第5章 運命

人は誰も、悲劇の主人公を演じているのだ。
その目で見れば、ごらん
あそこをハムレットが気取った足どりでゆく、

こっちにはリア王がいる、あの娘は
オフィーリアだし、
こっちの娘はコーディリアだ。しかし
彼らは最後の幕になって、悲劇が
最高潮に達しても、もし
自分が主役だと自覚しているなら
持ち役のせりふを捨てて自分が泣き出したりはしない。
ハムレットやリア王は悲劇だが
それを書いた作者や演じる役者は
陽気な存在なのだ。

                ・・W.B.イェイツ

−目次−

  ■「アダルト・チルドレン」という運命

  ■運命と運命論

  ■目的(テロス)と目的論(テレオロジー)

  ■事故(アクシデント)

  ■すべての「アダルト・チルドレン」へ













■「アダルト・チルドレン」という運命

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 「あらゆる子供は、肉体、両親、場所、環境を選んで生まれてくる」という考えを、どうしても受け入れられない人たちがいる。この人たちは、次のように言うかもしれない。「かりにそれらのものを自分で選んだとしても、その選択のいちいちが気に入らなかったとしたら、どうしたらいいのか。場所や環境は、ある程度の努力により後で変えることができるだろう。肉体も修行や鍛錬や医学的な処置である程度思うように改善できるかもしれない。しかし親はどうなのだ。こればかりは変えられないではないか。自分たちが誰から生まれてきたかという事実だけは、如何ともしがたい運命なのではないか。それは人間の原罪にも等しいものなのではないか」

 このような考え方をする典型的な例に、「アダルト・チルドレン(AC)」と呼ばれる人たちがいるかもしれない。今やACに関する情報は世に溢れ、隠れたブームを巻き起こしているかに見える。まるで「一億総AC時代」が到来したかにさえ思える。

 そこで最後に、このACの概念をとり上げつつ、どんぐり理論が「運命」をどのように解釈するかを見ていくことにしよう。

 まず、ACとは何かについて、若干の認識をもっておこう。「アダルト・チルドレン」とは元来、アルコール依存者などを身内(とくに親)にもち、それが原因で心的障害を感じている人のことを指していたようだが、それが最近では広義に解釈され、「家族関係が原因で自分の人生に生きにくさを感じている人」も指すようになったようだ。

 日本におけるACの研究者であると同時に実際の治療者でもある斎藤学氏は、ACの定義と特徴について次のように述べている。

 

  ○ アダルト・チルドレンとは、「安全な場所」として機能しない家族のなかで育っ    た人々のことである。

  ○ アダルト・チルドレンは、「周囲が期待しているように振る舞おうとする」「NOが言えない」「しがみつきと愛情を混同する」「楽しめない、遊べない」「フリをする」「自己処罰に嗜癖している」「他人に自分の真価を知られることを怖れ、恥じる」「他人に承認されることを渇望し、さびしがる」「何もしない完璧主義者である」「変化を嫌う」「被害妄想におちいりやすい」「表情に乏しい」・・などの特徴をもつ。

  ○ 「アダルト・チルドレン」とは、自らの生きにくさの理由を自分なりに理解しよ    うと努める人がたどりつく、ひとつの自覚である・・

          『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)より

 

 斎藤学氏は、同書の中でさらにこう述べている。

 

●「いずれにせよ、私たちは親を選べません。変えることもできません。人は必ずしも適切に『親をやれる親』をもつわけではありませんが、私たちはいずれそのことを受け入れるほかありません。『私は友人たちがもっているような親をもつことはない』『世間でいう親子関係が私にはない』と思い定めることは大変な苦痛ですが、しかし『変えられないものは受け入れるほかない』のです。

 むしろ私たちの人間関係の成長は『親があのようである』ことを受け入れるところから、始まるように思えます。親を変えることの魅力から離れることができたときに初めて、現在の自分のまわりに存在する暖かい人間関係に気づくようになるからです」

 

 また、ACに関するもう一人の研究者・臨床実践者である信田さよ子氏は、その著書『「アダルト・チルドレン」完全理解』(三五館)の中でこう述べている。

 

●「彼ら彼女たち(アダルト・チルドレン)の話は凄惨で、私を圧倒し、しばしば言葉を失わせるほどでした。

 しかしその凄惨さとは、あらわな暴力とか家族の崩壊ではなく、外側から見ると穏やかな何不自由ない“ふつう”の家族の中で起こっているのです。その人たちも特に問題を起こさず、症状も出さず、いい人として適応し、皆を支え、優等生として生き延びてきました。その一見の“ふつう”さと、語られる内容の残酷さのその乖離、それはとりもなおさずAC(アダルト・チルドレン)の人たちの必死の営みで維持されていたのでしょう。

 そして“ふつう”の家族を保ち、演じつづけていくためには、それなりの努力がいります。親がそれをできないときは、子どもも家族を支えているのです。この事実を、あまりにも親は気づかなさすぎるのではないでしょうか。

 幼少時より家族を、さらには親を支え生き延び、大人になって息切れし、生きるエネルギーが枯渇してしまったと感ずる人たち。でもその人たちは『いい人』の役割から降りられない。こうした人たちに、もしACという言葉がなければ、ひとつの群れとしてくくられることもなかったでしょう。そして、私とカウンセリングを通して出会うこともなかったでしょう」

