総評



 <一九九八年二月コース>
 課題

 総評より
  ■近未来の自分を語るということ


 <一九九八年三月コース>
 課題

 総評より
  ■クライマックスとディテールが描けない病
  ■留学ネタ、異文化交流ネタは考えもの
  ■「メーキングオブ〜病」の症状を自己診断する
  ■処方箋@:ボリュームバランス
  ■処方箋A:三人称によるストーリーテリング


 <一九九八年四月コース>
 課題

 総評より
  ■「社説病」あるいは「没個性病」
  ■文章年齢は早熟であるべし
  ■新聞のコラムを毎日味わう
  ■読書によって「カン」を養う
  ■作家として生きる
  ■三人称で書く
  ■ディテールを描く効用
  ■文学の文章にはモノの手ごたえがある
  ■作文の自習グループを作れ
  ■作文と論文はどう違うか
  ■「黒い」と言わずに「黒さ」を表現する
  ■「三題噺」は作文技術の集大成
  ■三題噺:「ファジー島訪問記」
  ■こんな書類が合格する


 <一九九八年五月コース>
 課題

 総評
  ■ある女子学生との面談
  ■志望動機や自己PRで何をアピールすべきか
  ■編集者に要求される適性とは
  ■「父の本棚」
  ■あなたの作文を審査するのはどんな人間か
  ■「勘違い組」
  ■「作文と論文の違い」という壁
  ■合格を目的に書いてはならない
  ■「マニュアル本」の副作用
  ■「マニュアル病」の典型的な症状
  ■言語経験のサイクル
  ■まとめ
  ■三題噺:「野良犬


 <一九九八年一一月コース>
 課題

 総評
  ■出題者の意図をいかに読み取るか
  ■「出自」
  ■「推薦文」
  ■自己PR/志望理由


 <一九九八年一二月コース>
 課題

 総評より

  ■講座の一年を振り返って
  ■課題を貫くもうひとつの主題


 <一九九九年一月コース>
 課題

 総評
  ■NHK現役職員が語る「合格する作文」
  ■いきなりクライマックスから書き始める
  ■採用担当者とは、あなたの人事プランを考える人間である
  ■プラン実現の意志をどう示すか
  ■「キャリアプラン」こそ最も効果的な自己PRである


 <一九九九年二月コース>
 課題

 総評
  ■試験の合格を目的に文章を書いてはならない
  ■心の準備はできているか
  ■あなたの成熟度をチェックする
  ■あなたの生涯目標をテストする
  ■クライマックスの瞬間とは
  ■誰も書かないことを書け
  ■右脳に訴える文章を書くべし

















<一九九八年二月コース> 課題

 

■一回目課題@(作文)

 次のテーマで、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

 「西暦二〇〇〇年一二月三一日の日記」

※この日は、一夜明けたら二一世紀が始まるという日です。同時に二〇〇〇年期から三〇〇〇年期への一〇〇〇年単位の時の変わり目でもあります。その記念すべき日にあなたはどこで誰と何をしたか、一日を振り返って日記を書いているという想定で書いてください。

 

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「肉」

 

■二回目課題@(作文)

 「私を変えた一言(一事)」というテーマで、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

 

■二回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「体温」

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ 天下り

  ○ インターネット

  ○ 脳内麻薬物質

 

 

<一九九八年二月コース> 総評より

■近未来の自分を語るということ

 近未来の自分自身のことを書かせるという論・作文のテーマは、マスコミに限らず、一般企業でも繰り返し出されるレギュラー問題といってもいい。少し例を引いてみよう。

 ○これからの自分について(大日コンクリート工業)

 ○五年後の私(守屋商会)

 ○二〇〇一年の私(ノエビア/女子)

 ○これからどう生きたいか(ニチコン)

 ○将来について(濃飛倉庫運輸)

 ○私の人生設計(ファンケル)

 どんな出題のされ方をしようが、未来の自分について書く場合も、書き方のポイントは同じだ。つまり抽象的になったり、あれやこれやの想念の羅列になったりせず、未来におけるクライマックスの瞬間をディテールをまじえて詳しく語るということだ。

 それを期待して私は、西暦二〇〇〇年一二月三一日という日付指定をわざわざ付けた。西暦二〇〇〇年といえばそれほど遠い未来ではない。かなり細かい想像力が働いてもいいはずだ。しかも、自分自身の未来なのだから、いかようにでも描けるはずだ。実現可能かどうかは問題ではない。どんなに突拍子もない未来を思い描いたってかまわない。SF仕立てのフィクションにしたってかまわない(実際にそうした人はいる)。そこにはいかなるルールもタブーも存在しない。

 ところが、送られてきた作文を読むと、そのほとんどが、久しぶりの帰省、家族との団らん、紅白歌合戦、ノストラダムスのはずれた予言、友との何気ない会話、といった相も変わらぬ平凡でたんたんとした大晦日の風景描写に終始していた。たんたんとしていることが悪いと言っているのではない。平凡であっても充実しているのならそれでもいい。しかし文面からは平凡ではあるが充実した日常の描写という印象は受け取れなかった。未来を思い描く想像力がすっかり衰えてしまっているようにも見える。

 ただし、この傾向は、この講座の書き手だけに限ったことでもなさそうだ。私は専門学校で講師をしている関係上、二十歳前後の若者とつき合う機会があるのだが、皆一様に、人間が生きていく上で必要な力が衰弱し、若者の特権であるはずの想像力や感性が鈍らされ、飛ぶための翼が傷つけられているようにも見える。

 確かに、ニュースを見れば、環境破壊、金融破綻、政治家や官僚の腐敗、内側から崩れていく学校、家庭、地域社会、そして就職難...。明るい充実した未来など描きようがないような現実ばかりが飛び込んでくる。しかしそうした時代の流れに同調し、踊らされてしまうのは、一種の敗北主義だ。現代の若者全員が敗北主義ということは有り得ない。若者の想像力を阻み、未来を暗たんとしたものにする障害はいつの時代にもあった。世の中がどうであれ、自分の未来は自分で作り出すものである。

 少なくとも思い描くのは自由だ。どんな未来を思い描くにしろ、これだけは間違いなく言えるのは、自分が足を向けた方向以外の方向に進むことは有り得ないということだ。視線だけ他の方向に向けながら、足の向いている方向に進むことは危険極まりない。そのうち体が引き裂かれるだろう。どの方向に足を向けるかは重要な選択である。

 芥川賞を受賞し、学生作家としてデビューした大江健三郎は、道路地図の読み方を覚える前に運転免許を与えられたような状態になり、思うように筆が進まず、酒に溺れ、睡眠薬をあおり、生活が荒れた時期があった。そんなとき、生涯の師とあがめるフランス文学者の渡辺一夫に相談を持ちかけた。すると渡辺はこう言ったという。「普通の生活をしながら普通でないことを書くのが作家というものだ。しかし、今の君は普通でない生活をしながら普通のことを書いている」

 

 

<一九九八年三月コース> 課題

 

■一回目課題@(作文)

 NGOの一員として、あるいはボランティアとして活動する人たちの間に、世界共通のスローガンとして、次のようなものがあります。

 

Think globally, Act locally(地球規模で考え、局地的に行動する)」

 

 あなたが、地球全体のことを考えながら、自分にできる身近なことをしたという体験について、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。必ずしも社会的な活動である必要はありません。

 

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「器」

 

■二回目課題@(作文)

 一人の人物を設定し、その人との対話録を八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。設定する人物は、実在、架空、歴史上の人物、有名人など、誰でも結構です。

 

■二回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「扉」

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ マインドコントロール

  ○ 鼻息

  ○ PHS

 

 

<一九九八年三月コース> 総評より

 

■クライマックスとディテールが描けない病

 私は基本テキストの中でも、そして個別のコメントにおいても「クライマックスの瞬間をディテールをまじえて詳しく語れ」と繰り返し説いてきた。その意味がようやくわかりかけてきた人もいるようだが、大半の人は相変わらずクライマックスが描けていない。

 言いたいこと、お題目、声を張り上げたい主張ばかりが先走ってしまい、妙に説教臭くなったり空理空論になってしまうか、あるいは自分が経験したことの全体像を何とか紙面に納まらせようとするがあまり、あらすじ、要約、まとめ調というか、単なる背景説明、経過報告に終わってしまうか、どちらかのようだ。

 レンタルビデオ店に行くと、「メーキングオブ〜」というのを無料で借りられる。映画の本編のためのプロモーションだ。中身を見てみると、まず予告編がある。つまり本編の見所を抜粋して再構成したものである。本編への興味は刺激されるものの、それだけ見ても何が何だかわからないという代物である。その後は、撮影風景(つまり舞台裏)、トリックの種明かし、出演者や監督が語る撮影秘話のようなものが続く。つまり極めて説明的、報告的な内容だ。そこで、クライマックスの瞬間をディテールをまじえて語れない人の病を「メーキングオブ〜病」と名づけよう。

 

■留学ネタ、異文化交流ネタは考えもの

 自分が体験した最もインパクトのある出来事であり、それによって自分が人間的にも成長し、問題意識も抱いたから、という理由だろうか、どんな課題を出すかにはあまり関係なく、外国での留学体験や外国人との異文化交流体験をネタに作文を書く人があまりに多いのには驚かされる。猫も杓子もという感じなのだ。しかも書いてある内容も似たりよったりである。たいていは自分も含めた日本人の国際感覚の低さ、社会参加意識の低さを嘆いてみせている。日本人がいかに「井の中の蛙」であるか、そしてその井からそろそろ抜け出すべきであるということらしい。主張はごもっともなのだが、同じような内容ばかり読まされる側はたまったものではない。だいいち、異文化に触れて目からウロコが落ちた式の体験を、日本人は何一〇〇年も前から繰り返してきたわけで、それ自体特別新鮮なことでもない。

 今回は特に「地球規模で考え、局地的に行動する」という課題だったということもあるのだろうが、それを即異文化交流ネタに結びつけるのは短絡的すぎるし、その表現の深さも、高校生でも書けるレベルにとどまっている人がほとんどだったのは残念である。「日本人は井の中の蛙を卒業しなければならない」という意識は、あなたたちの親の世代にも充分あるわけで、「せめてわが子には」という切なる願いから、決して安くない渡航費用を出してまでも子どもを外国に送り出そうとしているに違いない。その成果が「日本人はもっと世界に目をむけるべきである」といった、最初の問題意識に戻ってしまうようなものでは、いかにも情けない話である。せめて、「私はこのようにして井の中から抜け出た」という実例を示すぐらいのところまではいってほしいものである。

 そしてここでも表現のレベルを引き下げている原因は「メーキングオブ〜病」であった。外国の地を踏み、あるいは外国人と触れ合うことにより、さぞかし血の通った人と人との関係を体験したのだろうと思うのだが、いかんせん文章に血を通わせることを怠っている。

 

■「メーキングオブ〜病」の症状を自己診断する

 ためしにあなたの書いた作文から、動詞だけ抜き出してみていただきたい。「〜と思う」「考えさせられた」「〜と感じた」「気づいた」「〜を得た」「学んだ」「感動した」「後悔した」「嬉しかった」「悲しかった」「決意した」「努力した」など、自分の感情や心境を表現する動詞や、「〜しなければならない」「〜すべきである」「〜することができた」「〜したい」といった助動詞が次から次へと飛び出すようでは、そうとう重症の「メーキングオブ〜病」にかかっている。

 ちなみに基本テキストの一五ページにある女子学生の作文から動詞を抜き出してみよう。「ダッシュした」「脱げそうだ」「押し分けた」「戻って行った」「とんでった」「見つめた」「練習した」「始まる」「にぎりしめた」どうだろう、動作動詞(つまりアクション)のオンパレードだ。

 見せ場が次から次へと観客を襲うアクション映画と、理屈っぽいセリフばかりで動きの少ない映画と、どちらがクライマックスの瞬間をよりよく伝えられるだろうか。

 

■処方箋@:ボリュームバランス

 クライマックスとは何か。映画でいえば「見せ場」と呼ばれるシーンだろうし、作文でいえば「読ませ処」と呼ばれる部分だろう。たとえば二時間の映画だったら、一時間半が経過した後にやってくる時間帯がクライマックスである。つまり残り四分の一の時間である。だからといって、作文の場合も規定文字数の四分の一をクライマックスに費やせばいいかというと、そうではない。むしろ四分の三をクライマックスの詳しい描写に費やし、残り四分の一で自分の主張を述べるくらいがちょうどいい。つまりクライマックスとは、映画でいえば後半の凝縮した時間帯であり、作文でいえばいちばん文字数を費やすべき部分である。

 仮に作文を三つの部分に分けてみるとする。その三つの部分の呼び方には、前段/中段/後段、序節/中節/結節、序論/本論/結論など、いろいろある。映画でいえばプロローグ(導入部)/本筋/エピローグ(ラストシーン)といったところだろう。

 作文では中段に、映画では本節の後半にクライマックスがくるのが通常だが、作文の場合、読者の注意を引くために、前段にクライマックスをもってくるという手もある。いきなりクライマックスの瞬間の描写から書き始めるのだ。この場合は中段で「なぜいきなりそんなことを書いたか」の説明を加え、後段で全体の結びを書く。

 また、「じらし」や「溜め」のテクニックを使うなら、後段にクライマックスをもってくるという手もある。この場合は前段・中段が説明的にならぬよう、また読者を飽きさせぬよう、後段にどんなクライマックスが待っているのか「くすぐり」や「伏線」を前段・中段に入れておく必要がある。

 この三つのタイプを図に示しておこう。図の横軸は作文の流れ(三つの部分)を示し、縦軸は文字数を示す。曲線のピークがクライマックスの瞬間である。


 

■処方箋A:三人称によるストーリーテリング

 クライマックスと呼べるものもあるし、ディテールも描けているのに、今一つ深みと厚みに欠ける、説明口調が抜け切れていないと感じる作文をときどき見かける。そういう場合は、思い切って自分を突き離し、クールな頭で書くために、三人称を使った小説風の書き方をお薦めする。

 ストーリーを語って聞かせるというつもりになれば、余計な説明、理屈っぽく説教臭い主張などは書いていられないことに気づくだろう。ましてや三人称で書くとなれば、主人公は誰で、その他にはどんな人物が登場するのか、その名前からキャラクター設定まで、常にゼロから描写しなければならないハメに陥る。また、物語を盛り上げようとする意識が働き、クライマックスとは何かの認識も自然に高まるだろう。これはいいトレーニングになる。読む方もワクワクしながら読めるというものだ。

 

 

<一九九八年四月コース> 課題

 

■一回目課題@(作文)

 次のテーマについて、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

 「忘れ難い鮮明な記憶」

 

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「寿命」

 

■二回目課題@(作文)

 次のテーマについて、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

  「名前」

 

■二回目課題A(論文)

 「Today Bird's, Tomorrow Men(今日、鳥に起こっていることは、明日、人間にも起こる)」という言葉があります。環境問題に限らず、あなたが何かの現象に触れ、これは自分にも大いに関係があると感じた事柄について、一二〇〇字前後で論じてください。一般論にならぬよう、具体的に「自分事」として書いてください。

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ 隠れみの

  ○ ファジー

  ○ 表敬訪問

 

 

<一九九八年四月コース> 総評より

 

■「社説病」あるいは「没個性病」

 私は基本テキストの中でも、毎月の総評でも、はたまた個別の作品へのコメントにおいても、次のようなことを繰り返し説いてきた。

 ○ クライマックスの瞬間をディテールをまじえて詳しく語れ

 ○ あれやこれやのカタログ的羅列、青春グラフィティ調、卒業生答辞調は禁物

 ○ 説明口調や経過報告調も禁物

 ○ 「色々な」「様々な」といった表現も避けるべし

 これらのことはどんなテーマが出されても、また作文であろうが論文であろうが事情は変わらない。

 ところが、この単純なルールがなかなか難しいようで、たいていの者は、あたかも意図的に盛り上がりを詳しく書くことを避けているように感じることさえある。

 三月コースの総評で、クライマックスの瞬間をディテールをまじえて詳しく語れない人の病を「メーキングオブ〜病」と名づけた。つまり映画の本編ではなく、予告編や制作秘話を盛り込んだプロモーションフィルム(「メーキングオブ〜」)でも作るつもりで文章を書いているような作品のことだ。このような人のカルテに、今回はさらに「社説病」ないし「没個性病」といった病の症状を追加しなければならないようである。

 特に新聞記者志望の学生には、まるで新聞の社説でも書いているようなつもりになれば、何かを論じたことになると思い込んでいるフシがある。これは甚だしい勘違いである。そもそも社説と就職試験の論・作文とでは、文章を書く目的が根本的に違うのだ。社説の文章は、書き手の個性を極力排することによって、偏りのない普遍的な論調を目指していると言えるかもしれないが、そんなことは新聞社に入って記者修行を現場で充分積んでからやってほしい。あなたたちが今書くべきものは、そんな没個性的な文章ではない。

 採用担当者は、あるテーマに関する一般的な、あるいは普遍的な解釈なり論述を受験者に期待しているわけではない。あなたの書いた文章からあなた自身を読み取ろうとしているのだ。採用担当者は、ある特定のテーマに関して、あなたがどんな考えを持っていれば合格で、それ以外は不合格といったような、大学のレポートや論述試験の答案に対するような評価の仕方をするわけではない。ある事態に遭遇したとき、あなたがどう反応し、それをどう文章化するかというあたりを見て、マスコミ人としての資質を評価するのだ。

