■息子からの第一信




 父よ、今わたしは事務所でこの手紙を書いています。時間は午後九時を回ったところです。社長も2人の部下もすでに引き上げ、一人で占有するにはやや広すぎる空間が、今だけはすべてわたしの城というわけです。
 外は雨です。窓を開けると湿った空気が流れ込んできます。車がアスファルトにたまった雨水をはね上げる音がひっきりなしに聴こえてきます。この、決してくつろげるとはいえないものの、適度に落ちつける雰囲気の中で、わたしはあなたに送る最初の手紙をどう切り出したものかとうろたえながら、ゆっくりと熟していく時を、半ば持て余すようにして静かに待っています。

 ところで父よ、人がある種の感慨を抱いて何か新しい企てに着手しようとするときには、その決意に至らしめた要因とも呼ぶべき出来事が、まるで申し合わせたようにある時期集中して起こり、それが錦織の縦糸と横糸のようになって一つのハーモニーを奏でるものではないでしょうか。今回われわれが、ごく近い将来父子の共著という形で出版することを前提に、往復書簡の試みを始めようとするに至った過程にも、何かこれに似た必然的な意志の力が働いているように思えて仕方がありません。

 そうしたいくつかの要因を挙げるにあたり、まず手始めにわたし自身の仕事の、ここ数年間における大きな潮流のようなものを説明しておく必要があるでしょう。わたしが今までフリーのテクニカルライターとして何とか人並にしのいでこられたのは、日々の仕事をこなしていく中で得られたノウハウをまとめ、年一冊のペースで本を出すという幸運に恵まれたからにほかなりません。しかも、多くの人の厚情と尽力を得て・・・。とくに去年は、超一流の仕事仲間二人の協力を得て、三人の共著でノウハウ書を出版するという新しい試みに挑戦し、労力は半分以下で、効果は単純な足し算以上という満足のいく結果が得られました。
 これに味をしめたわたしは、この調子で毎年一冊は(人の手を借りながら)何かしら本を出版してやろうという密かな野心を抱くに至りました。そして、さしあたり今年は誰を協力者にどんな本を・・・、と思案していたところだったのです。しかも、ご存じのとおりわたしは繰り返しを嫌う性格なので、今回は同じ仕事仲間ではなくまったく違う分野の専門家と共同作業ができないものかと思っていました。しかしいずれにしろ文章を書くという作業ですから、あまりかけ離れた分野でもこまる、と頭を抱えていたのです。というわけで、結論としては「燈台もと暗し」で、以外に身近なところに、わたしとはまったく違う意味での「コトバの専門家」がいたわけです。
 また、日常の業務の中でいえば、今年に入って弟子(?)が二人でき、いわゆる中小企業の経営者が例外なく抱くであろう苦労や不安や悩みを、わたしも間借りなりに抱えるようになりました(今日、わたし専用の椅子が届きました。唯一、肘掛けがついているところが他の椅子と違うところです。ほんのささやかなステータス・シンボルというわけです)。そして、私的な面でいえば、「夫として、あるいは父親としてどう振る舞うべきか」という宿題も増えたことをも考え合わせるならば、そろそろ「人生とは何か」などという照れくさい問いについて、ややハスに構えながらも、クソ真面目に語っても若造扱いされない境遇になったのじゃないか、という気がしています。

 さて父よ、時はやや前後しますが、今回のわれわれのもくろみの、あなたの側からの引き金となったこととして、まず真っ先に挙げなければならないのは、あなたがちょうど去年の今ごろ病に倒れたことでしょう。わたしが母から電話でその知らせを受けたのは、折も折、美由貴の腹から今にも新しい命が生まれ出ようとする矢先のことでした。いきおいわたしの中で、枯れて倒れていこうとする老木と萌え出ずろうとする新芽という二つのイメージが重なり合うようだったのも認めざるを得ないのです。
 しかし、「新旧交替」などとは申し上げたくありません。まだあなたに人生の花道を引き下がってもらうには早すぎると思うからです。確かに公務員としての、あるいは学校経営者としてのあなたの役割は、引退というセレモニーをもって幕を閉じたかも知れません。しかし、父親としての役割はどうでしょう。なかんずく、祖父としてのあなたの役割はまだ始まったばかりではないですか。ましてや、わたしに長男が生まれた以上、この新米の父親という相手役に対し、先輩の父親という役柄でもって演じるべき若干のシナリオが、まだ人生の舞台の上に残っているはずです。

