『戦士エルの物語』




 パンピュリア族の血筋をうけるアルメニオスの子である勇敢な戦士エルは、戦争で命を落とす。10日ののち、他の戦死者とともに収容されたとき、彼の屍体だけ腐敗していなかったため、埋葬されずに家まで運ばれ、二日後にまさに野辺送りの火にふされようとしたとき、薪の上で彼は生き返った。そして彼はあの世で見てきたことを語る。つまりエルの物語は、今で言う「臨死体験」なのである。

 

■「学ぶ」とは「思い出す」こと

 彼の魂は肉体を離れたのち、他の多くの魂とともに、ある不思議な場所に到着する。そこには大地に2つの穴が並んで開いていて、天にも別の2つの穴が開いていた。その天と地の間には裁判官がいて、やってくる者たちを次々に裁いては、正しい人々を天に開いた一方の穴から天国に送り込み、不正な人々を地に開いた一方の穴から地獄へ送り込んでいた。エルはそこで裁きを免れ、死後の世界の報告者として、そこで行われることをよく見聞きするよう言われる。そこで彼がよく見ていると、地に開いたもう一方の穴からは、汚れとほこりにまみれた魂たちが上がってき、天に開いたもう一方の穴からは、別の魂が浄らかな姿で下りてきていた。長い旅路を終えたそれらの魂たちは、互いに挨拶を交わし、それぞれ天国と地獄で経験したことを語り合うのである。

 

 これらの魂たちは、やがて再び現世に戻されるのだが、まさにこれは魂同士の情報交換であり、ソクラテスが『メノン』(岩波文庫)の中で展開している次のような「想起説」と合致する。

 「人間の魂は不死であり、何度も生まれかわりを繰り返しているため、今ここに生きている人間は、すでにありとあらゆることを学んでしまっている。したがって、『学ぶ』とか『探求する』とか呼ばれている行為は、すでに知っていながらも忘れてしまっている事柄を想い起こすことにほかならない」

 

■現在−過去−未来

 さて、天と地から集まった魂たちは、それぞれ7日間をそこで過ごすと、8日目に再び旅に出る。そして旅立ち後、4日目に到達した地点で彼らは、天と地の全体を貫いて延びる光の柱を目にする。さらに1日の行程を進むと、その光に到着した。その光の中央に立つと、天空から光の綱の両端が延びてきているのが見えた。その綱の端からは、アナンケ(必然)の女神の紡錘が延びていて、それによってすべての天空が回転するようになっていた。その紡錘はコマのように軸とはずみ車で構成されていて、そのはずみ車は、軸棒を中心にして、ちょうど大きな椀の中に一回り小さな椀がぴったり収まっているようにそれぞれ大きさも厚みも輝きや色も違う8つの車が重なり合って層をなしている。

  (岩波文庫版の『国家』の訳注によると、これらのはずみ車は太陽系の惑星および恒星の軌道を表し、厚みは軌道同士の間隔を表しているという)


 紡錘はアナンケの女神の膝の中で回転している。その一つ一つの輪の上にはセイレーン(その歌声で聞く者の心を魅惑する妖女たち)が乗っていて、さらに、アナンケの三人の娘たち(ラケシス、クロト、アトロポス)が、等しい間隔をおいて輪になり、王座に腰をおろしている。この三人は、モイラ(運命の女神)たちであり、セイレーンたちの奏でる音楽に合わせて、ラケシスは過ぎ去ったことを、クロトは現在のことを、アトロポスは未来のことを、歌にうたっていた。そして、クロトは間をおいては紡錘の外側の回る輪に右の手をかけて、その回転をたすけ、アトロポスも同様に内側の輪に左手をかけてその回転をたすけている。ラケシスは、左右それぞれの手でそれぞれの輪に交互に触れていた。

 (つまり紡錘の輪の外側が現在を、内側が未来を表し、過去はその両方にかかわっているということか。これは、現在の視点から過去を媒体として未来を見透かすという考えの現れだろうか)

 

■運命は自分で選び取る

 さて、魂たちはそこに到着すると、ただちにラケシスのところへ行くように命じられる。そこで神官が次のような神の意を魂たちに伝える。まず、死によって終わる周期(つまり現世での生涯)が再び始まるということ。運命を導くダイモーン(神霊)を、自分自身で選ぶということ。これから籤(番号札)を配るが、その籤の順番で、さまざまな生涯の見本の中から、自分でひとつの生涯を選ぶということ。選択の責任は自分にあるのであり、神にはいかなる責任もないということ。そうして神官はすべての者に向けて籤を投げ、それぞれの者は自分のところに落ちた籤を拾う。ただしエルだけは除外された。

 