 確かに私たちは小学校からの国語教育の中で、本を読んでは感想文を書かされ、遠足や運動会、学芸会などの行事をやれば感想文を書かされ、といった文章教育を受け、果ては高等教育の中でも、参考書の丸写し的な答案は難なく通過し、個性的であったり突飛であったりする文章はとかく敬遠される、といった偏狭な価値観の押しつけの中で育ったかもしれない。そうした、伸びようとする個性の芽を摘み取るような環境から、一歩実社会に出ようとする段になって、いきなり自分の個性を存分に発揮せよと言われても、個性の発揮の仕方を教わってこなかった者にとっては、あまりに酷な話かもしれない。

 しかし、今となっては教育の貧困のせいにばかりはしていられない。遅まきながらも、自己教育するしかないのだ。まず最初の努力として、今まで植え付けられてきた「常識」というやつを、根こそぎ引っこ抜いて墓に葬るしかないだろう。

 

■文章年齢は早熟であるべし

 あなたの文章力を高校生レベルにとどまらせてしまうもう一つの原因として、実年齢に対する「文章年齢」が挙げられる。

 私は基本テキストの中で、文章を書くために必要なのは「人生経験」ではなく「言語経験」だと説いてきた。「言語経験」とは読むことと書くことの積み重ねである。この積み重ねが、その人の「文章年齢」を決める。

 今回の受講者には、この積み重ねがあまりにも低すぎる人が多かった。人格的な面はともかく、文章の精神年齢があまりにも低いのだ。

 二十歳そこそこで「人生経験」が少ないのは仕方のないことで、それをとやかく言うつもりはない。しかし、少なくともマスコミを目指す人間なら、「言語経験」は人一倍豊富で、「文章年齢」が実年齢よりはるかに高くなければならない。特に出版社を志望するなら、文章力としては「早熟」と呼べるぐらいでなければ、とうてい務まらないだろう。

 

新聞のコラムを毎日味わう

 「言語経験」のキャリアは、良質の文章を毎日読むことによって積み重ねられる。

 全国レベルの新聞の第一面には、下段に横長の段組みのコラムが必ず入っている。朝日新聞でいう「天声人語」、読売新聞でいう「編集手帳」、毎日新聞でいう「余録」がそれだ。このコラムを担当する執筆者は各社で複数いるらしく、無記名ではあるが、それぞれの持ち味を生かして交代で執筆しているらしい。その筆遣いは、社説のそれとは一線を画している。

 どれか一社のものでかまわないから、最低このコラムぐらいは毎日読んでほしい。「天声人語」などは一定期間ごとに編纂した本が関連出版社から刊行されているので、まとめてそれを読むのもいい。字数も八〇〇字前後なので、論・作文の極めて質の高いお手本になり得る。この手のコラムが書けるようになったら、書き手としては超一流である。

 まずは一読して内容を味わい、次に細部の言葉遣いや表現を味わい、最後に構成の妙を味わってほしい。各社に共通する書き方の特徴としては、次のようなものが挙げられる。

○ ひとつのテーマを扱っている(複数のテーマを扱っていない)。

○ 具体的なエピソードが必ず盛り込まれている。

○ 言いたいことがハッキリしている。

○ 文章が簡潔で、表現がピタリとハマッている。

○ 構成がしっかりしていて、話題に広がりがある。

○ 一見メインテーマに関係なさそうな事柄が語られていても、最後にはそれがきちんとメインテーマにつなげられている。

 

■読書によって「カン」を養う

 さて、新聞に一通り目を通したら、次には迷わず単行本に手を伸ばしてほしい。それも評論よりは小説やエッセイをお薦めする。小説やエッセイにはディテールが描かれているからだ。特に「メーキングオブ〜病」にかかっている人には、栄養としてディテールの摂取が不足しているわけだから、その栄養を補ってやる必要がある。

 あなたの読書ペースと寿命を考えるなら、あなたが一生のうちに読める本の数が決まってくる。あなたは「言語経験」を積み重ねるのに、どのような本をどのくらい読むことによって、そのキャリアを埋めるつもりだろうか。ライフプランを立てるように、一生の「読書プラン」を立ててみるのも一興である。

 あなたは今、どのくらいの蔵書を持っているだろうか。その数は年間どのくらいのペースで増えているだろうか。もちろん数だけが中身の善し悪しを測る尺度だとは思わない。しかし私自身の本棚を見てみると、内容はもちろん、数の面で言っても、私の読書傾向はあなたぐらいの年齢のときに、すでにその根っこの部分は出来上がっていたようにも思う。それは脳ミソの出来具合が、その年齢までにあらかた出来上がってしまうのにも似ている。

 たとえばあなたが新聞社や出版社に就職し、仕事であるテーマを与えられ、それについての文献を片っ端から調べなければならないとする。あなたは大きな書店や図書館に出かけ、ノミの市で掘り出し物を探すように、自分にとってどの本が有用かを、探り当てなければならない。そのときに真価を問われるのは、書物に対する「カン」と呼ばれるものだろう。

 この「書物に対するカン」については、私もかなりの自信を持っている。あるテーマに関して調べるべき文献を探して書店や図書館めぐりを始めると、何時間でも飽きないし、それなりの成果物を手に帰宅する自信はある。内容にもまず当たり外れはない。

 言語経験を積み重ねない限り、このカンを養うことはできない。言語経験から離れていると、当然カンは鈍る。

 今回この総評を書くにあたり、それに先立ってまったく毛色の違う仕事を集中的にやっていたため、なかなか頭が切り替わらず、言葉がうまく出てこない日が何日か続いた。文章表現に対するカンが鈍っていたのだ。こういうときは、スイッチを早く切り換えるために集中的に読むしかない。言語経験が豊富であればあるほど、つまり日頃から言葉に対するカンを養っていればいるほど、ほんの少しの読書量でスイッチはすぐに切り替わる。私は仕事の帰りに近場の書店に駆け込み、カンの赴くままに何冊か本を買って電車の中で読んだ。それで言葉に対するカンも取り戻せたし、読んだ本の内容も執筆に大いに役立った。

 

■作家として生きる

 本もそこそこ読んでいる、書くことも嫌いではない、この講座でも毎回平均的な評価(CやD)は得ている、しかしなかなかそこから上へ上がれない、という人は多いだろう。確かにCからBに上がるには、つまりごく平均的なレベルから合格の安全圏内に上がるには、大きな壁があると言えるかもしれない。この壁をどうしても乗り越えたいという人にアドバイスできるとしたら、それは「この就職活動の一時期だけでも構わない、今この瞬間から作家として生きろ」ということだ。

 作家とはまず、毎日文章を書く人間である。書くことが習慣化している人間のことをいう。就職活動で忙しく、本を読むことと文章を書くことで言えば、どちらか一方しか実行する時間がないというなら、迷わず書く方を選ぶしかない。いくら本を読んでも書かなければ作家とはいえない。

 ハンガリー出身の作家アゴタ・クリストフは、二一歳のときにフランス語圏に亡命し、二部屋のアパルトマンに住み、昼間は時計工場で働き、帰宅後は家事と育児に追われ、言葉もわからない(当然読む本もない)、身寄りもないという苦しい生活の中で、書くことだけは怠らなかった。そして気がついたときには、フランス語で作品を書き、世界的な作家になっていた。

 書くことが習慣化している人間は、道を歩いていても、電車に乗っていても、洗面所で顔を洗っているときも、頭の中で文章を組み立てている。書斎で机に向かっていないときでも、頭の中ではもう一人の自分が常に語りかけている。言語経験が豊富な人間ほど、もう一人の自分の語りかけは、はっきりした音声をともない、そのまま文章にしてもいいほど完成度が高い。

 特にフィクションを常時手掛けている作家(小説家)の頭の中では、登場人物が肉声で作家に語りかけている。アメリカの作家ポール・オースターは、「最後の物たちの国で」という作品を、ほとんど「聞き書き」のようにして書いたと述べている。ある日女主人公の声が聞こえはじめ、何年もの間その声はつかのま聞こえては消え、聞こえては消えを繰り返し、やがて他の作品を書いている最中に、今度こそはっきりその声が聞こえてきたという。

 作家とは、自分自身を語るにしろ、物語の登場人物を描くにしろ、「色々な人と出会い、色々なことをし、いろいろ学んだ」式のあらすじ的な書き方は間違ってもしない人間である。あらすじを書くぐらいなら、たったひとつでも具体的なエピソードをじっくり語る方を選ぶ。

 作家とは、人と同じものを見て、違うことを考える人間である。自分が考えていることを人に話すと「バカなこと考えるな」と言われてしまう人間である。話したくて仕方がないのに、話すとバカにされ、誰も聞いてくれないため、仕方なく書くことを選んだ人間である。あなたがもし、これは絶対に大発見だ、人に伝えるべきだと思いながら、いざ人に話すと誰も聞いてくれないという経験をお持ちなら、あなたは作家になる第一条件をクリアしているのかもしれない。

 

■三人称で書く

 森瑤子はこう言っている。「今小説を書いていて思うのだが、最初から人に読まれることを前提に書く小説なり、エッセイなりの方が、日記を書くよりもはるかに自分に対して正直になれるということである。自分の格好悪いことだって、心のやましさや醜さだって、粉飾なく書きこめる」この感覚は、フィクションを書いたことのある者なら誰でも味わった経験があるのではないだろうか。

 作家とは、建築家が建物を建てるように、人物を造形する人間である。そしてその人物について、作家は三人称で語る。たとえ一人称で書かれた作品でも、物語の話者を「私」と便宜上名付けているにすぎない。また、たとえ物語の登場人物が作家本人をモデルとしたものであっても、それはやはり作家が創造し造形した人物像だ。

 一人称で作文を書くと、その人物が自分自身であるという「甘え」をいだいてしまい、その「私」がどんなキャラクターなのかを描くことを怠りがちになる。その結果「私」という主人公は、透明人間のように感覚器官だけの希薄な存在になってしまう。いわんや「私」以外の登場人物にさえ肉体を与えない書き方も見受けられる。これでは血の通った文章にはならず、読み手には何も伝わらない。

 登場人物には名前、年齢、性別、風貌、性格、振る舞い方、社会的役割などの属性を与えなければならない。そのためにも三人称で書くことをお薦めする。三人称で書けば、上記のような属性を登場人物に与えざるを得なくなるし、森瑤子のように自分のことを粉飾なく正直に書こうという気にもなる。自分とはどういう人間か、三人称であたかも他人のように書いてみて、初めてわかることもある。つまり自分というものを、作家の目を通して見つめ直すという作業である。

 

■ディテールを描く効用

 作家とは、ディテールを積み上げることによって物語を語る人間である。時間にしたらほんの一秒にも満たない瞬間的な出来事の描写に何千もの言葉を積み上げる人間だ。

 大江健三郎は「私という小説家の作り方」(新潮社)というエッセイの中で、創作家としての出発点ともいうべき少年時代のある発見について語っている。ある青葉の季節に柿の葉にたまった雨のしずくを見て、そのしずくの中に別の世界があると感じたという。時間にしてみればほんの数秒の出来事だったろうが、その一瞬の出来事を語るのに、大江は約二八〇〇字ほどを費やしている。

 ディテールはなぜ重要なのだろう。ディテールを描くことにどんな効用があるのだろうか。

 まず第一に、ディテールの描写に専念することによって、文章が理屈っぽくならずにすむ。人は理屈には耳をふさぐが、語りには耳を傾ける。理屈は事実を裏付けるが、ディテールの描写は書き手と読み手の想像力を自在に解放する。

 また、ディテールはプラスアルファを読み手にもたらす。読み手はディテールによって、テーマ以上の情報を得る。理屈や論理から書き手が意図した以上の情報を読み手が受け取ることを期待することはできないが、ディテールから読み手が受け取る情報は計り知れない。ほとんど無限といってもいい。

 ディテールがしっかり描けていれば、何らかの結論や教訓めいたものを導き出す必要もなくなる。それらはすべてディテールの中に含まれている。必要なのは落語でいう「落ち」、あるいは映画でいう「ラストシーン」である。

 

■文学の文章にはモノの手ごたえがある

 ある情景を目にしたとき、人はよく「まるで一服の絵のようだ」とか、またそこに何らかのドラマが感じられたとき「まるで映画の一シーンのようだ」と嘆息したりする。絵や映画の方が現実の世界を模倣しているはずなのに、そう感じるのはなぜだろう。

 表現されたものの中には、作者がそこに費やした時間と労力の分だけのエネルギーが宿っている。それをまともに受け取るためには、受け手の方にもそれに見合う器量が要求される。

 あるテーマについて詳しく書けば書くほど、受け手の判断を長びかせる働き、読み手にそう簡単には結論を出させない働きが増す。それはちょっとした書き物の領域から「文学」の領域へ足を踏み入れようとする試みでもある。

 大江健三郎は「新しい文学のために」(岩波新書)の中で、次のように述べている。

 

 「人が事物を見る、それもものそのものの手ごたえを確かめるようにして、事物を見る。それを人は、急ぎ足でやることはできない。かれはしばしば立ちどまる。かれのものの見方は、ゆっくりした深いものになる。書き手がそのように書き、読み手がそのように読む態度をいざなう文章が、ほとんど代数学的な情報の・・この島にはゾウガメ十頭、という統計表の表示とそれは変わらない・・ルポルタージュとくらべて、これはなんだ、という批判が発せられたとして当然ではないか? 知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法? なんだ、なんだって? しかし芸術の作り手たちは、あえてすすんでこの、古めかしく見えさえもする手法をとろうとするのである。

 この際、芸術としての文章を読みとる側の、受動的と能動的という、対立するふたつの態度の問題をもあわせ見ておきたい。新聞に連載される秘境探検のルポルタージュを読む際の、意識の動きは、受け身のものだ。ある情報を、ちょっとした知的困難の感覚もなしにあたえられ、軽い楽しみとともに読み終る。それはテレヴィの秘境探検のフィルムを見る態度そのままだし、あるいはチャンネルを切りかえてプロ野球の実況放送を見る態度ともたいした変りはない。つまりは、先方から気持の良いなめらかさで伝達される情報を、受け身で楽しんでいるのだ。

 ところが、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法を受けとめ、能動的に自分のうちにとりこむことは、すっかり別の作業である。それは自動化・反射化とはちがった仕方でものに対することであり、意識をものに集中する仕方で文章を読み進むことである。つまり能動的な作業である。文章の一節に立ちどまり、意識の力をそこに集中するようにして、言葉の表現しているものに触れてゆく。それは能動的な行為として、いかにも人間にふさわしい。そのような能動的な行為を読み手によび起こすことを期待して、作家は小説の文章を書くのである」

 

 できるだけ詳しく書くことによって、読み手の態度は判断や評価から鑑賞に変わる。何の抵抗感もなくサラッと読めるものから、じっくりとモノの手ごたえを感じながら味わって読むものに変わる。詳しく書けば書くほど、そこにはひとつの尺度では測れないさまざまな要素が絡み合い、混然一体となってモノの手ごたえを持つに到る。そうして言葉は単なる記号から生命を持った生き物となる。そのようにして言葉にいのちを吹き込むこと、それが書くという行為の醍醐味だ。

 

■作文の自習グループを作れ

 書いたものは必ず誰かに読んでもらうこと。人に読まれることを前提に書いているのだという単純な事実を忘れないこと。読んでもらう相手は誰でもかまわないが、必ず感想なり批評なりに耳を傾けよう。その際、その場で反論や否定はしないこと。反論は作品の書き直しや、別の作品の執筆という形でおこなう。

 できればマスコミへの就職という同じ目標を持つ仲間で、作文の自習グループを作り、自作を発表し、他人の作品を読み、互いに批評し合うといい。これは非常にいい勉強になる。自作を読んでもらうことにより、自分の書いたものが、他人にどう受け取られるのかがわかるし、他人の作品を読むことによって、自分の文章力がどのくらいのレベルにあるのかも認識できる。

 あなたの作文を読んで採否を決める担当者は、あなたの親ぐらいの年代の人間だということも覚えておいてほしい。親でも親戚でも恩師でもかまわない、その年代の人間に読んでもらうというのも試してみる価値がある。

 

■作文と論文はどう違うか

 今回、ある受講者から「作文と論文はどう違うのか」という意味の質問を受けた。私は基本テキストの中で、採用試験とはちょっと変わったお見合いのようなものだと述べたが、「作文と論文はどう違うのか」という疑問は、お見合いの席に洋服と和服のどちらを着て行く方が効果的か、という疑問と同じようなものだ。つまり、問題は、相手に対してどういう自分を見せたいか、あるいは自己演出したいかということである。

 作文でも論文でも、テーマが出された瞬間は、お見合い相手の写真なりプロフィールなりの情報を見せられた瞬間に相当する。その瞬間から、相手がどういう人間で何を望んでいるのかという分析がスタートし、そしてその分析結果から、相手が望んでいることに対して、自分の中からどのような素材を引き出し、それをどのように料理し、テーブル・コーディネートしてそのニーズに応じるかという対策が講じられるわけだ。

 仮にあなたが、与えられた課題に対して理路整然とした論述を展開したとする。それはあなたが論文を書いたことを意味するのだろうか。いや、そうではない。自分はこれだけ論理的思考ができるのだ、自分はひとつのテーマに関してこれだけ蘊蓄を傾け、思索を深めることができるのだという、あなた自身の一つの側面を読み手に開示したことを意味する。文章によって自分の論理性をアピールしたのだ。

 仮にあなたが、与えられた課題に対して、理屈っぽい熱弁をふるうこともせず、ある現象に対する感想を述べるわけでもなく、それでいて眠気の醒めるような感動を読み手に与えたとする。それは作文を書いたのでも論文を書いたのでもなく、おそらくあなたはひとつの言語芸術作品を構築したことになるのだろう。

 

■「黒い」と言わずに「黒さ」を表現する

 もちろん作家とは、言語芸術作品を構築する人間である。その際作家は、ディテールを詳しく語るという方法を用いるが、作家がディテールの描写を用いて表現したい真の対象は、ディテールの中にはない。たとえば「愛」を表現しようと作家が言葉を積み重ねるとき、そのディテールの中にはおそらく「愛」という言葉は登場しない。愛という言葉を使って何かを描写したとたん、それは愛ではないものを表現したことになる。

