あしたのために(その一) =読む=


−目次−

■新聞の読み方

■体系的読書のすすめ

■『座右の所』と付き合う

■あらゆるライター志願者にとっての必読書

■新聞の読み方

 私はもともと、新聞をあまり丹念に読む方ではないので、新聞の読み方について大げさなことは言えない。私は新聞を情報源のひとつとしてしか考えていない。おそらく新聞しか読まない人間は、カタログでしか世界を知らない人間と同じだろう。そしてカタログにはウソや勘違いが必ず含まれている。だから決して内容を鵜呑みにしてはならない。新聞の論調をそのまま拝借して論作文を書くなら、浅薄な文章になることうけあいである。

 新聞は事件の表層をサラッとなめているだけで、深層まで切り込むにはいたっていない。新聞は常に何かのダイジェスト版でしかない。それはコラムにしても社説にしても、特集記事にしても同じだ。新聞だけ読んで事の顛末を知った気になるのは、パンフレットだけ見て、あるいは予告編だけ見て映画の本編を観た気になるのと同じだ。だからこそ、あることをザックリととらえたいとき、あるいは何か新しい分野への入門として読むには都合がいい。

 新聞記事をスクラップするのはかまわないが、切り抜きをコレクターズ・アイテムにしてはならない。新聞の切り抜きとその整理に人生の大半を費やし、何も生み出さなかった男の話を立花隆がどこかで書いているが、そうなってはおしまいだ。情報としての価値がある、これはいつかどこかで引用することになりそうだ、あるいは発想の原点となりそうだと直観的に思ったら切り抜いておくがいい。こういう気構えでのスクラップは、読むということへの勘を養うのに役立つ。

 私は専門学校でテクニカル・ライティングや要約技法を教えている都合上、授業の教材にするつもりで、新聞のスクラップ感覚で、テレビ番組を録画しておくことがある。60分か30分もののドキュメンタリーが主だが、これはちょっとしたビデオ・ライブラリーになると思っている。

 

■体系的読書のすすめ

 よく、自分の読書量の多さを自慢する人間がいる。そういう人間に限って、中味についてはあまり語りたがらない。大江健三郎が講演でこんな話をしていた。四国の谷間の村で育った彼は、子どもの頃からの読書家で、いくつのときだったか、村の図書館にある蔵書を残らず読んでやろうと決意し、ある日それを成し遂げる。そのことを勇んで母親に告げると、母親は、どんな本を読んだのか一冊挙げてみろと彼に聞いた。彼が答えると、その本の何ページには何が書いてあったか言ってみろと、母親はさらに詰め寄った。彼が答えられずにいると、母親は、もう一度初めから全部読み直してこいと言ったという。その日以来大江はノートを取りながら本を読むようになったという。その積み重ねが彼をノーベル文学賞へと導いたことは言うまでもないだろう。

 あなたは生きている間にいったい何冊の本を読むだろうか。書店に行けば、一生かかっても読み切れないほどの本があふれている。読める数にはおのずと限界がある。そこでとたんに選択ということが重要になってくる。多読、乱読は決してお薦めしない。なるべくなら体系的・系統的な読書を心がけたい。

 私も決して多読の方ではない。むしろ、これはと思う本とじっくりつき合うタイプだ。それでも必要にせまられて、手あたり次第に読まざるを得ないこともある。たとえばあなたが卒論やレポートなど、ある程度まとまった量の文章を書こうとするなら、それなりのボリュームの読書が要求される。あなたが書こうとする量の数十倍はあたりまえ、ときには百倍以上の資料や文献に目を通さざるを得ないだろう。必要にせまられてする読書は確かに苦痛だ。そういう場合私はなるべくその読書を楽しむようにしている。逆に楽しみのためにする読書では、そこから何かを学び取るように心がけている。それで、読書意欲をそぐことなく、心のバランスを保つことができる。

 手あたり次第という例で言えば、たとえばあなたがオウム事件について何か文章を書くとする。そのためにオウムに関連する本は片っ端から読んでやろうと思うなら、まず題名に「オウム」の文字が入っている本には当然あたってみるだろう。これで十冊はかたい。同じ意味でオウムにまつわるキーワード(解脱、ハルマゲドン、マインドコントロール、カルトなど)が題名に含まれる本も手に取るに違いない。これでまた十冊や二十冊はいく。そこから派生して、宗教全般、組織犯罪全般という具合に広げていけば、際限がなくなる。そこまでいけば、一冊の本の構想が見えてくるだろう。

 お気に入りの作家がいるなら、その作家の本をすべて読むというのも悪くない。もちろんそれだけでは足りない。それをとっかかりとして、その作家が引用している本、注目している他の作家の本という具合に広げるのもいいだろう。よい本との出会いは人と人との縁と同じである。ある人の紹介で別の人に会う。またその人の紹介で別の人と会う、という具合に芋蔓式に良縁をたぐり寄せることができる。やがて気がついたときには、壮大な人間関係の輪が出来上がっているというわけだ。そしてそれらの人たちの相関図、つまり本と本、作家と作家の相関図を描くことができるなら、それがそのままあなたの世界認識のモデルとなる。

