■旅の結論



 旅の結論は旅立つ前に出ているのだろうか。

 私の息子は二三四〇グラムの軽量で生まれた。早産というほどではなかったが、予定日よりもかなり早い誕生である。

 「もう少しおなかに入れておきたかった」と医者に言われた。

 

 ただでさえハンデを背負っているのだ。何とか食べて遅れを取り戻してほしい。

 そんな親の思惑をよそに、息子はいっこうにはかばかしい食欲を見せてくれなかった。息子は七歳になった時点でも、五歳児ほどの体格しかなかった。

 「この子は、この子なりに少しづつではあれ、成長しているのだ。まあ、長い目で見守ろう」

 親の方も成長し、今でこそそのように考えられるようになったが、当時は「何とかして食べさせたい」という親と、どうやって余計な押しつけから免れるかという子どもとのバカし合い、試行錯誤の日々が続いた。

 

 息子が四歳のときのことである。

 知り合いから、福島の山奥に食事療法と子育ての達人がいると聞いて、妻と子どもを連れ、訪ねてみることにした。ご主人は穀物菜食であらゆる病人の症状を改善してしまうという。奥様の方は、いかなる医療も介入させずに五人の子どもを自宅で自然出産したという。そのうち二人の子どもの出産時にはご主人も側にいなかったという驚くべき経験の持ち主である。このご夫婦に息子のことを相談してみたくなった。

 こちらの意向を伝えるため電話をしてみたところ、あるセミナーの会場で一度だけ言葉を交わしたことのある奥様は、私たち家族の訪問を快く承諾してくれた。

 

 彼らを訪ねる旅がどのようなものになるのか、不安と期待を胸に東北自動車道をとばす車中で、息子が意外なことを言った。それがその旅の最終的な結論になろうとは、旅が終わってみるまで、私も妻も予想もしないことだった。

 ご夫婦と五人の子どもたちは、ほとんど初対面の押し掛け訪問にも、迷惑そうな顔ひとつせず、そして何の気どりもなく、ごく自然に私たちを迎え入れてくれた。ご主人と私は年齢や境遇の差を越え、すっかり意気投合してしまい、ご主人のやっているNGOの活動の一貫としてインドへの研修旅行に一緒に行く約束までしてしまった。その出会いが、その後の私たち家族の歩みを大きく方向づけたことに気づくには、何年も時間がかかった。

 

 一泊させていただいたその間に、特別な指導を受けたわけではない。ただ、てらいのない自然体のご夫婦のありようと、人なつっこくて明るい元気な子どもたちの視線に囲まれながら、雑談に花をさかせただけだったように思う。それでも、帰路につく頃には、私も妻も何か晴れ晴れとした穏やかな気分になっていて、きっと息子は大丈夫だろうと思うようになっていた。

 

 私は帰りの車の中で、そんな気分のまま、往きの車中で私と息子が交わした会話のことを思い出していた。

 あれは高速を東京から一時間も走ったあたりだろうか。

息子が

「あれ、何?」

と指差す方向を見ると、小高い山が白く削り取られたような風景が目に入った。おそらくセメントの採掘場か何かなのだろう。山は禿げ上がり、無残な姿をさらしている。

「たぶんセメントか何かを掘り出しているんだよ」

私は息子にそう答えた。

「セメント?」

「うん。それで道路や何かを作るんだ」

「へえー」

息子は、あまり関心がなさそうに聞いている。

 そのときの私には、喰い散らかされたケーキのように原形をとどめぬ山の姿が、栄養が行き届いているのかどうか定かでない息子の躰躯と重なり合って見えたのかもしれない。同時にここはひとつ、環境破壊を息子に伝えるいいチャンスかもしれないとも思った。

「あんなに削り取られちゃって、お山さん、かわいそうだね」

私がそう言うと、息子の反応は意外なものだった。

「でも、道路さんは車に走ってもらって喜んでるよ」

私はハッとした。

 自分はいったい何を考えていたのだろう。確かに、文明の名のもとに自然をむやみに削り取り、人間の都合のいいように利用することは、あまり褒められたことではない。しかし、現にこうして自分も便利に道路を利用しているのだ。現に存在するものを否定しても仕方がない。

 それは息子に対する私たち夫婦の態度にもいえることかもしれない。現にある息子の体形を、本来そうあるべきではないというように否定しても仕方がない。あるがままを受け入れるところからでなければ、改善も始まらないのではないか。息子はそのことを知っていて、言外にそれを私に伝えようとしたのではないか、

「僕も地球も大丈夫だよ。だからあんまり心配しないで」と。

 この旅で出会った人たちから受け取ったメッセージも、まったく同じものだったように今では思う。

 旅の結論は旅立つ前にすでに出されている。