 

 信田氏のこの言葉は、まさにアダルト・チルドレンの病理の深さ、予断を許さない深刻さを表している。まず、こうした家族ははた目には何の問題もない、ごく普通の、むしろ人も羨む立派な家族(立派な親に立派な子供)に見えるという点である。ところがいざ蓋を開けてみると、中身はドロドロ、あるいはすきま風だらけというわけだ。そして、そうした家族を支えるアダルト・チルドレンは、そんな「崩壊家族」を見捨てずに何とか支えようとするくらいだから、人一倍優しく、思いやりがあり、我慢強く、努力家で、「いい人」であるという悲劇である。しかも大人たちはそうしたアダルト・チルドレンの血のにじむような努力に気づかず、評価せず、むしろ無意識的に彼らに依存してしまうという悲劇が重なる。そうした十重二十重の悲劇の行き着く先は、家庭内暴力だったり、アルコール(あるいは薬物)依存だったり、精神障害だったりする。それはとりもなおさず、アダルト・チルドレンの、息切れし、疲れ切り、生きる気力をなくし、それでも生き延びようともがく必死のパフォーマンスなのだろう。

 信田氏は『「アダルト・チルドレン」完全理解』を、次のような文章で結んでいる。

 

●「親の影響を受けつつも、それに支配しつくされることなく、それを怜悧に見つめきり、言語化する能力と、それを支える溢れるような感性を保ちつづけてきたこと。これこそが人間の尊厳です。ACは誇りなのです」

 

 さて、どんぐり理論は、ACの概念に「運命」ないしは「運命論」の匂いを嗅ぎ取るかもしれない。そして、斎藤氏の「私たちは親を選べません」あるいは「変えられないものは受け入れるほかない」といった言葉、また信田氏の「こうした人たちに、もしACという言葉がなければ、ひとつの群れとしてくくられることもなかったでしょう」あるいは「ACは誇りなのです」といった言葉に若干の異議を唱えるかもしれない。

 

 

■運命と運命論

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 結論を急がず、そもそも人間の運命とは何か、運命について人々はどう考えてきたかを検証してみよう。

 まずは運命論の考え方から見ていくことにしよう。

 

●「自分は必然の女神の糸が作り出した運命のままに生きている。自分が何を選ぶかなどは問題ではない。いや、自分で選択などできないのだ。選択など幻想だ。人生はすべて前もって決定されている」(H)

 

 このような考え方が、運命論である。これでは、人生のすべてのシナリオは、遺伝子の中に書き込まれているという考えと変わりがない。

 

●「運命論はある種の感情状態であって、深い思索や細部に対する注意深さ、慎重な推論などを放棄することだ。物事を考え抜く代わりに、運命感覚という大ざっぱなムードの中に落ち込んでしまう。運命論は人生をまるごと説明してしまうのだ、何であれ起こることは、個性化、人生の旅、成長などの言葉で大づかみに一般化され説明されてしまう。それらの出来事がどのように入り込んでくるのかを検討する必要はない、というわけだ」(H)

 

 なるほど、よくわかる。しかし、と運命論者なら言うかも知れない。私たちは生まれながらにして一人一人独自のどんぐりをもっていて、そのどんぐりの中には、やがて樫の木となるべきすべての要素が詰まっているとするどんぐり理論もまた、一種の運命論なのではないか。どんぐりの中の要素は樫の木となるべきものであり、他のいかなる木にもなり得ないもののはずだ。エルの物語にしても、魂は多くの見本の中からたった一つの生涯を選ぶのではなかったか。

 確かにその通りだ。樫の木になるべき要素は、樫の木以外にはなり得ないし、私の魂が選んだ生涯は、あなたの魂が選んだ生涯ではあり得ない。しかし、どんぐりの中には樫の木となるべきすべての要素があるものの、どのような道筋を経てなるかまでプログラムされているわけではない。エルの物語も、魂に見合った生涯を選ぶものの、その生涯に起こるすべての出来事や、その生涯が最終的にどこに到達するかまで決定されているわけではない。

 

●「女神は、人生のすべてを決め込むのではない。一つ一つの出来事をすべてあらかじめ決めているのではない。

 運命についてのギリシャの観念は、むしろこのようなものだ。たとえば、ある出来事が人に起こる。そのとき、『人にはなぜ起こったかを理解できない。しかし、それは起こったのだから、明らかに“そうなるはずだった”のだ』・・・出来事の後に、起こったことに対して説明を与えるのである」(H)

 

 確かに、どんぐりの中にはある種の計画ないし青写真のようなものが書き込まれていて、その生涯において折に触れ、立ち現れる「かたち」ないしイメージが存在し、そのイメージにそぐわないものを魂は遠ざけ、それに見合ったものだけを選択することをヒルマンも認めている。

 

●「魂は天上でイメージされただけであり、グロウ・ダウンを望む、いまだ成就されていない計画なのだ」(H)

 

