇主義の幻想にとり込まれてしまった」(H)

 

●「成長と結びついた上昇の概念は今や伝記を書く際の定石となっている。大人になることは、すなわち成長・・グロウ・アップ・・することなのだ」(H)

 

 この場合の成長とは「魂の成長(グロウ・ダウン)」を意味しない。

 

●「わたしたちの人生のメタファーは、生命の動きのうち、上向きのものばかりを指すばかりとなってしまった」(H)

 

 この「成長=上昇」のメタファーは、「椅子とりゲーム」のようなものかもしれない。大人たちは、親も教師も、合図が鳴ったら、何でもいいからとりあえず手近にある椅子に陣取るよう子供たちをこぞってはやし立てる。その椅子が座り心地が悪かろうが関係ない。座れないよりはましというわけだ。ゲームの進行とともに座れる椅子も減っていく。そして最後まで要領よく生き残った者が勝利者となる。

 途中で座れなかった者はゲームの外にはじき出される。落ちこぼれ、転落、下降のイメージ。かくして予選落ちした者は、指をくわえ、よだれを垂らしながらうつろな目でヒエラルキーの上方をながめることとなる。

 下降のイメージはまだある。親しい人愛する人との別れ、病気や怪我などのアクシデント、社会的あるいは性的逸脱、犯罪、つまり落ち込み、気落ち、堕落というイメージ。人生にはつきものであり、詩的あるいは倫理的価値判断を持ち込まなければ他の日常的な風景と何ら変わりない人生の一断面であるはずのこれらの事象は、「成長=上昇」という人生のメタファーでは、できれば避けるに越したことはない、忌み嫌うべきものとなる。しかもこのメタファーは、人を落ち込ませはしてもそこからの這い上がり方、立ち直り方のモデルを提供してはくれない。

 

●「魂は、キャリアの上昇ばかりを考える世界に入れられたとき、必ず病的な症状を起こすとまではいわないまでも疑念と不安を引きずっていかねばならない。希望に燃えた若い大学生が突然、『自分の能力(パーソナル・コンピュータ)』がダウンすることを体験する。せわしないコースから外れ、そして彼らは『落ちつく(ゲット・ダウン)』ことを望むようになるのだ。あるいは、酒、ドラッグ、欝が突然襲ってくる。文化がグロウ・ダウンの価値を認めない限り、魂が人生に深く分け入っていくときに必要となる闇の感覚や絶望に意味を見いだすには、一人一人がただやみくもにもがくしかない」(H)

 

 そればかりではない。このメタファーは、上昇した先に何が待っているかのイメージさえも提供してくれはしないのだ。昇りつめた頂点に何があるかは霞の中だ。いや、見えないならまだいい。そこは、なつかしい、魂の安息の場所、故郷に帰ったというような、あるいは人生の旅路の果てにたどり着きたいと思うような理想境のイメージを与えてくれるものではない。むしろ狭く、足場の悪い、居心地の悪い、孤独で不安定な場所のイメージだろう。

 こうして「成長=上昇」のメタファーは、子供たちに、たどりつく場所のない、漠然とした「上」に向けての単一方向の人生行路を要求する。現代社会は、下から上へ向かう縦方向の動きしか許さない。私たちが出生のときに忘れてしまった重要な記憶、この世に生まれるときに自分の魂が選んだ大切なものを顧みる余裕を与えてはくれないのだ。

 ある学生が「一億総エリートの悲劇」と名づけたものは、何もエリートだけが味わう不安や居心地の悪さではない。落ちつく先を与えてはくれない、ゴールの見えない上昇の要請は、社会全体を覆いつくし、今、誰もが自分を見失い、自分が生まれてきた意味を見失い、たどるべき道を見失っているように思える。学校を卒業しても定職に就こうとせず、アルバイトを転々とする若者を責めることはできないだろう。彼らは魂がグロウ・ダウンすべき場所を探しているのだ。そう簡単には見つかりはしない。なぜなら、現代人の生活は魂のことなどすっかり忘れているか、初めから念頭に置いていないのだから。

