painted by Miho Kobayashi

 少年はライオンを飼っていた。でもそのことはだれにも言わなかった。飼っていることが知られたら、たいへんなさわぎになると思ったからだ。なぜなら、「日本にはライオンなんていないはずなのに、どこで見つけたのか」とだれかに聞かれてもこたえられなかったし、そのうえ、そのライオンは全身が光かがやくように真っ白で、しかも少年の手のひらにも乗るほどの大きさしかなかったからだ。

 そのライオンがいつ、どこからやってきたのか、少年は本当になにも知らなかった。気がつくと、少年の手のひらで遊んでいたのである。でも、少年は知っていた、ライオンというのはふつうアフリカという遠い砂漠の大陸にすんでいて、サバンナの赤茶けた土の色をしていて、そして少年よりもずっと、いや、パパやママのような大人の人間よりももっともっと大きな動物だということを。だから少年はよけいにこわかった。白くて小さい、そんなめずらしいライオンを自分が飼っていることが知られたら、サーカスに売られてしまうかもしれない。そう考えると、こわくてこわくてしかたがなかった。

 少年にはもうひとつこわいことがあった。というのは、そのライオンをどうやって育てたらいいのか、まったくわからなかったのである。動物図鑑を見ると、ライオンはほかの動物をおそって、その肉を食べると書いてある。でも、少年の飼っている白くて小さな手乗りライオンは、なにも食べないのだ。ためしにいろいろなものを食べさせようとしてみたが、なにも食べなかった。それでも元気に少年の手のひらで遊んでいるし、少年の部屋の中をかけ回ったりもする。それに、いくら小さな手乗りライオンとはいえ、ライオンはライオンだ。いつかパパに連れて行ってもらった動物園で見たライオンと同じように、口をあければりっぱなキバがはえている。そのキバでかみつかれたらどうしようと、少年はいつも思っていた。でも、その白い小さな手乗りライオンは、決して少年にかみつくようなことはなかった。

 そのライオンには、もうひとつふつうのライオンとちがうところがあった。それは、ほえないし、うなり声も上げないということだ。声を出さないので、ときどきどこにいるのかさえもわからないことがあった。だから少年は、いまだに自分がライオンを飼っているなんて信じられない気持ちだった。しかも、ふつうのライオンではなく、そんなにヘンテコなライオンとなると、なおさらだ。だから、ときどきそれは本当はライオンではなく、ライオンのように見えるほかの動物なのではないかと思うこともあった。そんなときは、ライオンを手のひらに乗せ、よく観察してみた。全身真っ白だけれども、りっぱなたてがみがはえている。小さいけれども筋肉はたくましい。なにも食べないし、かみつきもしないけれども、口をあければキバがはえている。少年の手のひらにしっかりと立ったときは、手のひらにライオンのツメがくいこんで少し痛いので、するどいツメがあることもわかる。それはどこから見てもやっぱりライオンだった。

 その白くて小さな手乗りライオンは、いつも少年のそばにいた。少年が気になってあたりを見回すと、かならずそこにいた。たとえば、朝はやく、パパやママがまだ寝ている間に少年が目をさますと、カーテンのすきまから入ってくる朝日にてらされてキラキラかがやいている姿が見えた。また、学校の教室で、先生の話しにあきて、少年がふと窓の外をながめると、そこには少年をじっと見守っているライオンの姿があった。

 少年は、自分が飼っているそのライオンを、だれかに自慢したいと思うこともあった。たぶん友だちはその不思議なライオンのことを信じてくれないだろう。でもパパやママなら信じてくれるかもしれない。そしてそのライオンがどこからきたのか、どのように育てたらよいのか教えてくれるかもしれない。そこで少年は、パパやママに一度そのライオンを見せたいと思った。ところが、ライオンが少年の手のひらで遊んでいるときに、パパやママが少年に近づいたり声をかけたりすると、ライオンはたちどころにどこかへ消えてしまう。見せようとする相手がパパやママでなくても、やっぱり事情は同じだった。少年がライオンをだれかに見せようとすると、ライオンは魔法のようにプイとどこかへ消えてしまうのだ。これではだれにも見せようがない。少年はしかたなく、その白い小さなライオンのことは、だれにもうちあけない秘密にしていた。

             *           *

 そんなある日、少年はいつものように学校の友だちと校庭で野球をしていた。でも少年は野球があまりとくいではなかった。運動神経が悪いというわけではなかったが、少年はほかの友だちにくらべてからだが小さく、力もあまり強くなかった。同級生の中には、からだが大きく、スポーツもとくいな子たちが何人かいたが、少年はその子たちのこともあまり好きではなかった。その子たちと遊んでいる自分自身もなにかちがうと感じていた。友だちと野球をして遊んでいても、ときどき、自分はここでなにをしているのだろう、と思うことがあった。自分はここで野球なんかしているよりも、家に帰って本を読んだり、絵を描いたり、ライオンと遊んでいるほうがいいのではないかと思うことがあった。ところが本当に家に帰ると、こんどはやっぱり外で野球をしていたほうがよかったのではないかと思うのだった。それに少年は負けずぎらいだったので、野球がどんなにヘタでも、友だちにさそわれれば、かならずなかまに入っていた。

 少年のポジションはいつも外野だった。ヘタなのでピッチャーやファーストやサードなどの花形ポジションは守らせてもらえないのである。エラーをして友だちになにか言われるのもイヤなので、自分でもそういうポジションはさけるようにしていた。でも外野にはときどき大きなフライなどが飛んでくる。少年は自分のところにフライが飛んでくると、取れるときもあるし取れないときもある。でもいつも取れるか取れないか不安で不安でしかたがなかった。自分のところにボールが飛んでくるのがこわいという気持ちが半分と、飛んできたらかならず取ってみせるという気持ちが半分だった。そういう気持ちは、守備のときだけでなく、攻撃のときも同じだった。自分の打順がはやく回ってこないかという期待と、回ってきたらかならずヒットを打つんだという興奮と、でも打順が回ってきて三振したらどうしようという不安と、だから永遠に回ってこないほうが気が楽だなというあきらめがまざりあった複雑な気持ちにいつも支配されるのだった。