 たとえばあなたがある日、闇夜でカラスにばったり出くわしたとする。まさに「闇夜のカラス」で、最初はよく見えなかったが、目が慣れてくるうちにカラスだとわかった。そこで改めてあなたは「カラスって、本当に黒いんだな」と思う。その「カラスの黒さ」というものを文章で表現しようとするとき、作家は「カラスは黒い」とか「黒いカラス」といった表現を使わない。「カラス」とか「黒い」といった表現を使わずに「カラスがどれだけ黒いか」を表現してみせるのが作家である。作家とは「黒い」と言わずに「黒さ」を表現する人間なのだ。

 そこで、次の二つの例文を見ていただきたい。

 

<例文一>「忘れ難い鮮明な記憶」

 人は、何か衝撃的な出来事に遭遇すると、それがたとえほんの一瞬の出来事だったとしても、おそらく一生忘れることはないだろう。他の幾万の記憶の断片が、時とともに色あせ、薄れていくとしても、絶対に忘れることなく、むしろ時を経るごとに鮮明さを増し、昨日のことのように細部の感覚をともなって蘇る記憶というものを、誰でもひとつやふたつは持っているに違いない。

 私にもそういう記憶がひとつある。それは私がまだ幼い少女だった頃のことである。それがいくつのときのことだったのかは、もはや思い出せない。その日私は、何かの理由で家から真夜中の田舎道に飛び出した。なぜ飛び出したのか、どこかへ行こうとしたのか、それも思い出せない。ただ心の中で「私は弱虫なんかじゃない。臆病者なんかじゃない!」と叫んでいたことだけは覚えている。それから想像すると、親に叱られたか、兄弟に馬鹿にされたかして、自分の勇気を証明したかったのかもしれないが、はっきりしたことは覚えていない。

 とにかく私は鼻をつままれてもわからないほど真っ暗な夜道を、何かにぶつかってはいけないと思い、手を前に突き出しながら一心に歩いていた。先に述べた「私は臆病者じゃない」という心の中の叫びや、前に突き出した手の仕草から察するに、不安や恐怖は当然あったのだろうが、それだけではなく、もっと複雑な感情が私を支配していたようにも思う。

 そのとき私は突然何かに襲われたのである。ガサガサッという物音がしたかと思うと、次にギーとかギャーとかいう鳥の鳴き声のようなものがして、真っ暗な闇の中から何かが私めがけて突進してきた。しかし私には何も見えなかった。そしてそれは私の額に傷をおわせ、再び闇に消えて行った。

 それがカラスだったかどうか、そのときの私にはわからなかった。しかし、その後、昼間にカラスを見たり、その鳴き声を聴いたりして、あのときの記憶と照らし合わせてみると、おそらくはカラスに間違いないだろう。私の記憶はその後の経験によって確信を得たのである。記憶と経験にはそういう相互補助関係があるのだろう。

 こうして私は、まさに「闇夜のカラス」という表現通り、真っ暗な闇の中では、真っ黒なカラスは見えないのだという、今から思えば当たり前のことを幼心に納得したのである。これが私にとっての「忘れ難い鮮明な記憶」である。この記憶は、その後の私に何かしらの心理的な影響を与えているにちがいないのだが、それはもはや思い出せない。

 

<例文二>「闇の帝王」

「私は弱虫なんかじゃない。臆病者なんかじゃない!」

少女は心の中でそう叫びながら、街灯ひとつない深夜の田舎道に飛び出した。少女の目の前に、鼻をつままれてもわからないほどの闇が広がった。少女は、自分の行く手を阻もうとするものを、阻まれる前に掴み取ろうとするかのように手を前に突き出し、そして心の中では同じ言葉を叫び続けながら、ひたすらその道を歩き続けた。自分がなぜ家を飛び出したのか、こんな夜中にどこへ向かおうとしているのか、そして自分が臆病者でないことを証明するためにこんなことをしているのかどうかさえ、少女にはもう思い出せなかった。

 少女の心の叫び声も、前に突き出した手も、闇が深まるにつれて研ぎ澄まされ、周りの物音に敏感に反応していく聴覚に打ち勝つことはできなかった。

 その耳で、少女はガサガサッという物音を聴きつけた。少女は一瞬立ち止まり、身をこわばらせ、耳だけに意識を集中させた。音は少女の行く手前方のやや高い場所から聴こえてきた。少女は首を動かさず、目だけそちらに向けた。少女はそこに、硯の中に落とした真珠のような二つの小さな丸い点を見い出した。少女にはそれが星のように見えた。しかしすぐにそうでないことに気づいた。その二つの光る点が少し動いたからだ。

 そのときだった、再びガサガサッという物音がしたかと思うと、金属をひっかくような甲高い音がし、軽い風圧とともに何かを浴びせかけられたような感覚が少女を襲った。少女はとっさに顔をそむけ、手で自分の身をかばった。物音は生暖かい風圧を残し、次第に少女から遠ざかって行った。少女は額に軽い痛みを感じ、その部分に指で触れてみた。その指にぬるっとした液体がついてきた。それをほんの少しなめてみると、金属のような苦い味がした。

 その一瞬の間に何が起こったのか、少女にはわからなかった。その後、どのように家に戻ったのか、そしてその後の人生をどのように生き延びたのか、それさえもまったく思い出せなかった。しかしその一瞬の出来事は、少女には永遠の記憶の中の出来事のようにも感じられた。

 

 さて、いかがだろう。<例文一>の方は、自分の意見を理路整然と述べ、分析と結論を提示するものという意味では、一般的に「論文」と呼ばれている書き方に近いものだろう。説明的であり、分析的であり、経過報告的な書き方といえる。

 一方<例文二>の方で、私は文体上の実験を試みている。まず、一人称を三人称に変えている。動詞は動作動詞と感覚動詞に限定した。「恐怖」とか「不気味な」といった、少女の内面の心理や感情を表す表現も意識的に避けている。また、当然「カラス」とか「黒い」といった言葉も退けている。その結果読み手には、少女を襲ったものがカラスなのかどうかさえ、はっきりしない書き方になっている。

 「カラスがいかに黒いか」というテーマを、より効果的に、強い印象とともに読み手に伝えられるのはどちらの書き方か、また同時に、私が力説している「ディテールの力」というものを、どちらがよりよく体現しているのか、そして、作文と論文の書き方に明確な違いをつけることにどのような意味があるのか、いやむしろ、自分はどちらの書き方を目指したいのか、それはあなたが自分で決めていただきたい。

 

■「三題噺」は作文技術の集大成

 三題噺とは、もともと落語の世界の遊びで、お客さんから勝手に出された三つの単語を必ず盛り込んで即興のお噺を作るというものだ。当然お客さんは、噺の流れの中で三つの単語がいつどういう文脈で登場するのか、期待しながら聴いている。そして絶妙のタイミングでその単語が登場したときに、「わーっ」と歓声があがり、拍手がまきおこるわけだ。

 いわゆる「言葉が効いている」という状況がなければ、噺は面白くならない。「言葉が効いている」とは、「うーん、なるほど。こういう脈絡でもってきたか」と読み手をうならせるということである。

 三つの題を「効かせる」ためには、ただ文脈のなかに単語が埋め込まれていればいいというものではない。三つの言葉がそれぞれにもつ背景や、それを取り巻く概念のようなものが、ひとつの噺の流れの中で融合していなければならない。

 さらに、落語である以上は「落ち」があるわけで、したがって欲を言えば、三つ目の単語は、「落ち」のタイミングで登場させられれば、噺としてキリッと引き締まって終わることができる。

 よく、事実に根ざして書いている人がいるが、よほど面白いエピソードでもない限り、あまりお薦めできない。事実に根ざすにしろ、面白くするためのよほどの脚色が必要だ。三題噺の場合はハッキリ空想物語と割り切って、思い切った発想でフィクションを描いてしまった方がかえって書きやすいと思う。その方が読む側も楽しんで読めるはずだ。

 三題噺の出題が出版社に多いのも、文章によるエンターテインメントという色調が強いからだろう。売れる本を発想できる編集者であるためには、ストーリーテラーとしての才能がある程度要求されるということらしい。噺を面白くするポイントは、やはり時代風刺の要素を盛り込むことだろう。

 「三題噺」とは、いわばマスコミ就職のための文章修行の集大成のようなものだ。それは文章力を試されるばかりでなく、いや、それ以上に想像力(創造力)が試されるテーマである。文学でいえば「コント」とか「ショート・ショート」と呼ばれる、最も短い短編作品ということになるだろう。しかも「三つの言葉を必ず盛り込む」というはっきりした条件がついているのだから大変だ。プロの作家でもなかなか一筋縄ではいかない代物である。それが就職試験(特に出版社の課題)に出されるのだから「お気の毒」としか申し上げられない。うまくなるには数をこなす以外にはないだろう。

 三つの題が与えられたら、まずそれぞれの言葉の持つ背景や概念を考えてみる。言葉の辞書的な定義は何か、流行語だとしたら、どのような社会的背景で浸透したのか、その言葉からどのようなシチュエーションが浮かんでくるか考えてみよう。

 三つの言葉をただボーッとながめてみて、何かフッと浮かんでくるイメージをこね回してみるのもいい。浮かんでくるのは、人物の顔だろうか、どこかの場所だろうか、ある出来事の全体像だろうか。そうした情景に徐々に焦点を合わせ、自由な発想でふくらませてみる。

 そうしたイメージの中から、物語全体を通してどのようなシチュエーションを設定するかをまず考える。そしてそのシチュエーションに登場人物として誰を登場させるか、その人物にどのような理由でどのような行動をとらせるか、そして噺の「落ち」は...、という具合にイメージを畳み掛けていく。

 つまりシチュエーションの設定には、次のような五W一Hの要素を考えるとよい。

 ○ When(いつ)

 ○ Where(どこで)

 ○ Who(誰が)

 ○ Why(なぜ)

 ○ How(どのように)

 ちなみに、今回の三つの題は次のようなものだった。

 ○ 隠れみの

 ○ ファジー

 ○ 表敬訪問

 それぞれの言葉のもつ背景や概念を考えてみよう。

 まず「隠れみの」という言葉は、辞書を引くと「それを着ると、体が見えなくなるという蓑。本心・本質を見破れないようにするための手段にもたとえられる」と出ている。そこで、誰がどんな隠れみのを使って、何を隠しているのかという想像力が働く。

 次に「ファジー」という言葉は、「曖昧な」という意味の英語だが、より人間らしさに近づけるために家電製品やコンピューターなどの機械に与えられた性能を意味することで、一種の流行語になったという背景を持っている。機械の進化に引きずられて、人間もよりいっそうファジーになってしまった感さえある。そこで、現代文明を風刺する材料として使えないかという想像力が働く。

 最後に「表敬訪問」という言葉は、読んで字のごとく、誰かに敬意を表するために訪問するという意味である。そこで誰をどこに訪問するのかという想像力が働く。

 

■三題噺:「ファジー島訪問記」

 西暦二〇一三年、太平洋のど真ん中、フィジー諸島の小さな島「ファジー島」が独立した。ある旅行好きの作家が、島の滞在記を書いているが、それによると島の名前は「ファジー」だが、島の住人は曖昧さなどひとかけらもないハッキリした性格だという。

 私がこの島を訪れてみたいと思ったのは、曖昧さの上にあぐらをかいているような世の中と、そして何よりそういう世界の住人である自分自身にイヤ気がさしたからかもしれない。

 島に上陸して、くだんの作家にすっかりしてやられたと思った。そこは「ヌーディスト島」だったのだ。島の住人は誰も彼も一糸纏わぬ姿で往来を闊歩している。観光立国なので旅行者も多いはずなのだが、事情を承知の上で来ている客ばかりらしい。同じ船で上陸した客たちも、さっそく服を脱ぎ始めた。私も脱がざるを得なかったが、最後のパンツ一枚がどうしても脱げなかった。

 こうして私は、手には荷物をさげ、パンツ一枚の間抜けな姿で、港で客待ちをしていたタクシーに逃げ込むように飛び乗った。当然タクシーの運転手も裸でハンドルを握っている。その姿は妙なものだ。まずは一杯飲みたい気分だった私は、その旨を伝えると、運転手はとびきりご機嫌なパブに案内するという。少し気分が落ちついてきた私は、パンツのことをそれとなく運転手に聞いてみると、脱ぐも脱がないも人それぞれだからというアッケラカンとした答えが返ってきた。

 案内されたパブは確かにご機嫌なところだった。客も店員も、男も女も裸であるという点を除けば。店の女の子にちょっかいを出している酔っぱらいの男は、平気で一物を勃起させている。女の子もそれを軽くあしらっている。とにかくハッキリしていると言えば、これほどハッキリしている連中も他にいないだろう。

 カウンターに腰をおろし、ビールを注文すると、バーテンダーに「お客さん、そのパンツの下に、どんな魅力的な一品を隠していらっしゃるんですか」とからかわれた。考えてみれば、ヌーディストの中でたった一人パンツをはいている私は、目立つという意味では銀座の真ん中で一人裸でいるのと大差ないだろう。

 苦笑いを浮かべている私に、隣の客が声をかけてきた。観光客か、どこから来たのか、といったお決まりの質問が続いた後、名前を聞かれたので、正直に答えると、その男は初めキョトンとした顔をしていたかと思うと、突然大声で笑い出し、向こう隣の客に「おい、この人の名前は〜だとさ」という意味のことを言っている。するとその客も笑い出し、それが伝言ゲームになって、やがてそれほど広くない店内が、私の名前の話題で持ち切りになった。皮肉まじりの笑いを浮かべている者もいれば、腕組みをして考え込む者もいるといった具合で、反応もさまざまだ。

 そんな反応のいちいちを受け流すこともできずにいる私の頭に、改めて思い浮かぶことがあった。考えてみれば、自分の名前というものは、ペンネームや芸名でもない限り、おそらく生まれて最初に他人から与えられ、生涯持ち続けることになる唯一の所有物なのかもしれない。その割には自分で使うよりも、他人によって使われることの方が多い。つまり、自分で自分を識別するというより、他人が自分と他の人間を識別するのに専ら利用されるわけだ。どのような理由からかわからないが、こうして自分の名前の話題でひとつの店の中が持ち切りになっているという状況の中で、私は自分の所有物に、責任のとりようもなく、もてあましている自分を感じていた。

 するとそのとき、テーブル席にいた一人の老人が立ち上がり、「外国からのお客さんに失礼じゃないか」と皆を制した。他の客はその老人の言うことを素直に納得したのか、あるいはこの話題に飽きたのか、老人の言葉をきっかけに、また思い思いの会話に戻り、波が引くように平静さを取り戻していった。

 その老人はテーブルを離れ、私のところまでやってくると、「失敬な連中で申し訳ない。悪気はないのだが」というようなことを言った。体格は労働者風でガッシリしているが、物腰や話し方には品性が漂っている。お決まりの挨拶を交わした後、この島には何の目的で来たのかと聞かれたので、ある作家の滞在記を読み、島を訪れるなら、必ず族長を「表敬訪問」するよう書かれていたので、是非会ってみたいが、どこに行けば会えるかと、逆に聞いてみた。するとその老人は、「はて、この島に族長などという人物がいたかな」と考え込んだかと思うと、皆の方にやおら向き直り、「おい、この島に族長なるものがいるか、誰か知っているか」と訊ねた。すると一人の若者が答えた。「さーて、どうかな。族長なんてものがいるかどうか、よくわからないが、いるとしたら、それはあんた以外にはないだろう」すると店内にまた爆笑の渦が巻き起こった。老人は私の方に向き直り、「どうやらわしが族長らしい。それで、わしに何か望むことはあるか」と訊ねた。突然のことで、私もすぐには気のきいた答えが思い浮かばず、「望むことと言われても、特別ないのですが、先ほど皆はなぜ私の名前を聞いて笑ったのですか」と聞いてみた。すると族長と呼ばれた老人は、私のはいているパンツをしげしげと眺めながらこう答えた。「ああ、そのことか。君の名前はファジー語で“隠れみの”という意味なのさ」

 

■こんな書類が合格する

 学生の作文や応募書類の文面をあまた読んでいくと、それを書いたときの本人の心理状態や生理状態までが何となく見えてきたりする。

 生きることに前向きで、自分の能力にもしっかりした根拠をともなった自信があり、主張したいこともはっきりしている人の文面からは、一種のエネルギーが発散されていて、読んでいるこちらまでエネルギーをもらって元気が出るような気さえする。

 先日、日本ジャーナリストセンターの事務局で、マスコミ受験講座の受講者が書いた志望書を集中的に見せてもらう機会があった。その中でも、どこかしらのマスコミに合格した書類は、やはり一種のエネルギーを発散しているように感じられた。書いてある内容は、とりたてて珍しくもないし、本人に他と著しく違う特徴や能力があるというのとも違うのだが、何か強い生命力のようなものが感じられるのだ。それはどこからくるのだろうか。

 合格者の書類に見られる共通点を冷静に分析してみると、次のようなことが言えそうだ。

 

◎自分らしさを大切にしている。

 自己PRするのに、自分に本来備わっているもの以外で勝負しようとしていない。自分にないもので勝負しようとすると、無理、誇張、ウソ、作りごとにならざるを得ない。これは読めばすぐにわかる。

 自分に本来備わっているものを素直に表現している人は、たんたんとしていながらも、文面からは本物の自信がうかがえ、その自信に裏打ちされた落ちつきのようなものが感じられる。

 

