■「書く」私



 日々の雑事や他の頼まれ仕事に時間をとられてしまい、ようやく講座の仕事に戻れたとき、私はなぜか自分本来の大切な時間を取り戻せたという思いで机に向かう。それは長い旅から懐かしいわが家へ戻ってきた旅人の心境に似ている。懐かしいわが家。手に触れるもの、目に飛び込んでくるものすべてが、慣れ親しんだものばかりで満たされている懐かしいわが家・・・。

 私はこの仕事が好きだ。ほとんどハマッていると言ってもいいだろう。「もっと簡単にやっつけよう」と思ってもついついやりすぎてしまう。理由は簡単である。やりたいと思って自分で始めたことだからだ。自分で企画を立て、やりたいようにやらせてもらっている。自分で決めたことを自分で実行し、その結果が着実に残っていく楽しさ、問題にぶつかっても、何とか工夫し、やりくりしながら続けていく楽しさがここにはある。

 特にこの「総評」を書くのは、現在の私の「生きがい」のひとつと言ってもいい。楽しいから、じっくり時間をかけて取り組みたい。いきおい、引き延ばし作戦に出る。その結果、期限には遅れ、受講者の皆さんや事務局の人に迷惑をかけることになる。仕事が道楽になりかけている。それでもやめられない。

 講座の仕事が私の性に合っているもうひとつの理由は、対象者と目的がハッキリしているという点だ。つまり「受講者の文章力の向上」ということだ。受講者からどのような作品が送られてくるか、毎回楽しみにしている。送られてくる作品を読んで、どうしたらそれをもっとよくできるかを考え、それをどのようなコメントとして表現すればうまく伝わるかを考えることは、ちょっとした知的興奮をともなう作業である。

 私の仕事は、『愛と青春の旅立ち』という映画で言えば、ルイス・ゴセットJrの演じる新兵教育の鬼軍曹の役柄に似ているかもしれない。新兵が私を乗り越え、優秀な士官として育っていくのを見守る役柄と言ったらいいだろうか。

 受講者のひとりから、私があなた達くらいの年齢の頃、何を考えていたのか、人生はどのように見えていたのか、という質問をもらったことがある。今、改めて想い起こすならば、私が今のあなた達くらいの年齢の頃(ほぼ二〇年前になるが)、ほとんど「書くこと」以外のことは考えていなかったのではないだろうか。

 もちろん若さにまかせて、興味のおもむくまま、手あたり次第に物事をやりちらかしてはいただろう。しかし、結局なんだかんだ言っても、私の頭の中を占めるもの、私にとって最も重要な事柄、誰が何と言おうと譲れないこだわりや執着は何だったかと言えば、それはやはり「書くこと」だったように思う。その気持ちは今でも変わらず、むしろ強まってさえいる。人生の的が徐々に絞られ、「書く」という営みに向けて、ぼやけた焦点が少しずつ定まっていくような感覚を今は覚える。

 あなた達くらいの年齢のときには、生涯に表現すべき主要なアイデアのほとんどが、すでに私の頭の中で渦巻いていた。だから私の残りの人生は、それらのアイデアをひとつひとつ文字に置き換えていくことに違いない。しかし当時の私には、それを表現する力も環境もチャンスもなく、頭の中に渦巻くその茫漠たる原野をどう扱ったらいいのか、いささかもてあましていたようにも思う。

 そしてようやく今、書きたいこと、書くべきことを書ける(やりたいことをやれる)ようになった(いや、その準備ができつつある)といったところだろうか。思えば、その環境を整えるだけで二十年の歳月を費やしてしまった。

 ジョージ・バーナード・ショーがこんなことを言っている。

「人はいつも自分の環境を非難する。わたしは環境なぞ信じない。世間的に成功している人は、みずから欲する環境を探し求め、それが見つからなければ自分で作り出した人間である」

 私もようやく最近この言葉の意味が実感としてわかってきた。私の人生、おそらく私が生まれたときにすでに「魂のかたち」としてあった計画は、ようやく今スタートしようとしているのだろう。

 モノ書きという職業は、試験を目前に控えた学生の気分を生涯引きずって生きていくことではないかと、ときどき思うことがある。どんな楽しみのさなかでも、友人と楽しく遊んでいるさなかでも、家族旅行の最中でも、何か大切なことをやり残したまま放り出しているような気持ちで、心の底から楽しめないという感覚を、私は子供の頃から引きずってきた。それはモノ書き特有の生理かもしれない。

 書くことを仕事として選んだ今でも、ひとつのテーマを書き終えてホッとする間もなく、また別のテーマが次から次へと頭を占めてしまうという感覚は途絶えることがない。

 忘れないために手帳に書き留めておくというのが普通なのだろうが、モノ書きは頭の中に渦巻いているものを追い出し、放念したいために書き捨てていく運命なのかもしれない。私は実際に、書かなければならないことが溜まってくると生理的にも便秘になり、机に向かっていざ書き始めると、とたんに便意を催すといったことをよく経験する。

 たとえばあなたにはこんな経験がないだろうか。普段の日のつもりで学校に行くと、今日は試験の日だと友人に言われ、何も準備していないので愕然とするが、そこで目が覚めて夢だとわかってホッと胸をなで下ろす。私もいまだにこの手の夢をときどき見る。これは、役者がセリフをまったく覚えていないまま舞台に立っている夢を見るのに似ているかもしれない。