 そういうわけで少年はその日も友だちにさそわれて、学校の校庭で野球をしていた。そしていつものように外野を守っていた。そのときである、少年に向かって本当に大きなフライが飛んできた。少年はあわててグローブをかまえた。

「落とすなよ」

とだれかがさけぶ。少年は落としたらいけない、とひっしに身がまえる。するとどうだろう。いつの間にあらわれたのか、あの白い小さなライオンが、ボールといっしょに少年のほうにものすごい勢いで向かってくるではないか。少年はビックリして、一歩か二歩後ろへ下がった。次の瞬間、ボールが少年のかまえたグローブにとどくかとどかないかというときに、ライオンが少年のむねにドンと体当たりしたのである。少年はふいをつかれてもんどり打ってたおれた。そしてそのまま気をうしなってしまった。

 気がつくと、少年は学校の保健室のベッドに寝かされていた。保健室の先生と友だちが心配そうに少年を取りかこんでいるのが見えた。

「おお、気がついたみたいだぞ」

とだれかが言った。

「だいじょうぶ?」

先生が心配そうに聞いた。

「だいじょうぶです」

と少年はこたえた。

「ボールをとりそこなって、たおれてあたまを打ったんだよ」

と、まただれかが言った。少年は、(ちがうんだ。ライオンにつきたおされたんだよ)と言いかけたが、すんでのところで声に出すのをやめた。

少年は起き上がって

「ボク、帰ります」

と言った。

「本当にだいじょうぶ?」

と先生がもう一度聞いた。

「だいじょうぶです」

と少年はこたえ、ベッドから起き上がって、身じたくをととのえた。そして野球の道具をかかえ、心配そうな先生と友だちをあとに、家路についた。帰り道、少年は考えた。ふだんはぜったいに乱暴なことをしないあのライオンが、なぜきょうは自分に体当たりなどしたのだろう。でも、いくら考えてもこたえは出なかった。少年は、家に帰っても、きょうあったその不思議なできごとを、とうとうパパやママに打ちあけることはできなかった。

 ところが、不思議なことはまだあったのである。あの白い小さなライオンは、その日いらい少年の前からこつ然と姿を消してしまったのだ。少年はずいぶんあちこちをさがしたが、とうとう見つけることはできなかった。そして、少年はライオンをさがし回りながら、はじめて気づいたのである、ライオンによびかけようと思っても、あのライオンには名前がないということに。そういえば自分はあのライオンに名前をつけてやることもしていなかったのだ。そう思うと少年はかなしくて、せつなくて、もうしわけない気持ちでいっぱいになった。でもやっぱりライオンは、それからもう二度と少年の前に姿をあらわすことはなかった。

 やがて少年も少しづつライオンのことを忘れるようになっていた。少年はいつものように学校にかよい、友だちと野球をしたり、勉強をしたり、テレビを見たりしてくらした。その間に、何度も遠足があり、クラブ活動があり、運動会があり、学芸会があり、夏のプールがあり、修学旅行があった。そうして少年は少しづつ成長し、いつのまにか、床屋さんに行っても「お兄ちゃん、何年生?」と聞かれない年齢になり、ひとりで映画館に行くようになり、定期券で学校にかようようになり、自分でヒゲをそるようになり、友だちとカラオケやスキーに行くようになり、アルバイトをしてかせいだお金でステレオやマウンテンバイクを買うようになっていた。そして野球をやってもめったなことではエラーをしなくなっていた。いつしか少年は、もはや少年とよぶにはあまりに成長し、むしろ「青年」とよぶにふさわしい年齢になっていたのである。

             *           *

 さて、その青年は、家の近くのおもちゃ屋さんでアルバイトをしていた。学校がおわると店に行き、夜になって店がしまるまで、お客さんの相手をしていた。お客さんの半分は近所の子どもたちで、残りの半分は大人たちだった。その中に三日に一度はあらわれてなにか買って行くご婦人がひとりいた。そのご婦人は、歳のころは三十代なかばくらい。どこにでもいる家庭の主婦という身なりをしていたが、いつもうつむいていて、あまりこちらを見ず、いつもソワソワいそいでいるようで、そしていつも少し疲れているように見えた。でも、青年にしてみれば、そのご婦人もたくさんいるお客さんの中のひとりにすぎなかったので、べつに気にもとめていなかった。

 ところがある日、いつものように店にあらわれたそのご婦人は、いつもとはちょっと様子がちがっていた。いつもはうつむいて、あまりこちらを見ないのだが、その日はなぜか青年のほうをチラチラと見ているようなのだ。そしていつもはソワソワとなにか品物を選び、いそいで買って出て行くのに、その日はなかなか店を出ようとしないのだ。青年はそれでもあまり気にせず、ほかのお客さんの相手をしていた。するとそのうちご婦人は青年の知らないうちにいつのまにか店を出て行った様子だった。

 いつもとちがうことはもうひとつあった。そのご婦人は、ふだんはだいたい三日に一度ぐらい店にやってくるのだが、その日いらい、毎日やってくるようになったのである。そしてくるたびに、青年の顔をなにかうたがい深そうな目でチラチラと盗み見ているようなのだ。そしてなにも買わずに出ていくこともあった。青年はちょっとヘンに思ったが、それでも知らん顔をしていた。

 そんなことが四日か五日つづいたある日のこと。ご婦人はまた店にやってきて、品物を選ぶふりをしながら、青年のほうをいぶかしそうに見ているようだった。青年は自分の顔になにかついているのかと、思わず鏡を見たくなるほどだった。しばらくすると、ご婦人はトランプをひとつ手にとり、レジのところまできて、

「これ、お願いします」

と言って、それを青年にわたした。青年が受け取ってレジを打っている最中も、ご婦人は青年のほうをうわ目づかいに見ているようだった。青年がトランプを袋に入れ、おつりといっしょにご婦人に手わたすと、ご婦人はそれを受け取って、そのまま帰るように見えた。ところが、ご婦人はふと立ち止まり、少し考えこんでいるようだったが、すぐになにかを思いきったように青年のほうにふりかえり、こう言った。

