第3章 遺伝か環境か‥個性の源


 自分の影に悩まされている男がいた

 その男は自分の足音も不快に感じていた

 そこで、影と足音を追い払おうとした

 逃げ出せばいい、と男は思った

 そこで、男は立ち上がり、走った

 しかし、足が地面に着くたびに

 また足音が聞こえ、影がついてきた

 いともやすやすとついてきた

 男は走り方が遅いからだと考えた

 そこで、休むことなく走りに走り

 男はとうとう死んでしまった

 男は気づかなかったのだ

 日陰に入りこめば自分の影が消え

 静かに座っていれば足音も聞こえなかったことに

                  ・・荘子

−目次−

  ■遺伝か環境か

  ■一卵性双生児は「同じ」か「違う」か

  ■引き離された双子

  ■人はいかにして恋に落ちるか

  ■共有環境と非共有環境













■遺伝か環境か

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 既存の心理学の考えは、人間の「個性」の問題をどのようにとらえているだろうか。一人の個人を他のいかなる人間とも違う、その人個人たらしめている性格というものが、一人一人に本当に与えられているのだろうか。だとしたら、それは親からの「遺伝」か、それとも誕生後に経験する「環境」と呼ばれるものから練り上げられたものだろうか、それとも遺伝でも環境でもない第三の要因だろうか。

 科学的な心理学は、個性のよって立つ領域を生得的なものと後天的なものの二つに分け、この二つ以外の可能性を消去(淘汰?)している、とヒルマンは言う。

 

●「分子生物学や薬理学的精神医学も含めて行動科学は人間の性格の原因をこの二つのカテゴリーに分ける。人生について第三の要因を考えるときにも、その第三の要因はこの二つのうちのどちらかに含まれて現れるしかない」(H)

 

 おそらくデカルトが「精神と自然」を分けたことから始まる近代西洋の二元論は、知性が説明すべき対象を何でもかんでも二つに分けることに、ほとんど偏愛してきたと言ってもいいかもしれない。心と体、善と悪、我と汝、言葉と物、光と影、夢と現実、意識と無意識...。ヒルマンはこの二元論的知性に真剣に立ち向かおうとしている。

 

●「その思考は、こんなふうに言うことだろう。もし行動が完全に遺伝によるものでないとすれば、あとは環境の結果によって説明できる。あるいは、環境でなければ遺伝だ、と。『何か別のもの』などと言い出せば、わたしたちの思考のモードや、習慣的な考え方を覆すことになってしまう。『別なもの』は、安易な考え方と明晰な思考を取り違えがちな知性にとっては実にやっかいなものなのだ」(H)

 

 

■一卵性双生児は「同じ」か「違う」か

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 人間の個性を決めるのは遺伝か環境か、あるいはまったく別のものなのか。この命題を考える上で、ヒルマンは一卵性双生児の研究を引き合いに出している。

 

●「双子の研究は、個別性という問題、同じ家庭環境を共有した一卵性双生児のそれぞれ異なる人生をその焦点としている。すると、氏でも育ちでもない、何か別のものがあるように見えてくる」(H)

 

 胎外受精や試験管ベビーなどのバイオテクノロジーの発達により、遺伝子の解読が急激になされ、今や受精卵のDNAを調べるだけで、その受精卵を胎内に戻し、人間として発生させたときに、その者がどんな先天異常をもつとか、長じてどんな病気にかかるかまでわかるようになってきたという。

 ご存じのように、一卵性双生児は、受精卵が二つに細胞分裂して生まれたわけであるから、DNAを完全に共有していることになる。ならば、遺伝学的決定論者に言わせれば、まったく同じ顔かたちをもち、まったく同じ性格で、まったく同じ運命を生きることになるはずだ。ところが実際には二人に共通するものは限られているのである。肉体的特徴ひとつをとってみても、私たちは彼らの同一性よりも、むしろ差異に驚かされる。

 

●「一卵性双子は髪の色や髪質、血液型、歯の並び、指紋など10の肉体的特徴のうち、90パーセントが一致するだけである。また、心理的な内容が入り込んでくると一致点はますます減り始める。身長や体重、外見などもさほど一致しないし、表情や糖尿病、潰瘍、肺ガン、高血圧などの疾患にかかる率もさほど一致しているとはいえない。そこでは個別性(インディヴィジュアリティ)が全面に出てくるのだ」(H)

 