◎ライフテーマを持っている。

 マスコミ人として、生涯追い続け、深めていこうとするライフテーマを持っている人は強い。そのテーマを追求するのに、文献を調べ、現地を訪れ、関係者に会い、という行動を積み重ねている。つまり、意識的か無意識的かわからないが、すでにプロのマスコミ人として行動しているのだ。これには説得力がある。

 

◎豊富な言語経験を持っている。

 これは文章を読めばすぐにわかる。読書量が多いというだけでなく、文章も書き慣れているし、また何よりもそうした豊富な言語経験に根ざした視野の広さを持っているという点が重要だ。言い換えれば「国際感覚」と言ってもいい。狭い日本の島国根性ではなく、世界に目が開かれているということだ。

 

 

<一九九八年五月コース> 課題

 

■一回目課題@(作文)

 長い間やってみたいと思っていて、ついに実行に移したことは何ですか。それをやる前と後では、あなたはどのように変わりましたか。八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

 

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「境界」

 

■二回目課題@(作文)

 あなたにとって理想的な一夜とはどんなものですか。季節、場所、誰と(あるいは一人で)、何に囲まれているかなど、八〇〇〜一二〇〇字程度で詳細に語ってください。

 

■二回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「流れ」

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ 高齢化

  ○ お墨付き

  ○ 環境ホルモン

 

 

 

<一九九八年五月コース> 総評

■ある女子学生との面談

 日本ジャーナリストセンターの事務局から電話があった。今コースの受講者の一人である女子学生から、ある出版社のセミナーを目前にして、提出課題の作文と志望書を至急見てもらいたい旨の申し出があったが、どうするかとのこと。ちょうど仕事が一段落していたので承諾した。

 次の日の夜、ファックスで彼女から作文と志望書が送られてきた。その週の金曜日にK出版社のセミナーがあり、それに作文を提出しなければならないのだが、それはまだ書き上がっていない。仕方がないので今回はすでに別の出版社に提出済みの作文と志望書を見てもらいたいというメモがついていた。

 今コースの前半の課題で彼女の文章は読んでいたので、だいたいの実力はわかっていた。他の七割の学生同様、彼女も合格ラインぎりぎりのところにいる。ファックスで送られてきた作文と志望書を見ても同じことが言えた。

 作文も志望書も、内容としては「可もなく不可もなく」といったところだ。とりたてて耳目を引くような際立った特徴もない代わりに、直すべき点もこれといって見当たらない。ともすれば他の書類の山に埋没してしまうタイプだ。良くも悪くも本人は自分らしさを素直に表現しているのだろうし、特別無理をしているわけでも背伸びをしているわけでもない。合格するかしないかは、それが受けるか受けないか、採用担当者がたまたま彼女のようなタイプを気に入るか気に入らないか、その出版社に彼女のような人材に対するニーズがあるかないかにかかっている。

 私は正直にコメントを書いて彼女に直接ファックスした。その通信に先立って、彼女から二通目のファックスが届いていた。私はその週の木曜日の夜、たまたまジャーナリストセンターで別の講義があったのだが、それに合わせてセンターに行くので会ってほしいという。断る理由がないので私は承諾した。

 木曜日の夜、彼女は早めに来ていて、私の講義が終わるのを待っていた。就職戦線の長丁場で少し疲れているようにも見えた。

 

■志望動機や自己PRで何をアピールすべきか

 とりあえず、彼女がファックスで送ってきた作文に対する私の感想から話が始まった。彼女には十代半ばの弟がいて、読書嫌いで困っている。しかし最近そんな弟がある小説を初めて読破して、心を揺さぶられる体験をしたらしい。そんなエピソードから彼女は今の十代たちに気軽に読んでもらえる文庫作りをしたいという志望動機につなげて作文を結んでいる。

 志望動機としてはいかにも弱い。どうせ志望動機を書くなら、弟の心揺さぶられた読書体験ではなく、自分のそれを書くべきだろうし、どうしても弟のことを書きたいのであれば、強引に志望動機に結びつけない方がいい。どんなテーマでも、最後には志望動機に結びつけなければならないという固定観念のようなものが彼女にはやや見受けられた。話の中で本人もそのことに気づいたようだった。

 ファックスで送ってきた志望書の他に、彼女はその場で別の自己PR文も見せてくれた。大学に入ってから始めた楽器演奏のサークルのことが書かれていて、毎日のハードな練習と演奏活動を通して、ねばり強さ、打たれ強さを養ったといった内容である。彼女は今コースの前半の課題でも、同じサークル活動の話を書いていた。サークルの話題は志望書にも登場する。どの学生にもありがちな自己PRの仕方だ。

 確かに学生生活において最も力を注いだことなのだろうし、そこから得たものも大きいのだろうが、音楽家を目指す人間の自己PRならいざ知らず、出版社への自己PRとして有効かどうかは疑問である。試しに、面接でサークル活動のことが話題になったかと聞いてみると、ならなかったという。出版社としても、受験者がどれだけ頑張って音楽活動をしたかをアピールされても困るのだ。本人も、演奏家になるつもりはなく、音楽はあくまで趣味だと言っている。

 それでは、出版社への自己PRとしては、何を書けば(あるいは話せば)いいのだろうか。彼女は特に文芸書の編集を志望しているという。ならばまず、文芸書の編集者に要求される適性とは何かを考え、次に自分にその適性が備わっていることを証明してみせなければならない。

 

■編集者に要求される適性とは

 文芸書の編集者に要求される適性とは何だろう。文芸書の編集者とは、作家にいかに傑作(売れる本)を書かせるかという仕事である。つまり「いかに書くか」ではなく「いかに書かせるか」というノウハウである。いわば縁の下の力持ち、野球のバッテリーで言えばキャッチャー役だろう。作家とはゼロからモノを創造する人間であり、モノを創造する人間には、固有のスタイルや生理のようなものがある。編集者はそうした作家の生理とうまくつき合える人間でなければならない。

 日本にはまだそういう文化は根付いていないが、欧米では、作家には必ず専属のエージェントがついていて、作家と出版社の間を取り持ち、交渉にあたっている。エージェントは仕事柄、作家の「書き癖」やプライベートなことまで、すべてを把握している。

 彼女にもし、作家とは言わないまでも、何かモノを創造するタイプの人間とのつき合いがあり、その人間の創造行為を陰で支えた経験があるとしたら、編集者としての適性を証明したことになるし、これ以上のPR材料はない。彼女は、今までそんな考え方をしたことはなかったが、言われてみればその通りだと納得していた。

 作家の生理を理解するには、自分も文芸作品を書いてみた経験があれば、手っとり早いのだが、そんな経験があるかどうか彼女に聞いてみると、チャレンジしたことがあるという。しかし、やってみて自分には書けないことがわかったらしい。この経験は貴重だ。「やってみて自分には書けないことがわかったが、その経験から書かせることはできるかもしれない。だから自分は編集者を目指す」というのは、極めてまっとうな志望動機である。

 

■「父の本棚」

 彼女は私の講義が終わるのを待っている間、翌日K社に提出する作文を書いていたらしい。まだ書きかけだが見てほしいと言って、彼女はそれを私に手渡した。テーマは「私の読書歴」。彼女の母親は教育熱心な人で、独学で幼児心理学を学び、努力して彼女を特殊な保育をする保育園に入れたらしい。保育園の先生が読み聞かせてくれた本が、彼女には印象深く、いまだにその記憶は色あせることなく残っているという。彼女は間違いなく最初の貴重な読書体験をしたわけだ。そこまではいいのだが、その後が例によって、強引に志望動機の方に結びつけられている。K社の出版物をいくつか取り上げて、それに類する本を手掛けたいといった結論になっている。その書き方からは、それらの本に対する思い入れがそれほど強いわけではないことがすぐにわかってしまう。

 彼女は確かに書物との幸運な出会いをした。「読書歴」というテーマで言えば、その入り口のところは描けている。しかしその先どのような遍歴を積んで現在の自分に至っているか、いわば出口にあたる部分が描けていない。無理して志望動機に結びつけるよりは、そちらの方を書いた方がテーマにそっている。

 ちょっと気になったので、父親は何をしている人か聞いてみると、かつての文学青年がそのまま大人になったような人で、今は公務員をしているという。私の質問で思い出したのだろう、実は保育園で先生に読んでもらった本は、父親がたのんで先生に渡したものだという。私はビックリした。彼女は肝心なことを書いていない。私も商売柄、本とのつき合いには思い入れがあるし、自分の子供たちにもそうなってもらいたいと思っているが、当時の彼女同様、現在幼稚園に通っている娘にそこまでしようとは思わない。彼女の父親が娘の成長にどれだけ愛情のこもったエールを密かに送っているかが端的にわかる話だ。それを書かずして何を書くべきだろうか。

 私にそう言われて、彼女はもうひとつの重要な事実を思い出した。考えてみれば、自分が読んできた本は、ほとんどが父親の本棚から借りてきたものだというのだ。私はハタと膝を打った。これは彼女の父親が仕組んだことなのだ。つまり彼女の父親は娘に読んでもらいたい本を、さりげなく自分の本棚に忍ばせておくようなタイプの人間なのだ。もちろんそれは自分が真っ先に読みたい本でもあるのだろうが、私も自分の本棚をどのような本で埋めるかを考えるときに、子供たちに財産として遺すという意図が頭をかすめることがある。父親とはそういう人種なのだ。

 これで決まりである。彼女が書くべき作文のタイトルは「父の本棚」だ。それによって彼女の読書歴を端的に物語ることにもなるし、何よりそのエピソードで父娘の触れ合いをあぶり出すことにもなる。彼女は父親のそうした意図を無意識的に察知していて、自分の読書歴が父親の術計の中にあることを娘として認めたくないという気持ちが働いていたのだろう。あえて考えないようにしてきた部分のようだった。

 

■あなたの作文を審査するのはどんな人間か

 しかし、そうした学生の作文を読んで採否を審査するのはどんな人間かを考えるなら、まず年齢的には五〇前後、ちょうど彼女の父親の年代、いわば編集者としていちばん脂の乗った年代である。しかも性別でいえば良くも悪くも男性が多い。彼らは採否を決定するにあたり、まさに自分の部下となる人間を選ぼうとしているのであり、部下を可愛がる人間であればあるほど、その感覚は自分の子供を選ぶ感覚に近いもに違いない。そこで、父親との触れ合いをさりげなく匂わせるような作文を書かれたら、中年男性としてはなびかないわけがない。ハッキリ言ってイチコロである。

 私は基本テキストの中で、採用試験とは、一種のお見合いのようなものであり、そういう場で学生がすべきことは、精一杯自分を魅力的に見せ、ありったけのフェロモンを発し、自分からラブコールをかけるのではなく相手にかけさせることだと説いてきた。それはこういう意味なのだ。

 かつての文学青年だった彼女の父親は、彼女が編集者を目指していることをどう思っているのか聞いてみると、嬉しくて仕方がないらしい。今回、私とのファックスのやりとりが緊急に必要になると、「そろそろわが家にも入れるか」ととぼけながらも、さっそく新品のファックスを買ってくれたという。私も彼女の父親の気持ちがよくわかる。

 彼女は、以上のような私との一時間ほどの面談の後で、「パチンと音がした」と言った。まさに彼女の思考回路のスイッチが切り替わったのだ。彼女は能力がないわけではないのに、その能力を振り向けるポイントがずれていたために、結果を出せずにいたのだろう。しかし、今や彼女のフォーカスははっきりと目標をとらえたに違いない。

 彼女は「俄然、書きたいという意欲が湧いてきた」と言った。この「書きたいという意欲」は、作文を成功へと導く上で最も重要なファクターのひとつである。彼女の中にこの意欲が芽生えたことは、私にとっても彼女にとっても最大の収穫だろう。彼女は目を輝かせ、意気揚々と帰って行った。

 

■「勘違い組」

 あなたがマスコミを目指す本当の理由・動機とは何だろう。やむにやまれぬ思い、のっぴきならない事情からだろうか。それとも単なる憧れからだろうか。就職戦線も後半戦にもつれ込んでいる今、この根本的な問題を自分に問いかけてみるいいチャンスかもしれない。

 一口にマスコミといっても、ジャンルは広い。就職協定の撤廃によって採用活動がどんどん前倒しになっている今、最も出足の早い放送局や新聞社は山を越え、出版社関係が佳境に入っているようだ。活字(書くこと)により近いジャンルが最後に残っているといったところだろうか。

 「本もそこそこ読んできたし、文章修行も自分なりに積んできた。文才も人並以上にあるのではないかと思うし、何より活字文化が好きだから」

 新聞社や出版社を志す学生にはいちばんありがちな動機である。しかし、やや厳しい言い方になるが、本当に才能があり修行も積んできた人間なら、こんな作文の講座を受講するまでもなく、いい文章が書けるはずである。また、こんな就職戦線の後半にまでもつれ込むまでもなく、とっくに内定が出ているはずだとも言える。

 残っているのは「勘違い組」ということだろうか。先月コースぐらいから、この「勘違い組」が目立ち始めた。ただしこの「勘違い組」にも二通りあるようで、正真正銘の「勘違い」をしているタイプと、実力がありながら、目と足を向けるべき方向を間違えているがために「居残っている」というタイプだ。

 小学校からの国語教育の中で、自己表現の手段としての作文技術とはほど遠い指導を受け、その延長線上である「〜試験に受かるための書き方」といった対処療法的なノウハウばかりを身につけてきた人間は、就職活動といった「自分自身を、その本質に根ざす部分からアピールし、表現する」ことが要求される場面に立ちいたると、とたんにお手上げ状態になってしまうようだ。

 

■「作文と論文の違い」という壁

 先月コースの受講者から「作文と論文の違い」について質問があり、私はそれに関して総評で自分の意見を述べたが、今回も別の受講者から同じ趣旨の質問を受けた。同じテーマに向けて文章を書こうとするとき、この手の疑問を抱く人とそうでない人と大きく二つのタイプに分かれるようだ。

 疑問を抱かない人は、さらに二つのタイプに分かれるようだ。ひとつは、自分の文章のスタイルを明確に持っていて「作文であろうが論文であろうが、自分のスタイルを貫くだけ」というマイペース型、ないし作文と論文の書き分けに対し、自分なりのやり方を持っていて、それに従う理論派だろう。こういうタイプの人は言語経験も豊富で、モノを書くという行為の本質に常に目を向けている人かもしれない。もうひとつのタイプは、この手の命題にまったく無自覚、無批判的で、何の疑問も抱かずに書いてしまうタイプだ。このタイプの人の文章は、説明口調、経過報告調、新聞の社説調になりがちだ。

 「作文と論文はどう違うのか。どう書けば作文で、どう書けば論文になるのか」といった疑問を抱いて、とたんに文章が書けなくなり、壁にぶち当たってしまうタイプの人は、ある意味では、モノを書くという行為に真剣に取り組もうとするタイプの人であり、出題者の意図になるべく誠実に応えたいという心理が働いているのに違いない。このタイプの人は、良くも悪くも「〜らしさ」に対するこだわりが強いのだろう。

 

■合格を目的に書いてはならない

 あなたがもし「こんな書き方で合格できるのだろうか、就職試験の作文(あるいは論文)としてふさわしいのだろうか、これで課題に正確に応えたことになるのだろうか」という疑問にぶち当たって、そこから一歩も先に進めないのだとしたら、「どう書くか」ではなく「なぜ書くか」をもう一度問い直してみる必要があるかもしれない。

 あなたが読んだり書いたりという言語経験・文章修行を積む目的、文章を書く目的は、就職試験の合格になってしまっていないだろうか。もしそうなら、あなたは「〜らしさ」の袋小路から永遠に抜け出せず、どんな文章を書いても「これなら絶対に合格できる」という確信は得られないだろう。それでは受かりっこない。なぜなら、試験に受かった時点であなたの文章修行は完結し、あなたは書く目的を失ってしまうからだ。

 もう一度ハッキリ言っておこう。試験の合格を目的として文章を書いてはならない。

 それでは何を目的としたらいいのか。それは人それぞれ違う。それは生き方の問題であり、生涯目標に関わることだろう。ただし共通して言えることは、文章を書く真の目的とは、職業選択という人生のひとつの節目より、もっともっと先にあるということだ。

 

■「マニュアル本」の副作用

 皮肉なことに、勉強熱心な人ほど「〜らしさ」の袋小路に陥りやすい。特に、いわゆるノウハウ書、ハウツー本、「文章読本」の類を読みあさっている人ほど「〜らしさ」へのこだわりが強くなってしまうようだ。この手のマニュアル本を読んではいけないとは言わないが、読みすぎると副作用が出てくる場合もある。

 最近、マニュアルがやり玉に挙げられるケースが多いようだ。「マニュアル的」とか「マニュアル人間」というと、ネガティブな意味合いが強い。もともと私の専門はマニュアルである。ここ一〇年ほどの間に数万ページのマニュアルの制作に携わってきた。だから基本的に私はマニュアルの味方である。優れたマニュアルは一種の哲学書・思想書だと私は思っている。それは読者を、あるいは社会をしかるべき方向へ導く。だからマニュアルを読んで感動することがあるとしたら、それは「うまく導かれたな」という感動だろう。

 『禅とオートバイ修理技術』(ロバート・M・パーシグ著、めるくまーる社刊)という本がある。電気ショック療法によって記憶を奪われた元大学教授の著者と、本来の父でない父に心を閉ざし、精神の病に侵されつつある息子がオートバイで旅をするその行程が、著者の手記という形で描かれる。映画の世界に「ロードムービー」というジャンルがあるとしたら、この本はさしずめ「ロードノベル」といったところだろう。しかし著者は物語を語ることにだけ終始しているわけではない。旅の行程を横軸だとすると、縦軸には「禅」という極めて哲学的・宗教的テーマと、「オートバイ修理技術」という極めてテクニカルな話題が、同じ理性の働き、同じ精神のベクトルで語られ、ジャンルを超えて見事に融合する。私はここにマニュアルの究極の到達点を見いだす。高い到達点を目指して書かれた書物は、ジャンルを超える。