「あのう、ちょっとおたずねしたいんですけど」

「はい、なんでしょう」

と青年が聞きかえした。

「とてもおかしなことをおたずねするようですけど、びっくりしないでくださいね」

「ええ、いいですけど。なんでしょうか」

「もしかしてあなたは、ライオンを飼っていらっしゃいませんか?」

 青年は思わず息をつまらせた。からだ中にビリビリと電流が走った。あまりのおどろきに、青年はすぐには返事ができなかった。ところがおどろいている青年を見て、ご婦人はもっとおどろいているようだった。信号機のように顔を赤くしたり青くしたりしながらも、ご婦人はやっとの思いで青年に問いただした。

「もしかして、あなたは白い小さなライオンを飼っていらっしゃるんですか?手のひらに乗るくらいの小さなやつです」ご婦人は、少しらんぼうな言いかたでそう聞くと、両方の手のひらを青年の目の前につき出して見せた、まるでそこにあの小さなライオンが乗っているように。青年はその迫力に圧倒されて少し身をのけぞらせ、思わず

「はい、むかし飼ってましたけど」

とこたえてしまった。ご婦人はそのこたえを聞いてさらにビックリしたように目を丸くした。

「まさか、信じられないわ。本当に本当なんですね。白い小さなライオン・・・」

「ええ、た、たしかにむかしは飼っていましたけど、今はもういません」

「でもむかしは飼ってらしたんですね、白い小さなライオンを」

「は、はい、子どものころにたしかに飼っていたことがあります」

「やっぱり本当だったんだわ。本当だったんですね」ご婦人は自分の気持ちに念を押すようにそう言った。

「でも、どうしてご存じなんですか。ボクはだれにも話したことないんですけど。自分でもあんまりむかしのことなんで、忘れていたくらいですから」

それは本当のことだった。青年がライオンを飼っていたのは、青年がまだ少年だった遠いむかしのことで、青年自身すっかりそのことを忘れていたのだ。そこへいきなり「ライオンを飼っていないか」と聞かれて、とっさに「飼っていた」とこたえてしまった自分自身にも青年はおどろいていた。「白い小さなライオン」という言葉を聞いた瞬間、なにか大事な忘れ物をいきなり目の前にさし出されたような気がして、あのなつかしい白いライオンの勇姿がありありと青年の脳裏によみがえったのである。

 ご婦人は泣き出しそうなほど真剣な目で青年を見つめながら言った。

「お店は何時におわるんですか」

「七時ですけど」

「それじゃあ、わたし七時にもう一度ここへきます。そのあと少しお話しできませんか」

「ええ、いいですけど」

青年がこたえるのがはやいか、ご婦人は出番のおわった役者が舞台から退場するようにスーッと店を出て行ってしまった。青年は、ご婦人の後ろ姿を目で追いながら考えた。どうして自分が白い小さなライオンを飼っていたことをあのご婦人は知っているのだろう。だれにも話していないはずなのに。そのことで自分にもう一度会って話しがしたいという。いったいどんな話しなのだろう。まさか、自分があのライオンをにがしてしまったことに対してなにかおとがめがあるというのではないだろうな。ライオンがにげてしまったのは自分のせいじゃない。それに今さらなにかの理由でさがして連れてこいと言われてもムリな話しだ。青年は、いったいどんな話しがご婦人の口から飛び出してくるのか、不安の電球と好奇心の電球とがあたまの中でついたり消えたりして、七時になるまで仕事がさっぱり手につかなかった。

             *           *

 きょうは帰りに用事があるからと言って、あとかたづけを店のご主人にまかせて、青年が七時ちょうどに外へ出ると、ご婦人は店の外で待っていた。ご婦人はあいかわらずうつむきがちで、ソワソワしていて、そして少し疲れているようだった。青年はあいさつし、ご婦人の横に立った。最初に店で声をかけられたときは、いきなりでビックリしたということもあって、もっと背の高い人かと思っていたが、横にならんでみると、自分よりずいぶん小さい人だということを青年は発見した。自分の母親ぐらいのせたけだろうか。自分の身長が母親を追いこし、やがて父親を追いこしたとき、青年は自分もずいぶん大人になったのだと感じたものだった。青年から不安な気持ちが少し消えて行った。

 外ではゆっくり話しができないだろうからと言って、ご婦人は近くの喫茶店に青年をさそった。青年は承知し、ご婦人のあとにしたがった。喫茶店に入り、席について、ご婦人が紅茶を注文し、青年も同じものを注文して一段落すると、ご婦人が話し始めた。

「ごめんなさいね。突然あんなことをお聞きして。さぞビックリなさったでしょうね」

「ええ、ビックリしました」

ご婦人は大きなため息をひとつついて、話しをつづけた。

「じつは、私の息子があなたをさがしていたんです」

「息子さんが?」

「ええ。息子にたのまれて、白い小さなライオンの飼い主をさがしていたんです。あまりに突拍子もない話しなんで、わたしも半信半疑だったんですけど。でも本当だったんですね。なにしろあの子はふつうじゃないもんですから」

「ふつうじゃない?」

「ええ。この近くに中央病院っていう大きな病院があるの、ご存じですか」

「ええ、知ってます」

「そこに入院しているんです。重度の白血病で、もうあまり長く生きられないんです」

「そうですか、息子さんが・・・」

白血病については青年も少しは聞いたことがあった。「血液のガン」とよばれている病気だ。そんなにめったなことではかからないのだろうが、一度かかってしまうと、現代医学をもってしても、そう簡単には治せない病気。しかも小さい子どもであればあるほど病気の進行がはやいとも聞いた。ましてや重度となると、ご婦人の言うように息子さんは本当にもうあまり長く生きられないのかもしれない。自分の子どもが重い病気でもうすぐ死ぬかもしれないという母親の気持ちとはどういうものなのか、青年は想像してみようとした。でもとても想像できなかった。ご婦人がなぜいつもうつむいていて、ソワソワしていて、そしていつも少し疲れているのか、その理由がなんとなくわかったような気がした。