 次に神官は、そこにいる者の数よりはるかに多いさまざまな生涯の見本を彼らの前に広げて見せた。1番の籤を引き当てた者は、最大の独裁者の生涯を選んだ。しかし、そこには自分の子どもたちを殺して食らうことや、その他数々の禍いが運命として含まれていることに気づいた彼は、自分の選択を嘆き、神官の忠告を無視して、その責を自分に帰することなく、運命と自分のダイモーンを責めた。この者は天上の旅路を終えてやってきた者の一人だったが、前世において、よく秩序づけられた国制の中で生涯を過ごしたおかげで、真の知を追求する(哲学する)ことなく、ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。概して、天上から来た者たちにこの手のしくじりをしでかす者が多く、一方、地下からやってきた者たちの多くは、自分も苦しみ、他人の苦しみも目の当たりにしてきたので、いい加減な選び方はしなかった。

 

■前世の習慣が選択のパターンを決める

 いずれにしろ、生涯の選択はたいていの場合前世の習慣によって左右されていた。かつてオルペウスのものだった魂は、女たちに殺されたため、女の腹から生まれるのを嫌い、白鳥の生涯を選んだ。節度を知らぬつわものの戦士であったアイアスの魂はライオンの人生を選び、また駿足の若き女走者であったアタランテは男性の競技者の人生を選んだ。最後の順番を引いたオデュッセウスの魂は、前世の苦難が身にしみていて、名を求める野心も涸れ果てていたので、厄介ごとのない一私人の生涯が片隅に顧みられずにあったのを見つけて選び、1番の籤が当たっていたとしても自分はこの生涯を選んだだろうと言った。

 

■変えることのできない運命と個性

 さて、こうしてともかくすべての魂たちが生涯を選び終えると、みな籤の順番に整列してラケシスのもとに赴いた。この女神は、これからの生涯を見守って、選び取られた運命を成就させるために、先にそれぞれが選んだダイモーンをそれぞれの者につけてやった。ダイモーンは魂をクロト(klotho=紡錘でよじる)のもとへと導き、その手が紡錘の輪を回している下へ連れて行って、各人が籤引きの上で選んだ運命を、この女神のもとで改めて確実なものとした(それに『特定のねじれを加えた』の意味か?)。そしてこのクロトに手を触れてから、今度はアトロポス(atropos=“曲げることのできない、変化しない”)の紡ぎの席へ連れて行って、運命の糸を、取り返しのつかぬ不変のものとした。そこから魂は後ろを振り返ることなくアナンケの玉座(膝)の下へ連れて行かれた。つまり選び取られた生涯は、それぞれ過去・現在・未来を司る女神のもとで、その順に批准され、最後に三女神の母であるアナンケ(必然の女神)によって批准されたわけである。

 (プラトンがここで言いたいことは、肉体に宿る前の魂が自分で選び取った運命とは、取り返しのつかない不変のものであり、すでにある特定のねじれ(個性)を持っているということだろう)

 

 最後に、魂たちは忘却(レーテー)の野と呼ばれる炎熱の平原を渡る。喉を枯らした魂たちは、放念(アメレース)の河の水を決められた量だけ飲まされるのだが、自制のきかない者たちはその量を超えて飲んだ。それぞれの者は、飲んだとたんに一切のことを忘れてしまった。そして、みなが寝静まった真夜中に雷鳴がとどろき、大地がゆらぎ、魂たちは流星のようにそれぞれの新しい生へと運び去られた。エルだけは河の水を飲むのを禁じられていて、気がつくと、火葬の薪の上に横たわっていたという。これがエルの物語の概略である。

(参考:プラトン『国家』岩波文庫)

 

■まとめ:エルの物語が示す魂の真実

 エルの物語は、人間の運命や持って生まれた個性について、次のような魂の真実とも呼ぶべきものを示してくれている。

       私たちの魂は、肉体に宿る前に、すでにあらゆることを学んでいて、ただそれを忘れているにすぎないということ。

       私たちの未来は、現在の軌道の内側にあり、過去は現在と未来の両方に関わっているという  こと。

       私たちの運命や個性(行動パターン)は、魂が肉体に宿る前にすでに選び取ったものであり、変えることはできないということ。

       私たち一人一人の人生には確かに運・不運というものがあるが、それでも私たちの魂は、十分な選択肢の中から、自分の個性に見合う運命を選び取っているということ。

       私たちの運命選択のパターンは、過去生からの個人的習慣に負うところが大であるというこ  と。

       私たち一人一人には、それぞれ一つずつ、魂が自ら選んだダイモーン(守護神)が同伴していて、それが運命を成就させる手助けをしているということ。

       運命の女神は、放念の河の水を飲む量という形で、私たちの魂がなぜ今の人生を選び取ったのかということを思い出す抜け道を残してくれているが、ある種の「魂の渇き」がそれを邪魔しているということ。

 

