赤ん坊の歩みも、夢遊病者の歩みも、ともにふらふらして寄る辺ないが、両者には決定的な違いがある。

たとえば、母親の手招きに応じて赤ん坊がつかまり立ちして歩き出すとき、その先には手招きする母親という愛と喜びに満ちた対象がある。母親が右にずれれば、赤ん坊の歩みも右にずれる。母親が左にずれれば、赤ん坊の歩みも左にずれる。そして、もし仮に、手が届こうとする直前に母親が遠ざかったとしても、赤ん坊は歩みを止めはしないだろう。むしろ、さらに目を輝かせて、歩みに拍車をかけるかもしれない。そこで転んだとしても、再び立ち上がって歩き続けるに違いない。そのようにして人は、知らず知らずのうちに自分で歩くことを覚える。

一方、夢遊病者の歩みには、向かっていく対象がない。いわば、ふらふらと徘徊することそのものが目的になっている歩みだ。したがって、その歩みはどこへ辿り着くかわからないし、堂々巡りに陥るかもしれない。そうした状態が続けば続くほど、その人の歩みは病的になっていく。

赤ん坊にとっての「手招きする母親」に相当する対象が心にある人の歩みは、他人からはどんなに「あっちへふらふら、こっちへふらふら」しているように見えても、本人にとっては喜びと輝きに満ちたものである。そうした対象を持たない人の歩みは、夢遊病者のそれに似ている。