「おいくつなんですか、息子さん」

「六歳になります」

「そうですか・・・」

 しばし沈黙があった。ご婦人は、なかなかめくれない本のページを少しイライラしながら目で追っているようにうつむいていた。青年も物語の先をなんと言ってうながしたらいいのかわからず、今までの話しをあたまの中で反復しながら、黙ってご婦人の次の言葉を待った。そこへ、注文した紅茶が二つとどき、ご婦人は一口飲んだ。青年も一口飲んだ。するとご婦人は少し気持ちが落ちついた様子で、また話しをつづけた。

「その子がある日突然、自分は小さくて真っ白なライオンと友だちだって言うんです。いつもおかしなことを言う子なんで、またかと思ってそのときは気にもとめてなかったんです。強い薬のせいで、幻覚でも見るんだろうと思っていたんです。でもそのライオンのことになると、いつになく真剣でした。自分の手に乗るくらいの大きさで、全身真っ白で、たてがみもキバもツメもちゃんとはえているんだと、こと細かにわたしに説明するんです。そのライオンは息子のいる病室にしょっちゅう遊びにくるらしいんですが、わたしが病室にいるときにはあらわれないと言うんです。都合のいい話しですよね。だからとても信じられない気持ちだったんですけど、でもそのライオンのことを話しているときはあの子も気分がいいようで、幻覚でもなんでも、そういうなぐさめがあるんだったらありがたいと思って、話しをあわせていたんです。

 そしたら急にあの子、どうもそのライオンにはもうひとり友だちがいるらしいって、言うんです」

ご婦人はそう言うと、バッグの中から一枚の画用紙を取り出して、青年に見せた。そこにはクレヨンでひとりの人物が描かれていた。

「あの子が描いた似顔絵なんです。自分よりずっと年上のお兄ちゃんだって言うんです。このお兄ちゃんがどうしてライオンの友だちだってわかるの、って聞くと、ライオンが教えてくれた、って言うんです。そのライオンは人間の言葉が話せるの、って聞くと、そうじゃないけど、わかるんだ、って言うんです。お前はそのお兄ちゃんとどこかで会ったことがあるの、って聞くと、自分は会ったことないけど、ママは何度も会っているはずだ、って言うんです。そのお兄ちゃんは、いつも病院の近くにいて、わたしと何度も顔をあわせているはずだって。それで、今すぐそのお兄ちゃんをさがして、連れてきてくれって、そう言うんです。ふだんは、つらい退屈な入院生活をしてても、わがままひとつ言わない子なんですけど、このことにかんしてはいつになく真剣で、どうしてもそのお兄ちゃんに会いたいって、わたしに懇願するんです。最初はゲームかなにかのつもりなんだろうと思って、とてもまともに聞いていられなかったんですけど、こんな似顔絵まで描いて見せるものですから、この子の唯一の願いなら、ゲームでもなんでもつきあってあげたいと思ったんです。それで、どうやってそのお兄ちゃんをさがしたらいいの、って聞くと、ライオンのことを聞いてみれば、すぐに本人かどうかわかるはずだって、いつもわたしが出かけるような場所で顔をあわせているはずだから、それらしい人を見かけたら、声をかけてみてくれって、そう言うんです。

 それでわたし、いつもこの絵を持ち歩いて、あなたぐらいの人を見かけると、気をつけて見るようにしていたんです。わたしがふだん出かける先といっても、毎日病院と家の往復で、あとは買い物に出るくらいですから、この近所でいつも顔をあわせているとしたら、どこかのお店の人かと思って、八百屋さんとかお肉屋さんとか行ったときに、あなたぐらいの歳の人を見かけると、似顔絵と見くらべながら注意して観察していたんです。でもとてもライオンのことを聞いてみる勇気は出なかったんですけど、病院に行くたびに見つかったか、見つかったかって、あの子に聞かれるもんで、二度三度見かける人に思いきって聞いてみたんです、白い小さなライオンを飼っていませんかって。でも当然のことながら、みんなキョトンとしているだけで、取りあってもらえませんでした。さぞかしヘンなオバさんだって思われたでしょうね。

 そうしているうちにあなたを見かけて、なんとなくこの絵に似ていなくもないかなって思って、それで思いきって声をおかけしたんです」

ご婦人にそう言われて、青年はあらためて目の前の似顔絵を見てみた。六歳の子の絵とはとても思えないほどよく描けていた。でもやはり子どもの絵にはちがいないので、それほどきわ立った特徴が描かれているわけではなかった。ただ、かみの毛の短いところとメガネをかけているところは、自分に似ていなくもないなと青年は思った。

「さぞかしビックリなさったでしょうね。でも、あの子の言っていたことが本当だったなんて、わたしも正直おどろきました。それで、どうでしょう。たいへんぶしつけなお願いだということはわかっているのですが、もうあまり長くない子どもの最後のたのみだと思って、一度あの子に会ってやっていただけませんでしょうか」

ご婦人にそう言われて、青年には申し出をことわる理由は見あたらなかった。

「いいですよ。ボクもあのライオンのことを知っている子がいると聞いたら、会ってみたい気がします。ましてや、ボクのことも知っているとなれば、なおさら会ってみたい気がしますからね」

ご婦人は青年のその言葉を聞いて、ほっとしたようにため息をついて、ほほえんだ。青年もご婦人にほほえみをかえした。

             *           *

 青年は、ご婦人からの申し出を気軽に聞き入れたものの、ちょっと複雑な気持ちだった。まず第一に、なぜあの白い小さなライオンは青年がまだ小さな少年だったころ、あんなかたちで自分のもとを離れ、今なぜべつの少年のところへあらわれたのか。自分のもとを離れてから、病気の少年のところにあらわれるまでには、何年も時間があいていたはずだが、その間いったいどこでどう生きていたのか。そして現在のライオンの飼い主だという少年は、もとの飼い主である自分のことをライオンから教えてもらったと母親に言っているらしいが、いったいどうやって知ったのだろうか。しかも自分が病院のそばで働いていることも知っていた。そして似顔絵まで描くくらいだから、だいたいの顔かたちまで知っていたことになる。