 しかし、どんぐりは、人生の最終的な到達点(あるいは末路)、イメージが成就したときの具体的な姿や人の最期(死の瞬間)までも前もって見ているわけではない。

 だからこそプラトンは、次に生まれ変わるときにも自分の魂に見合ったより善い生涯を選べるよう、現世においても、もっぱら魂の本性に目を向け、識別眼を磨いておく必要があることを説いているのである。

 

●「出来事のすべてが、高次の神のプランの中に書き込まれているわけではない。安易にそう考えてしまうのが運命『論』(主義)であり、そのためにパラノイアやオカルト主義者のウィジャ盤信仰(訳注:日本でいうコックリさんのような降霊ゲーム)や、運命への卑屈な従属とそれに対する怒りが交じり合った受動的・・攻撃的な行動が生まれてしまうのだ」(H)

 

 運命論は、生きる主体が自分の人生に関与する余地を与えないかに見える。当然人は自分の運命を呪い、卑屈になり、苛立ち、攻撃的になるだろう。

 ACの概念は、ACを救うかに見えるが、運命論に依拠している限り、つまり「機能不全の親のもとに生まれてきたのは、貧乏籤を引かされて仕方がなかったのだ」と言う限り、二重の意味でACから自分の人生への関与の余地を奪うことにもなりかねない。

 ヒルマンは、運命を一瞬の「介入する変数」と想像した方がよさそうだと言っている。まばたきの間に通りすぎ、瞬間的に影響を与える小さな神、あるいは仲立ちの天使のようなもの。

 

●「運命は人と一緒にずっと歩み、語りかけ、手を引いているようなものではなく、奇妙で予想もしていない交差路で割って入り、隠れた兆しを与えたり、強く人を押し出したりするようなものなのだ」(H)

 

 運命論は、人生に不意に訪れる不運な出来事は、私のあずかり知らない運命の女神がもたらしたもので、それが私の人生を大きく左右し、決定していると考える。つまり出来事は一瞬のうちに起こるが、その出来事を起こさせる運命の女神の力は、私の人生を常に操っているというのが運命論である。しかし、運命はそのようには働かない。

 

●「運命は起こったことの一部を占めるだけである。モイラ(ギリシャ語の「運命」)の個人的な、そして内面化した側面であるダイモーンも、人生の中で一部を占めるだけなのだ。ダイモーンは呼びかけはするが人生を掌握したりはしない」(H)

 

●「モイラは自分の手のうちにはない。しかし、それでもモイラがすべてではない。わたしの行動や能力、その結果・・それが生む不満や失敗・・を他者、つまり神々や女神たち、ダイモーンたるどんぐりの意志のせいにはできないのだ。運命は責任から人を解放してくれるものではない。実際、運命は責任感をさらに要求するのだ」(H)

 

 運命論者なら、自分の運命の責任を運命の女神に帰すだろう。そこでもう一度、どんな生涯を選択するかは選択者の責任であったことを思い出していただきたい。神に責任はない。まさに、魂がどの生涯を選択するかに、「人間にとってのすべての危険がかかっている」という点をプラトンも指摘している。だからこそ、私たちの一人一人は、ほかのことを学ぶのをさしおいても、魂の本性を見つめ、それに見合う選択とは何かを探求し、人からも学ぶよう心がけねばならないとプラトンは言う。トマス・ムーアの表現を借りれば、これがまさしく「魂のケア」ということだろう。

 

●「とりわけ、運命は分析への責任を要求している」(H)

 

 ここでいう分析とは、もちろん還元論的な精神分析を意味しない。精神分析的手法を用いるなら、攻撃的行動は抑圧された欲望や幼児期のトラウマに由来してしまうし、「生きにくさ」の原因は家族との関係に由来してしまう。

 

●「原因の鎖にその責を負わせようとしていくと、やがて両親幻想の過ちにたどりついてしまう」(H)

 

 たとえばACの概念では、父親が母親に暴力をふるうのを目撃して育った子供は、たとえ自分が直接暴力を受けなかったとしても、暴力の被害者あるいは加害者になりやすいとしている。また、夫の暴力の被害者である妻は、その反動から自分の子供を虐待しやすい傾向を示すともいう。それでは、なぜ夫が妻や子供に暴力をふるうようになったのかというと、夫自身の子供の頃の非虐待経験、つまりトラウマにその原因を求めるのである。夫の暴力癖が妻を媒体にして子供に伝染し、やがてそのまた子供に受け継がれるだろうという発想。「親の因果が子にむくい」という世代間連鎖の法則の肯定がここに見られる。これも一種の環境因果論である。

 一方、責任ある分析とは、「どの運命が、またどんな元型的な手が、注意を向けられ、そして思い起こしてほしいと訴えているのかを見いだそうとするもの」である。

 

●「ダイモーンは、人を驚かせるものなのだ。ダイモーンはときには遠慮がちに、あるいはときには大胆にぶつかってきて、人の意図を妨げる。これらの驚きは大したことでもなくまた理屈に合わないことにも感じられる。そんなことは忘れてしまうことすらできる。しかし、そこには何か重要なものがあるという感覚を伝えてくる。そして人はそれをのちに、『運命』と呼ぶようになるのである」(H)

 

 

■目的(テロス)と目的論(テレオロジー)