 この差異は、双子が年齢を重ねるごとに広がっていくようにも見える。子供の頃は瓜二つで、一方がもう片方と入れ替わっても、他人にはまったく気づかれないほどそっくりだったのが、50年後には、一方は髪がふさふさしているのに、もう一方はすっかり禿げ上がっている、一方はスレンダーなのにもう一方はお腹がせり出しているなどといった光景を私たちは目にすることがある。

 

●「推理力、言語の流暢さ、記憶力など認知能力について言えば、差異はさらに目立つようになる」(H)

 

 脳障害であるアルツハイマーに至っては、兄弟では90パーセントの相違を見せるという。また精神分裂病の場合は、双子の一方が発病すると、まるで相補機能でも働くように、もう一方はまず発病しないという。あらゆる性格特性において双子の一致度はきわめて低いように見える、とヒルマンは言う。

 

●「何かが介入し、双子を異なる存在にしているのである」(H)

 

 遺伝学的決定論には、何か受け入れ難い省略があるように感じる。遺伝学が取りこぼしているもの、遺伝的な要因を取り除いても、まだあとに残るものこそが、私の個性を形作っているとさえ感じる。

 親から受け継いだものも確かにあるだろう。それが、自分の中の多くを占めているとも感じる。「最近、ますますお父さん(お母さん)に似てきたね」と言われるたびに、私たちは遺伝の影響の大きさを思い知らされる。そしてそれは年を経るごとに強まるようにさえ感じる。

 しかし、親から受け継いだものを差し引いても、自分にはまだ何かが残るとも強く感じる。そしてそれこそが、私を私たらしめている、私をこの世で唯一の存在たらしめている由縁だと感じるのである。

 二元論の信奉者なら、この「何か」をあくまで「環境要因」に帰すだろう。DNAを共有し、同じ家庭環境に育った一卵性双生児にさえ差異があるとしたら、それは、家族に共有されていない環境、つまり双子が家庭の外で個別に体験する出来事の影響だというわけである。この「共有されていない環境」とは具体的に何を意味するのかについては、後に詳しく触れることにしよう。

 ここで注意しなければならないことは、遺伝学者や双子の研究者たちは、「非遺伝的な影響」をひとまとめにして「環境」と呼んでいる点である。つまり遺伝でないものはすべて環境だというわけである。あれかこれか、あれでなければこれ、というわけだ。

 いずれにしろそこには「受け継がれた遺伝子でも家族環境でもなく、何か別なもの、何か『共有されていない』もの」、「何か個別的で、一人一人の存在に固有なもの」が働いているには違いない。ここで私たちは、遺伝の影響を一歩抜け出し、どんぐり理論に少し近づく。

 

 

■引き離された双子

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 さらに環境の影響からも離れるためには、実際に双子を異なる環境に引き離してみればいい。つまり、生まれた後に、それぞれ異なる環境に引き離されて育った一卵性双生児の研究が有効になってくる。

 研究者は、「別々に育てられた双子に見られる驚くべき一致」の例を報告している。この双子は大人になって初めて再会したのだが、歯磨き、ひげそりクリーム、ヘアトニック、タバコの銘柄が一致し、別々の町でそれぞれ相手に同じ誕生日プレゼントを買ったという。他の双子のグループでは、趣味、指輪、ボランティア活動、職業などに一致が見られた。ところが二卵性の双子には、これらの「一致」がほとんど見られなかったという。

 これら習慣や嗜好、独特の癖などに関する奇妙な一致は、別々に育てられた一卵性双生児に共通に見られるのだから、環境の影響は考えにくい。となれば遺伝の影響のはずだが、それならなぜ二卵性の双子や他の家族のメンバーにはこのような一致が見られないのか。遺伝の影響なら、別々に暮らしていた親子や他の兄弟の間で、多少なりとも一致が見られてもいいはずではないか。一卵性の双子は遺伝子を100パーセント共有しているが、自分の親とは50パーセント共有しているし、叔父や叔母、甥や姪、祖父母や孫、はたまた異母(異父)兄弟とだって25パーセントは共有していることになるのだから、赤の他人と比べるなら、多少の一致があってもいいはずだ。

 これについて、研究者たちは、次のように説明する。

 

●「君が父親からスペードの10とキングを、母親からジャックのクィーンとスペードのエースを受け取ったとしよう。それらのカードは、それぞれの家系の中ではあまり重要ではなかったかもしれない。しかし、君が受け取ったカードの組み合わせが、オリンピック記録を生み出すことになるかもしれないのだ」

 

