※小学校三年生の男の子が書いた詩


「おふろ」

ぼくが
おふろにはいろうとしたら、
おかあちゃんが、
「かぜをひくから、早くはいりなさい。」
といった。
ぼくは、
「うん」
と、へんじをした。
ぼくが、
ふろばの戸をあけたら、
「早く、お湯の中にはいりなさい。」
と、おかあちゃんが言った。
ぼくが、ぬくもってたら、
「早よ出て、きれいに洗いや。」
と言う。
ぼくが洗ろてたら、
「早よ、はいり。」
と、また言った。
「頭を、きれいに洗いや。」
「早よタオルでふきなさい。」
と、おこる。
ぼく、いそがしうて、こわごわ
おかあちゃんのかおを見ながら、
服をきてたら、うっかりして、
はんたいにきてしまった。
そしたら、
「ぼんやりやな。しっかりしなさい。」
と、どなられた。
子育て
‐目次‐

■「減点主義」から「加点主義」へ

■「子育て」から「子育ち、親育て」へ

■個人的体験から魂の真実へ

<ワーク:「動物物語」>


<ワーク:「親と教師のためのQ&A 」・・あなたと子供の関係を再点検する・・>







自分が自分の親から自律できていない親は、
自分の子どもからも自律できない

そういう親は、目の前にいるその子とつき合おうとするのではなく
「子ども」という概念とつき合おうとする
「子ども」とは、こうあらねばならないはずの存在だ、とばかりに
しかし「子ども」という概念はない
そこにその子が居るだけだ

そういう親は、飛ぼうとする子どもの羽根を、知らず知らずのうちに傷つけ、
あの手この手を使って、巣につなぎとめておこうとする
それが子どものためなのだと信じて疑わない
なぜなら、子どもが巣立ってしまうと、支えを失い、
自分がつんのめってしまうからだ

子どもを自律した人間に育てたいと思う親は、
まず自分が自分の親から自律することを考える

自分の親から自律している親は、子どもの自律を促す
子どもが巣立てば、エサの運び手となってくれて
自分もそれだけ豊かになることを知っているからだ
子どもの自律によって、自分の自律も促され
子どもに対しても、自分の親に対しても、
豊かさの運び手となれることを知っているからだ











■「減点主義」から「加点主義」へ

 おそらく私たちの誰もが、幼児期には「これを嘗めるな、あれに触るな」という禁止、排除、隠蔽の教育に始まり、学齢期には「あれをしなさい、これをしなさい」という押しつけ、命令、強要の教育へと続き、そして最後には「そんなこともわからないのか、こんなこともできないのか」という叱責、懲罰、こき下ろしの教育に終わる一連の道を経験してきたのではないでしょうか。
そして社会に出れば出たで、自由の代わりに束縛を約束され、生きがいではなく達成目標を押しつけられ、過度の競争によるストレスや挫折感を味わうことになります。
 そこに貫かれているのは「減点主義」の社会観・人間観です。あたかも人間は100点満点の完璧な姿で生まれてきて、年齢を増すごとに点数が減っていくのだといわんばかりです。
 恐ろしいことにこの教育思想は、極めて感染力の強い伝染病のようなもので、潜在意識の経路を通って親から子へ、教師から生徒へ、上司から部下へと確実に受け継がれ、その子どもたちが成長したときに、また自分たちの子どもや生徒たち、後輩たちへと受け渡されていくのです。この経路はどこかで断ち切らなければなりません。
 私たちは、子どもの能力を減点主義で測るのではなく、歳とともにその可能性の幅を広げていくのだという「加点主義」の教育を心がけたいものです。


■「子育て」から「子育ち、親育て」へ

 「この親にして、この子あり」「親の顔が見たい」などとよく言います。子どもにとって、親は絶対的影響者であるという考えの表われでしょう。確かに子どもは親から多くの影響を受けます。しかし、実は子どもが親から受ける影響よりも、親が子どもから受ける影響の方がはるかに大きいのではないでしょうか。「あなたが最も影響を受けた人物は?」と問われたら、私は迷わず二人の子どもを挙げるでしょう。
 普段私たちは「自分こそが、この子を育てているのだ」と思いがちですが、実は、子どもは自分で育つもの。子どもとのつき合いによって人間的な成長を促されるのは、むしろ親の方ではないでしょうか。そうした意味から、「子育て」という言葉は、むしろ「子育ち、親育て」と、そして「育児」は「育自」と言い換えた方がいいだろうと、私は思っています。
 「この子を立派な人間に育てなければ」と、目をつり上げたとたんに、親子関係は硬直したものとなります。この考えを手放せば、子どものことも自分のこともよく見えるようになり、意外と簡単にまったく新しい親子関係のあり方が見えてきます。この新しい親子関係によって、「良い親」を必死に演じている間には思いもよらなかったような、親であることの悦びが湧き上がり、生まれてきた子どもに対する感謝でいっぱいになるに違いありません。


■個人的体験から魂の真実へ

 ゆるぎないはずだと信じ込んでいた「家族」という共同体に崩壊のかげりが見え始めたとき、私の心に大きな変化が訪れました。皮肉なことに、子どもたちと離れて暮らさなければならないこともあり得るという思いが、彼らに対する無条件の愛へと私を向かわせたのです。
 おそらく世間一般でいう父親が、子どもに対してごく日常的にするであろう強制・命令・禁止・懲罰、そして支配といったものはすっかり陰をひそめ、何も引かない、何も足さない、彼らの魂にいっさい手心を加えない(いや、加えることのできない)自分がそこにいました。
 すると、子どもとのつき合いが悦びと感謝に満ちたものになったばかりでなく、今まで自分がいかにバカバカしい固定観念にとらわれ、背負う必要のない重荷を背負い、自分で自分をがんじがらめにしてきたかということに気づいたのです。
 そんな折、現代心理学界の“長老”とも呼ぶべきジェイムズ・ヒルマンの理論が私の目にとまりました。あらゆる子どもは、自分の肉体と親と環境を選んで生まれてくる。その選択には、魂のプラン(計画)とも呼ぶべきものが関与していると、ヒルマンは考えています。「わが意を得たり」とばかり、私はハタと膝を打ったのです。
 このページでは、ヒルマンの理論を軸に、子どもとのつき合いをどのように考え、どのように実践したらよいか、そして最後に、自分と子どもがどのような魂の計画をもってこの世に生まれてきたのか、そしてその計画に逆らわない生き方とはどのようなものなのかを、ワーク形式で探っていきたいと思っています。