 そういう意味では、本棚とはまさにあなたの世界観のあらわれである。あなたの脳ミソの中身を目に見える形に開示したものと言ってもいいだろう。私は他人の家へ招かれると、その人の本棚をのぞかせてもらうのを楽しみにしている。同じ楽しみを持つ友人などがわが家を訪れると、「お前は今、どんな本を読んでいるのか」とばかり、さっそく本棚に厳しいチェックが入る。ちなみに私の書斎は、ひとつの壁が一面本棚で占領されているが、本の配置をちょっと工夫している。新しく買ってきた本、今いちばん興味のある本、しょっちゅう手に取る愛読書などは、いちばん取りやすい真ん中の棚に配置してある。当然この棚の中身はその時の興味によって入れ替わる。それを中心に、文学、哲学、心理学、人類学、自然科学などのジャンルを放射線上にレイアウトしてある。そう、まさに本棚とは、個人的なマンダラなのだ。

 あなたの選んだ本、読んだ本によって形成されたあなた自身の世界認識モデルは、それゆえに流動的なものである。決して固定化したものではない。だから、あなたが選ぶ次の一冊によって、ガラッと形を変えることだってあり得る。その一冊によって、世界に対するあなたの認識はいっぺんに刷新されたりする。それでは、それまでに築いてきたあなたの世界認識モデルは何だったのか。それは、あなたにとって本当に必要な本に出会うためのあなたのアンテナの感度を高め、その一冊を選び抜くための直観力を養うのに役立ったのだ。そう、まさにこうした直観力を鍛えるために体系的な読書が必要なのだ。

 

■『座右の所』と付き合う

 「座右の書」あるいは「愛読書」という表現がある。文字どおりいつも傍らに置いておき、折に触れて読み返す本、あなたのものの考え方や生き方に決定的な影響を与え続けている本ということだろう。それは次々と訪れる書物との出会いの源流であり、あなたの世界認識モデルの中核に位置するものでもあるだろう。その本との出会いによって、あなたは同じ著者の他の本は立て続けに読んだかもしれないし、その著者を水先案内人として体系的・系統的な読書へと導かれたかもしれない。書かれている内容はもちろんのこと、それとの出会いもドラマチックであったに違いない。

 私にもいくつかそういう本がある。今回このテキストを書くにあたり、そのひとつを久しぶりに手に取ってみた。現存する(?)フランスの作家モーリス・ブランショの初期の評論集『焔の文学』(紀伊國屋書店刊)である。今回改めて手にして驚いたことがある。私の手元にあるのはどうやら初版本のようなのだが、この邦訳が出版されたのが1958年9月25日。何と私が生まれて二週間ほど後のことである。何かただならぬ因縁を感じる。当時の定価が360円。たぶん一九か二十歳の頃、高田馬場界隈の古本屋で見つけたのだと思うが、もともとその本が法政大学の図書館の蔵書であったことを示すゴム印が裏表紙に押されているのを見ると、貧乏学生か何かが図書館からちょろまかしたのを古本屋に売り飛ばし、巡り巡って私の手元にたどり着いたということらしい。また、同じ裏表紙に鉛筆書きで「600」の数字が見えるので、当時600円で買ったのだと思う。初版発行から二十年近くの間にブランショの評価がどれだけ上がったかが端的にわかる(あるいは単に物価が上がっただけか)。

 その当時私はフランス文学にかぶれていて、折しもヌーボーロマンなるフランス文学の新しい潮流が盛んに日本に上陸していた最中だったため、私は毎日のように古本屋通いをしては、ロブ=グリエ、ビュトール、ソレルス、シモン、サロート、デュラス、ル・クレジオなど、ヌーボーロマンの作家たちの作品をあさっていた。ブランショもその中のひとりだった。

 その評論集の中の「文学と死ぬ権利」という五十ページほどの小論を、私は何度読み返したことだろう。それは好きだとか気に入ったとかいう理由からではない。初めて読んだときに、今まで経験したこともない衝撃を受けたのである。とにかく、何が書いてあるのか見当がつかないほど難解なのだ。しかし、難解であるにもかかわらず、いや、難解であるからこそ、とうてい黙殺することのできない、ほとんど魔術的とも思える魅力を感じた。私は何度も読み返し、傍線を引き、段落に見出しをつけ、ふと思いついたことを余白にメモし、何とか読み解こうともがいた。若いながら、自分の文章力、読解力にはそれなりの自信があった。どんなに難解でも、同じ人間の書いた文章ではないか。しかもフランス語ではなく、ちゃんと日本語に翻訳されているのだ。つまり少なくとも訳者によって充分に内容が噛み砕かれ、適切な日本語に置き換えられていると信じることができるではないか。日本語で書かれた文章が、この私に理解できないはずがない。そういう若いプライドが、私をねばり強い読み解き作業へと立ち向かわせた。しかし、因果なことに、内容を理解する前に、ブランショの文体と思考そのものが私に乗り移ってしまったように思う。ブランショ風の言説で日記を書き始めたほどだ。つまり私は、充分な読解もままならぬうちに、ブランショの血肉を取り込んでしまったのだ。「座右の書」とはそういうものだろう。

