過ぎたことをいくら省みても、そこに答えはない。答えに至るヒントは見出せたとしても。

反省とは「あの時、もっとああすればよかった、こうすればよかった。ああすべきでなかった、こうすべきでなかった。だから、次はああしよう、こうしよう」という類だが、それは過去を基点に未来を形作ろうとする試みに他ならない。それは、未来にも同じことが起こることを前提にしている。

一方、軌道修正とは、迷路遊びで袋小路にぶつかったら、曲がり角まで引き返して別の道を選び直すことを意味している。選び直した道が正しい順路であるという保証はないが、少なくとも行き止まりになる道が人生の地図からひとつ減ったことだけは確かだ。

迷路遊びに興じる人は、一度も袋小路にぶつからないことを期待しているだろうか。いや、むしろ道に迷うことを楽しみ、複雑な行程を好むはずだ。

反省には主に理性が介在するが、軌道修正には主に直観や想像力が介在する。また、軌道を修正するためには、何が本来の軌道であるかを知っている必要がある。しかし、これからたどろうとする道が本来の軌道であるかどうかは、たどってみるまでわからない。したがって、道の選択には、学習による後得的な認識作用よりも、むしろ生まれながらの生得的な認識作用がより深く関与している。それは、遺伝によって親から受け継がれた行動パターンとも異なり、その人を唯一その人ならしめているかけがえのない個性だ。個性こそが運命なのだ。

また、人生の軌道修正は、道に迷ったときにだけ必要なのではなく、毎日必要なものである。毎日の微調整が積み重なって、大きな軌道の違いを生む。どの方向への微調整かといえば、それは「より自分らしい」という方向へだ。「らしさ」こそが個性なのだ。「なにかしら、自分らしくない」という感覚が、人に軌道修正を迫る。したがって、一日24時間、100パーセント自分らしく振る舞っている人には、軌道修正は必要ない。