■はじめに


 「あしたのジョー」というマンガがある。ドヤ街の不良少年「ジョー」こと矢吹丈は、元ボクサーの丹下段平にボクシングの素質を見い出され、プロへの道に誘われるが、興味を示さず非行に明け暮れ、とうとう鑑別所送りになってしまう。独房で退屈しているジョーのもとへ段平から一枚のハガキが舞い込む。

『あしたのために(その一) =ジャブ= 攻撃の突破口をひらくため、あるいは敵の出足をとめるため、左パンチをこきざみに打つこと。このさいひじを左わきの下からはなさぬ心がまえで、やや内角をねらい、えぐりこむように打つべし。せいかくなジャブにつづく右パンチは、その威力を三倍に増すものなり』

 これぞまさに通信教育である。ここに書かれているのはパンチの打ち方のノウハウだけである。励ましの言葉も、慰めの言葉もない。ジョーにはもともとファイティング・スピリットがあった。足りないのはそれをうまく表現する手段だということを段平は知っていたのだろう。だからこそそのノウハウは、あたかも苦境に立たされた者への応援歌のように響く。それはかつて段平自身が同じ境遇のさ中で、繰り返し自分に歌いかけていた労働歌でもあったに違いない。

 私が論作文の通信講座という場を借りてやろうとしていることもこれだろう。講座の参加者へ渡す最初のテキストとして何を書くべきかずいぶん悩んだ。いずれにしろ、いわゆる「つづり方教室」や「文章読本」の類を書くつもりはなかった。だから結局私も段平のように応援歌を奏でるしかないだろうと思った、悩み、迷い、苦しむ中で自分に歌い続けてきた個人的な労働歌を、ファイティング・スピリットならぬライティング・スピリットをくすぶらせている者らへ、そのまま口伝えにする形で・・・。

 だから、このテキストを読んだからといって、すぐにうまく書けるようになるわけではない。他人の労働歌を聞いたからといって、すぐに仕事が見つかるわけではないのと同じだ。しかし、このテキストをきっかけにして、「フムフム、なるほど」と何かを考えはじめ、じゃあ、自分だったら、ああしてみよう、こうしてみようと実際行動に移るなら、あなたは確実に書くという行為に向かって歩みはじめるだろう。そうすれば書くためのノウハウはおのずと後からついてくるに違いない。

 さて、最初は退屈しのぎに両腕を振り回していたジョーだが、やがて宿命のライバル力石徹と出会い、こてんぱんに叩きのめされる。そこでジョーは段平に次のようなハガキを送る。

『あいさつあ、ぬきだ。けちけちしないで、どかどかボクシング通信教育をおくってよこせ。なにがなんでもたたきのめさにゃ気のすまぬ男が俺の眼のまえに立ちはだかったんだ。強敵だ。てごわい。それだけにやりがいもある。なにしろ右ストレートはおぼえちまった。俺はいまうえている。たのむぜおやじ』

 段平としては指導者冥利につきるというものだろう。そこで私も期待するわけである、受講者からこんな声が聞こえてくることを・・・。

「あいさつあ、ぬきだ。けちけちしないで、どかどか作文の課題をおくってよこせ。なにがなんでも通り抜けなきゃならぬ関所が俺の眼のまえに立ちはだかったんだ。難関だ。てごわい。それだけにやりがいもある。なにしろつづり方はとっくの昔におぼえちまった。俺はいまうえている。たのむぜおやじ」

(高森朝雄・ちばてつや作『あしたのジョー』講談社・コミックスより)

 

■プロローグ


 これは私自身が二十歳そこそこの頃に実際に経験したことでもあるのだが、文章家を目指そうとする若者に対し、このようにアドバイスする先輩諸氏がいる「才能はあるのだから、もっと人生経験を積むべし」と。しかし、書くために必要なのは本当に人生経験だろうか。どんなに豊富な人生経験を持っていても、一行も書かない(書けない?)人もいる。それは言語経験が足りないか、あるいはまったくないからだ。ハッキリ言っておこう。書くために必要なのは人生経験ではなく、言語経験である。

 言語経験さえあれば、人生経験はいらないと言っているのではない。白い原稿用紙に向かってさえいればモノが書けると言っているのではない。書くことを前提にすれば、人生経験の仕方(質)もおのずと変わってくるという意味である。たとえばあなたが友人と連れだってカラオケに行くとする。歌うことを目的にカラオケに行くなら、あなたはただ友人と楽しく歌って帰ってくるだろう。しかし書くことを前提にカラオケに行くなら、あなたは歌うこと以上の何かを経験するかもしれない。眼にする情景の細部がとたんに意味の輝きを放ち、マイク片手に自己陶酔の境地にいる友人の姿に、意外な人生の真実を見い出し、執筆意欲をかき立てられるかもしれない。

 また、こういうことも言えるだろう。たとえば作文のテーマとして「わが人生最大の思い出」というのが出たとする(この種のテーマは、形を変えて実際によく出る)。それが最高に楽しい思い出か、それともこのうえなく辛い思い出かは個人差があるだろうが、いずれにしろあなたのその後を決定的に影響づけた記憶という意味だ。あなたにとってその最大の思い出が、たまたま八歳のときのものだったとする。それを十歳のときに書くのと二十歳のときに書くのとでは、同じではあり得ない。それは、誰でも過去に体験したことの意味を「自分にとってあれはいったい何だったのか」と繰り返し読み直しているからだ。八歳のときの体験を十歳のときに書いたあなたの文章を読みたがる人間はいない。しかし八歳のときの体験を二十歳のあなたが語る意義は大きい。過去の体験を何度も読み直すことによって、体験は経験へと変革される。これを人間的成長という。八歳のときの体験を二十歳の視点で書くことは、あなたがどれだけ人間的に成長しているかを示すよいバロメーターとなり得る。そして、この体験の読み直し、人間的成長を促してくれるのが言語経験である。言語経験は「あれはこういう意味だったのか」という気づきをもたらすものである。「意味」とはまさに言語である。

 さて、言語経験とは基本的に次の二つの行為によってのみもたらされるものである。すなわち、読むことと書くことである。それ以外にはあり得ない。他に付随的に聞くことと話すこともあるが、あくまで聞くことは読むことに付随し、話すことは書くことに付随する。読むことを多少拡大解釈して、映画を読むとか、芸術作品を読む(観るではない)とかという類も、その中に含めるのはかまわないだろうが、書くことはあくまで文章を書くこと以外にはあり得ない。

 まとめよう。言語経験とは、何を書き、何を書かないかを見分けることではなく、体験の不断の読み直しによって、あらゆることが書かれるべきことに向かって引き寄せられてくる瞬間を経験することにほかならない。



    

基本テキスト




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