 

●「子供たちが現実的でせちがらい世の中に降誕(グロウ・ダウン)してくるときの途方もない困難、すなわち、恐れ、適応するための緊張、この世で彼らをとりまく些細な物事にも当惑し驚くこと。これらはすべてこの世界に生きること(グロウ・ダウン)がいかに大変かということを示している」(H)

 

 

■「肉体、両親、場所、環境」の4つのイメージがもたらすもの

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 しかもこの「成長=上昇」のメタファーは、わたしたち自身の魂がそのイメージに見合うように選び取ったはずの4つの要素・・肉体、両親、場所、環境・・さえも、呪われたものへと変質させてしまう。

 肉体は、成長とともに下降線をたどるもの、人生の向かうべき方向とはまったく反対向きのベクトル。あるいは呪われた遺伝子の器、日に日にその記号をくっきりと鮮明に露呈し、事あるごとに自分の化けの皮を剥して見せつけるもの。魂の快適な乗り物ではなく、背負わなければならない重いくびき。成長の足を引っ張り、飛躍しなければならないときに重りとなり、私たちの歩みを引きとどめようとするもの。肝心なときにはすっかり役に立たなくなっているものと化す。

 両親は、低いスタートライン、ハンデとなる。無限の選択肢ではなく、前もって選択され、与えられたもの(=不自由さ、制約条件)、どうしようもない運命。コンプレックスの対象。また年老いた両親は、世話しなければならない存在、しがらみ、外の広い世界ではなく家の中に自分を引き留める存在と化す。兄弟や子供など、その他の家族も同じような記号を担わされることとなる。

 場所は、人生の選択肢を限定するもの、魂が欲するものではなく、上昇のための都合で選ばなければならないもの。あるいは、一刻も早く抜け出すべきもの、ステータスシンボル(たとえば、スラム街からビバリーヒルズへ、という具合に)と化す。つまり決して魂の安住の場ではあり得なくなる。

 環境(生活環境、つき合う相手、囲まれる物、そして自然など)は、やすらぎではなく、上昇のために選ばなければならないもの、あるいは征服し支配しなければならないものと化す。

 さて、これで私たちは果たしてこの世に祝福されて生まれてきたという感覚をもつことができるだろうか。

 一方、プラトンのエルの物語は、魂は肉体、両親、場所、環境の4つの道を通って降下してくるというものだった。これら4つの道は「この世にやってきたときに抱いていたイメージについて思い巡らせるための指標となる」とヒルマンは言う。

 

●「第一に自分の肉体。グロウ・ダウンは老いとともに感じるようになる重力を受け入れて生きることを意味する。・・・第二に自身が周囲の人々、あるいはその歪んだり腐ったりした枝も含めて、自分が家系の木の中の一人だと認めること。第三に、自分の魂にふさわしい場所で生き、義務と慣習、習慣を引き受けること。そして最後は、この世界と正面から向き合って、環境があなたにしてくれたことに応えることである」(H)

 

 

■「降誕(グロウ・ダウン)」のメタファー

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 ところで、エルの物語が語るように、放念の河の水を飲んだ魂たちは、自分がどのような生涯を選択したかをすっかり忘れ、この世にやってきた後も、二度と再び思い出すことがないのだろうか。それとも、詩人ワーズワースが語るように、私たちは「生まれる前のことを完全に忘れているわけではない」のだろうか。

 とどまるところを知らない不可逆的な上昇運動に疲れたとき、激しく落ち込み、癒しが必要だと感じたとき、人は故郷に戻りたいと思う。人はなぜ故郷を目指すのか。それはおそらく、温かく迎えてくれる家族や友がいるからでも、幼い頃から変わらず自分を見守ってくれる山河があるからでもないだろう。忘れてしまった大切な何かがそこには確かにあると感じるからだ。母親の作る田舎料理や、薪のはぜる音や、学校の校庭にゆれるブランコの中に、自分が思い出すべき大切な何かが宿っていると感じるからだろう。今は忘れてしまっているが、確かに自分の魂がこの世にやってくるときにした重要な選択。

