■父からの第二信




 第二信、有難く面白く読みましたよ。末尾に「この手紙はあなたを励ますことが動機づけとなって成り立っていますが・・・」とあるので、改めて「エッ」と思いましたネ。チチに今の発病がなかったとしたら、こんな手紙ふうの遣り取りは考えにくかったろうから、なるほどとは思うけれど、第一義的には、もっと別の動機があった様に思っていたんだ。それにこの話が出始めの頃、美由貴ちゃんが、「親子往復書簡なんて、すてきね」と言ったのを、チチは強く心に留めています。このことばがはずみの良い踏切り板になっていますから。
 さて、今回の手紙の「隠喩としての病」は、なるほどこんな視点もあったかと思わせられました。すべて事柄は、二つか三つの「側面」は持っているものだけれど、人とその事柄との位置関係で、どの側面が強く現れるかが決まってくるわけだろう。すべての側面が当人や関係者の視野にちゃんと収まっているなんてことは先ずない。「病」を得た場合では、その病理・生理的な面は、熱心に注目されるけれど、その社会・心理的な面は目に入ってこないんだな。チチの場合、見舞い人が現れて、チチの病状を表面から見て「ああ、軽い軽い」と言うと、チチは不満だ。「軽く見やがった」と思うわけだね。(病者の心理は皆同じだろうと思うけれど)実際チチは、黙って動かずにいる限り、病の徴候は全くと言っていい程見えなかったろうと思う。
 そこで、お前の試みた「隠喩としての脳梗塞」は、当の病をその中枢と前後左右から広く見渡して「チチの場合」を割り出し、人々の口の端にのぼるところを説明した、なかなかの表現になっていると思うよ。上出来なのではないかな。特に「チチの場合」と限定したのは、こういうことって、すべて、現れ方は「個別」だろうからだ。「チチの場合の脳梗塞」ということなのだ。科学的・客観的な病理としての「脳梗塞」も個体差のある問題だろうけれど、その「社会・心理的側面」となれば、もっと個人差が大きいだろう。病にも「個性」があるということだろうよ。(「医」はまだそこまでは立ち入れないどころか、総合病院の診療など、待ちに五十分、診察に五分という現状では、どうにもならないね。)
 脳梗塞や脳出血には「半身不随」という症状が伴う。程度の差はあれ、これは「よいよい」などと言われて、誰の目にも明らかだ。当然人様の関心を引く。決して見好いものではない。お前は「他人に不快感を与えたり忌み嫌われるものではなく、むしろ同情といたわりを誘い、他人の介護を自他ともに正当化できるもの」と、まことにうまく状況を捉え、おまけに「特に配偶者の献身的な介護に必然性を与え、云々」というところまで言及している。見事だ。
 チチが退院して間もない頃は、ハハに付き添われて散歩に出ると、ご近所の皆さんの強い関心によく出くわした。まだ、杖を突くのもたどたどしく、その頃は、左腕を三角巾様の布で首から吊っていた。左肩とその先の筋肉は、発病から一カ月足らずのうちにすっかり力を失っていたので、腕の重みがもろに肩の関節に懸かってくる。それは想像を越えた重みなのだね。そのために脱臼という二次障碍が起こる。
 或る昼下がり、向こうから自転車でやってきた全く見ず知らずの初老の男が、突然チチの脇に自転車を止めて、「どうしました」と尋ねる。(何が、どうしたって)とチチは思った。この男が、チチの何処が気になって、そうは訊くのか。この「ていたらく」を説明しろとでも言うのか。(なんと御節介な奴)チチはハハをちらっとうながすように見て、無言でおいちに、おいちにその場を離れた。
 また、或る夕べ、チチとハハの後から追い付いて来た中年の婦人が、ほんの短い時間、並んで歩き乍ら、「いつも、お二人で、いいですね。何度かお見掛けしました。いいなあって、うらやましく思っていたんですよ。どうぞお大事に」と、それだけ言って、追い抜いていった。これは、お世辞ではない。いくばくかの好意だと分かる。だからそういうことには疲れを覚えない。