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 さて私たちは、運命を私たちのあずかり知らないところで私たちの人生の全体を通して働く神の力とするならば、それは運命論になってしまうが、運命とはむしろ、瞬間的に介在する小さな神のようなものであり、起こったことの一部を占めるにすぎないこと、そしてそれは分析され読み解かれることを要求してくるものであることを見てきた。

 次に、目的(テロス)と目的論(テレオロジー)の違いについて見ていこう。

 因果論が「誰が始めたか。何が原因だったか」を問い、背後にある過去が現在の出来事を推し進めていると考えているのに対し、目的論(テレオロジー)は、その逆に「何が重要なのか。何が目的なのか」を問い、出来事が一つの目的に向かっていると考えている、とヒルマンは言う。

 

●「初めの時に生まれながらのイメージは、人生を出発点から推し進めていくばかりではなく、一つの目的に向かって、人生を引っ張ってもいく・・。『目的論(テレオロジー)』とは、そんな信念を指す言葉だ。それは出来事は最終的な結末に向けて目的によって引っ張られているというのだ」(H)

 

 目的論の考えは、私たちをどこへ導くだろう。私たちの人生が、たった一つの目的、最終的な結末に向けて引っ張られているとするならば、そうした個々の人生の寄せ集め、つまり起こっては消え、消えては起こる個々の現象の寄せ集めであるこの世界も、一つの結末に向けて引っ張られていくという考えにいたるだろう。すなわち、地球にも運命があると。

 

●「目的論(テレオロジー)の別名である運命論(フェイタリズム)は、わたしたちの一人一人、そしてまた宇宙が最終的な目的に向かって動いていると思い込ませる。その目的は、さまざまに定義されるだろう。・・神との再合一とすべての罪からの救済。静止に向かってのゆっくりとしたエントロピーの増大。進化し続ける意識と、物質からの霊への溶解。よりよき人生へ、あるいは不幸な人生へ。黙示録的破局か神の救済か」(H)

 

 終末論的な神話の誕生である。この神話は、科学や宗教の名を借りて、さまざまな形で語られる。これはきわめて伝染力の強いウィルスのようなものかもしれない。このウィルスは、私たち個人の人生にもきわめて微細なかたちで、つまり極端に矮小化されて侵入してくる。

 たとえばあなたが、朝食にどうしてもパンとミルクが欲しいという夫のために、朝早く買い物に行くとする。そのとき、あなたがもし運命論者なら、こう考えるかもしれない。「私はなぜ、こんなに朝早く、わがままな夫のためにパンとミルクを買いに行かなければならないのだろう。一事が万事この調子なのだ。私は傲慢な夫につき従って、こうやって一生家事と育児に追われて過ごすのだ。それが私の運命なのだ」

 

●「このようなヴィジョンや哲学は、『なぜ』という問いにすべて、一つの目的論的回答によって答えてしまう」(H)

 

●「目的論(テレオロジー)は人生に論理(ロジック)を与える。それは人生全体にわたって、合理的な説明を与える。そしてテレオロジーは人生で起こることをすべて人生全体を視野に入れた見方で読み取る。たとえば、神の意志、神の計画、という視点で」(H)

 

 しかし、あなたは単にパンとミルクを買うために店に行くだけなのだ。それ以上の意味も目的もない。

 ここでもし、テレオロジーから「オロジー」を落としてテロスという言葉だけ考えれば、この言葉の本来の意味に立ち戻ることができる、とヒルマンは言う。「テロスとは、ただ『そのために』を意味した」

 

●「テロスとは、ある行為についての、限定された、そして特定の理由を与えるだけだ。テロスはすべての行為には目的があると想像するが、しかし、行為全体を統べる目的があるとはいわない。すべてを統べる目的となれば、それはテレオロジー、あるいは運命論になってしまうのだ」(H)

 

 運命が起こったことの一部を占めるにすぎないように、目的(テロス)も、ある行為についての特定の理由を与えるだけだ、とヒルマンは言う。それでは、その特定の理由とは具体的にどんなものか。テロスとは、いつどんなふうに現れるのか。「私はあのときなぜあんな行動をとったのか。あの行動の目的とは何だったのか」

 

●「目的は、普通ははっきりとかたちをとったゴールとしては現れず、むしろ、かけがえのない重要性をはらむ、けれどはっきりしない心悩ませる衝動というかたちで現れるのだ」(H)

 

 ヒルマンは、ベティ・デイビスの次のような驚くべきエピソードを紹介している。

 

●「ベティ・デイビスは七歳か八歳の頃、学校を休んでサンタクロースで遊んでいた。ツリーには本物のロウソクが灯され、その木の下にはプレゼントが積まれていた。ベティちゃんはプレゼントに手を伸ばそうとしたが、そのときロウソクの火が服の袖に燃え移った。火は服全体に広がった。

 

 その瞬間、私は燃えていたのだった。恐怖のあまり私は叫び出した。声が聞こえて、何か毛布でくるまれているような気がした。・・・毛布が取り外されたとき、私は目を閉じていることにした。女優になるのだ! 自分が盲目だと信じようとした。『目!』喜びが体を走り抜けた。わたしはその瞬間を完全に制していた。

 