 それよりなにより、そもそもなぜライオンは最初の飼い主として自分を選んだのか(いや、自分が最初じゃないのかもしれないが)、そしてなぜ自分をつき飛ばすようなやりかたで姿を消したのか、それらのことをすべて病気の少年は知っているのだろうか。重度の白血病だというが、そんな少年に自分はどのように接したらいいのか、青年にはまるでわからなかった。謎は謎のまま、疑問は疑問のまま、あいかわらず青年のむねに引っかかっていた。

 その翌日、青年はちょっと大事な用があるからと、店のご主人にことわってアルバイトを休み、少年が入院しているという中央病院をたずねることにした。途中の八百屋さんでおみまい用に果物を買った。病院は青年の家からもさほど遠くないところにある。ふだんは自転車で買い物にいくときなどに横を通るくらいで、中に入ったことはなかった。青年は病院というところが好きではなかった。たいていが白いコンクリートのいかつい建物で、いつもはなをつくような消毒薬のにおいがしている。当たり前の話しだが、そこには病人ばかりがおおぜい集まっている。治って出ていく人もいれば、そこで死んでいく人もいるだろう。そう考えると、白いコンクリートの建物がなんとなく巨大な墓石のように感じられる。そこに入院している六歳の白血病の少年とは、いったいどんな子なんだろう。その子の前で自分はどのようにふるまえばいいのだろう。青年は、そんなことを考えながら病院の門をくぐった。

 少年は建物の二階にある小児病棟に入院しているという。青年は少年の母親に教えてもらった病室番号のメモをかた手に少年の病室をさがした。途中、ナースルームがあったので、看護婦さんに場所をたずねると、ひとりの看護婦さんが病室の前まで青年を案内してくれた。看護婦さんというのは、いつもテキパキと事務的で、そしていつも親切でやさしい。看護婦さんに言われて、青年はアルコールのスプレーで手とくつのうらを消毒し、病室のドアをノックした。

「どうぞ」

と中から返事があった。きのうのご婦人、つまり少年の母親の声だった。青年はドアをあけ、

「おじゃまします」

と言って中へ入った。少年の母親がニッコリほほえんで

「いらっしゃい。よくきてくれました。ヒカルちゃん、ほら、お兄ちゃん、きてくれたわよ」

と言って、少年に声をかけた。青年は少年の方に向き「こんにちは」とあいさつした。少年も「こんにちは」とあいさつをかえした。少年はパジャマ姿でベッドの上にこしかけ、トランプをしているところだった。六歳の子にしてはとてもからだが小さく、やせていた。ほおはカミソリでそぎ落としたようにこけ、パジャマのズボンからのぞいているひざがやけに大きく見えるほど足も細かった。しかし顔かたちは端正で上品な感じだった。あたまにはほとんどかみの毛がなかった。トウモロコシの穂先のような黄色いちぢれた毛がほんの少し残っているだけだった。でも、その黒々としたつぶらなひとみは、みがかれた黒曜石のようにキラキラとかがやいていた。

「ヒカルくんっていうんだね」

「うん。お兄ちゃんは?」

「アキラっていうんだ、よろしくね」

青年は少年にそう言うと、少年の母親のほうに向きなおり、持っていた包みをさし出した。

「あの、これ、どうぞ」

「まあ、なんですか?」

「そこの八百屋さんで、くだもの買ってきたんです」

「まあ、どうもすみません。ほら、ヒカルちゃん。お兄ちゃんがくだもの買ってきてくれたんだって。ちゃんとお礼を言いなさい」

「どうもありがとう」

少年はちょっと照れくさそうに青年にお礼を言った。

「どういたしまして」

青年も照れくさそうにこたえた。

「さあ、どうぞこちらにおかけください」

少年の母親がそう言って青年にイスをすすめた。

「どうもすみません」

青年はすすめられるままに、イスにこしかけた。少年は黙って青年を見つめていた。青年も次の言葉が見つからず、黙って少年を見つめかえした。

「あの、きょうはゆっくりしていかれるんでしょ」

「ええ、アルバイト休んできましたから」

「まあ、そんなことまでしていただいて、すみません」

「いえ、いいんです」

「それじゃあ、わたし、ちょっと買い物をしてきてかまいませんか」

「ええ、どうぞ」

「ヒカルちゃん、だいじょうぶよね。お兄ちゃんがいてくれるから」

「うん、だいじょうぶだよ」

「じゃあ、ママ、ちょっと行ってくるからね。なにかあったら看護婦さんをよぶのよ」

「うん」

「それじゃ、すみません、ちょっと行ってきます」

少年の母親は、青年のほうに向きなおって言った。

「はい、わかりました」

青年がそう言うと、少年の母親はハンドバッグを持って病室を出て行った。どうやら少年の母親は気をきかせて、青年と少年を二人きりにしてくれたようだ。青年は、少年に聞いてみたいことがたくさんあったが、いざ少年と二人きりになると、話しをどう切り出したらいいのか思いつかず、なんとなく病室を見わたした。それほど居心地の悪そうな部屋には見えない。入院生活が長くなればなるほど、日用品がふえて雑然とした感じになるところだろうが、この部屋は小ざっぱりと整頓されている。ベッドの横には病院によくある小さなワゴン式のテーブルがあって、お茶の道具やティッシュペーパーや絵本がかたづけられている。ベッドのうらには籐製のカゴがあり、ぬいぐるみやロボットや自動車や飛行機などのおもちゃが顔をのぞかせている。壁は殺風景な白だが、画用紙にクレヨンで描かれた絵が何枚かはってある。おそらく少年が描いたのだろう。青年はその中の一枚に、あのなつかしい白い小さなライオンが描かれているのを発見した。ちょうどいい話題を見つけたと思い、青年は「ああ、これ、あのライオンだね」と少年に話しかけた。少年は「うん」とだけこたえた。その先がつづかず、その話題はそこでとぎれてしまった。青年はしかたなくまた部屋を見わたした。