 加えて、この頃気付いたことだが、杖を持ってバスに乗り込むと、車内に一瞬緊張の気配が漂う。辺りにいく筋かの視線が走り、チチが座席にありつくとそれは消えて、緊張は解かれる。乗り物に乗るのは、当方も心の負担になっているんだね。
 半身不随を伴う異常を「中気」と言うよね。これは「中風」の老人語だそうだ。中風は「ちゅうぶう」が正しい。「ちゅうぶ」とも「ちゅうふう」とも言う。先にも言ったように、これをどう呼ぼうと、やっぱり「老残」のイメージがつきまとうんじゃないかな。長野県に鹿教湯(カケユ)温泉という半身不随に卓越した効用のある湯治場があるそうで、その温泉へ行く坂道は「中気坂」と言われる、とは、病院通いによく使ったタクシーの運転士が教えてくれた。チチは「中気坂」を思った。思いたく無くても中気坂はチチにしつこく想像された。「ぞろぞろ、ぞろぞろ」という形容まで伴って想像された。鹿教湯には行きたくなかった。
 病気のことだから、もとより負のイメージはつきものだけれど、そういうイメージには付き纏われないようにしたい。意志を強固にして負になるものは思念から排除するようにしたい。それにもかかわらず付き纏ってくるものがある。それこそ、お前が書いてよこした「メタファー」なるもののすべてだろう。これは、すべて「知識」として、後天的に、「教育」によって授けられたものだね。そう意図的でなくても、「伝播」という形でも伝わる。無益な、むしろ有害なものが、沢山伝わる。その最大なものが「死」にまつわることだろうか。
 「結核」と「癌」の隠喩として上げてあったものは、すべて、教えられるものだよね。これらを一つ一つ厳格に吟味してみると、病気の予防または治療に自分が努力して役立てられる知識は一つもない。不幸にして、またご苦労なことにも、病者の病と格闘することを職とする医者には欠かせない知識ではあっても、余人の日常の成り立ちに欠くことのできないものではない。どんなものだって、それが「死に至る」ものと知らなければ、全く平気なものなのだ。
 お前も知っている笹山菊美さんのお孫さんが白血病だと判明したのは、三年前の、四歳の時だったね。これの治療に使われる薬物と、治療法(どんな法かは、チチは知らない)には、重大な副作用が伴う。お孫さんの病状は、データによって余命一年ということだが、現行最高の治療によっても完全な治癒の保証は殆ど無い、というわけで、幼児に耐え難い苦痛を与えるべきか、どうか、の岐路に立たされた。親御さん(笹山さんの長女とその亭主)は、治療を選んだよ。
 副作用は、どんなものだったか、チチは、くわしくは聞かずじまいだったけれど、大変だったらしい。ところが、本人には、週に何回かは、全く平常の、気分の良い日があって、そんな時は、広い病室のベッドからベッドへ飛び移ったり、跳ね回ったりして、元気そのもの、病気はどこか、という様子だと言うんだね。こういう状態が、数カ月続いて、その間に、全く予想外の治療効果が現れ始めたと言うんだ。
 そうなると回復は極めて顕著となり、これは直るか、と医者は確信に近いところへ差し掛かって言ったそうだね。
 「この病状が、大人だったら、とうに参ってしまっているでしょうね。死の恐怖を知らない幼児って、すごいですね」
 お孫さんは、今、小学二年生で、毎日元気に通学している、と言う真実。
 ああ、なんということだろうね。
 「死に至る病」の根源は、自身の心中にある、というわけか。こんなこと、二千年位の間中、世界中の誰さん彼さんが考え尽くしてきたけれど、まだ、どうにもならない。
 五月十八日、新宿に小さな集まりがあって、四十分程の講演をしたんだ。実に二年振りのことだよ。ずっと演壇に立ったままで、黒板に板書きなどもしながら、とにかく話したんだ。途中、口の中が少し粘るようになって、発音しにくくなるのに気付いたけれど、まあ、なんとかしめくくった。これを皮切りに、以前のような活動を再開しようとは思わないけれど、この頃、左手の方にもリハビリの効果が現れ始めて、日常の大まかなことなら、ハハの手を煩わすこともないようになった。今回の講演のように、社会に向かって少しは動き出そうか、と身構え始めた時、ハハは不機嫌な顔付きをしたね。