 マニュアル本による副作用、あるいは「マニュアル病」というものがあるとしたら、それはマニュアル本を読みすぎたことよりも、「読み方」を間違えたことが原因だろう。薬の副作用が、間違った服用法によって出るのと同じである。

 あなたがもし、マニュアル本をさんざん読んできて、書いてある内容はよく理解できるし、書き方の要領はわかっているはずなのに、ちっとも書けるようにならない、あるいは書けたとしても、いっこうに試験に受からないとすると、「マニュアル病」を疑ってみる必要があるかもしれない。

 

■「マニュアル病」の典型的な症状

 書けないのも無理はない。やり方が理解できても、実践を繰り返さなければ実際にはできるようにならないというだけの話だ。英語の文法書をいくら読んで文法が理解できても、英語が話せるようになるわけではない。車の運転マニュアルを読んで、運転の仕方を理解できても、実際に運転してみない限り、車の運転を覚えたことにはならない。

 文章技術にも同じことが言える。つまりやり方を理解できても、サンプルスタディやケーススタディを積み重ねない限りマスターできないということだ。

 逆に、マニュアル本をまったく読まなくても、いい文章をたくさん読んでいる人は、それだけでも書ける。私が基本テキストで「言語経験」と呼んでいるのはこのことだ。

 マニュアル病の典型的な症状には、もうひとつある。最初は「なるほど」と思いながら読めても、そのうち何を読んでも同じに思えてくる。得るものが何もなくなってしまう。違いがわからなくなってしまうのだ。これには、書いてあることが似たり寄ったりということ以上の理由がある。

 マニュアル本を読もうとする人の動機には、自分のやり方や考え方が正しいことの証拠を客観的な視点の中に見いだしたい、見いだすことによって「ああ、自分は正しいんだ、間違っていないんだ」という具合に安心したい、つまり自分の間違い・勘違いを改めたいというのではなく、ただ単に同意を得たい、共通点を見いだしたいという無意識的な意図が隠されている場合がある。違いを見いだそうとする心の窓は開かれていないのだから、どれもこれも同じように見えるのは当然だ。

 自分の考えに安住したい人にとってのマニュアル本は、不眠症患者にとっての精神安定剤と同じだ。読者の精神は目覚めさせられるのではなく眠らされてしまう。問題を解決するどころか、本人を問題から限りなく遠ざけてしまう。

 特に就職戦線も折り返し地点を過ぎ、後半に突入してくると、誰もが余裕をなくし、せっぱ詰まってくるため、自分の方向性の誤りや人との差を認めたくないという心理規制が強くなり、いっそう盲目的になってくる。それでうまくいくはずもなく、当然壁にぶち当たり「自分のやり方は間違っていないはずなのに、マニュアル通りやっているはずなのに、なぜうまくいかないんだろう」と悩む結果となる。マニュアル病の末期的な症状である。

 

■言語経験のサイクル

 私は古書店という空間が好きだ。そこには、他人の書庫をのぞかせてもらうような趣がある。特に駅前に一軒だけあるような、小さな街の小さな古書店に入ると、その街の住人の文化がわかるし、どんな本にいくらの値をつけているかで店主の価値観がわかる。古書店とは、毎日開いている「本のガレージセール」のようなものだ。

 そこで繰り広げられているのは、本と人との出会いである。長い間探していた本にばったり出くわすこともあるし、普通の書店で見かけても絶対買わないだろうなと思われる本をつい買ってしまったりもする。そしてそれらが自分にとって極めて重要な出会いとなったりもする。

 言語経験のサイクルは、まず本との出会いから始まる。それとの出会いに胸おどらせ、それを手に取って感触を楽しみ、パラパラとめくってみて、内容に心ときめかせ、著者に想いを馳せる。それは書物に対する一種のフェティシズムかもしれない。私は間違いなく「書物フェチ」だ。

 サイクルの次のステップは、当然手にいれた本の中身を味わうことだ。余計なことは考えずに、まず文章を味わってみる。この「味わう」という行為こそが、読書においていちばん楽しい段階であり、おそらく味わったものだけが、あなたが文章を書く上での肥やしになるだろう。

 次に、何かを学ぶ目的で内容を吟味する。エンピツを片手に、これはと思う箇所に傍線を引くのもいいだろう。ふと思いついたことを余白にメモするのもいいだろう。

 そして当然学んだことは自作において実践する。もっとも単純な実践は「引用」という行為かもしれない。ひとつの引用から一〇〇行の文章が生み出されることもある。書物には、自己完結した閉じた書物と、他の書物に向けて開かれた書物とがある。ある書物との幸運な出会いは、別の書物との幸運な出会いの契機となる。作家は、親しい友人を別の友人に紹介するように、他の書物の一節を自作に取り込む。

 フランスの文学者ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』(みすず書房)という作品を、一〇〇冊近い実際の書物からの引用、自身の体験、友人との会話などを織りまぜながら、アルファベット順に並べられた断章の形式で構成している。それはまさに彼自身の詩的な名簿録の開示である。一冊の書物の中で、ゲーテとフロイトが、ニーチェと老子が、時空を超え、恋愛というテーマで親しく語り合っているかのようだ。

 あなたは書いている最中にふとペンを休め、しばし立ち止まってはまた本に戻り、しばらく読んでから、またペンを取る。そうした繰り返しの果てに、あなたは自分が読んできた書き手たちの目で世界を眺め、彼らの息遣いで呼吸し、彼らの発する声が言葉となって自分の中からあふれでてくる瞬間を体験する。こうしてあなたの読書体験は言語経験へと血肉化され、言語経験の一サイクルが完結し、あなたは次のサイクルへ向けて次の一冊を手に取る。こうした言語経験を積み重ねてきた人の文章を読めば、いっぺんでわかる。文章に「滋味」があるのだ。

 

■まとめ

 学生の作文を読んでいると、海外旅行や留学の体験を題材にする人はけっこういるが、一連の行程を説明しようとするがあまり、ディテールの描写を省いた味気ない経過報告に終わってしまいがちだ。

 たとえばあなたがヨーロッパを旅行して、パリのカフェでお茶を一杯飲んだとする。確かにパリのカフェを体験したのには違いないだろうが、ボードレールやランボーやコクトーを読まない限り、パリのカフェに関する「言語経験」を積んだことにはならない。それでは「滋味」のある血の通った文章を書くことはできないだろう。

 採用試験とは、お見合いのようなものだと言った。そのお見合いの相手に提供する情報のひとつであるべき論・作文においてあなたがやるべきことは、「作文と論文の違いは何か」という命題に明確な答えを出すことではない。あなたが追求すべきことは「作文らしさ」でも「論文らしさ」でもなく、「あなたらしさ」だ。あなたが本当に書くべきものは、作文でも論文でもなく、あなた自身だ。自分の等身大の分身であり、あるときある場所におけるあなた自身である。作文にしろ論文にしろ、あるいはどんなテーマが出されても、そうした自分らしさをディテールをまじえながら描けたとき、初めてあなたは「これなら合格できる」という確信を得るだろう。それ以外の理由で確信を持てることはあり得ない。

 私はこの講座の基本テキストを一種のマニュアル本として書いたが、マニュアル本としてだけ書いたつもりはない。持てるノウハウをすべて網羅したとも思わないし、この小冊子を一冊読めば、文章が書けるようになるとも思わない。文字どおり基本的なテキストであり、応用は毎回のコースでやっていかなければならないと思っている。毎回のコースは私にとってのケーススタディ、つまり「言語経験」である。特にこの「総評」は自分で説いてきたことを自分で実践してみせる場だと思っている。

 

■三題噺:「野良犬」

 それは突然の訪問だった。

 その男はおそらく僕が大学進学のために上京してきて最初の訪問客ということになるのだろう。僕がチャイムに応えてドアを開けると、黒縁の眼鏡をかけ、スーツに身を包んだ中年の男がドア口に立っていた。いかにも真面目そうなのだが、セールスマン風というのでもなく、スーツは着慣れていないようだった。

 「突然お邪魔して、申し訳ありません。〜さんですね」

 「はい、そうですが」

 「あなたは先日の×日に、新宿で献血をなさいましたね」

 確かに身に覚えがあった。そんなことは今まで考えもしなかったが、何の気なしに呼びかけに応じて新宿の駅前で献血したことを僕は思い出した。

 「はい、確かに」

 「実は私、こういう者ですが」

 男が差し出した名刺を見ると、「WHO(世界保健機関)健康開発総合研究センター東京分室長」とあった。対応に困っている僕に、男が言った。

 「実は、あなたの血のことで少々お話したいことがあるのですが」

           *        *

 男に言われるがまま、僕は後日、男の職場を訪ねた。研究センターの分室といっても、そこは都心の雑居ビルの一角で、研究室というよりは普通の事務所のようなところだった。分室長と名乗った男が僕を快く迎え入れてくれた。

 その分室長の話によると、僕の血のことというのは、概ね次のようなことだった。

 環境ホルモンなどの影響で、先進国の若い男性の精子が激減し、ほとんど生殖能力を失いかけ、奇形児の発生率も増えているという。事態を重く見たWHOは、世界中の若年男性の血液サンプルを集め、ダイオキシンやビスフェノールAなど環境ホルモンとして作用する有害物質の血中濃度を調べるプロジェクトをスタートさせたという。日本でもWHOの日本事務局と厚生省が組んで、とりあえず献血者からの血液を調べる事業に踏み切ったらしい。もちろんプライバシーの問題に抵触しないよう細心の注意を払っているという。そこで僕の血を調べたところ、有害物質がほとんどまったく検出されなかったという。

「あなたの血はパーフェクトにクリーンなんですよ。これだけ地球規模で環境汚染が進んでいる中で、これは奇跡です。いったい、どういう生活をなさっているんですか」

           *        *

 僕には心当たりがあった。僕は小さいときから極度のアレルギーで、薬物はもちろん、ありとあらゆる食物でも反応が出てしまう。食物アレルゲンとしてよく知られている牛乳や玉子は言うに及ばず、油や大豆、小麦粉などの粉砕した穀類など、日本人が古来より食べてきた伝統的な食材にまでアレルギー反応を示した。医者に行ってステロイド剤などの治療を試しても、いっさい効き目がなかった。かえってひどくなるほどだ。母親は苦心に苦心を重ね、食材はもちろんすべて有機生産のもの、加工品はいっさい使わず、油は直前に絞ってごく少量を使う、穀類も自分で挽く、米も炊く直前に精製する、パンは天然酵母を使って自分で焼くなどの努力をして何とか僕にアレルギーを出させないようにした。

 ところが僕はそんな食生活に猛烈に反発した。その頃はまだわが家は東京にあり、世の中は外食ブーム、ファーストフードブームで、僕は母親に隠れてマクドナルドやケンタッキーに通った。当然反応が出て、その晩は発疹のかゆみで眠れないほどになる。それでも食べたかった。物心がつく小学校の低学年頃からは、母親と僕との間で毎日「食べたい、食べちゃダメ」の戦争状態が続き、それが高じて僕は何度家出をして野宿生活をしたか知れない。母親の目を盗んでは財布からお金を抜き取り、ハンバーガーを買って食べ、しかられるのがイヤで夜は空き地の土管の中で、全身をかきむしりながら寝た。

 そんな僕に野性の臭いを嗅ぎつけてか、よく野良犬が側に寄ってきたものだった。「僕もこいつも野良なんだな」と思い、そいつを抱きかかえながら眠ったものだ。星空がやけにきれいだったことを覚えている。

 思春期を迎える頃には、周りの友人たちとあまりにも違う自分にすっかり嫌気がさし、自殺未遂を何度も繰り返した。この世に自分の居場所はないのだ、自分は生きる価値がない、望まれていない存在なのだと思った。その感覚はいまだに残っている。

 母はついに決断した。無関心な父親を説得し、九州で牧場をやっている母親の実家に家族で引っ越すことにしたのだ。不思議なことに九州の豊かな自然に囲まれて伸び伸びと生活し始めてからは、牛乳を飲もうが玉子を食べようが、アレルギーはいっさい出なくなった。それから徐々に本物の食べ物の味を覚えたのか、外食をしたいとは思わなくなった。上京してきて一人暮らしを始めても、そんな食習慣が続いている。今でも外食したり買い食いしたりするとアレルギーが出る。しかしそんな食生活のおかげか、他には病気らしい病気はいっさいしていない。小さい頃から重度の病人のように扱われ、野良犬のように育ったこの僕が、奇跡的なほどきれいな血の持ち主とは、何と皮肉な話だろうか。

           *        *

 僕が事情を話し終えると、分室長は天を仰ぐような視線で大きなため息をひとつついた。その表情には深い諦念のようなものが宿っていた。僕は分室長に質問してみた。

「それにしても大がかりなプロジェクトだと思うんですが、そんなに若者の血液サンプルを集めてどうしようっていうんですか。僕みたいな血の持ち主をいくら見つけても、若者の低下した生殖能力が回復するわけでもないでしょう」

「その通り。いったん汚染された体をもとに戻すことはまず無理でしょうな、体中の血をすべて入れ替えでもしないかぎりね。だからわれわれは若者たちを救おうというのではないんです。今生きている自分たちの世代を救うためなんですよ」

「自分たちの世代を?」

「そう。ご存じのように今は世界的に高齢化が進んでいます。ところが元気な年寄りが増える分には何も問題はない。それは文明が健康で成熟している証拠です。問題は老若男女を問わず病人が増えているということなんです。つまり問題は高齢化ではなく病齢化社会だということです。現在、六五歳以上の高齢者一人を、二〇歳から六四歳までの成人が数人で支えているという状況です。これがもう三〇年もすれば、成人一人に対し、数人の高齢者がぶら下がる恰好になると言われています。それは年寄りが増えるというよりは、若者が減ることに起因するんです。社会のピラミッドは完全に逆転するわけですな。

 しかも支える方も支えられる方も病人というわけです。ご存じの通り、莫大な医療費で国は破産しかけている。この状況はもはや国際的になってきている。国際病齢化社会の到来というわけです。それに追い打ちをかけているのが、途上国の人口爆発です。世界人口の九割が途上国の貧しい人たちという状況も間近に迫っています。つまり世界の一割の人口が残り九割を支えなければならないという事態も起こり得るわけです。

 その上、われわれが年をとったときに社会を支えるべき若者の数が減り、その生殖能力を失いかけているとなれば、これはもはや座視できない」

「なるほど、よくわかりました。それで、僕にどうしろというんですか。誰かに輸血でもしろというんですか」

「いや、欲しいのはあなたの血ではなく精子です」

           *        *

 大変なことになってきた。とりあえず僕の精子を調べ、問題がなければ国際精子バンクに登録し保存したいというのだ。すでに外国では、完全無欠の精子を求める未婚女性からの問い合わせや注文が殺到しているという。そういう女性には、もちろん素性は明かさずに保存精子が供給されるらしいが、どこかの国の見ず知らずの女性が僕の遺伝子を受け継いだ子どもを産むこともあり得るのかと想像すると、なんとも複雑な気分だった。しかも極度のアレルギー体質の子どもを...。いくら僕の血がきれいだからといって、そんな精子を欲しがる女性がいるのだろうか。自分はこんな体だから、一生子どもなど設けないだろうと思ってきたのに...。とはいえ、全人類のためだとか何とか言われたら、僕としては断りきれなかった。

 僕はヌード雑誌と試験管を渡され、隣の個室に移された。人の頼みで射精するというのも妙な気分だ。今まで生きる価値もないと思ってきたが、こんな形で認められるとは思ってもみなかった。

           *        *

 それから一カ月ぐらいして、WHOから通知がきた。検査の結果が出たらしい。僕の精子は奇形も遺伝的欠陥もなく、質量ともに最優等だとのこと。さっそく国際精子バンクに登録保存されたらしい。こうして僕の精子はWHOの「お墨付き」をもらった。

 

 

<一九九八年一一月コース> 課題

■一回目課題@(作文)

 左記のものは、ネイティブ・アメリカンのタオス・プエブロ族のある人物が語った言葉です。これを読んで、ふと浮かんだことについて自分でテーマを設け、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。ただし、話の感想はいっさい無用。

 

 私はこれまで祖父や祖母にも、またほかの誰にも、「なぜ」などと尋ねたことは一度もなかった。「なぜ」などと尋ねれば、それは私がなにも学んでいないということを意味し、自分は馬鹿であると言っているようなものだからだ。ところが西洋人の社会では、「なぜ」と尋ねないと、馬鹿だと思われてしまう。

 私は「なぜ」と人に尋ねるのではなく、人の語ることに耳を傾け、自分で気づくようにしなさい、と言われて育てられてきた。そんな私にしてみれば、人々が私と同じように、自分のことや私のことについて、なにかの理解をもっている、つまり宗教をもっているのは、ごくあたりまえのことなのだ。そうやって自分のことを知れば、私たちは気持ちをひとつにできるし、たがいの理解を分かち合うこともできるようになる。


自問自答

 

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて、一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「出自」

 

■二回目課題@(作文)

 あなたの親や恩師、友人などが、あなたの志望先の採用担当者に宛てて、あなたに関する個人的推薦文を書いてくれるという想定で、自分を三人称で扱い、自分の推薦文を八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

 

 

■二回目課題A(論文)

 左記の話を読んで、ふと浮かんだことについて自分でテーマを設け、一二〇〇字前後で書いてください。ただし、話の感想はいっさい無用。

<糸巻き>

 ある日、一人の妖精が自分の名付け子にすてきなプレゼントを贈りました。妖精はその男の子に糸巻きをひとつ渡し、次のように言いました。「この糸巻きで、お前は自分の人生をその手の中に紡ぎ出すのです。大きくなりたければ、この糸巻きを少しほどくだけでいいのです。でも、約束しておくれ、決して急いでほどいてはいけないよ」