 つまり「両親双方から引き継いだ遺伝形質を組み合わせることで、遺伝的な素材はユニークなものとなる」という考えである。これを「創発説」という。

 この「創発説」によって、私たちはまた一歩「どんぐり理論」に近づく。まさに引いたカードの「組み合わせ」が特定の「型(パラディグマ)」を形成すると考えられるではないか。

 

●「あなたのもつ組み合わせは、あなたが産声を上げる前に、魂が引き当てた籤なのである」(H)

 

 しかし、「個々人の行動の相違には多くの、恐らく何百もの遺伝子がかかわっている」はずである。それら、無限にあるはずのカードの組み合わせから、「勝利のカード」を引くかどうかは、誰にもわからない。それでは、いったい何がその人固有の組み合わせを決定するのか。ポーカーのテーブルでなら、別々のところから引き当てた二枚のエースは勝利に大きく近づいたことを意味し、5と9は捨て札であることがわかるが、遺伝子の世界にもポーカーのルールのようなものがあるのだろうか。

 ここでもう一つ、「優生遺伝」という名の説が登場する。

 

●「これはきわめて多様なコンビネーションの中で、ある遺伝子がほかの遺伝子に対してもつ抑制効果のことをいう」(H)

 

 つまり、私たちにはある遺伝子が他の遺伝子より魅力的に見え、他の遺伝子を引き当てないようにしているというのだろうか。カードは表を見せて私たちに引かれるのを待っているというのだろうか。どれとどれを組み合わせれば、勝利を引き寄せることができるか、私たちが知っているというのだろうか。

 

●「優生は・・・遺伝学的な運だともいえる。受胎のときの、カードを引くときのような運が遺伝子のユニークな組み合わせを生み出し、両親や兄弟には見られないような、驚くべき効果を生み出すのである」(H)

 

 どのような組み合わせを引くかは運まかせというわけだ。どうやらカードは表を見せてはいないようだ。現在の遺伝研究においては、この運を「カオス理論」で、次のように説明している。

 

●「非線形系(もちろん生命は非線形の系である)では入力の段階のごく微細な違いが、出力においては巨大な差異を生み出す。・・・カオス系は予測不可能(そしてもちろん、人生の特徴も予測不能だ)ではあるが、その変則的なパターンにおいては安定しているのである」(H)

 

 つまり、共通する組み合わせのパターンなど存在せず、「人生は混沌としていて、また同時に反復的でもあり、小さくわずかな入力の変化がどれほど大きく顕著な出力の違いを生み出すのか予測できない」というわけだ。起こってしまったことはどんなに些細なことでも、それが個人に与える影響は計り知れない。しかし、人生はまさに一定の秩序など介入する余地がないという点において、つまり変則的であるという規則性において安定しているというわけである。これが「運」と呼ばれるものの特徴かもしれない。ここで私たちは「どんぐり理論」にさらに大きく近づくことになる。

 

●「ここで、わたしたちは天使、ないしゲニウスの影響というテーマに立ち戻ってきてはいないだろうか。見かけは微細だが、しかし、きわめて顕著なかたちで天使は働く」(H)

 

 先のカオス理論の説明で重要な点は「生命は非線形系である」という指摘だ。

 

●「わたしたちの人生は直進などしない。人生は曲りくねり、順行、逆行を繰り返したりする」(H)

 

 「人生は後戻りできない」という昔からの言い習わしは、おそらく誤りだろう。人生の道筋はジグザグを描いたり、堂々めぐりしたり、円を描いたりする。私たちはしばしば同じことを繰り返す。自分の人生は順調であるかに見えたかと思うと、スランプに陥り、退屈な毎日の繰り返しだと思うと、目からウロコが落ちるような体験をしたり、心を閉ざしたかと思うと、突然全開になったり...。これらのことは誰の人生にも起こる、とも言えるし、起こらないとも言える。また、起こったとしても現れ方には特徴的な「型」がある。だから私は他の誰とも異なるし、またどの人生も似たり寄ったりとも言える。同じものを見ても、AさんとBさんではとらえ方は異なる。同じ体験をしても、10年前の私と今の私では体験のとらえ方が異なるが、それでも10年前の私も今の私も、私であることに変わりはない。私が私であることを支えているのは、この「型」にほかならない。

 

 (現に私は今、ヒルマンの「どんぐり理論」を借りて「個性」とは何かをつきつめようとしているが、20年以上も前に同じようなこと・・つまり誰かの考えを借りて何かを説明しようとする試み・・をやったことがあるように感じている。それは一種の「デジャ・ヴュ」の感覚に近い。素材は違っても、そのやり方から、その作業に対する感じ方までそっくりだ。私はあれから成長していないのだろうか。いや、そんなはずはない。やり方も感じ方も同じであるはずはない。