 あの二年前の五月十一日の朝、チチは自分の全体重をハハに預けたので、以来ハハ無しでは凡てに心細い状態になった。こんな状態がチチとハハとの間にやって来ようとは予想もしなかった。これは全く不意にやってきて、他に転化しようがない。
 そんなわけで、チチは今、ハハの支配下にいる。そう言って悪ければ、ハハの庇護下にいる。それも唯唯諾諾としている。未だかつて望んだことのないこんな状態が、二年も続けば、それはあたかもチチとハハの関係の常態の如くになる。ハハは今「母的存在」である。子どもの如く、思い通りになる夫である。時には子どもの如く、思い通りにならないことのある夫である。望んだことはあったが、とても実現見込みのなかった状態の不意の到来である。これを珍重がらない法はない。というわけで、「もうそろそろ一人で遠出してみようかな」とか、「研究所にも顔を出さなくては」とか言ってみようものなら、いかにもハハは不機嫌になる。
 患者が社会復帰となれば、人は喜ぶ。それが常である。チチの社会復帰はハハに喜ばれない。なんでか。分かるかな。分からないだろう。チチが懲りないからである。強く反省するところがないからである。多くの事例によって再発の恐れがあり、それは重く現れると聞いているからである。
 と、いろいろ考えてみて、もっと根源的な問題があった。それは、お前の指摘の中にある。「死に至るほど重くなく...」という、この一点にある。脳梗塞、即、死には至らない。また、必ずしも死に至らない。不治のものではない。フェータルなものではない。
 入院中、よく思ったものだよ。これが、癌のようなものであったら、自分はどう事態を受け止めただろう。そこにどんな、安心立命への道を見出し得たろう。道はない。それは既に閉ざされている。とても苛立ちなどという状況ではない。行く道が見えなければ、錯乱だな。
 丁度四週間目に退院になった。その時、左の腕は自力では持ち上がらず、左手指はピクリともしなかったね。こんな状態で退院もないだろうと思って、リハビリの理学療法士に、せめて、腕の運動にはっきりした見通しがつくまで、入院していたいむね申し出ると、
「それは小林さん、駄目でしょう。入院を続けるだけ、回復は遅れるもんですよ。本当の病人になってしまうから」
「えっ、今は本当の病人じゃないの」
「もう病人じゃありませんよ。これから、再生に向かって出発ですからね」
 分かったような、分からぬことを言われてチチは困惑した。今もまだ、すっかりは飲み込めないところがあるけれど、ともかく病院からは追い出されたという次第。
 こういうところが、確実に死に向かっていく病とは違うから、チチが、社会活動に復帰したい、そう出来ると言っても、その回復ぶりに特別の賞賛は得られないわけなんだな。むしろ、発病前の無節操で不摂生な生活にあっという間に戻るだろうというのがハハの読みで、されば、常にハハの手の平の管理下に置くにしくはない。チチはすっかり読まれてしまった。
 さて、お前の学習によれば、十一カ月に一度、体の細胞はすっかり作りかえられる(というけれど、脳の神経細胞はどうなのか)というし、チチは人生の最も生産的な年齢に入ったばかりということだから、自分の病にまつわるいろいろは、このあたりで一応の締めとしようよ。
 残るは「エイズ」についてだね。
 我々(つまりお前とチチと、その係累)は、二十世紀末の、極めて世紀末らしい、世界の激変に際会している。
 もし、この時期のことを、深く考えることなしに、佑子や啓一や大輝たちの時代に達するとして、何がすんなりと継承されるだろう。
 チチが発病前、年を置いて二夏、ハワイ大学の「性教育夏期セミナー」で得たものの中に、少しばかりそのヒントがあるかもしれない。