 どんぐりは火災をステージとして用意したわけではないが、ベティ・デイビスはまさにその火災を劇場にしたのだ。個人の生来の形相が事故と協力し合った。性格(キャラクター)が運命なのだ」(H)

 

 長じて本物の女優となった彼女をよく知る者なら、「いかにも彼女らしいエピソードだ」と言うかもしれない。まさにこの「〜らしさ」こそが性格(キャラクター)であり、性格(キャラクター)こそが運命なのだ。

 幼い少女が、命をおびやかすような突発的な災難にみまわれたときに、なぜ悲劇のヒロインを演じるような真似ができたのか。過去が物事を推し進めていくとする因果論なら、こう答えるかもしれない。つまり、以前にも彼女は不快な状況に出くわしたときに、自分を女優だと信じ込み、その場を舞台に見立ててヒロインを演じることにより、不快感を快感に変えることができるのを体験していたのだと。それではなぜ不運な盲目の少女だったのか。いや、そもそもなぜ女優だったのか。そもそもの出発点は何だったのか。

 

●「因果律、あるいは古典哲学(アリストレテス)が『作用因』と呼ぶものは、一つ先立つものが後に続くものを動かしているという関係性の連続の仮説を考える。かかわり合っていると想定される出来事の連鎖をたどっていくことで『動きを引き起こしたのは何か』という問いに答えようとしているのだ。だがたとえすべての出来事が実際に関係していたとしても、・・・あるものが次のものを押し出し次々に動かしているのだとしても、その最初のつながりは推測するほかない。・・・この最初の、自発的で、しかも長く続いた情熱は何とつながっているのだろう。わたしたちの答えでは『運命に聞け』となる」(H)

 

 運命は、こんな答えを与える。ベティ・デイビスは、七歳八歳のときにはすでにどんぐりの内側で女優であり、自身の将来のヴィジョンを得ていたのだ。彼女はそれを知らなかったし、予見することはできなかったが、何かダイモーン的なものが出来事を選び、突然の災厄を劇場に変えたのだ。

 ここでもし、彼女は生まれたときからすでに女優であり、実人生そのものが彼女にとっては舞台で演じることであり、彼女の人生のシナリオは初めから彼女に女優という役割を与えていたのだ、つまり彼女は生まれてから死ぬまで一貫して女優でしかあり得なかったのだと考えるなら、それは目的論的運命論となる。

 

●「運命は目的論的な計画はもっていない。・・・しかしダイモーンの運命的なヴィジョンは特定の出来事に重要な感情を吹き込んだのだ」(H)

 

 ここでもう一度、「狭義のテロスと大きなカテゴリーであるテレオロジーの違い」をはっきりさせておこう。

 

●「テロスの感覚は、それぞれの事項がそれ自体の目的をもつという点で、起こることに価値を与える。出来事には意図がある。・・・しかし、『テロス』に『オロジー』をつけてしまうと、その価値が何であるかまで言い切ってしまう。・・・それは、目的を無理やり言おうとする。しかしそのような予言は当て推量にすぎない」(H)

 

 目的論は、ロウソクの火が服に燃え移ったときにも、人形で楽しく遊んでいるときも、ベティ・デイビスは女優でしかなかったと言い切ってしまう。他の何者かである可能性など認めない。

 

●「どんぐりは明確で長期的な方向性をもったガイドではない。むしろ、出来事に目的の感覚を与える内的な力動なのである。些細に見えるがこの瞬間は重要だ、この大きく見える出来事は、実は大したことはない、などなどと、内なるどんぐりが感じさせる」(H)

 

 重要なのは、服に燃え移った火が、ベティにもともと備わっていた女優魂を燃え上がらせたかどうかではなく、不意の災難に対する自分の衝動的な反応が、彼女に何か重大な目的の感覚、「もしかしたら自分には演じる者の魂が宿っているのではないか」という感情を吹き込んだという点である。

 

●「どんぐりは出来事の魂の側面にかかわっている。またどんぐりはあなたが自分にとってよいと思っているものではなくて、魂にとってよいことを目指していると言うことができよう」(H)

 

 

■事故(アクシデント)

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 ベティ・デイビスの例もそうだが、偶然の事故は人生の進路を妨害し、道から外れさせ、目的論的な終結点への到達を遅らせるように見える。この突然の障害は、無意味な撹乱要因なのだろうか。あるいは、それ自体に特定の意味があるのだろうか。

 重要なのは、妨害が目的をもっているかどうかではない、とヒルマンは言う。重要なのは「目的があるのではという視点をもって見つめ、予期せぬことに価値を見いだそうとすることだ」

 

●「目的を求める目は、『偶然の事故(アクシデント)』をただ事故と見るのではない。魂は、その事故をかたちの内に合わせていこうとするのだ」(H)

 

 つまり、偶然が運命を決めるのではなく、ダイモーンが偶然を運命化するとも言えるだろう。

 ヒルマンの紹介している例をもう一つ挙げておこう。ファンタジー作家のジェイムズ・バリーは、6歳か7歳のときに、兄を事故で亡くした。母親はその死を悼んで自室に引きこもり病人のような生活を送っていた。ジェイムズは病室で母親のそばにいて、母親を笑わせようと、たくさんの作り話を語って聞かせたという。