 こうして人生はいつもカオスの中に身を投じる。しかしその投じ方には一定の規則やパターンがあるように感じる。その投企がいつどのように起こるかは予測不能だが、事柄を選び取った主体が私であることに違いはない。今も昔も私の存在はゆるぎない)

 

●「わたしの人生は安定したカオスだ」(H)

 

 さて私たちは、単一の遺伝子ではなく、複数の遺伝形質の組み合わせによって個人のユニークさが形成される様を見てきた。そして、どれとどれが組み合わさるかには規則性がなく、混沌としていて、運命の成せる業であることも見てきた。それが、別々に育てられた一卵性双生児にだけ見られる奇妙な一致の原因かもしれない。しかし、遺伝子のプログラムが双子の運命を直線的に決定すると結論づけるのは拙速というものだろう。

 確かに、こんな報告もある。別々に暮らす一卵性の双子の一方が突然病気になったり事故にあったりすると、もう一方が何か胸騒ぎを感じたり、実際に痛みや苦痛を感じたりするという例である。しかし、ここで重要なことは、双子の心や体が「共時性(シンクロニシティ)」を示しているかどうかではなく、双子の一方が病気や怪我をしたときに、もう一方は何かを感じはするものの、同じように病気や怪我をするわけではないという点である。

 したがって、遺伝子を100パーセント共有する一卵性双生児でさえ差異を示すのだから、遺伝学的な立場から人間の個別性を検証するなら、双子だけを研究対象としていたのでは十分ではないだろう。まるで双子同士のように同じ日に生まれ、同じ顔かたちをし、同じ習慣や嗜好をもち、同じ時期に同じ病気や怪我などの経験のある赤の他人を複数探してきて、それらの人間の遺伝子を調べてみない限り、バランスのとれた研究にはならないはずだ(そんな人間がいればの話だが)。

 

 

■人はいかにして恋に落ちるか

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 人生が安定したカオスぶりを最も顕著に発揮するのは、おそらく恋愛においてだろう。一卵性双生児は、恋愛のスタイルにおいても類似性を鮮明に見せるというが、本当だろうか。

 研究者たちは、愛のスタイルに関し、責任感のある利他的な配慮(アガペー)、実利的な人間関係(プラグマ)、エロティックな親密さ(エロース)などの分類の引き出しを用意して、研究サンプルをその中に投げ込む。一卵性双生児はこの愛のカテゴリーにおいても一致を見せるというのだ。しかし研究者たちは、この類似性の理由が遺伝によるものでないことを知っている。

 双子の愛のスタイルについて調べたニールス・ウォラーとフィリップ・シェーヴァーによれば、行動遺伝子の分析から、ストレス耐性や怒りなどのパーソナリティの領域においても、信仰心や人種偏見などの態度決定においても、遺伝的要因は大きな役割は果たさないという結果が出たという。

 そこでまた二元論が登場する。遺伝でなければ環境だというわけだ。人がどのような相手に恋をするかを説明するのに、研究者たちは「ラブ・マップ(愛の地図)」という概念を持ち出す。ヘレン・E・フィッシャーによれば、このラブ・マップは精神的な地図であり、「性的な昂ぶりを感じさせ、ある特定の相手に恋するようにしむける脳の回路の鋳型」だという。この鋳型は、子供時代に、家族や友人、経験、偶然の出会いなどに対応する中でできあがるという。

 

●「成長とともに、この無意識の地図がかたちをなして、理想的な恋人のイメージがだんだんにできあがる。・・・したがって、教室やショッピングセンター、オフィスなどでほんとうの恋人とゆきあうずっと前に、あなたは理想的な恋人の基本的な要素をつくりあげている」(『愛はなぜ終わるのか』草思社)

 

 つまり、私たちの脳の中には、モンタージュのようにきれぎれのイメージの断片をつなぎ合わせて形作られた無意識の地図があって、その地図に載っている理想的な恋人にどこかで出くわせば、すぐにその人と認知し、脳のシナプシスがスパークし、即座に恋に落ちるということらしい。

 環境因果論者たちは、相変わらず、目に見える唯物論的な世界(たとえそれが脳の中で起こっていることだとしても)の言葉に寄りかかって「ラブ・マップ」の概念を語ろうとしていないだろうか。いわんや、ラブ・マップの成立過程を、双子がヘアトニックやタバコの銘柄を選ぶ理由と同じ領域に求めているようにさえ見える。その傾向は、またしてもそこに両親幻想を持ち込んでいるあたりに特に顕著に現れている。