 最近、夢を専門に扱うユニークな心理カウンセラーとただならぬつき合いが発生したのだが、それで、夢の探求が私の運命のシナリオにくっきりと書き込まれていることを、改めて思い知らされた。そこでひとつ気づいたのだが、試験勉強をし忘れた夢やセリフを覚えていないまま舞台に立っている夢を見るのは、取り組むべき大切な人生の課題をおろそかにしていることを潜在意識が知らせようとメッセージを発しているのではないかということだ。モノ書きの人生とは、一生かけてもこなしきれないほどの課題を抱えて生きることなのかもしれない。

 それにしても、モノ書きが人生の最後に合格すべき最終試験とは、いったい何なのだろう。

 よわい四十を迎え、日本人の平均寿命からすると、ちょうど人生の折り返し地点を曲がったところにいる今、不思議な感情が私の心を満たしている。当然のことながら肉体は引きとどめようもなく中年の領域にさしかかっているわけだが、精神は子供時代に向けて逆行していくようなのだ。それはまさに、マラソンランナーが、折り返し地点を曲がり、今たどってきた道を一歩一歩戻っていくような感覚である。

 幼い頃に抱いた欲望や執着心のようなもの、強い願望を持ちながらも、実現できずにやり残してきたことを、可能なものから順番に実現したいという欲望にとりつかれていると言ってもいいかもしれない。

 ただし、もちろんそのやり方、取り組み方は、今の年齢相応なもの(つまり昔よりは熟練している)には違いないし、逆行といっても、時間とともに何かが引き算されていくという感覚ではなく、むしろ豊かになっていくという感覚に違いないのだが。それでも精神は、生まれたときの状態に向けて着実に幼児化しているという感じがするのだ。

 私が子供時代にどのような欲望や執着を抱き、今それらがどのように蘇ってきているか、そのいちいちについて、この場で詳しく検討する余裕はないが、例を挙げるなら、ひとつは当然「書く」という行為であり、もうひとつは先に挙げた「夢」というテーマであり、また、後述することになる「死」のイメージである。

 この退行現象は、幼い頃からいつか実現する日を夢見て暖めてきた事柄に、今意識的に向かおうとしているということではないように思う。そうではなく、今なぜそれらに再び強い執着を見せるのか、その理由は子供の頃の振る舞いを掘り起こせば、そこにいくらでも見い出すことができるということを意味しているのだと思う。

 つまり、幼い頃から私は何事かを成し遂げるべく生きてきたというのではなく、今の私の思いが幼い頃に抱いていた欲望や執着、自分の振る舞い方に、何か運命的な意味づけを与えているということだろう。あの頃なぜあんなことにただならぬ興味を抱き、烈しい執着を覚えたのか、それは今の自分を見れば充分に納得できるではないか、という具合に。

 だから、おそらく私が七十・八十になったときには、今の四十の私を思い出して、現時点では想像もつかない運命の感覚を抱くに違いない。

 アメリカの心理学者ジェイムズ・ヒルマンの最新著作『魂のコード』(河出書房新社)に基づき、三十代の自分の卒論として、私は長い論考を書いた。そこでも詳しく触れたが、人間はだれしも生まれる前から魂の計画書に書き込まれたパターンやイメージに従って生きているとしか考えられないほど、何かに特別な興味を示したり、執着を覚えたり、原因不明の振る舞いを見せたりすることがある。そしてそれらが本人に特別な運命の感覚をもたらし、「この人は(自分は)こうなるべくしてなった」という結果に導くのだというのがヒルマンの主張だ。

 だとしたら、私が今示している退行現象のようなものは、私に運命の感覚をもたらす振る舞いのサンプルがもう充分に蓄積され、そのプログラムの読み取り作業に取りかかる時期に入ったことを意味するのかもしれない。

 その徴候は、書物とのつき合い方の変化に端的に表れているように思う。これは十代からの私の嗜癖なのだが、すぐには読みもしない本を、いつか必ず読むときがくるだろうという予想のもとに、手当たり次第に買い揃える意欲は、いまだに衰えを見せない。中には一生目を通さない本もあるかもしれないが、私は元来本を処分するということのできない性分で、本棚は膨れ上がる一方だ。

 決して褒められるような傾向ではないかもしれないが、この「積ん読」という読書法にもそれなりのご利益があることに最近気づいた。そのひとつは、学生の頃からの古書店・図書館通いのおかげで、書物に対する「嗅覚」のようなものが研ぎ澄まされているという点だ。何か書くべきテーマを抱え込んだとき、それに役立つ文献を求めてひとたび街へ出たら、最低限その必要性に見合う一冊は持ち帰る自信がある。

 そうした嗅覚で嗅ぎ分けた書物で溢れている本棚は、いわば私のライフテーマの展示場でもある。そして、今の自分に最も必要な本はどれだろうと嗅覚を働かせて、その展示場を物色してみると、さしあたり読むつもりはないが、いつか役に立つときがくるだろうと思って買っておいた本に行き着いたりという現象が、最近しばしば起こるようになってきた。

 それは私のライフサイクルが、手当たり次第にインプットする時期を終え、無目的な読書から、「書くために読む」(アウトプットするためにインプットする)時期に、つまりは運命のシナリオを読み解くために本を読む時期に入ったことを意味するのかもしれない。


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