 するとそのとき、かすかだがハッキリとした物音が連続して聞こえてきた。それはなにか地の底から、あるいは空のかなたからひびいてくるような音だった。人間の声のようにも聞こえるし、楽器の音のようにも聞こえる。それと同時に、なにかあまずっぱいような香ばしいようなにおいもどこからかただよってきた。どちらもなにかなつかしい感覚を青年によびさました。青年はなんだろうと思い、少年に聞いてみようと、ベッドのほうにふりかえった。するとどうだろう。ベッドの上にすわっている少年のわきに、あの白い小さなライオンがいるではないか。青年はからだの敏感な部分をつかれたように一瞬ビクッとし、思わずアッと声をもらしそうになった。でもショックはすぐにおさまった。ライオンは当たり前のようにそこにいた。青年がその白い小さなライオンを見るのは何年ぶりだったろう。青年の脳裏になつかしい思い出が次々によぎり、今目の前にしている少年と同じくらいの年齢に自分がもどってしまったように感じた。

 少年はなにも言わなかったが、今にも「ほらね」と言わんばかりに、いたずらっぽい目で自慢げにニヤニヤしながら青年を見ていた。青年も言葉をうしなっていた。いや、言葉は不要だと感じていた。少年に聞いてみたいと思っていたさまざまな疑問も、なにかどうでもいいことのようにいっぺんにあたまからふき飛んでしまったような気がした。

 ライオンは少年のわきで、自分の前足にあたまをのせ、スヤスヤと気持ちよさそうに昼寝をしているようだった。青年との久しぶりの再会にもたいして興味がないというような、ゆう然とした寝姿だった。それを見ていたら、青年の方も興奮がじょじょにさめ、落ちついた気分になってきた。少年もベッドのせもたれにまくらを立てて、それによりかかってくつろいでいる。青年は、そうしたリラックスした雰囲気の中で、自然に自分の中から言葉が出てきて、自分が少年だったころのライオンとのふれあいについて、ライオンの新しい飼い主であり、自分とライオンを再び引き合わせた張本人である少年に、語り聞かせている自分に気づいた。青年は、この白い小さなライオンが、どこからともなくいつのまにか自分のもとにあらわれたこと、その不思議な体験をどうしていいかわからず、だれにもナイショにしていたこと、そして野球をしている最中に体当たりを受け、それきりライオンが姿を消してしまったことを少年に話した。

 少年は黙ってうなずきながら、しんぼう強く青年の話しに耳をかたむけていた。青年はひととおり話しおわると、少年の様子を見て、今こそ、さんざん疑問に思ってきたことを少年にたずねるチャンスだと思い、次々に質問を投げかけた。

「ライオンはキミのところにも突然あらわれたの?」

「うーん。どうかな。生まれたときからずっといっしょだったような気もするけど」

「ライオンはあいかわらずなにも食べないの?」

「うん。なにも食べないし、ほえもしないし、かみつきもしないよ」

「そしてやっぱりほかの人には見えないんだね」

「うん。そうみたい。見えるのはぼくとお兄ちゃんだけじゃないかな」

「どうして野球をしていたボクに体当たりしたんだと思う?」

「さあね」

「キミにもそんならんぼうなことをしたことがある?」

「ないよ。お兄ちゃんにも、そんならんぼうをするつもりじゃなかったんじゃないかな。お兄ちゃんを助けたのかもしれないよ」

「ボクを助けた?」

「うん。わからないけど。もしライオンが体当たりしていなかったら、お兄ちゃんはボールをとりそこなって大ケガをしていたのかもしれないよ。それを防いでくれたのかもしれないよ」

「そうか、そういう可能性もあるね」

少年にそう言われて、たしかにそうかもしれないと青年は思った。今まで考えもしなかったことだが、言われてみれば、そういう考えかたもできる。おもしろい発想をする子だなと青年は思った。

「だとすると、ライオンはどうしてそれいらい姿を消してしまったんだろう」

「さあ、それはわからない。お兄ちゃんにわかってもらえないで、さみしかったのかもしれないし、ほかに助けなければならない人がいたのかもしれないよ」

「そうか、そうだね。そういえば、ボクはライオンに名前をつけてあげられなかったんだけど、キミはなにか名前をつけているの?」

「名前なんてつけてないよ。ぼくたちは声を出さなくても話しができるから、名前なんていらないんだよ。名前なんかつけたらライオンがライオンでなくなっちゃうからね」

青年はギクッとした。自分がなぜライオンに名前をつけなかったのか、そのかくされた本当のわけをズバリと言い当てられたように感じた。青年は子どものころから自分の名前がどうしても好きになれなかった。もっとべつの名前だったらよかったのにと思うことがあった。せっかく両親からもらった名前なのだから、大切にしなければバチが当たると思いながらも、どうしてもなじむことができなかった。名前でよばれるとなんだか自分が自分でなくなってしまうようで、なにか他人がよばれているように感じることがあった。名前でよばれるのも、自分で自分の名前を書くのもなにか違和感を感じていた。だからライオンにも無意識的に名前をつけなかったのかもしれない。それを少年に見すかされたように思った。青年はそのことは少年に打ちあけずに、質問をつづけた。

「声を出さないで話しができるって、どういうこと?」

「なんとなく見ていれば、わかるんだ。お兄ちゃんにはわからないの?」

「うーん。どうかな。むずかしいね。ボクのこともそうやってライオンから聞いたの?」

「うん。そうだよ」

「ふーん。それにしてもボクがこの病院の近くにいるってよくわかったね」

「ずっとお兄ちゃんのこと見ていたからね」

「見ていた?」

「うん」

「どこから?」

「もうひとつの世界からだよ」

「もうひとつの世界?」

「うん、そうだよ。ぼくは今は病院のベッドの上にいるけど、この世界だけじゃなくて、もうひとつの世界があるんだよ。その世界に行くと、いろんなものが見えるんだ」

「へー。その世界にはどうやって行くの?」

「眠ってる間に行けるよ」

「ふーん。そこにボクもいたの?」

「うん。そこでお兄ちゃんはしょっちゅうライオンと遊んでいたよ」

「へー、そうか。それでボクの似顔絵も描けたんだね」

「うん。そうだよ」

青年には、少年のいう「もうひとつの世界」というのがさっぱりわからなかった。やはり少年は幻覚を見るのだろうか。そうだとすると、白い小さなライオンも、少年の見ている幻覚ということになるが、自分にも見えるのだから、そうとも言えない。それに、ライオンを飼っていた自分を少年が見ていたとすれば、それは幻覚ではなく現実だ。それとも自分も少年といっしょに幻覚を見ているのだろうか。