 

●「人は、幼い頃に愛のスタイルを学び取ったということになる。が、それはどのようにしてなのか。一つには『個別的な経験によって』だ。そして一つには『恐らく両親を共有することによって、そして恐らく、両親の愛の関係を観察することによって』であろう。そう、この説に従えば、フロイト派が示唆するように両親そのものに惚れることはないにしても、人は両親の代理人にひかれるというわけだ。あるいは少なくとも両親のパターンに従うことになる。理解されざるものを説明するために、ここで再び、両親の力という幻想が現れている」(H)

 

 私たちは、客観的で分析的な視点で誰かが類型化した典型的な愛のスタイルや、経験が脳の中に作り上げた地図(ラブ・マップ)に従って恋に落ちるのだろうか。それこそがまっとうな恋の筋道「恋愛道」だというのだろうか。

 しかし、恋する心は、スタイルもタイプもスタンダードもまったく意に解さない。むしろ恋に落ちた者は、まっとうな道を踏み外し、日頃の自分のスタイルを手放してしまうかに見える。他人はそれを敏感に察知し、「どうもあいつはいつもと違うぞ。人が変わったようだ。恋でもしているのか」などと言ったりする。愛とはまさにスタイルからの逸脱、あるいは解放であるかに見える。

 おそらくスタイルは後からやってくるのだろう。出会いの衝撃、恋の熱が冷めた後に。もっと言えば、アガペーやプラグマやエロースなどの愛のスタイルは、特定の恋人を対象にしなくとも、ごく一般的な人間関係においても十分構築し得る。

 衝撃的な出会いの瞬間、恋する心は叫ぶ、「この人だ。この人こそ、私が長年捜し求めてきた人だ」と。まるで、子供の頃から練り上げてきたラブ・マップのイメージ通りの理想的な相手が目の前に現れたと言わんばかりに。しかしその人は、今までの人生で出会った人たちの誰にも似ていない。部屋の壁に貼って毎日ながめている憧れのタレントともかけ離れている。「なのになぜ私は恋に落ちたのか」

 また、恋する心はこうも言うかもしれない。「この人は私の理想のタイプではない。私の理想のタイプは全然違う人のはずだった。なのになぜ私はこの人に恋してしまったのだろう」ラブ・マップの信奉者ならこれを「妥協」とか「勘違い」といった言葉で説明するかもしれない。そしてひげそりクリームや指輪の選択を誤ったときのように、こう言うかもしれない。「もっと理想的な相手がいずれ見つかるよ」

 

●「ふつう、相手は理想の存在とはかなりちがっている。だが、そうした不都合には目をつぶって、愛の地図にあわせてしまう。チョーサーのいうとおり『恋は盲目』なのだ」(フィッシャー)

 

 さらにフィッシャーは、愛の研究者たちが遺伝的要因の追究から抜け出し、環境要因に的をしぼった結果であるはずのラブ・マップを、もう一度遺伝的要因の方へ投げ返してしまう。フィッシャーは、「男女の好みは先天的なもの」だとし、その理由を「元気な子孫を産むことができる女性と恋におちたほうが、オスの遺伝子には有利だから」とか「子供たちをやしなえる男性に惹かれるほうが、女性にとって生物学的に有利なのだ」と言い切ってしまう。

 しかし、幸いなことに私たちは、ラブ・マップの向こうに遺伝子の未来を透かし見ながら恋に落ちるわけではない。私たちが恋に落ちる対象は遺伝子ではない。その人に出会った瞬間、雷に撃たれたように感じ、体中に電光が走り、逆らえない運命を感じるその感覚は、対象が安産型の体型とか扶養能力といった、単なる属性であったときにはとうてい味わえない感覚である。その瞬間、遺伝子の打算は吹き飛ぶ。

 私たちは、人が一般的にどのような属性をもつ相手に惹かれるかを問題にしているわけではない。よしんば人が遺伝子のたくらみによって子孫繁栄に適した相手を好む傾向にあったとしても、それはヒルマンの言うように、ラブ・マップの裾野を支えるひとつの「層」にすぎないだろう。

 私たちは、自分のラブ・マップの階層構造のどこかに引っかかっているという理由で相手を好きになるのだろうか。その階層構造の頂点、地図の到達点には、いったい何があるのだろうか。