 その小さな少年はまだ七歳でした。しかし、彼は妖精の言葉をとてもよく理解しました。一人になると彼は、自分にこう言いました。「よし、僕が本当に自分の人生を引っ張る主人かどうか試してみよう」そして彼はさっそく糸巻きをほどき始めました。

 みるみるうちに彼は一〇歳になりました。まさに「光陰矢のごとし」です。でも彼は満足しませんでした。一〇歳ではまだ子供たちは学校に通っています。それはそれは退屈な年代でした。彼はまた少し糸を引っ張り、一五歳になりました。しかし一五歳ではまだ本当にしたいことができる年齢ではありません。二一歳にならなければ、一人前の自由な人間とはいえません。そこでその妖精の名付け子は、糸巻きをほどき続け、とうとう二一歳になりました。

 この年、彼は母親を亡くしました。それは深い悲しみでした。自分を慰めるため、彼は糸を長く長く引っ張りました。彼はアッと言う間に結婚し、父親になりました。愛する子供たちの成長を見守ることはとても楽しいことです。その妖精の名付け子は、さらに糸巻きをほどき続けました。彼の子供たちは成長し、結婚し、彼らはみな幸せでした。しかし、今や彼の頭は真っ白です。すでに彼は老人です。腰は曲がり、杖をつかなければ歩けません。あまりにも早く過ぎ去ってしまった青春の日々に対する後悔が、彼を苦々しい思いで一杯にしました。彼は老いさらばえた自分に耐えられませんでした。彼は妖精のプレゼントを恨み、絶望の中で糸巻きの残りを引っ張り、そして息絶えました。こうして彼はたった三日の間に、八〇年の人生を終えてしまいました。

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ エステ

  ○ リストラ

  ○ 「サヨナラ」

 

 

<一九九八年一一月コース> 総評

■出題者の意図をいかに読み取るか

 講座の課題に話を戻そう。評論家の小浜逸郎氏は『正しく悩むための哲学』(PHP研究所)の中で、中途半端や妥協を好まぬ若者の純粋性を、複雑で曖昧さも内在する現実世界とうまく折り合わせるために身につけるべき態度として、次の三つを挙げている。

 @ 言葉を豊かにすること

 A ものを複眼的に見ること

 B自分とは立場の違う人間が拠って立っている場所をよく想像すること

 これらは、そのまま就職活動(つまり、まさに学生が実社会に船出しようとする試み)に際して身につけるべき態度としてもあてはまる。もちろん論・作文を書く場合も同じことである。

 今月の課題に引きつけて考えるなら、特にBが強調されるべきだろう。出されたテーマを見て、まず真っ先に考えるべきことは、出題者の意図をいかに読み取り、自分としてそれにいかに適切かつ効果的に応えるかということのはずだ。ところがこの、あまりに基本的な作業がまったくできていない受講者がほとんどであることには驚かされる。若者の「なぜ」力がおしなべて衰えているのだろうか。

 今回もすべての課題において、同じ傾向が見受けられた。もちろん、この作業は高度な想像力が要求されるものではあるが、その想像力はトレーニングによって充分身につく。そのトレーニングを怠っているか、あるいは方法がわからないかのどちらかなのだろう。

 プロのテクニカルライターである私としては、そのあたりをもう少しプラクティカルに見ていこうと思う。商品の取扱説明を書いたり、自分の企画やアイデアをプレゼンテーションする際に、最低限盛り込むべき要素として、次のようなものがある。

 ○ What:記述対象が意味するところの定義

 ○ Who:対象読者

 ○ Why:目的

 ○ How:方法

 これらの要素はそのまま、就職活動にまつわる文章をいかに書くかを考えるにあたって、順次たどるべき思考のプロセスとしてもあてはまる。

 まず「What」だが、これは出されたテーマ(言葉)が意味するところを定義するということだ。言葉の意味がわからないのでは、前に進みようがない。わからない場合は迷わず辞書を引く。また、その言葉が時事的な背景を持っている場合には、どのような文脈で使われているかも考える必要がある(文脈はひとつとは限らないことに注意)。事実認識が間違っていたのでは話にならない。これを考えることによって、思考のプロセスは次の段階(つまり「Who/Why」を考える段階)へと入っていく。

 さて、次の段階、「Who/Why」(誰がどのような意図で出題しているか)を考えることは、就職試験の論・作文を書く場合に最も重要でありながら、意外に見過ごされがちなポイントであり、最も想像力を要求される作業であるとも言える。言い換えれば、この段階は、与えられたテーマを次の段階でどう料理するか、その「仕込み」の段階であり、そのための素材を洗い出す作業である。特にマスコミ志望者にとっては、与えられたテーマを自分としてどう解釈し、どう言語化するかを考えることは、実際に就職すれば実務として日々発生するはずであるから、いい職能訓練となるはずだ。

 最後の「How」の段階では、前の段階で洗い出された諸々の素材の中から、まずポイントをひとつに絞り込み、その素材に最も適した料理のレシピを考えるわけである。その料理のコツは、まず絞り込んだ素材に合わせてタイトルをつけ直すことだ。これによって素材を自分の台所に引き入れることになる。絞り込む素材としては、自分にとってリアリティのあるものを選んだ方が、当然料理はしやすい。

 

 具体的な例を挙げよう。一〇月コースの課題として「マッチポンプ」という言葉を出したが、まず言葉の定義としては「一方でマッチで火をつけておき、もう一方でポンプ(消化器)でその火を消す」という意味だ。つまり、火つけともみ消しの二役を自作自演して、そこから利益を得るというたとえである。一方で物事を糾弾し、他方で収拾を持ちかけて報酬をねだるというやり方を称しているわけだ。この事実認識がまず重要となる。

 次に素材の洗い出しだが、この手のやり方は、政治の世界では日常化してしまっているし、悪質なマスコミ人の小遣い稼ぎの方法にもなっている。また、ある意味では現在のODAの内情もこれに近いものがあるし、医療の現場でも医療過誤や薬害問題など、マッチポンプと言わざるを得ない事情がある。

 次に、それらの素材のどれにポイントを絞るかが問題となるわけだ。自分にとって何が最もリアリティを持つかを判断するには、それぞれの前に「私と〜」という接頭語をつけてタイトルを考えてみるといい。何か具体的なエピソードなり考えなりが浮かんだら、もう一度最初に戻って「マッチポンプ」というテーマにふさわしい素材かどうかを確認し、書くべき文章の結論を先に考えておくといい。出来上がりの料理のイメージが先にあれば、途中の味付けはおのずと決まってくるはずである。

 この例でもわかるように、「What→Who/Why→How」という思考プロセスは、次のように言い換えることもできるだろう。

 @ 言葉の意味を定義する

 A 言葉の背景を複眼的に見る

 B ポイントをひとつに絞る

 C タイトルをつけ直す

 D テーマにそくしているか確認する

 E 結論を考える

 F 文章全体の流れを考える

 今コースの課題も例にとり、もう少し具体的に見てみよう。

 

■「出自」

○What

 辞書を引けば「出所、生まれ、氏素性」と出ている。言葉の定義としてはそうだが、それをまに受けて「私は〜県出身で…」とばかり、「手前生国と発しますところ…」式にヤクザの仁義を切ってしまうのは最低である。あまりに芸がなさすぎる。また、自分の生い立ちをダイジェスト版であれこれ並べ立てていた受講者も何人かいたが、これもいただけない。いくら精神的な変遷が描かれていようが、それは年表に毛が生えた程度のものにすぎない。読まされる方は退屈きわまりない。

 

○Who/Why

 そこで「Who/Why」、つまり誰がどのような意図で出題しているのかを考えなければならない。ここでは当然、企業の採用担当者が作文試験のテーマとして出しているという想定である。したがって、そこには単なる自己紹介ではなく、どのようなものに強く影響を受けて今の自分があるのか、つまり自分自身の「ルーツ」、あるいは、自分がなぜ、何のためにこの世に生まれてきたのか、その意義あるいは目的という意図が込められていると読み取らなければならない。

 

○How

 さて、次に考えるべきことは、以上のような意図に即し、しかもあれやこれやのカタログ的羅列やダイジェスト版、経過説明調や卒業生答辞調にならずに、クライマックスの瞬間をディテールをまじえてドラマチックに語るにはどうしたらいいか、ということである。

 そのためには、まず「出自」という言葉が内包する要素のうちのひとつにポイントを絞る必要がある。特に強く影響を受けた人物に焦点をあてるか、物理的・地理的な生活環境、あるいは風俗・習慣などの精神風土か、それとも、そうした外的要因から受ける影響にはいっさい関係なく、自分が本来的に生まれ持った資質について書くか...。

 ポイントを絞ったら、そこから焦点がずれるのを防ぎ、「出自」というテーマにそくしながらも頭を切り換える意味から、絞ったポイントに合わせてタイトルをつけ直してみよう。

 

■「推薦文」

○What

 この課題は、単なる自己PR文とは異なり、書き手と読み手の一対一の関係ではなく、第三の書き手が想定され、その人物の口を借りて自分をPRするという重層構造になっているという点が重要なポイントだ。つまり主な登場人物は、あなたと採用担当者と推薦者の三人ということになる。就職試験はあなたと採用担当者の「お見合い」のようなものだと言ったが、そういう意味では推薦者はいわば仲人役ということになる。つまり、本来ならお見合いの席で仲人がやるべき「紹介」の作業をあなたが代行し、仲人役が読み上げるべき原稿を代筆しているといった状況である。これがこの課題の定義とも言える。

 

○Who/Why

 なぜ素直に自己PR文を書かせないのか、ここでは出題者である私の意図を読み取ってもらいたい。まず考えなければならないのは、あなたが他人に依頼して書いてもらう「推薦文」としては、どのような条件を満たす必要があるかということである。これには、あなたが誰かから依頼を受けてその人物の推薦文を書くとしたらどうするかを考えてみるといい。あなたは、まず依頼者から次のような情報を聞き出すに違いない。

 ○ 推薦文の提出先

 ○ 依頼者のプロフィール情報

 ○ 依頼者の志望する職種

 ○ 特にどんな点を売り込んでほしいのか

 それからもうひとつ重要なことは、推薦者と依頼者であるあなた自身との関係ということだ。あなたと推薦者がどのような関係にあるのかは、内容の信憑性に関わる問題であり、読み手としては気になるところのはずだ。つまり、ここではあなたが他人とどのような人間関係を築いていて、どれだけ相手の立場に立ってものが考えられるかが試されているとも言える。

 

○How

 さて、実際に書く内容および書き方に関しては、自己PR文や志望理由を書く場合と基本的には同じなので、次の項で詳しく述べることにしよう。

 

■自己PR/志望理由

○What

 自己PR文を書く場合も、また応募書類の「志望理由」の欄を書く場合も、まず真っ先に考えなければならないのは、自分が志望する職種に最も必要な資質とは何かを定義することである。もちろん自分の解釈でかまわない。逆に言えば、どんな資質を最も重要視するかに、あなたの職業観が表れるわけだ。「仕事をした経験もないのに、そんなことわかるわけがない」とあなたは思うかもしれない。しかし、だとすると経験のある人間にはかなわないことになる。

 経験がないなら、経験してみればいい。たとえばあなたが新聞記者志望なら、自分でテーマを設定し、情報を集め、然るべき人物や場所を取材し、その結果を文章にまとめる、といったことを実際にやってみるといい。一度でもやってみると、その作業に何がいちばん大切なのか、そもそも自分はその作業に向いているのか、自分はそれを一生続けられるかなど、その経験から得るものは大きいはずだ。自分の真の適性を知る上でも、自分が本当は何を望んでいるかを知る上でも大いに役立つ。

 実のところ、志望する職業に就くためのいちばんの近道は、今すぐにその職業を始めることだ。新聞記者なら新聞記者として今から生き始めることだ。新聞記者として考え、行動し、結果を残すことだ。就職まで待つ必要はない。キャリアは今からでも積める。そうした経験の積み重ねによって、自然にあなたの職業観が醸成されるはずである。

 

○Who/Why

 次に、定義した資質が自分にいかに備わっているかを立証してやる必要がある。その際、自分には「〜力がある」「〜性に富んでいる」「〜的である」「〜感が強い」といった表現は禁物だ。それは、あなたがいつどんなときにどのような言動を取ったかを語ることによって、読み手に「なるほど、この人には確かに〜力がある」といった具合に判断させるべきことだ。あなたがやるべきことは、その具体的な判断材料を提供してやることである。

 

○How

 定義した資質が自分には備わっているということを立証する最も効果的な方法は、実務経験はないにしろ、その資質を思いがけず発揮したエピソードを記憶の中から掘り起こし、その経験を書いてやることだろう。それが具体的に書ければ、「〜力、〜性、〜的」などの表現は不要であることがわかるはずだ。

 

 たとえば新聞記者志望の場合、ありがちなのは「やりがいのある仕事だから」とか「子供の頃から憧れていたから」といった理由、また活字と映像のメディアの違いを論じるといったタイプ、また具体的な新聞社を志望する理由として「〜新聞を長年購読しているから」とか「〜新聞の〜特集記事が素晴らしいと思うから」式のヨイショ、これらはまったく理由になっていない。そこにはいかなる職業観の反映も見られない。あなたは評論家になろうとしているのでも、新聞への投稿マニア(つまり情報の受け手)になろうとしているわけでもない。マスコミの当事者(つまり情報の発し手)になろうとしているのだ。

 あるいは、あなたがスポーツ報道記者を志望しているとした場合、「誰よりもスポーツが好きだから」とか「自分もスポーツ経験者で、体力には自信があり、選手の気持ちもわかるから」といった理由も論外である。これは、スポーツの観戦者や選手のトレーナーなどに要求される資質であっても、新聞記者に第一義的に要求される資質ではない。「好き」と「できる」をはき違えてはならない。極論すれば、スポーツが好きでなくともスポーツの報道はできる。ここではむしろ「できる」の面をアピールすべきなのだ。

 どうしても「好き」の面をアピールしたければ、その「好き」の度合い、こだわりの深さを客観的に判断できるところ(具体的な数値など)にまで還元してやる必要がある。たとえば、自分の好きな分野に関する「おたく」的な知識量を公開したり、超カルト的な問題に答えてみせたりといったところまでいかないと説得力はないだろう。逆にそこまでいけば、「好き」から「できる」に近づくことになるかもしれない。

 

 

<一九九八年一二月コース> 課題

■一回目課題@(作文)

 次のテーマについて、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

  「ある人(たとえば両親など)があなたに宛てた遺書」


自問自答

■一回目課題A(論文)

 今まで、「団塊の世代」「クリスタル族」「新人類」「オタク族」など、世代ごとにさまざまな呼び名が与えられ、流行語となってきました。

 そこで、あなた達の世代を総称するネーミングを考え、それについて一二〇〇字前後で論じてください。

自問自答


■二回目課題@(作文)

 次のテーマについて八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

  「働く私」

自問自答


■二回目課題A(論文)

 左記の話を読んで、ふと浮かんだことについて自分でテーマを設け、一二〇〇字前後で書いてください。ただし、話の感想はいっさい無用。

 

 米海軍が艦隊を組み、悪天候の中で軍事演習中のことです。日も暮れて視界がさらに悪くなった頃、ブリッジの見張りが、進路前方に光を発見し、艦長に報告しました。光は停止しているものの、このままでは衝突の危険があります。艦長は信号手に命じ、相手の船に二〇度進路を変更させようとしました。すると相手から返事が返ってきました。

「そちらの方こそ二〇度進路を変更せよ」

艦長は再び信号の発信を命じました。

「こちらは艦長だ。進路を変更せよ」

すると、また返信がありました。

「こちらは二等航海士だ。そちらこそ進路を変更せよ」

艦長は怒りをあらわに命じました。

「こちらは戦艦だ。二〇度進路を変えよ」

それに対する返答はこうでした。

「こちらは灯台である」

戦艦は進路を変えました。

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ バイアグラ

  ○ 余暇

  ○ ヘッジ・ファンド

 

<一九九八年一二月コース>  総評より

 

■講座の一年を振り返って

 一一月コースを終えた時点で、この講座を始めてからちょうど一年が経過したことになる。

 新生児がよちよち歩きを始める時期にあたるこの一年という節目は、育ての親にとっては、ますます目の離せなくなる時期でもあると同時に、子供に一人立ちの気配を感じ取って、ホッと一息つく時でもあるかもしれない。

 この講座を始めるにあたって、私には明確な意図があったことを、今改めて思う。それは、この手の作文の通信指導講座ではありがちな、学生の作文に直接赤ペンを入れて添削するというやり方はいっさいしないということだった。そのように作品を添削してしまえば、それはもはや学生の作品ではなくなってしまう、つまり作者本人が主役ではなく、添削者が主役になってしまうからだ。

 「もっと有効な方法があるはずだ」

 それは、既存の作文教育に対する私の挑戦状でもあった。

 そこで私は、次のような方針を自分に課した。

       受講者の作品にはいっさい赤を入れず、そのかわり率直なコメントを返す。

       コメントは、作品に対する感想だけではなく、どこがどう問題なのか、どのようにすれば改善できるのかなどの具体的なアドバイスも含めるようにする。

       毎月の課題は、なるべくジャンルを限定せず、バラエティに富んだかたちで出題する。特に三題噺のテーマは、一見何の脈絡も感じられないような言葉を敢えて選ぶ。

       課題の出し方にもひねりを加え、受講者がなるべく自由に解釈できるよう、イメージを限定せずに広がりを持たせる。

       課題は、マスコミの試験にいかにも登場しそうなネタを吟味すると同時に、私自身にとってもある種のリアリティを持ったものを選ぶ(そうでなければ、血の通った評価ができないと思うから)。