 

●「どんぐりはファンタジーの作家であるバリーのイメージにふさわしくなるように、事故、悲しみを、そして監禁状態を変容させていった」(H)

 

 因果論は、このときの語りの経験が彼を作家へと導いたのだと結論づけるだろう。ではなぜ、ボードビリアンでも看護士でもなく作家だったのか。目的論的運命論ならこう言うだろう。彼はストーリーテラーになるべくして生まれついたのであり、その目的の成就のためには、彼の兄は死ななければならず、それが原因で母親は霊閉されねばならず、彼はそれにつき合って、後のキャリアに役立つような語りの修行を積まねばならなかったのだと。一方、どんぐり理論はこう言う。彼の中のどんぐりがもつイメージ、そのかたちが、兄の死や母親の病や軟禁状態の生活とうまく折り合いをつけて、その目的を見いだしたのだと。

 

●「かたち(形相)は事故として現れるばかりではなく、それによって養われるのだ」(H)

 

 後に作家となるバリーの魂は、不運な災難によってそのイメージ、どんぐりに書き込まれた計画の一端を表し、その境遇に対してどう対処すべきか、その方向性を決め、自分のイメージをさらに確固としたものに育んだということである。

 

●「必要なものであれば、魂は何でも用いる。不運や事故を前に、実用的な意味でこれほど賢明になれることは驚くべきことだ」(H)

 

 これはある種の哲学(つまり知への愛)でもある、とヒルマンは言う。「小さな修正をすることへの愛、本当はそぐわないものを取り込んでいく愛」であると。

 

●「ダイモーンはこの英知を、あなたの人生から外らせるように見える出来事をいつも見つめ利用することによって教えようとしている。・・・哲学者は、しばしば、一つの出来事へのこのような注目の仕方を、『現象の救済』と呼んでいる」(H)

 

●「このような偶然の(アクシデンタル)出来事は主要な計画を進めも妨害もしない。そうではなく、計画のかたちを変えているのだ。・・・これはグロウイング・ダウンの技でもある。それは物事を、その意味と効果の視点で考える知恵なのだ」(H)

 

 親であることの目的は、子供を幸福にすることではなく、自分の召命に従って生き、子供にも自分のダイモーンに目を向かわせること、そして子供の魂がグロウ・ダウンしやすい世界を作ることだったのを思い出そう。そう考えることによって、みなが勝手気ままに生き、家族が崩壊するのではなく、家族の意味合いが変わり、家族という計画が変わるのだということを思い出そう。

 

 

■すべての「アダルト・チルドレン」へ

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 ここで再びACの概念に立ち戻らなければならない。ACは、自身の神経症、摂食障害、依存症、不眠、不安や恐怖の原因を親に帰している。自分がこんな苦難にあわされるのは、酔って暴れ、自分や家族に暴力をふるった父親のせいだと。あるいは父親の暴力の被害者でありながら、自らも子供を虐待した母親のせいだと。自分はこんな両親のもとに生まれてきて、貧乏籤を引かされたのだと。だからそんな運命とは早く縁を切り、生まれ変わりたいと。

 運命論ならこうアドバイスするだろう。すべては神様の思し召しなのだ、子供は親を選んで生まれてくるわけにはいかないのだから、あきらめなさいと。また目的論ならこう言うだろう。今はつらいかもしれないが、すべてはあなたが最終的に果たすべき目的のために必要な成長の一つの段階なのだと。あるいは英雄主義(ヒロイズム)はこう言うだろう。そんなくだらない親の影響など、記憶の中からただちに抹殺せよ。トラウマなど虎と馬にくれてやれ。お前はお前だ。災難など見向きもせず、ひたすらわが道を行けと。

 

●「わたしは、事故を存在するものと認め、それがさまざまな考えを引き出さずにはおかないのだとみなしたい。深刻な事故は答えを要求する。それは何を意味し、なぜ起こって、何を欲していたのか。何度も問い直していくのは、事故後の心の余震のようなものだ」(H)

 

●「ほとんどの場合、わたしたちは降りかかってくる非合理な出来事を避けようとし、妨害を無視しようともする。・・だが、やがて、心(ハート)が、もしかするとつらい出来事も重要なことではなかったか、そして必然だったのではないかと訴えかけるようになる」(H)

 

 たとえばあなたの父親がアルコール依存症で、酔って家族に暴力をふるうような人間だったとする。どんぐり理論では、そんな親さえもあなたが自分で選んだというわけだが、当然あなたには「何で好き好んでこんな親を選ばなければならなかったと言うのだ」という気持ちが働くだろう。

 それは、あなたになるべく早く家族から離れさせ、外の広い世界を体験させ、あなたの魂に恋をするソウルメイトと早く出会わせるためなのかもしれない。あるいは、将来あなたに医者として、あるいはカウンセラーやセラピストとしてアルコール依存症という病と闘わせ、崩壊家族を救済するという困難な仕事に向かわせるためなのかもしれない。

 それはひとえに、あなたが自分の親とのつき合いをどのように理由づけし、自分が進むべき道にどう利用するかにかかっている。そして、その道はどんぐりのもつイメージによって決まる。

 