 環境因果論者たちは、過去の経験によってラブ・マップが形成されると考えているわけだが、ラブ・マップの中身はむしろ未来にあるとヒルマンは指摘する。

 

●「そこでは最も重要なのは模倣ではなく理想化だ。既知のものの模写ではなく、未知のものへの期待。・・・元型的なファンタジーが母親と父親から選び取ったものを統合していくのであって、その逆ではないのだ」(H)

 

 つまり、両親から受け取ったイメージは、ラブ・マップを構成する素材ではあるかもしれないが、そこには元型的なファンタジーが介在していて、むしろそれがラブ・マップの型を「デザイン」しているというのがヒルマンの考えのようだ。

 

●「あなたの恋心(ハート)は、子供時代のイメージの組み合わせにひきつけられていくかもしれないけれど、同時に知られざる何かがあなたのマップを形作り、そこに奇跡と神秘の経験を加えているのだ」(H)

 

 どうやらラブ・マップは、その人と出会うことによって初めて完成するようだ。だからラブ・マップは目的地の書き込まれていない地図、モデル不在の鋳型なのだろう。ある地点に到達したときに、あるモデルが現れたときに、初めてそれと気づくのだ。

 だから私たちが問題にしているのは、地図や鋳型の一般的な形状ではない。分析的で唯物論的な言葉ではとうてい語れない何かである。「狂おしい」「取り憑かれたような」「直感的にピンとくる」「雷に撃たれたような」といった恋愛のディスクール(言説)は、理性の働きを超越し、むしろ神話、詩、物語、歌といった、想像力が問題となるディスクールに近づく。

 

●「愛する人と愛される人との出会いは、ハートからハートへの出会いだ。彫刻家とモデル、手と石の出会いのようなもの。それはイメージ同士の出会いであり、想像力の交換である。恋に落ちると、人はロマンティックに、猛烈に、野性的に、狂おしいほどに、嫉妬深く、何かに取り憑かれたようにパラノイア的な強烈さをもって、想像し始める。心の目の前に呼び起こされたイメージに恋をする」(H)

 

 そのイメージはハートの中でみるみる膨れ上がり、止めることはできなくなる。相手のことを考えないようにしようとしても無駄である。目に見えない強迫的な力が働いて、恋する者を想像力の解放へと駆り立てる。もはや、目的地の書き込まれていない地図をぼんやりとながめている余裕はない。何を型どったのかわからない鋳型など役に立たない。

 想像力の領域においては、一卵性双生児とて類似性を見せない。想像力の領域にこそ恋愛の独自性がある。

 

●「想像力を解放することで、一卵性の双子ですら、その同一性から解放されるのである」(H)

 

●「運命の声は、あなたが運命を感じているその人の顔となって結晶化する。その人は、ロマン主義者のいう外在化した神のように、運命の支配者、魂の主人のようになる。その人は悪魔的でも天使的でもあり、一度ひかれると離れることもできない。わたしの力が弱いのではない。その運命、呼び声、宿命はかくも強いのだ。もちろん、そのとき人は苦しみ、胸が一杯になり、自分の足で立てなくなり、苦痛に落ちる。ダイモーンがラブ・マップなど引き裂いてしまう」(H)

 

 

■共有環境と非共有環境

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 さて私たちは、一卵性の双子の研究を中心に、遺伝子を完全に共有する彼らが、肉体的な面においても、また恋愛に代表されるような精神活動においても独自性を発揮するということ、そして最も遺伝的要因が強いと思われる習慣や嗜好に関しても、親から単純に引き継いだものによるのではなく、無数にある遺伝的選択肢の中から運命的に選び取られたものに負うところが大きいということを見てきた。

 ここでもう一度、環境の問題に立ち帰らなければならないだろう。そこで、二元論者たちが、遺伝子を共有し、同じ家庭環境に育った一卵性双生児にさえ差異があるとしたら、それは、家族に共有されていない環境の影響だと言っていることを思い出していただきたい。

 双子の研究者たちは、環境(つまり私たちを取り囲む文化的、物理的状況の総体)を大きく「共有環境」と「非共有環境」の二つに分けている。「しかし」とヒルマンは言う。

 

●「共有環境と非共有環境の間にくっきりと線を引くことなど可能であろうか」(H)

 

 たとえ双子がお揃いの服を着せられ、同じ部屋に寝起きし、同じ食事を食べ、同じ教室で学んだとしても、それらの環境が意味するもの、そこから受け取るメッセージまで共有しているだろうか。