       事務局の依頼により五段階評価を設けることになったが、評価するからには、なるべく客観的な基準を設定し、その基準をどれだけ満たしているかで評価する。

       A評価は滅多なことではつけない。つけるからには、文章をなりわいとする私自身の評価眼が試されているわけであるから、プロの目で見て、どこへ出しても、誰に読ませても恥ずかしくない作品と認めたものにだけつける。

       毎月の総評では、その月の全体的な感想というよりも、自分で出した課題に自分で応えるというかたちで、ひとつの解答例を示す。

 

 このような方針を自分に課したものの、それを貫けるかどうか、最初から私に確信があったわけではない。一年経った今はどうか。もちろん常に見直しは必要だろうし、本当のところは受講者の意見を待つしかないだろう。

 そう、まさに今実感として感じるのは、自分で決めたこれらの方針の有効性に確信が持てるとしたら、それは他ならぬ受講者自身の作品によって判断する以外にはありえないということである。

 実際、私自身も受講者の作品から多くのことを学んできた。まず、ある課題に関する客観的な評価基準を考える場合、最初からその基準が私にあったということではなく、複数の応募作品を横断するようにして検討することによって、その課題に応えるにあたっての最低限クリアすべき条件が必然的に見えてくるということがしばしばあった。それは裏を返せば、その課題に応えるにあたっての「犯しやすい共通の誤り」を導き出し、受講者に注意を促すということでもあっただろう。

 また、「毎月の課題は、なるべくジャンルを限定せず、バラエティに富んだかたちで出題する」という方針と「私自身にとってもある種のリアリティを持ったものを選ぶ」という方針とは、一見矛盾するようにも思える。課題にバリエーションを持たせれば持たせるほど、私個人の関心も拡散するはずだからだ。実際私は、ほとんど直感的に、たまたま新聞やニュースで見て、あるいはそのとき読んでいた本で目にしてピンときたからという理由で、毎月の課題を選んできたように思う。

 それら、一見何の関係も脈絡もないように見えるテーマ同士に、実は深いつながりがあることを教えてくれたのも受講者の作品だった。もちろん私自身、日々社会生活を営む(仕事をし、家庭人として振る舞い、地域の人たちと関わる)中でリアリティを感じたテーマを選んできたという意味では、つながりがあるのは当然とも言えるが、それとはまた別の意味で、課題同士の横のつながりというものに、受講者の作品を通して気づかされることがある。まず第一に、課題同士の横のつながりは、少なくとも私個人が今何に最も強いリアリティを感じているかを教えてくれるわけだ。

 特に、四年生の就職活動が峠を越える夏頃を今年の前期とするならば、新たに三年生が参入してくる秋口からの後期には、受講者の作品によって課題同士のつながりが見えてくるという現象を多く経験した。その理由のひとつとして、受講者の顔ぶれが入れ替わったのに合わせて、私自身の出題方針を、就職活動のスタート地点に意図的に戻したという事情を挙げることもできるだろう。いわば私が、受講者の傾向に合わせて出題の方針を変えるテクニックを覚えたということかもしれない。

 しかしもっと重要なことは、受講者同士何の面識もないはずであり、講師である私と受講者の間の閉じられたコミュニケーションであるにもかかわらず、書かれたものは常に時代を映す鏡であり、たとえ個人的な内容であれ同時代を生きる者同士の一種の共通感覚のようなものが、結果的にあぶり出されるという点に違いない。

 このことは、今月の一回目課題A(「あなた達の世代を総称するネーミング」)と直接的に関係してくる。受講者の作品が、私の出題に新たな意味づけを与えてくれたひとつの例である。

 もっと端的な例は三題噺だろう。こちらはなるべく関連がなさそうな題をランダムに三つ選んでいるのに対し、受講者はその三つの題から必死になって何とか関連性を見い出し、ひとつのストーリーの文脈の中に位置づけようとするわけだから、あたりまえと言えばあたりまえの話だが。

 

■課題を貫くもうひとつの主題

 もう少し、課題にそくして見てみよう。

 一一月コースの一回目課題Aに、私は「出自」という題を出した。これは一種の自己紹介の試みであり、言葉で自画像を描けということだ。就職活動の新たなスタートを切るにあたり、自分のことがしっかり書けるのが必要最低条件だからである。

 ただし、私が期待したのは単純な自己紹介ではない。一一月コースの総評にも書いたが、自分の人格形成に大きく寄与しているもの、自分を形作っている要素のうちで最も重要なものは何かを期待しているのだ。したがって、そうした出題者の意図を汲み取れる人間なら、この「出自」という題は「今の自分に最も大きな影響を与えたもの」といった題に置き換えて考えるに違いない。

 ところが、受講者のほとんどが、この期待を見事に裏切ってくれた。私が基本テキストの中で、これだけは絶対禁物と指摘し、毎月のコメントの中でも繰り返し注意を促してきた「経過報告調」「青春グラフィティ調」「あれやこれやのカタログ的羅列」に終始してしまっているのだ。

 次の二回目課題@は「他人が自分のために書いてくれた推薦文」ということだった。「出自」が、いわば自分から見た自己像であるのに対し、こちらは他人から見た自己像ということになる。どちらも自己を語る場合の重要な視点である。自分から見た自己と他人から見える自己とが統合されてはじめて完全な自己像となるからだ。

 ここで重要なことも、一一月コースの総評に書いたように、出題者のそうした意図を読み取り、他人が書いてくれる推薦文として備えていなければならない条件とは何かを考えることだった。

 そして、次の二回目課題Aでは、<糸巻き>の物語によって、自分で自分の人生を見直すよう促した。ここでも重要なポイントは、経過報告調やカタログ的羅列にならないということと、もうひとつは、自分の人生を主体的に生きるということは、ある意味で他人の人生にも責任を持つことにつながるのだということだ。

 つまり、一一月コースの課題に横のつながり(もうひとつの主題)というものがあるとしたら、それは、出題者の意図を読み取るということであり、自分の視点と他人の視点の交換ということだろう。

 さて、一方今月の一回目課題@では「他人があなたに宛てた遺書」を書かせた。自分の遺書でない点がミソである。つまり、ここにも自分の視点と他人の視点の交換があるわけだ。同時に、「なぜ出題者は、自分の遺書でなく、他人が自分に宛てた遺書を書かせるのか」という想像力が働くなら、その遺書が備えるべき条件が見えてくるはずである。

 ただし、この条件は、自分が誰かに宛てた遺書を書く場合でも、実は同じなのである。ならば、自分の遺書と他人の遺書の唯一の違いは何かといえば、やはりそれは他人の視点で自己をながめるということだろうし、なぜその人が自分の人生の最後にメッセージを送る相手としてあなたを選んだのか、その一点に集約されるだろう。

 つまりここでは、あなたが身近にいる人の人生を、自分との関わりにおいてどこまで深く読み取っているか、あなたの洞察力が試されているのである。残念ながら、この点に関しては個人的な深め方があまりにも浅い人がほとんどだった。切実さをともなって迫ってくるものが感じられないのである。

 そしてさらに課題Aでは、自分から見た他人像という意味で同世代の総称を考えさせた。つまり自分をも含めた社会全体を、世代を共有する者らの視点で捉えさせようという試みである。

 ここで要求される条件とは、自分たちの世代固有の特徴を考えるには、最低限、上の世代と下の世代の特徴をきちんと把握しておく必要があるということだ。さもないと、本当に自分たちの世代に固有の特徴かどうかを判断する客観的な基準は見えてこないはずである。

 今回、ほとんどの受講者が犯していた誤りは、「世代」の特徴と「時代」の特徴を混同しているということだった。たとえば携帯電話の普及や新しいメディアの発達などを挙げている人がいたが、こうしたいわゆる「高度情報化」という現象は、あなた達の世代だけではなく、現代に生きるあらゆる世代に影響を与えているわけで、その影響によって総称すべきものは「時代」の特徴であって「世代」の特徴ではない。ただし、影響の受け方は世代ごとに異なるかもしれない。

 だから、「自分たちの世代は、他の世代と異なり、高度情報化という現象から、こういう影響を受けている」といった論理展開がなされているなら、それは立派な世代論になるはずだ。ところが、世代と時代をはき違えている人に見られるもうひとつの傾向は、論旨の展開が「世代論」にならずに「時代論」になってしまっているということである。たとえば、携帯電話の普及を同世代の特徴としている人は、論旨の展開が「世代論」ではなく「携帯電話論」になってしまっているという具合である。

 こうして社会に目を向けさせた後は、再び自分自身に立ち帰り、ただし今度は過去ではなく未来の自分を見つめてもらうという意味で、二回目課題@には「働く私」という題を選び、一方課題Aでは、軍艦のエピソードによって再び社会的な視点を促したわけである。

 つまり、一一月コースから私が受講者に一貫して要求してきたことは、自己と他者との間の往復運動であり、それにともなう「出題者の意図の読み取り(つまり他者の視点で自己をながめる)」という作業だったのだ。

 

 

<一九九九年一月コース> 課題

 

■一回目課題@(作文)

 次のテーマについて、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

  「マスコミと私」

 

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「共存」

 

■二回目課題@(作文)

 次のテーマについて八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。解釈は自由です。

  「病」

 

■二回目課題A(論文)

 次のテーマについて一二〇〇字前後で論じてください。

  「保険金詐欺」

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ バタフライナイフ

  ○ 新機軸

  ○ インフォームド・コンセント

 

 

<一九九九年一月コース>  総評

■NHK現役職員が語る「合格する作文」

 先日、久しぶりに高校時代からの友人と会ってゆっくり話をした。彼(仮にK氏としておこう)は今、NHKの報道ディレクターをしている。私がこの講座の基本テキストを書くにあたっても、貴重なアドバイスをしてくれた。

 NHKに限らず民放も、いや新聞社や出版社も含めたマスコミ全体、そしておそらくマスコミに限らず、あらゆる分野の会社の採用試験において、応募書類や作文を読んで評価するのは、管理職連中だろう。

 K氏によれば、NHKもご他聞に漏れず管理職が学生の作文を読んでいるという。数千という作文を、数人で手分けして数日のうちに読む。一日に一〇〇からの作文を読む計算になる。土日に家へ持ち帰って読むこともあるかもしれない。もちろん同じテーマで書かれた作品ばかりであるから、どうしても似たり寄ったりの内容のものを続けざまに読まされることになる。いい加減うんざりしてくる。コーヒーを片手に読むこともあるだろう。テレビでニュースでも流しながら読むこともあるかもしれない。そんな中で印象に残る作品とはどんなものか。

 それはやはり、面白く読めるもの、読みものとして楽しめるもの、エピソードが具体的に書かれているもの、ということになりはしないか。逆に理屈っぽいもの、説教くさいものは敬遠される。いまだかつて誰も考えつかなかったような目の覚める理論や考え方が展開されているなら話は別かもしれない。しかし二十歳そこそこの人生経験も浅い学生に、そのような高尚な理論を期待できるはずもない。当然似たり寄ったりになりがちだ。

 考えてみれば、無理もない。たとえば時事的なテーマが出された場合、学生の書き方としては、どうしてもメディア報道の受け売りになりがちだろうし、書き方は新聞の「社説」的になりがちだ。マスコミ志望の学生としては、むしろ社説の論調にあやかろうとする意志が働くかもしれない。しかし、同じテーマについて書かれた「社説もどき」ばかりを立て続けに読まされる側としては、たまったものではない。試しに同じテーマについて書かれた違う新聞の社説を集めてきて、並べて読んでみるといい。プロの書いたものでも似たり寄ったりで、退屈極まりないこと請け合いである。そんな中で、よくも悪くも読み手の印象に残るものは、やはり具体的なエピソードが面白く書けているものということになる。

 もちろんK氏も採用試験を受けてNHKに入社したわけである。作文の勉強をどのようにしたかというあたりを聞いてみると、「結局、どれだけ引き出しを増やせるかということだ」という答えが返ってきた。彼は仲間とマスコミ研究グループを作り、作文の合評会などもしていたらしい。他人の作品を読めば、読み手にとって何が面白いかがよくわかる。

 自分の今までの人生を振り返って、文章にして人に面白く読んでもらえるエピソードなど、そんなにたくさんあるわけではない。たとえば八〇〇字の作文だとしたら、そのうちの六〇〇字をエピソードの描写に費やし、残りの文字数でテーマにつなげれば、何とかかたちになる。したがって、六〇〇字でエピソードを語った作品をなるべくたくさん用意しておいたというのだ。彼が「引き出しを増やす」と言ったのは、そういう意味だ。

 K氏の教訓は、私が普段考えている就職試験の論・作文指導の基本コンセプトと全面的に合致する。それをまとめると、次のようになるだろう。

       たとえ時事的なテーマが出されても、「〜について論ぜよ」という課題でも、理屈はいっさいこねない。

       人に面白く読んでもらえるエピソードを具体的に語るべし。

       人の作品をなるべくたくさん読むべし。

 

■いきなりクライマックスから書き始める

 読み手の印象に強く残る作品とはどんなものだろう。似たり寄ったりの文章ばかりを立て続けに読まされ、いい加減うんざりしている管理職の目を覚まさせ、強烈なインパクトを与える作品とはどんなものか。

 映画でいえば、間違ってもベルイマンやタルコフスキーの作品ではないだろう。ファーストシーンでいきなり高層ビルが爆発するような派手なアクション映画ではないだろうか。もちろんこれはもののたとえで、アクション映画のシナリオを書けと言っているのではないし、派手であればあるほどいいと言っているのでもない。

 しかし、それでも私はいきなりクライマックスの場面から作文を書き始めることをお薦めする。読み手は当然、いったい何が起きるのかという期待感を持つだろうし、結びの一句をテーマにつながるキリッとした文章で締めくくることができれば、「ウーン、なるほど」と読み手をうならせ、強い印象を残すこと請け合いである。私が去年一年間で「最優秀作文賞」に選んできた作品は、どれもこの手の書き方をしているはずである。

 

■採用担当者とは、あなたの人事プランを考える人間である

 企業の採用担当者とは、どんな人物だろうか。あなたのお見合い相手? あなたの採否に関して決定権を持っている人間? もちろんそうだ。しかし、最も重要な点は、内定後のあなたの「人事プラン」を考える人間であるという点だ。

 人事プランとは、まず最初にどこに配属し、誰の下で何年修行を積ませ、次にどこに配属して何をさせる、といった計画のことである。つまりあなたのキャリアであり、社会的な運命であり、未来像だ。

 したがってあなたの書類や作文を見ても、担当者の頭に具体的な人事プランが浮かんでこなかったとしたら、その会社とは縁がなかったと思った方がいい。

 それでは、担当者に自分の具体的な人事プランを描いてもらうには、あなたはどのような情報を提供すればいいのか。もちろん、まずは「志望職種」をはっきりさせておかなければならないだろう。そして次に、自分がその職種にいかにふさわしい人材か、適性・資質を持っているか、あるいは具体的にやってみたい仕事があるなら、それを実現する能力がいかに備わっているかということを立証してやる必要がある。そのためには、自分の希望する職種にとって、どんな資質が第一条件となるかを自分なりに定義しておく必要がある。この定義作業は、言い換えれば、その職種に対するあなたの価値観、哲学を語る作業であると言ってもいい。

 そして、志望職種に対して自分にどれだけ適性があるかを立証する最も効果的な方法は、その職種に類する仕事を過去に立派にやり遂げた経験がある、その資質を存分に発揮した経験があるというエピソードなり具体的な成果物なりを提示してやることだ。たとえばあなたが、現場で何かを制作する仕事を希望しているなら、自分が過去に制作した作品を見せるのがいちばん手っとり早い。少なくとも、こんなものを制作したいという企画書なり提案書なりを見せられるようにしておきたいものである。

 そのためには当然、あなたの頭の中に、制作したい作品が具体的になければならない。つまり、あなた自身も、自分の頭の中に明確なキャリアプランを持っていなければならないということである。キャリアプランとは、自分のライフワーク、仕事の最終目標はこういうことであり、そのためにまず初年度にはこういうことをして、それから何年かけてこういうことをしたい、といった計画のことだ。そして採用担当者の人事プランとあなたのキャリアプランが一致したとき、幸運な出会いが成立するわけである。

 

■プラン実現の意志をどう示すか

 そしてもう一つ、提供すべき重要な条件は、自分にはそのプランを実現するゆるぎない意志があるということだ。ただしこれは、いくら拳を握ってガッツポーズを作ってみせてもダメである。それでは、熱意ややる気は伝わっても、意志は伝わらない。意志とはポーズではないのだ。

 それでは実現の意志を伝えるにはどうしたらいいだろう。まずひとつは、自分はそのプランを実現すべく運命づけられた人間であることを具体的なエピソードで納得させることだ。

 ハリウッド往年の大女優ベティ・デイビスがまだ七歳か八歳の頃、学校を休んでサンタクロースで遊んでいた。ツリーには本物のロウソクが灯され、その木の下にはプレゼントが積まれていた。幼いベティはプレゼントに手を伸ばそうとしたが、そのときロウソクの火が服の袖に燃え移った。火は服全体に広がった。

 「その瞬間、私は燃えていたのだった。恐怖のあまり私は叫び出した。声が聞こえて、何か毛布でくるまれているような気がした。・・・毛布が取り外されたとき、私は目を閉じていることにした。女優になるのだ! 自分が盲目だと信じようとした。『目!』喜びが体を走り抜けた。私はその瞬間を完全に制していた。」

 幼いベティ・デイビスは突然の災難を舞台に変えてしまったのだ。長じて本物の女優となった彼女をよく知る者なら、「いかにも彼女らしいエピソードだ」と言うかもしれない。まさにこの「〜らしさ」こそが個人の資質であり、資質こそが運命なのだ。

