■「家族」というキーワード



 先に挙げた、子どもたちを襲うさまざまな生存の危機に特徴的なことは、そのほとんどが「家族」という共同体の現場で起こっているという点だ。

 「私は何者か」

という根源的な問いにも、「家族」という概念が必ずつきまとう。「家族」というキーワードは、どうやら時代の謎を解く鍵のようだ。

 家族という概念は、「家庭」という言葉に置き換えられるような空間概念であると同時に、連綿と営まれてきた「血のつながり」という時間概念も表す。また、「氏」や「育ち」、あるいは「出自」という言葉に置き換えられるような、私という存在の根源にかかわる概念でもある。それは、「団欒」という言葉が表すように、あたたかい、くつろげる、安全な場所をイメージさせるかと思えば、「格子なき牢獄」のように、いきなり脅威的で強暴で攻撃的な相貌をあらわにしたりもする。家族は私たちを幸せにもするし病気にもする。

 

 二十一世紀を目前にし、「家族」は今、地球環境とともに崩壊しかけているかに見える。しかし実のところ、崩壊しかけているのではなく、変化しようとしているのだ。おそらく「家族」という概念は、今後さまざまなものが変化していくなかで、もっとも大きく変化する概念のひとつだろう。

 たとえば、子どもたちや若者たちの暴力、犯罪、非行、あるいは不倫や援助交際といった「逸脱行動」は、何からの「逸脱」かといえば、それは「家族」からの逸脱ではなく、「家族」という概念からの逸脱なのだ。

 彼らはどのような逸脱行動をしようが、家族の一員であることをやめたわけではない。「家族」という概念から抜け出しているだけなのだ。したがって、彼らが抜け出したあとの「家族」の概念は変化せざるをえない。そして「家族」の概念の変化により、「逸脱行動」という概念も変化することになるだろう。

 

 私も二人の子どもの親だが、すでに私の中では従来の「家族」の概念、つまり子どもを庇護し養い教育すべき存在としての親、親の庇護のもとで学び成長し、やがて自立すべき存在としての子どもという概念は解体している。

 その解体は、最初の子が生まれ落ちた瞬間から用意されていたようにも思う。いや、おそらくは私自身が生まれ落ちた瞬間から用意されていた「計画」だったのだろうと、今は感じる。

 ただしそれは、親としての役割の放棄を意味しない。父親としての役割ははたしつつも、子どもを、養育すべき対象とみなさなくなったことにより、その子がなぜ私の子どもとして(いや、私を親として)この世に生まれてきたかがよくわかるようになったのだ。

 それはその子自身の人生の目的ということではなく、その子と私との一対一の関係性において、お互いが相手に対してどのような目的意識をもっているかということである。

 それは、両親を中心に家族が回っているという「両親中心主義」の考えから、お互いがお互いに対する引力であるという考えへの変換でもある。

 そのような視点から見るなら、今まで私たちはいかに、その子ども本人ではなく「子ども」という概念とつき合ってきたか、あるいはまた、家族そのものではなく「家族」という概念にふり回されてきたかがよくわかる。

 私は「子ども」という概念とつき合うことをやめたとき、「父親」という概念の体現者であることもやめたのだ。解体したのは家族そのものではなく、「家族」という概念なのだ。