 人は故郷に戻ろうとするのではなく、自分自身に戻ろうとするのだ。おそらくこの世ではまだ見たことがないが、生まれる前には確かにイメージしていたはずの魂の故郷に戻ろうとするのだろう。

 章頭に掲げたワーズワースのエピグラムの最後の一行をもう一度思い出してみよう。

 

●「幼年期には天は我々のまわりにあるのだ」

 

 たとえあなたが忘れていても、あなたのダイモーンはちゃんと覚えている。ダイモーン(守護霊)は自分が守護すべきあなたの籤(どんぐり)のかたちを忘れるわけがない。ダイモーンは魂の番人なのだから。

 

●「籤が定める不可避の、必然のパターンは消えないし、人の同伴者であるダイモーンは、それを忘れない」(H)

 

 上昇のみを指向する社会では、その重要なメタファーとなるのは「頭」だ。頭(かしら)、トップ、ヘッド、ブレーンなどの言葉は、上昇した先にあるキャリア、ステータスを表す。一方、神話の世界のメタファーは「足」にある。頭が「天」「頂上」「明晰さ」「秩序」のシンボルだとするなら、足は「地」「底辺」「暗憺さ」「混沌」のシンボルだろう。

 しかし、そもそも私たちは通常、頭から先に地上に落下するかたちで、まさに産み落とされる。出産=誕生という現象は、人生の進み行きと逆向きのメタファーを提供する。そしてその人生の終わりである死は、足からやってくる。「命が離れるのは足からだ」幽霊に足がないのは、まさにこの世のものでなくなったことを表している。

 

●「大地にしっかりと足を立たせること、これは最終的な達成であり、頭で始まるあらゆることを終えた後の成長のステージなのである」(H)

 

 プールに飛び込むように頭からの落下で始まった人生は、足からの着地で完成する。

 

●「下降には時間がかかる。人は、この世へと着地(グロウ・ダウン)していく。足でしっかりと地面に立つには、時間をかけて生きるほかない」(H)

 

 

■魂と肉体が引き裂かれる子供たち

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 このグロウ・ダウンに関する神話が、事実か事実でないか、科学的に証明できるかできないかは、あまり重要ではない。重要なことは、私たちの心に響くか響かないか、人生の真実を言い当てているかいないか、そしてさらに重要なことは、この神話のように人生を考えることは、私たちのものの見方に決定的な変化(進化と言ってもいい)をもたらしてくれ、既存の科学では説明できない現象に対する深い理解をもたらしてくれるという点である。

 ある理論に当てはまらない現象に出くわしたとき、私たちが取るべき態度はおそらく二つだろう。つまり、その現象を説明できるように理論の細部に手を加えてつじつまを合わせるか、あるいは理論そのものを疑うかだ。

 魂のグロウ・ダウンの神話によって、何といってもいちばん変わるのは、子供たちに対する大人たちの見方だろう。たとえば子どもが時折見せる、落ちつかなかったり過剰に動き回ったり(多動傾向)、急にわけもなくわめきちらしたりあばれ出したりといった行動は、心理学的にはまだよく説明されていないが、どんぐり理論にてらして見るなら、子供たちは魂の世界からこの地上の世界への移行途中で、魂がまだよく肉体になじまず、くっついたり離れたりを繰り返し、地に足がつかない宙ぶらりんな状態なのだと解釈することができる。

 

●「子供たちが経験することは、この世の中でその召命にふさわしい場所を探すこととかかわりがあるのだと考え直してみよう。子供たちは二つの生を同時に生きようとしている。一つには、彼らが生まれもってきた生。もう一つは自分の生を生きねばならぬ場所での生、周囲の人々と共に生きねばならない生である」(H)