 このエルの物語をもとに、プラトンは次のように述べている。

 「(われわれが善い生と悪い生とを識別する能力と知識を授けてくれる人を見いだして学べるなら、)それによって、われわれの一人一人は、(さまざまな生涯の見本に含まれる諸条件が)善き生ということに対してどのような関係を持つかを考慮しながら、美しさが貧乏あるいは富といっしょになるとき、またどのような魂の持ち前とともにあるとき、・・・氏素姓の良さ悪さ、私人としてあることと公的な地位にあること、身体の強さ弱さ、物わかりの良さ悪さ、そしてすべてそれに類する魂の先天的ないしは後天的な諸特性が互いに結びつくとき、何を作り出すかを知らなければならぬ。そうすれば、その人は、すべてこれらの事柄を総合して考慮したうえで、もっぱら魂の本性のことに目を向けながら、魂がより不正になるような方向へ導く生涯を、より悪い生涯と呼び、より正しくなるような方向へ導く生涯を、より善い生涯と呼んで、より善い生涯とより悪い生涯との間に選択を行うことができるようになるだろう。そしてほかのことには、いっさい見向きもしないようになるだろう。なぜならば、われわれがすでに見定めたように、そのような選択こそは、生きている者にとっても死んでからのちにも、最もすぐれた選択にほかならないのであるから」(『国家』より)

 

 プラトンのこの言葉は、次のような要点を含んでいる。

       人間とは、国、家柄、肉体的特徴、性格、知的能力、貧富、地位など、先天的なものと後天的なものが混然一体となったものであるが、それは魂が肉体に宿る前に、ある目的や意図をもって選び取ったものであり、いわば魂の持ち前とともにあるものであるということ。

       魂の本性(つまり魂が何を基準に生涯の諸条件を選んだか)を見定めることが、人間の専心すべき道であるということ。

       より善い生涯とは、自分の見定めによって選択していく結果であるということ。

 プラトンの伝統を受け継ぐプロティノスは、エルの物語を次のようにまとめている。

 

「誕生、特定の肉体、特定の両親、この場所、つまり外的環境と呼ぶものの中にやってきて、・・・まるで紡ぎあわされたかのように一つの統一体となる」

 

 

 

 

                                             

ジェイムズ・ヒルマンの「魂の心理学」

 

 

 現代を代表する心理学者のジェイムズ・ヒルマンは、エルの物語を次のようにまとめている。

 

「一つ一つの魂はダイモーンに導かれ、必然の力によって特定の肉体、場所、両親、環境に宿る。しかし、そのことをぼんやりとでも覚えているものは誰もいない。忘却の野で記憶は完全に消えてしまうのだ」(ヒルマン『魂のコード』河出書房新社)

 

 ヒルマンは、エルの物語に登場する「籤(+自分の選んだ生涯)」の概念は、「イメージ」のことを表していると解釈する。

 

「籤はそれぞれ個別的で、運命の全体を示すものであるから、魂は自分の生涯全体を見渡すイメージを直感的に理解するにちがいない。そして、そのイメージが引きつけるものを選ぶのだ。『これがわたしの欲するもの、これがわたしが正当に引き継ぐもの』だと。わたしの魂は、こうして己が生きるべきイメージを選び出す」(同上)

 

 魂はそのイメージにみあう両親、場所を選び、ダイモーンに導かれて特定の時に特定の肉体に宿る。いわばそれらの要素が一枚の織物のように紡ぎ合わされた統一体が、一人の人間なのである。

 

「『籤』とはあなたが引き継いだイメージであり、世界の秩序の中におけるあなたの魂の割り当てであり、地上でのあなたの場所である。それらはあなたの魂が、この世にくるにあたって選んで、パターンの中に入れ込んだもの・・いや正確に言うなら、時間は神話の方程式の中には入ってこないものであるから、自分の魂がいまだ選び続けているものなのである」(同上)

 

 そうして、死後の世界から再びこの世に肉体という乗り物を得てやってきた魂は、その乗り物とともに人生を歩みながら、俯瞰で世の中をながめ、自分のイメージに合った着地点を探す。

 あなたは生きられる世界を渉猟しながら、自分の落ちつく先はここだろうかと自問する。そこであなたの魂は「いや、そこではない」と無言のメッセージをあなたに送ってよこすかもしれない。そこであなたは再び別の場所を探し、そこが自分の安住の場所かどうか、居心地を確かめてみる。そしてまた目に見えない、耳に聞こえない返事を待つ。そうした遍歴を続けるうちに、やがてあなたの魂は、当初の意図にそった場所を見いだし、そこにゆっくりと(グロウ・アップではなく)グロウ・ダウンする。

 ここで言う場所とは、特定の空間的な場所というより、いわば魂が現実の世界と折り合いをつけるやり方、あるいは魂の内の計画が現実世界に結実することを意味する。