 この手のエピソードは誰にでもあるはずだ。それを掘り起こすことこそ、自分の生来の適性を知り、自分の運命のプログラムに、どのような将来のプランが書き込まれているかを読み解くカギとなる。そして同時にこの種のエピソードは、応募書類の志望理由の欄に書き込むのにうってつけの材料ともなるのだ。

 もうひとつ、プラン実現の意志を伝えるのに不可欠なのは、その仕事に対するあなた独自の取り組み方である。これには二つの意味がある。ひとつは「スタイル」ということであり、もうひとつは「哲学」ということである。たとえば、私はこの講座を始めるにあたり、受講者の作品にはいっさい赤ペンを入れないやり方をしようと決意した。それは、この仕事に対する私独自のスタイル(流儀)であり、そう決めた背景には作文指導に関する私の個人的な哲学(私イズム)があるわけだ。

 

■「キャリアプラン」こそ最も効果的な自己PRである

 まとめよう。採用担当者の頭にあなたの人事プランを思い描いてもらうために、あなたが書類の紙面や作文で提供すべき情報は、左記のとおりである。

 ◎ 志望職種

 ◎ 志望職種に対する適性・資質

 ◎ 適性や資質を発揮した経験(具体的なエピソード)

 ◎ 自分自身のキャリアプラン

 ◎ プラン実現の意志(ポーズではない)

  ○ 運命のプログラム(それを示すエピソード)

  ○ スタイル(流儀)

  ○ 哲学(〜イズム)

 もうおわかりだと思うが、自分のキャリアプランを作ることは、そのまま、応募書類で自己PRをやることに等しい。

 したがって、就職戦線に勝ち残る唯一の必勝法があるとしたら、それは自分のキャリアプランをどれだけ細かく具体的に作っておけるかということなのだ。それが出来ている人の書いた応募書類は、一目でわかってしまう。書面から自信のようなものが伝わってくるのだ。

 実力がありながら、応募書類の書き方がいまひとつさえない学生を指導する場合、私はその学生が実現したい仕事、たとえばその学生がテレビ局の番組制作を志望しているなら、実際に制作したい新番組を具体的な企画書にまとめさせることにしている。それができていると、応募書類の内容はガラッと一変し、筆跡にも力強さが表れてくるから不思議なものだ。

 したがって、もしあなたが書類の書き方に迷い、納得のいく書面が書けないで困っているなら、いったん書類から離れて、自分のキャリアプランを具体的に作ってみることをお薦めする。それが出来ていれば、あなたの書面はまったく違ったものになるはずだ。あなたがアピールすべきものは、志望職種に対する自分の適性や資質であると同時に、そのプランそのものなのだ。それがしっかり表現されていれば、ことさら自己PRなどしなくとも、その書面からは、「自分にはそのプランを実現する強い意志と能力が兼ね備わっているのだ」という雰囲気が自然に漂ってくるものである。

 

 

<一九九九年二月コース> 課題

 

■一回目課題@(作文)

 次のテーマについて、八〇〇〜一二〇〇字程度で書いてください。

  「手」

自問自答

■一回目課題A(論文)

 次のテーマについて一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「スキャンダル」

 

■二回目課題@(作文)

 あなたはすでに、書くことをなりわいとして、社会的な成功をおさめているとします。

 今、あなたはどこでなにを書いていますか。どんな気分ですか。あなたの肩書きは?あなたの年齢は?「今」のあなたを八〇〇字から一二〇〇字程度で詳しく描写してください。

 

■二回目課題A(論文)

 次のテーマについて一二〇〇字前後で論じてください。解釈は自由です。

  「円」

 

■二回目課題B(三題噺)

 次の三つの言葉を盛り込んで、一二〇〇字前後のお噺を作り、自分でタイトルをつけてください。

  ○ SOHO

  ○ 逸脱

  ○ 老人力

 

 

<一九九九年二月コース>  総評

■試験の合格を目的に文章を書いてはならない

 自分の書いた作文の最後に「所要時間」を書く人をときどき見かける。つまり、その一二〇〇字程度の文章を書くのにどのくらいの時間を要したかということなのだろうが、いったい何のつもりなのか理解に苦しむ。

 就職の論・作文試験には、当然制限時間がある。その制限時間内にきちんと書けるようになるための予行演習のつもりなのか。つまり制限時間内に収まれば、まずまず成功、そうでなければ修行が足りないと思うのだろうか。それとも「自分はこの文章をたったこれだけの時間で書き上げた」というアピールのつもりなのか。

 しかし、「自分はやっつけ仕事をしました」ということを証明しているとしか、私には思えない。それは、時計を脇に置き、「ヨーイ、ドン」で書き始め、書き上がったら時計を見て時間を確認したことを意味する。タイムトライアルでもやっているつもりなのだろうか。それとも、プリント問題に慣れてしまった悲しい受験生の性か。

 「私はこのたかだか一二〇〇字程度の文章を書くのに、何十時間も何百時間もかかりました。それでもこの程度のものしか書けませんでした」というのなら、まだ可愛げもあるが、所要時間の記述は、明らかに「本来、たっぷりと納得のいくまで時間をかけるべき作業に対して、手抜きをしました。推敲も呻吟もしませんでした」ということを表わしている。

 先月コースの総評に、NHKで報道番組のディレクターをやっている友人のことを書いた。彼はNHKを受験するときに、作文の自習グループを作り、文章修行を積んでいた。その際、自分の引き出しをいかに増やすかということに心血を注いだという。つまり、今までの人生の中で、人に面白く読んでもらえるエピソードを掘り起こし、それを制限文字数の約八割の分量の文章にまとめておく(残りの二割で、出されたテーマに結びつけるため)という作業を繰り返したという。もちろん、そうした「文章の引き出し」を増やすのに費やした時間は、制限時間の何十倍、何百倍に及んだはずだ。そうした実質的な「所要時間」こそが、彼の文章修行の全体像を示している。はっきり言っておくが、論・作文試験に関する限り、テーマが出されたら、その場で思いついたことを制限時間内にまとめるといった付け焼き刃、ぶっつけ本番はいっさい通用しない。

 自分の執筆作業が制限時間内に収まるかどうかを気にする人は、就職試験に合格することを目的として文章を書いていることが見え見えである。そういう人はまず合格しないし、したとしても、仕事の第一日目から文章でつまずくだろう。なぜなら、マスコミ各社は優秀な学生を採用しようとしているのではないからだ。優秀なジャーナリスト候補を採用しようとしているからだ。この違いは大きい。

 たとえばあなたが、駆け出しの新人記者だったとする。自分の書いた記事をデスクに見てもらうときに、その記事を何分で書き上げたかをいちいち自慢げに報告するだろうか。「ふざけるな!」と怒鳴られるのが落ちである。

 所要時間を書く書かないに限らず、その人の文章を読めば、その内容はもちろん、「書く」という行為に対する取り組み方、もの書きとしての精神、人間としての成熟の度合いまで、あらゆることがわかってしまう。まさに「文は人なり」である。

 基本テキストの中でも、そして毎月の総評の中でも、繰り返し言ってきたことだが、ここでもう一度念を押しておこう。「試験の合格を目的に文章を書いてはならない。」

 

■心の準備はできているか

 受講者の作品を読んでいて、もうひとつ気になることがある。自分がこれからマスコミ人になろうとしているのだという意志や自覚があまりにも薄弱で、学生気分がまったく抜け切れていない人が想像以上に多いということだ。先に、文章を読めばその人の成熟度がわかると言ったが、生き方も、ものの考え方も、文章力も、あまりにも未熟で、マスコミ人となる準備のまるでできていない人が何と多いことか。

 私は、事あるごとに、就職試験とはお見合いのようなものだと言ってきた。そのお見合いの席でアピールすべきことは、自分がいかに成熟した大人であるかということだ。ケツの青さを見せてしまったら、誰が振り向くだろう。たとえは悪いかもしれないが、メス猿は発情すると尻が膨らんで真っ赤になる。それは、交尾の準備ができているというサインである。それを見てオス猿が群がってくるわけだ。それと同じように、あなたがアピールすべきことは、自分がいかにマスコミ人になる準備ができているかということだ。作文にしても面接にしても応募書類にしても、自分の尻がいかに赤く膨れ上がって魅力的になっているかをアピールできたなら、マスコミ各社があなたに群がってくるだろう。逆に、あなたにどんなに才能があろうが、名文を書こうが、ケツの青さが見えてしまっては誰も振り向かない。

 

■あなたの成熟度をチェックする

 ジャーナリストの卵として、精神のレベルにおけるあなたの成熟度はいかばかりだろう。あなたはマスコミへの就職の準備がどれだけできているだろうか。それを自己確認するために、次のような質問に関してじっくり「自分との対話」をしてみていただきたい。

 

○ 私は、マスコミに入ってどうしてもやりたい仕事があるか。

○ 私は、生涯追い続けるべきライフテーマを持っているか。

       私は、今自分の志望する職種に就くことが、生まれたときから決まっていたか。

       私は、マスコミに入るべき運命だったことを示す具体的なエピソードを思い出せるか。

       私は、文章表現において独自のスタイル(流儀)と哲学(私イズム)を持っているか。

○ 私は、ペン一本で生きていく決意ができているか。

 

 これらの自問自答は、あなたの精神のありようを示している。精神のありようとは、あなたの魂が、自分の中にプログラムされた運命の形(イメージ)に気づいているかどうかということだ。「成熟」という言葉の反対は「未熟」あるいは「未成熟」ということだが、精神が熟しているという状態は、自分の運命に従うことに迷いがないかどうかということを示している。そういう意味から言えば、「成熟」の反対語は「迷い」ということだろう。

 今月の二回目課題@は、まさにあなたの「もの書き」としての人生が成熟しきった状態を詳しく描写してみせろというものだった。しかし、残念ながら運命が究極まで煮詰まった様子、もの書きとしての自分の最終的なスタイル、哲学というものを表現できている人は一人もいなかった。誰もが自分の精神の未熟さ、ケツの青さ、人生への迷いを露呈してしまった感がある。

 二十歳そこそこで自分の運命に気づき、自分が生涯貫くべきライフワークを見極めることは、確かに難しい。迷いがあって当然だ。しかし、あなたは現に今、人生の大きな選択を迫られているわけであり、あなたの魂は何を選択すべきかをすでに知っている。そして、そのことをあなたに気づかせるべく、今までに何度となくその片鱗を見せてきたはずだ。ただそのことを思い出しさえすればいい。

 

■あなたの生涯目標をテストする

 あなたがマスコミでやりたいと思っていることは、あなたの本心から出てきたものか。それとも自分を偽り、ごまかし、わき道にそれようとした結果だろうか。それを見極めるため、ちょっとしたテストをやってみよう。

 まず、あなたが目指しているものを、抽象的な目標という形ではなく、その目標を象徴する具体的な「物」に置き換えてイメージしていただきたい。たとえばあなたが有名なピアニストを目指しているなら、「ピアノコンクールでの優勝」ではなく「優勝トロフィー」という形でイメージしてみる。

 さて、イメージできたら、次の質問に○か×で答えてみてほしい。

       それのためなら、私は貯金を全部はたいても惜しくない。

       私がそれを成し遂げることは、自分だけでなく、他の人にも幸福と繁栄をもたらすことができる。

       それによって報酬を得ることに後ろめたさは感じない。私がやっていることに人がお金を払うのは当然の代償だと思う。

       自分が正しいと思うなら、他の人がどう言おうと、私はいつでもそれを只で人に明け渡すことができる。

       私はそれを何か別の目標のための手段、別のことを始めるまでの腰掛けとは考えない。

 

 以上の質問に対する答えがすべて○だったら、それはあなたの生涯の目標だと思って間違いないだろう。ひとつでも×がついた場合は、あなたはどこかで自分を欺き、目標を見失い、あるいは見て見ぬ振りをしているのかもしれない。その場合は、自分の心の底に降りて行き、それが手に入れば達せられるはずの目的、満たされるはずの欲求に、もう一度光をあててみていただきたい。

 

■クライマックスの瞬間とは

 私は基本テキストの中でも、はたまた毎月のコメントの中でも「クライマックスの瞬間をディテールをまじえて詳しく語れ」「青春グラフィティ調、卒業生答辞調は禁物」「あれやこれやのカタログ的羅列、説明口調、経過報告調は禁物」と繰り返し説いてきた。これは就職試験の論・作文を書く上での基本中の基本である。ところが、どんなに私がこの基本を繰り返し説いても、七割以上の受講者はいっこうにクライマックスの瞬間を描けないでいる。

 あなたがもし七割の受講者のひとりだったら、自分の文章がどのくらいの時間的なスパンを描いているか一度測ってみるといい。もしそのスパンが、数カ月あるいは数年に渡るものだったら、それはクライマックスの瞬間を描いていることにはならない。数カ月あるいは数年の時間的スパンを描くには、たかだか一二〇〇字程度のボリュームでは無理がある。書こうとすると、どうしても経過報告調、あらすじ調にならざるを得ない。

 クライマックスの瞬間とは、文字通り「瞬間」に起こった出来事を示す。せいぜい数分から数十分の間の出来事である。その出来事の背景にある長いスパンの事情をどうしても説明しなければならないなら、その出来事の描写の中に、迫力や臨場感を損なわないよう注意しながら随時埋め込んでいくしかない。当然そうした事情説明は最低限にとどめておくべきだろう。

 ちなみに、基本テキストに引用した女子学生の例文(書き直し後)をもう一度見ていただくとわかると思うが、ここにはせいぜい数十分の間に起こった出来事が書かれている。そしてもちろんその背景には、彼女が学生生活を通して力を注いできたクラブ活動の全体像が透かし見えるような書き方になっているはずだ。

 

■誰も書かないことを書け

 時事的なテーマが出された場合、まず真っ先にやらなければならないことは、そのテーマの前に「私と」あるいは「私の」といった接頭語をつけて、自分の個人的な問題に引きつけて考えることだと、折にふれて説いてきた。これは、内容が一般論の安きに流れたり、社説もどきの書き方になってしまうのを防ぐためである。

 先月コースの総評でも、たとえ時事的なテーマが出されても、「〜について論ぜよ」という課題でも、理屈はいっさいこねるな、と書いた。ところが、論文の課題では相変わらず理屈をこねたり社説調になっている人が大半を占めている。

 特に今回の一回目課題Aの「スキャンダル」というテーマでは、全体的にこの悪い傾向が如実に出てしまった。私の仕掛けたワナにほとんどの人が見事にはまってくれたという感じだ。私がこのテーマを選んだときに予想していたとおりの書き方をしてくれているのである。

 「スキャンダル」というテーマが出された場合、誰もがまず真っ先に考えるのがクリントンや菅直人などの政治スキャンダル事件だろう。それをネタとして選んでしまったら、その時点でその人は文章が社説調になってしまう道を選んだも同然である。つまり、どんなに内容がよくても、「読まれる前に没になる危険性が大きい」というハンディキャップを背負うことになるのだ。これは絶対にお薦めできない。

 そこで、この手のテーマが出されたら、まず真っ先に浮かんでくるネタには、うっかり手を出さないに限る。そこで思いとどまって、先に挙げた「私と」「私の」といった接頭語をつけて、よく考え直すことだ。誰もが考えつきそうなネタにはうかつに飛びつかないこと。もっとハッキリ言うなら、あえて誰も書こうとしない自分だけのネタを書くべきなのだ。そして当然ここでも、自分の実体験、具体的なエピソードを、そのクライマックスの瞬間をディテールをまじえて詳しく語るという基本は変わらない。

 基本テキストにも引用したが、ここでもう一度アニー・ディラードの次のような言葉を引用しておく必要があるだろう。

 

「人間の特別な性癖・・ものごとに夢中になること・・について書かれたものが、なぜないのだろう。他のだれからも理解されない自分だけが夢中になるものについて書かれたものが。その答えは、それこそまさに、あなたが書くテーマだからだ」

 

■右脳に訴える文章を書くべし

 大脳生理学的に言えば、言語活動はもともと左脳が司っている。一方、右脳はイメージする力(想像力)、情動、直観、洞察力などを司っている。したがって、あなたが理屈っぽい文章、論理的な文章を書くなら、それはもっぱら読み手の左脳に訴えかけることになり、右脳の活動はおろそかになるだろう。理屈や論理で人を感心させることはできても、感動させることは難しい。就職試験の論・作文において、あなたが目標とすべき文章とは、上手いが人を感動させない文章ではなく、下手でも人を感動させる文章である。

 人を感動させたければ、右脳に訴える必要がある。そのためには、読み手の頭に具体的なイメージが浮かぶような文章を書かなければならない。私がディテールをまじえた詳しい描写を要求する理由のひとつはそこにある。ディテールを詳しく描くには、あなたの頭の中に明確なイメージがなければならないし、そのイメージが読み手と共有できて初めて感動も共有できる。そのためには右脳を活性化する必要がある。

 先に、書くことは瞑想に似ていると述べたが、その理由のひとつはここにある。瞑想は、普段使っていない脳の部分(主に右脳)を大いに活性化する。右脳を働かせて書かれた文章は、直接読み手の情動に働きかけるだろう。そして、ひとたび読み手の右脳を活性化させることができれば、記憶への定着度も違ってくる。一度イメージしたことを、人は簡単には忘れない。読み手の印象に強く残る文章とは、つまるところ右脳に訴えかける文章なのだ。

 ただし、論理性を軽視していいと言っているのではない。文章を組み立てるあなたの頭は論理的でなければならないし、非論理的で支離滅裂な文章を書いていいわけはない。読み手の方も、右脳で感動はしても、評価するのはやはり理性(左脳)の働きである。人間の知的活動において、左脳と右脳の働きは車の両輪のようなものだろう。双方のバランスが崩れては、決して健康な知的活動とはいえなくなる。