●「ダイモーンの要求は理性と折り合いがつくとは限らない。ダイモーンはダイモーンの非合理な必然の運命に従う」(H)

 

 運命は読み解かれることを待っている。人生の半分は謎であり、もう半分は謎解きだ。環境因果論や両親幻想にとらわれ、いつまでもダイモーンの呼び声に耳をふさいでいると、ダイモーンはときに心を苛立たせ、癇癪を引き起こすだろう。その苛立ちや癇癪を、親から心ならずも受け継いでしまった「負の遺産」などと考えてはならない。そのような考えは、なおさらあなたを召命から遠ざけ、生まれてきた意義の発見から遠ざけてしまうだろう。

 たとえACでなくても、あるいはトラウマと呼ばれる体験がなくても、ダイモーンの呼び声に耳をふさぎ、自分の魂のイメージから目をそらせていれば、何となく生きている実感がない、自分がない、居場所がないという感覚は拭えないだろう。ACだけが病んでいるのではない。

 だからむしろ、ACという概念の中に心の救いを求め、自分の居場所を見いだしてしまうことは自己破壊的ですらある。

 もちろん、緊急の場合の避難や癒しが必要でないと言っているのではない。しかしそれらは対処療法であり、単なる通過点にすぎない。

 

●「確かに、知性は召命を後回しにしたり、抑圧したり、裏切ったりすることができる。だからといって、必ずしも罰せられたり呪われたりするわけではない。ダイモーンは、必ずしもつきまとう悪霊やキリスト教の天の猟犬ではない。復讐の女神は、必然の女神の娘ではない。実際、必然は、ただ、ほかではありえないもの、逃げ出すことができないものを指しているだけである。逃避は罪ではない。必然の女神は倫理家ではないのだ」(H)

 

 危険な親、危険な場所から離れることはかまわない。しかし自分のダイモーンから離れてはならない。何から離れるかが問題なのではなく、何に近づくかが常に問題なのだ。ACの概念はあなたのグロウ・アップを促したとしても、決してこの世界へのグロウ・ダウンを促すものではない。

 「家族シネマ」で芥川賞を受賞した柳美里は、作家としての地位を築くため(作家として世界にグロウ・ダウンするため)、崩壊家族を利用したのだ。彼女の性格や生き方を心理学的に分析すれば、そのカルテには相変わらず「典型的なアダルト・チルドレン」と書き込まれるかもしれない。しかし、それがどうしたと言うのか。彼女は作家として見事にグロウ・ダウンしたのだ。

 あなたがACの一人であるかどうかということと、あなたの人生の目的、あなたの召命がACであることなのかどうかということを混同してはならない。あなたの魂にとって、ACであることは、誇りではない。魂が誇りに思うことは、自分が何かのカテゴリーにくくられるかどうかということとは、いっさい関係ない。

 ACという概念は、他の一般的に普及している心理学的な概念同様、個人の物語を集団の物語にくくろうとする。かけがえのない自分自身の人生の物語を、親の物語、あるいは単なる一被害者の物語、集団(群れ)の物語にすり替え、無力感、無価値感を受け入れてはならない。それは、個性ではなく典型で人を見ることにほかならない。あなたは、好き勝手に、傍若無人に振る舞う親におびえ、振り回され、隅に追いやられ、表情をなくし、語る言葉を失っている、彼らを主役とした物語の脇役ではないのだ。人生という舞台の主役はあなた自身なのだ。この親は、この状況は、外からの力によって宿命のようにして与えられた(背負わされた)ものではなく、私自身が私自身の人生を生きるために私の魂が自ら選び取ったものであると気づくためには、ディテールが必要だ。共通概念でくくってしまってはディテールは何も見えてこない。しかしディテールにこそどんぐりのもつパターン(かたち)が宿っているはずなのだ。ディテールの介入を阻むものを許してはならない。闇に葬られようとしているディテールを掘り起こすのだ。

 たいていの人間は、過去の自分の物語を塗り替えることはできないと考えるが、それは間違いだ。この考えは、「今起こっていることは、次に起こることに決定的な影響を与える」という因果論へと人を導く。しかし、起こってしまったことをやり直すことはできなくても、それを読み替え、語り直すことはいくらでもできる。ただ語り直す言葉をもっているかもっていないかの違いだけだろう。ACの概念は、何を実現するか、実人生に何を結実させるかを語る言葉をもたらしてはくれない。

 同じ出来事でも、視点を変えれば、まったく違う面が見えてくることはよくある。どんな視点でか。もちろんあなたの魂のイメージ(かたち)という視点だ。どんぐりの言葉で語るのだ。このような親をもってしまったことを恨んだり仕方ないと思うのではなく、魂が籤を引き、自ら選んだ人生をこの世で成就させるために、なぜかくも不出来な親が必要だったのかを考えよう。

 

●「偶然に起こる日々の出来事は、一貫した糸にそっているわけではない。にもかかわらず、わたしたちが生きているうちに、わたしたちの話が作られていく。自分史を振り返って想起することが、その糸を与えるのだ。子供時代などは、振り返ってみて初めて意味をもってくる。後ろを振り返って初めて、枝の茂った樫の木のうちにどんぐりを見ることができるのだ」(H)

 