 いささか酷ないい方かもしれませんが、「脳梗塞」というあなたの病名を聞いて、驚きよりも、むしろ「やっぱり」あるいは「ついに」という印象の方が、わたしの中で勝っていたように思います。これに関しては母もまったく同意見のようです。もちろん、わたしのことも含めたあなたの身辺の諸々の気苦労が、いくぶんかはあなたの病の進行に手を貸したかもしれません。しかし、その原因のほとんどは、数十年に及ぶあなたの豪放磊落かつ不摂生な生活であることは明らかでしょう。むしろ「今までよくもったものだ」というのが正直な感想です。幸いなことに、あなたの病状は予想したより軽かったようですね。もとより批判めいたことを申し上げるつもりもありません。むしろ、現在もリハビリを続けている中で、若干の麻痺は残っているものの、日常生活には困らないほどに回復してきたことを加点対象にするならば、何よりもまずあなたの運の強さに「あっぱれ」の賛辞を贈るほかはないようです。
 あなたの病状よりも、むしろわたしにとって気がかりだったのは、あなたが自分の入院に関して、親類縁者はもとより、わたしに対しても母に口止めさせていたらしいことです。「そうは言われても、長男に知らせぬわけにはいかないから」という言い訳つきで、母はわたしにあなたの入院を打ち明けたのでした。おそらく、醜態をさらしたくないという、あなた特有の照れや見栄があったのでしょう。しかしわたしとしても、あなたはもとより、母の心身のことも気がかりだったので、とりもなおさず病院に駆けつけた次第です。ただし、あなたの心境を察し、「武士の情け」とばかり、病室には入らず、母と言葉を交わすだけで、その日は引き上げたのでした。
 あれはもしかして、具体的な言葉であなたが母を口止めしたのではなく、「この人は、自分の醜態を息子に見られたら、きっと興奮して取り乱すに違いない」というような、母特有のある種の妄想を伴った一人合点からくる気の回し方だったのではないでしょうか。あるいは母は、そうした妄想を抱くに足る無言の信号をあなたの行状から何かしら受け取っていたのかもしれません。事実あなたは、自宅で倒れた際の行きがかり上、姉には知られざるを得ず、姉が義兄と子供たち(つまりあなたの愛する二人の孫)を伴って病室を見舞ったときには、感きわまってかなり取り乱したと聞き及んでいます。
 そんなわけで、「もう少し落ちついたら」と、母はわたしを制し、わたしは病室に入らずに帰るという見舞い方を何度か繰り返したように記憶しています。しかしほどなく、「せっかく来たのに、何で会わずに帰るんだ」というあなたの訴えを受け、母が、病院を出て帰りかけたわたしに追いすがり、あなたとの会見が成立するという一幕を迎えることになるわけです。そのときには、あなたの病状も精神状態もすでに落ちついていたとみえ、さすがに取り乱すということはありませんでしたね。母の思惑が的中したのでしょうか。あのときのあなたの偽らざる心境はどんなだったのでしょう。正直なところをお聞かせください。

 ところで父よ、わたしに第一子が誕生したのは、あなたが入院して一週間後のことでした。わたしは自ら望んで美由貴の出産の一部始終に立ち会いました(こればかりは他人様のを拝見するわけにはいきませんのでね)。出産という行為(あるいは現象?)そのものには、世にいう生命の神秘やら感動やらというものを感じるよりも、もっと即物的な印象を受けましたが、それよりわたしが心を動かされたのは、美由貴がいかに勇気と忍耐と誠意をもって出産という困難(あるいは生命の危機?)を乗り越えたかということです。わたしはそのことについてあなたの枕元で情熱をもって報告したように記憶しています。
 美由貴のそうした賢い振る舞いに対し、わたしはといえば、子供が生まれ出てきた瞬間に、妙な感慨を抱いたのでした。それは、「この子は他人である。他人が一人生まれてきた」という思いでした。これは何も、自分の子供としての愛情が湧かなかったということではありません。自分と似ていないので血のつながりを感じなかったということでもありません。もっと別の感情です。あえていうなら、むしろ自分に似ていないことへの安堵感に近いものでした。大輝がまだ美由貴の腹の中にいた頃は、いわば母親と一心同体で、極端にいえば、美由貴のちょっとやっかいな内臓の一部ぐらいの感覚でわたしは捉えていました。逆に、自分に生き写しのクローンのような存在がやがてこの世に現われ出てくるなどと考えると、薄気味悪くなり、せめてわたしには似ないで美由貴に似てくれればと思ったほどでした。だから大輝が産声を上げた瞬間、わたしはもちろん美由貴にも似ていない、まったく別の存在であることを見て取ると(少なくともわたしにはそう見えたのですが)、かえって溜飲の下がる思いだったのです。
 人は、自分と血を分けた人間がこの世に存在するという胸躍る思いと、逆に自分とそっくりな存在をこの世に送り出してしまったという取り返しのつかない思いとを半々に抱くものではないでしょうか。大輝が満一歳を迎え、立って歩くようになり、口から発する音声もそろそろ日本語の意味を形成する兆しを見せ始めている今日この頃、愛情が増してくるとともに、自分の血を分けた子供というより、たまたま生活をともにしている家族(あるいは、やや手のかかる「同居人」といったほうが近い存在)として大輝を見ている自分を感じずにはいられません。
 また、美由貴にもわたしにもほんの少しずつ似ているところはあるにしろ、大方の部分ではまったく違う個性を持った存在がいつも傍らにいて、家族というやや曖昧でぎこちない関係で結ばれていると思うと、そしてその存在が、長じるにしたがい、自分と血を分け、いい意味でも悪い意味でも多少なりと自分に影響を与えたであろう父親や母親のことを頭の片隅でほんの少しだけ意識しながらも、それにとらわれず、それを乗り越え、やがて自分の父親や母親とはまったく違う人生を生きてくれるにちがいないと思うと、むしろ救われるような気がします。
 こんなことを考えるのは、わたしが父親として不実だからでしょうか。それとも父親という役柄にまだ馴れていないせいでしょうか。美由貴は、大輝がまだ腹の中にいるときから、すでに自分は(プロの?)母親だったと申しております。わたしとはキャリアが違うというわけです。どうやら女性は、好むと好まざるとにかかわらず、一種の皮膚感覚で人の子の親になる自己訓練をするようです。
 父よ、あなたは姉やわたしが生まれたとき、頭の中に何を描いたのでしょうか。また、母はわれわれを産んだときどのように振る舞ったのでしょうか。教えてください。


一九九一年五月十五日
                                  息子より