 青年がそんなことを考えていると、ドアをあけて少年の母親がもどってきた。そこで会話は打ち切りとなった。少年に疑問をぶつけてはみたものの、少年の話しは雲をつかむようなもので、さっぱり要領をえなかった。疑問は疑問のまま残り、謎は深まる一方だった。青年がふたたびベッドの上を見ると、もうそこには白い小さなライオンの姿はなかった。「あまり長居をするとご迷惑でしょうから」と言って青年は席を立った。少年の母親は青年を引きとめようとしたが、青年はまたあした同じ時間にくると約束して、母親を納得させた。少年と母親にわかれを告げ、青年は病室を出た。少年はなにも言わず、ただ満足そうにニコニコしながら青年を見おくっていた。

             *           *

 次の日、青年はアルバイト先のご主人に長期休暇を申し出た。親戚の子どもが近くの病院に入院していて、自分に遊び相手になってほしがっているからとウソをついた。でも半分は本当だった。青年は、なぜか毎日少年に会わなければならないと思った。もし少年が残り少ない命だとしたら、少しでも長く少年といっしょにいてやらなければならないと感じていた。それはたんなる人助けではないという予感もあった。店のご主人は青年の申し出をこころよく受け入れてくれた。

 青年がきのうと同じ時間に少年の病室をおとずれると、少年はなぜかきのうと打ってかわって落ちつかない緊張した表情をしていた。母親の話しによると、きょうは定期検査の日で、採血があるという。少年は採血がきらいで、いつも手をやかせるという。もう何度も経験していることなのだから、いいかげんになれてくれてもいいはずなのに、と少年の母親は青年にぼやいてみせた。

 やがて看護婦さんが病室にあらわれ、検査の時間がきたので、採血室まできてくれるよう告げた。母親はベッドの上のものをかたづけ、少年に身づくろいさせた。少年は緊張の表情をますます色濃くし、かきくどくような目で青年を見た。見かねた青年は、自分が少年をだいて行こうかと母親に申し出た。母親は少しためらいながらも、少年がそのほうがよいのであれば、お願いしたいと言った。青年が両手をさし出して少年をむかえようとすると、少年もためらうことなく青年に身をあずけた。少年は、ユーカリの木にだきつくコアラのように、両うでをしっかりと青年の首に回し、両足を青年のどうにまきつけた。青年は、かたほうの手で少年のおしりをささえ、もうかたほうの手で少年のせなかをしっかりとささえた。少年は思ったより軽かった。こんな小さな子どもから、いったいどれだけの血をとるのだろう。まさか体重がへるほどではないだろうが、なんとなく青年は、血をとられてますます軽くなってしまった少年の姿を想像して、むねが熱くなった。

 母親にみちびかれて採血室に入ると、看護婦さんが二人待ちかまえていた。看護婦さんが青年のうでから少年を受け取ろうとすると、少年はますます強く青年にしがみつき、はなれるのをいやがった。母親と看護婦さんがなんとかなだめて引きはなそうとすると、少年は強く抵抗し、とうとう声を上げて泣き始めた。こまりはてている看護婦さんを見て、青年は思いきった提案をこころみた。自分が少年をだいたまま採血できないだろうか。そうすれば少年も少しはかんねんしておとなしくしているのではないか、と言ってみたのである。しかし看護婦さんは、規則でそれはできないと言った。採血の最中は部屋の外に出ていてほしい。母親にもそうしてもらっている。少年があばれて、針を刺しそこなったりすると、たいへんなことになるので、自分たちにまかせてほしい。少年にとってもそのほうがはやくすんで楽なはずだという。

 青年は、もうそれ以上説得するのはムリだと思い、しかたなく部屋を出た。少年の母親は、とっくにあきらめているように、先に部屋を出ていた。少年が抵抗して泣きさけぶ声が部屋の外にも聞こえてくる。看護婦さんは、抵抗する少年を言葉でなだめながらも、力でおさえつけている様子がよくわかった。青年はなぜか、とてつもない犯罪がおこなわれている現場に立ちあいながらも、どうすることもできずに見て見ぬふりをしているような罪悪感にさいなまれていた。大人だって、もし自分の二倍も三倍もあるような巨人に二人がかりでおさえつけられ、だいじょうぶだ、だいじょうぶだとなだめすかされながら、からだに針を突き刺されたらどうだろう、恐怖を感じないはずはないではないか。そのとき自分の信頼できる味方の巨人がそばにひとりでもいてくれて、自分を守ってくれているなら、恐怖心はずいぶんやわらぐにちがいない。そんな単純なことが病院にはなぜ通じないのだろう。

 もちろん看護婦さんには、これっぽっちも悪意はなく、ただ職務に忠実であり、いっしょうけんめい少年の治療に貢献しようとしているのだということは青年にも理解できた。しかし、このなんともしれない罪悪感は打ち消しようがなかった。少年の母親も、部屋の中の少年とともに苦痛にひっしにたえているような、打ちしずんだ表情をしていた。

 やがて少年の抵抗もおさまったようで、部屋の中からは物音がしなくなった。そしてまもなく看護婦さんにだかれて少年が出てきた。まだ少し目になみだをため、しゃくり上げている。青年はいそいで少年を受け取り、しっかりとだきとめた。少年が小きざみにかたをふるわせる振動が青年のむねに伝わってきた。青年は、心ならずも自分が片棒をかつがされたこの犯罪行為をどうやってうめあわせし、うしないかけているかもしれない信頼をどうやってとりもどしたらいいか思案しながら、母親にともなわれてふたたび病室にもどった。青年が少年をベッドに寝かせ、ふとんをかけてやると、少年は少し落ちつきを取りもどしたようだった。やがて、受けたショックとダメージを自分でやわらげようとするかのように、少年は自分の殻にとじこもり、うつらうつらし始めたようだった。青年は少年の母親と顔を見あわせ、二人ともホッとため息をついた。