 確かに日々起こる出来事は複雑な因果の糸が絡み合っているようで、とらえどころがない。しかし幸いなことに、人間には想像力(イマジネーション)がある。とらえどころがないものを見るとき、人は想像力の力を借りることができる。

 19世紀のイギリスを代表する詩人W.B.イェイツは、知性よりも想像力の方が、日常の猥雑さを超えて豊かな恵みを私たちにもたらしてくれ、原罪からも解放してくれることを、詩人の直観力で知っていたに違いない。イェイツは「自我と魂の対話」の中で、自分の魂にこう語らせている。

 

「人の想像力というものは、なぜ、

壮年をはるかに過ぎて、なお

愛と戦いのしるしであるものを忘れないのか。

古き夜を思え。それは、想像力が

地を蔑み、知性が、あれ、これ、また、あれと、

いたずらにさまようことを蔑みさえするならば、

死と生の罪から解放してくれよう。」

 

 リビドーもトラウマも発達論も、何か足りないように感じさせる。自分史を語る上で、何か重要なものが欠けているように感じさせるのだ。自分には、性的衝動や過去のつらい体験やグロウ・アップの概念だけでは説明し切れない何かがある。

 理解できる心理学よりも感じる心理学が必要なのだ。感じる心理学よりも気づく心理学が必要なのだ。解釈は確かに理解を促す。「それは心理学的にはこう解釈できる」と理路整然と説明されれば、確かに納得することはできる。しかしそれでも自分のすべてを語り尽くしていないと感じる。「それではもっと感じてみよう。体で感じ、心の声を聞いてみよう」とセラピストは言う。確かに感じる。心も何か言っているようだ。さて、それからどうすればいいのか。それで結局私は何のために生まれてきたのか。私がほしいのは「How」ではない。「What」と「Why」なのだ。

 あなたが体験したことを心理学的に定義するなら、それは「虐待」という二文字になるかもしれない。しかしそのときあなたが実際に体験したこと、目の当たりにしたこと、直感的に感じたこと、そしてそこから受け取るメッセージは、断じて心理学的な概念などではない。

 

●「性格(キャラクター)は、人がすることではない。それはその仕方なのだ」(H)

 

●「誤って凡庸なケースヒストリーに落ち込んでいる一人一人の個性を救い出すことこそ、ソーシャルワーカーやセラピストの深い目的意識なのである」(H)

 

 たとえ記憶の中から親を抹殺したとしても、魂が体験した重要な「かたち」まで抹殺してはならない。「救済」が必要なのは、ACではなく出来事(あるいはACという現象)の方なのだ。「両親幻想からの解放」とは、両親から受けた影響からの解放ではなく、両親から影響を受けたという考えからの解放なのだ。

 イェイツは、生きることは「盲者の溝」、豊かではあるが愚かしい溝に頭から突っ込むことだと言う。この溝は、輪廻転生する人間の運命、シュタイナー的に言えば「カルマ」、あるいは現世での脈々とした血のつながりと読むこともできよう。イェイツは、それを承知の上で、同じ生をあえて何度でも繰り返す、と言う。彼は先の「自我と魂の対話」の中で、今度は自分の自我に次のように語らせる。

 

「生あるものは盲目で、与えられた滴を飲む。

溝の水が汚いからといって、かまうことはない。

もう一度同じ生を繰り返しても、かまいはしない。

もう一度成長の苦役に堪えてもかまわない。

少年の屈辱、成年に移る苦悩、

未熟の人間と、それが

みずからのぎこちなさを

まざまざと見せつけられる苦痛、

熟した人間を取り囲む敵の群。

悪意の眼の鏡から

穢らわしい畸形を見せつけられ続ければ、

遂にはそれがおのが姿と

思うようにならないはずがない。

逃れる道はないのだ。たとえ

逃れたとて何になろう、名誉の道が

木枯らしの吹きさらしとすれば。

 

私は甘んじて同じ生をもう一度、

いや何度でも繰り返す。たとえ

盲者の溝、盲者が盲者を打ちすえる溝の

蛙の卵の群れのなかに、あるいは、あのもっとも豊饒な溝、

人がおのれの魂に不似合いな

高慢な女の愛を求めるならば、おかさなければならず、

忍ばねばならぬ愚行の溝に

頭から突っ込むのが生というものであろうと。

 

甘んじて私は行為や思考上の

あらゆる出来事の源まで遡る。

みずから運命を計り定め、定めたみずからを咎めない。

私のようなものが悔恨を放棄すれば

胸に大きな喜びが流れ込み、人は笑わずにはおられない、

うたわずにはおられない。

あらゆるものに祝福され、目に写る

あらゆるものが祝福される。」

 

 これは、ACの一人として、すべてのACに贈る私からのエールである。すべてのACが、血のつながりや成育環境がすべてではないと考えるようになり、「両親の力」という幻想から解放され、ついでに、両親幻想の落とし子である「アダルト・チルドレン」の幻想からも解放され、影響される必要のない、敬うに値しない親をもったことを恨むのではなく、そのことに親のではなく自分の物語としてかけがえのない自伝的な意味を与え、自分が生まれてきた意義に目覚めることを私は願ってやまない。



  

魂の降り立つ場所〜