 ブランショは、実体も定まらぬまま、今でも私の中で息づいている。彼は文字通り「顔のない作家」である。人前に姿を現すこともなく、写真やポートレートなどもいっさい公表されていない。自分が書いたもの以外で存在することを頑なに拒んでいるようにも思える。顔に傷でもあるから人前に出たがらないのだろうとか、いや、パリ五月革命のときにひょっこり現れたが、そんな傷はなかったとか、さまざまな憶測が飛び交ったらしい。「現存する」という表現に?マークをつけたのもそういう理由からだ。当初ジャーナリストとして出発した彼は、政治的な挫折を経て文学という営みに方向転換したという事情もあるようだが、そんなことはどうでもいい。重要なことは、彼が自分の文学的立場、信念とも言うべきものを、生き方をもって体現しているという点である。彼は文学という営み以外で存在することを止めたのだ。存在の曖昧さ、不透明性にこそ、自分の「文学空間」があると。その文学空間では、彼が生きているか死んでいるかさえ無効なのだ。

 ブランショが水先案内人となり、私はロートレアモン、ミショー、ポンジュ、マラルメ、ヴァレリー、ジッド、サルトル、カミュなどの文学空間へと導かれた。いや、もしかしたら順番は逆だったかもしれない。ただ、今となっては、時系列的な順位はどうでもいいことだ。重要なことは、これらの作家たちが私の世界認識モデルの中で今だに確固とした位置を占めているということである。

 大学を出てから、私は仕事として、文章修行の場としてテクニカル・ライティングという世界を選んだ。その選択が正しかったかどうかはわからないが、以来十数年の時の継続の中で、三万ページ近い技術文書を対象に、あのときブランショのテクストに対してやっていた読み解き作業と同じことを相変わらずやっている。つまり、段落に区切り、見出しをふり、重要な箇所を強調し、要点をまとめるという作業だ。そのノウハウは、今このテキスト執筆の際にも活かされているはずである。つまりあのとき私はブランショを相手に、すでにテクニカル・ライターとして振る舞っていたわけである。

 

■あらゆるライター志願者にとっての必読書

 もしあなたがこのテキストをここまで読み進み、なおかつこの通信講座を受講する覚悟ができているなら、ここで一度テキストを閉じ、すぐさま書店か図書館にかけつけ、次の本を手に入れて読んでいただきたい。

 

  ナタリー・ゴールドバーグ著『クリエイティヴ・ライティング』(春秋社刊)

 

 これがおそらく私があなたに出す最初の課題ということになるだろう。私はこの本を、どんな文章であれ、あるいはプロかアマチュアかを問わず、書くということを志すあらゆる人にとっての必読書だと思っている。さあ、善は急げだ。話の続きはそれからだ。



       *      *      *



 さて、読み終わっただろうか。この本を読み終わって、あなたがもしその内容を心ゆくまで味わい、著者のアドバイスをすぐさま実践に移せるなら、あなたはおそらくこのテキストの続きをいっさい読む必要はないだろう。私も、この本を読んだとき、ここには書くという行為の本質があますところなく描き尽くされていると感じた。この本以後に、書くことについての書物が可能だろうかとさえ思った。今回このテキストを書くにあたり、もう一度かなり丹念に読み返してみたが、改めてそういう気持ちを強くしている。この本には書くためのあらゆるヒントが隠されている。すべての行に傍線を引きたくなるほどだ。読み終わるのがもったいないと感じる本は少ないが、この本はその中の一冊である。だから、私は今だにこのテキストを書くことをためらっている。この本があるのに今さら自分が書くことに関するテキストを書く意味があるのか。この本を読んでもらえば、それで充分ではないか。

 しかし、私はこの本を読んで以来、文章家として、また文章の書き方を人に教える立場として、自分にとっての「クリエイティヴ・ライティング」をいつか書こうと決意した。そして今回通信講座のテキストという器を借りてそれを実現しようとしている。もちろんゴールドバーグほど巧みにそれを成し得ているとは思わない。また別の機会を借りて書き直すかもしれない。しかし今はベストを尽くそう。

 私はこの本をあらゆるライター志願者の必読書だと言った。ただし、誤解を招かないようにつけ加えておくが、この本が書くことに関する唯一絶対の本というわけではない。証拠を示そう。去年の十一月に、書くということに関する極めて重要な本がもう一冊邦訳出版された。アニー・ディラードの『本を書く』(パピルス刊)という本である。ここには、プロの作家というものが、どのように考え、行動し、生活し、そして書くかということが、ピュリッツァー賞作家ならではの舌を巻くほど秀逸な文体で語り上げられている。これも『クリエイティヴ・ライティング』と並べて、特に本格的な作家を目指す人にとっての必読書のひとつとして挙げておきたい。



    

〜基本テキスト〜