 特に双子の場合、ほんの数分の時間差しかなかったとしても、生まれた順番によって、兄か弟か、姉か妹かが決定される。そしてこの二人は、最も近しい存在であると同時に、一種のライバルとも目される。文化は順位をつけたがるのだ。

 

●「抗争(ライバル)を生み出すのは現代の文化の競争的な雰囲気ばかりではない。それは『同一』のものを分化させるための内なる衝動の現れなのだ。人は、遺伝や環境の影響にさらされてもそれぞれ胸(ハート)の内なるイメージと運命の道に従って、『かけがえのない』ものになろうとしている。それぞれの家族は類似を生み出す温床であると同時にその構成員一人一人が相違を生み出すための遠心力ともなっているのだ。一卵性双子の場合には必ず、その近親性がかえって二人を引き離そうとする。同じ極同士を近づければ磁石は互いに反発し合う。相違をただ競争心のせいにするだけではなく、独自の運命へと誘う天使の声によるものだとも考えてみよう」(H)

 

 環境とは、共有観念と同時に、潜在的に差異を生み出す要因であることをヒルマンは指摘しているのである。

 たとえば双子が連れだって散歩に出たとしよう。二人は道端にひっそりと咲く野の花に目が止まる。いや、それは一方が目を止め、もう一方に見ることを促したのかもしれない。もう一方は一瞥を送ったものの、さして関心を示さず再び歩き出す。目を止めた方は、その花の可憐さに心を奪われ、同時に自分の相方の感じ方の違いに驚かされ、近しかった心に距離が生まれる。「彼(彼女)は、野の花などに興味はないんだ。私にはこんなに魅力的に見えるのに」といった具合に。

 環境を共有していればこそ、双子の片われに限らず、家族の他の構成員、クラスメイト、チームメイトらのキャラクターや環境への反応の仕方はそれだけはっきり見て取れるわけであるから、類似性と同時に相違も、親近感と同時に疎遠感も発生するだろうことは十分に納得できる。そう考えるなら、そもそも環境が人間に与える影響を調べるのに、共有環境と非共有環境に分ける理由がどこにあるというのだろうか。

 

●「実際のところ、『非共有の』環境など存在するのだろうか。真の意味で自分が一人きりでいられる、遮断された時間などあるだろうか。わたしが真夜中に一人夢の中をただようときに使っている枕でさえ、羽毛やポリエステル、コットンが何か気配を出している。あるいは枕が製造された環境。枕とわたしが交換する微粒子・・・」(H)

 

 双子がたとえ同じベッドで同じ枕を共有していたとしても、彼らの一方が夢うつつで枕の感触に思いを馳せるとき、枕の発する気配は、隣で寝ている相棒の発する気配に勝るだろう。そのとき彼は一人だけの世界にいる。

 

●「一人きりになれる壁で囲まれた庭園などという概念には実際のリアリティはないと思えてしまう。しかしそれはきわめて淡い兆しやしるしを送ってきてくれる不可視の存在とコミュニケーションを図るために必要なファンタジーなのだ。『非共有』という観念は、個別性(インディヴィジュアリティ)という庭への門なのだ。わたしたちは、独自性の、私的な感覚を確信するために、そしてその運命の声を聞くために非共有という観念を必要とするのだ」(H)

 

 確かに私たちは夢を見ている間、自分の頭の中で夢の世界が展開されているのではなく、夢の中に自分がいると感じる。しかし夢を作り出しているのは私だ。確かに環境は私たちを取り囲んでいる。しかし私たちは環境に働きかけることができ、私たちの働きかけによって環境は変化する。私たちにとって野の花は環境の一部だが、見つめたり摘んだり水をやったりする私たちは野の花にとっての環境の一部だろう。いったいどちらがどちらにとっての「周囲」なのか。

 

●「『非共有』という観念は囲い込みのイメージ、すなわちわたしだけに特別の仕方で影響する私的な周囲の状況、というイメージによって立っている。しかし、非共有の、いや共有されることのない唯一のものはダイモーンの独自性、そしてダイモーンと人の関係性の独自性でしかない」(H)

 

 ダイモーンと自分の関係性の独自性を保つために、私たちは何も周囲の環境から遮断される必要はない。環境をわざわざ共有と非共有に分け、一方から抜け出し、もう一方に逃げ込む必要はないのだ。

 

●「非共有とは、孤立ではない。この惑星そのものである、共有環境から抜け出すことなどできないのだ。そして、孤立などというものがなかったとしても、独自性は存在する」(H)

 