 

 この時期の子供たちは、自分の肉体やこの世界の環境よりもダイモーンとより親密に結びついているため、親や周囲の大人たちの呼びかけよりも、ダイモーンの呼び声(コール)によく反応する。

 

●「宿命のもつイメージ全体は、小さなどんぐりの中につまっている。小さな肩が巨大な樫をつめ込んだ種子を担っている。そしてその召命は、周囲の環境から発せられる叱咤の声にも負けぬほど、強く大きく子供たちに訴えかけ続けているのである。その呼び声(コール)は、癇癪だとか意地っ張りというかたちで姿を見せることがある。あるいは、内気や内弁慶さとして現れることもある。こんな性向は、大人の世界に対する反抗に見えるかもしれない。けれど実はそれは、本来やってきた世界を守ろうとしている子供たちの試みなのかもしれないのだ」(H)

 

 子供たちは、本来自分がやってきた魂の世界とこの地上の世界との間に二股をかけ、肉体と魂は二つの世界に引き裂かれたような状態になっている。通常は魂が肉体と折り合いをつけ、魂はこの世でふさわしい場所を見つけてグロウ・ダウンするが、成長してもそれがうまくできない人たちもいる。

 たとえば、「性同一性障害」という医学的な病名がある。この病名だと診断された人たちは、心は女だが肉体は男、あるいは心は男なのに肉体は女という人たちだ。現在、医学的には心を肉体の性に合わせることはできないとされている。そこで肉体を心の性に合わせる性転換手術が行われたりする。生まれてくるべき性を間違えた人たち。この人たちほど魂のリアリティと現実世界との間に大きなギャップを抱える人たちもいないだろう。親や友人たちも含め、世間の人たちの目はすべて自分の肉体的・生物学的な性にのみ注がれる。彼ら(彼女ら)は、しかたなく、この世で何とか生き延びていくために、魂をいつわって世界の秩序に合わせようと、涙ぐましい努力を続けている。しかし魂はいつわり通せない。魂はその宿り主に烈しく迫るだろう「いい加減に自分をいつわるのはやめろ。世間の目はあざむけても、自分をあさむくことはできないぞ」と。魂には倫理観も人目をはばかる奥ゆかしさもない。だから彼ら(彼女ら)にとって、ある者は鏡に向かって密かに眉や紅を引く儀式の中に、ある者はスーツとネクタイに着替える儀式の中に、社会性の仮面を脱ぎ、自分自身に戻っていく幸福な瞬間、魂の安らぐ瞬間を見いだすのだろう。

 彼ら(彼女ら)の悲劇は、さまざまな重要な示唆を私たちに与えてくれる。一つは、普段私たちは病とは治すべきもの、そこから快復すべきものと認識しているが、治せない、いや治してはならない(治すことが必ずしも魂にいいわけではない)病もあるということだ。これはある意味で病という現象の本質をとらえている。たとえば、子供が登校拒否を起こしたとする。大人たちからのさまざまな働きかけの結果、子供が再び学校に通い始めると、大人たちは問題が解決されたと考えてホッとする。しかし、問題が解決されたのではなく、問題の発現の仕方が変わっただけの場合もあるのだ。

 もう一つ、どんぐり理論を検討していこうとする私たちにとって、彼ら(彼女ら)が与えてくれる最も大きな示唆は、彼ら(彼女ら)の魂は、宿るべき肉体を間違えたのかということである。しかし、この疑問に対する答えは単純だ。間違えたのは魂ではない。魂は自分の計画を間違えたりはしない。間違えたのは生命現象の方なのだ。間違った生命現象は、魂の計画のために修正されなければならない。彼ら(彼女ら)が過酷な試練に耐えながらも、性転換に挑戦しようとするのはそのためなのだ。




  

魂の降り立つ場所〜