 「ガイア仮説」というのがある。イギリスの科学者ジェームズ・E・ラヴロックは、地球もひとつの生命体であり、私たち人間と同じように恒常的な生命維持活動(ホメオスタシス)を営んでいると考えた。この仮説を受けて、やはりイギリスの科学者であるピーター・ラッセルは人間を地球にとっての神経細胞とみなし、地球にも私たち人間の意識活動の集合体としての意識があるという考えを打ち出した。

 ヒルマンも「どんぐり理論」の立場から、同じような考えに至ったようにも思える。

 

●「環境そのものが魂を与えられており、生気に満ち、人間と複雑にからみ合っていて、根本のところで人間とは分かつことはできない」(H)

 

●「世界はわたしたちを支え、見つめ、世話すらしてくれている・・・また、世界もわたしたちがそばにいてほしいと考えている」(H)

 

 ここでふと、大胆な仮説が頭をよぎる。私たち一人一人に独自の魂があるように、私たちの魂の総体としての独自の魂が地球にもあるのではないか。だとしたら、エコロジーの観念とは、地球のダイモーンと私たち一人一人のダイモーンとの関係性によって成り立つのかもしれない。私たちが地球という環境から切り離されては生きていけないように、地球も私たちを抜きにしては存続しえないのだと考えてみよう。地球は確かに私たちを祝福している。

 

●「環境の概念が変われば、わたしたちは環境を違った仕方で見て取るようになるだろう。そうなれば、心と世界、主体と客体、内なるここと外なるあそこを区別することはますます難しくなるだろう。心はわたしの内側にあるのかすら、怪しくなってくる。夢の中にわたしがいるように、心の中にわたしがあるのか」(H)

 

 スタンフォード大学の心理学者カール・プリブラムは、人間の脳細胞は、ホログラフィ写真のように、つまりどれだけ細かく分割しても、その断片の中に全体が投影されているように機能しているのではないかと考えた。たとえば、記憶は脳のどこかに局在するのではなく、ホログラムのように脳全体にわたって分散している像を貯蔵しているのではないかというのだ。

 また、人間の胎児は母親の胎内で40億年の生命進化の歴史をたった数カ月で再現することはよく知られている。

 そんなことを考え合わせるなら、一人一人の人間も地球にとってのホログラムとして存在する、つまり一人一人の人間の中に、地球の全体像が内包されているとも考えられる。環境は私を取り囲むが、同時に私も環境を包み込んでいる。いや、内側と外側とか、共有と非共有といった観念自体が意味をなさなくなる。

 

●「あなたは、人と違う存在であるために文字通り隔離される必要はない。ほかの誰かとあなたの相違、『非共有環境』は、共有された世界の中で生まれている。あなたのアイデンティティこそが独自なのだから。あなたの独自性は壁などに頼ることはない。人生を通じて、あなたにつき従う内なる心の中のイメージによって、最初からあなたが独自な存在であることは保証されている」(H)

 

 さて私たちは、遺伝子を100パーセント共有するはずの一卵性双生児でさえ個性を発揮すること、また、別々の環境で育てられた一卵性の双子にだけ習慣や嗜好の上で奇妙な一致が見られるのは、単一の遺伝子ではなく、複数の遺伝形質の組み合わせによって個人のユニークさが形成されるからであること、そして、どれとどれが組み合わさるかに関しては、秩序ではなく混沌が関与する法則によっていることを見てきた。また、習慣や嗜好では奇妙な一致を見せる双子が、恋愛に関しては、一定のパターンを手放し、想像力によって、その同一性から解放される様子も見てきた。そして最後に、遺伝の影響とは考えられない個別性があるからといって、それは必ずしも環境の影響ではなく、そもそも特定の個人だけが経験する環境というものを、他の環境から切り離す無意味さも見てきた。

 これらのことを総合するなら、共有環境と非共有環境を分けることが意味をなさないのと同じように、個性の源をたどる上で、やれ遺伝だ、やれ環境だと二元論的あるいは還元主義的な考えをこね回すこともあまり意味がなく、むしろプラトンやプロティノスが考えたように、遺伝も環境も、その他のあらゆることをも織物のように紡ぎ合わせた統一体が一個の人間を形作るのだと考えた方がよさそうである。これはまさに荘子が、自分の影に悩まされ、足音をも不快に感じた男に対して出した結論、つまり白日のもとで現象と理論の果てしない追いかけっこを繰り返すより、影も足音も吸収してしまう日陰に静かに憩うことが真理にいたる近道であるという考えそのものではないだろうか。




  

魂の降り立つ場所〜