「どうもすみませんでした」

「いえ、こちらこそ、なにかよけいなことをしてしまったようで」

「いえ、そんなことありません。検査のときはいつもひと苦労なんで、助かりました。わたしはもう初めからあきらめていまして。とてもあんなふうには言えなくて」

「すみません。かえってご迷惑をおかけしてしまったようですね」

「いえ、いえ、そんなことはありません。あなたの誠意は、この子にも通じていると思います。本当になにからなにまですっかりお世話になっちゃって」

「とんでもない。ボクもヒカルくんといると楽しいですから」

「そうですか・・・」

少し沈黙が流れた。

「あの、この子も落ちついたようなので、またちょっと用たしに行ってきていいでしょうか」

「ええ、どうぞどうぞ。ボクがついていますから」

「すみません、助かります。それじゃあ、ちょっと行ってきますので、お願いします」

「はい、わかりました」

少年の母親は、ハンドバッグを持って病室を出て行った。

 青年は、自分にせなかを向けてウトウトしている少年をながめながら考えた。この子はまだ六歳だというのに、残りわずかな命で、しかも自分にはかつて経験したこともないような試練にひっしでたえている。自分になにかしてやれることがあるなら、なんでもしてやりたい。でも、母親をさしおいて、どこまで少年にかかわっていいのか、青年ははかりかねていた。

 しばらくすると、少年がゆっくりこちらに向きなおり、「お兄ちゃん、ママは?」と言った。

「なんだ、起きてたのか。ママはちょっとおつかいに行ったよ」

「そう・・・。たぶん、お兄ちゃんのお店になにかおもちゃを買いに行ったんだよ」

「へー、そうなの?」

「うん。注射の日はいつもそうなんだ。注射がおわったあと、いつもなにかおもちゃを買ってきてくれるんだ。ぼくはおもちゃなんかほしくないんだけどね」

「そうなの?どうして?」

「ぼくは、ほしいものはもうみんな持ってるもん」

「そうか、ほしいものはみんな持ってるか」

「うん」

少年は少しの間、黙って天井を見つめていた。

「お兄ちゃん」

「なに?」

「ぼくはね、注射がイヤなんじゃないんだ。注射のときにママにいてほしいだけなんだ。でもママはいつも出て行ってしまうんだ」

「そうか。ママもつらいんだと思うよ」

「うん、わかってるよ。みんなつらいんだと思うよ、ママも看護婦さんもね。みんなだれかに命令を受けているだけなんだ」

「命令?」

「うん。ママは看護婦さんから命令を受けているし、看護婦さんはお医者さんから命令を受けているし、お医者さんは院長先生から命令を受けているんだ」

「そうか。じゃあ、院長先生はだれから命令を受けているの?」

「さあね。この世でいちばんえらい人かな」

「この世でいちばんえらい人ってだれ?」

「さあ、わからないよ」

「神さまかな?」

「ううん。そうじゃないと思うよ」

「どうして?」

「だってね、神さまは命令したりしないもん。神さまは待っているだけなんだ。それでぼくたちが行くと、道を教えてくれるんだ」

「道って、どこへいく道?」

「天国へいく道だよ」

少年はそう言うと、またふとんにもぐりこんだ。青年がふと気づくと、少年の向こう側に、あの白い小さなライオンが少年によりそうようにして寝ているのが見えた。

             *           *

 青年は次の日も同じ時刻に少年の病室のドアをノックした。しかしその日は中から返事がなかった。青年がドアをあけて中をのぞいてみると、病室にはだれもいなかった。青年はナースルームに行って看護婦さんに聞いてみた。少年は母親といっしょに遊戯室で遊んでいるとのことだった。場所を聞いて青年が遊戯室に行ってみると、少年は母親に絵本を読んでもらっているところだった。遊戯室はがらんとした広い部屋で、ゆかにじゅうたんがしかれ、すべり台、三輪車、ブロックなどの遊具が散在し、壁ぎわの本棚には絵本や童話などがならべられている。少年のほかにも何人かパジャマ姿の子どもたちが母親とともに思い思いに遊んでいた。じゅうたんにこしをおろし、よりそって絵本に見入っている少年と母親の姿を、青年は気づかれないように入り口のところでしばらくながめていた。

 するとそのとき、青年に後ろから声がかけられた。青年がふり向くと、白衣姿の男性が立っていた。その人は、少年の担当医だと名乗った。その先生は、四〇歳前後で、あごひげをはやし、少しおなかが出ていた。青年は、小児科の先生というと、もう少し年配の人を想像していたが、いがいに若いのでちょっとビックリした。でもおだやかそうで、ものわかりのよさそうな人だった。青年があいさつすると、先生もあいさつをかえし、

「失礼ですけど、ヒカルくんのご親戚のかたかなにかですか」

と青年に聞いた。

「いえ、友だちですけど」

と青年がこたえると、先生は

「そうですか」

と少しいがいそうに言った。

「きのう、採血のときに、ヒカルくんにつきそっていたいとおっしゃったそうですね」

「ええ」

「お気持ちはわかりますが、かえってお子さんが興奮してしまうこともありますから。それに、お子さんのためだけじゃないんです。身内のかたがそばにおられると、看護婦が緊張して採血がうまくいかないで、何度もやりなおさなければいけない場合もありますので。そうするとかえってお子さんにつらい思いをさせてしまうことになりますから」

「ええ、ただボクは、安心できる人間がそばについていれば、ヒカルくんがおとなしくしているかと・・・」

「ええ、わかります。私にもヒカルくんと同じくらいの子どもがいますから、自分の子どもがヒカルくんの立場だったら、あなたと同じことをしたかもしれません。だからお気持ちはよくわかりますよ」

(だったら、なぜ・・・)と青年は思ったが、口には出さなかった。先生の言いかたはていねいでやさしかったが、どうやら、きのうのことを看護婦さんがさっそく先生に報告し、先生が自分をよび止めて、よけいなことをしないようひとことクギをさしたということらしい。だとしたら、これ以上自分が口をはさんでも、かえって少年と母親に気まずい思いをさせるだけだろうと青年は思い、口をつつしんだ。先生は青年のかたをポンとひとつたたいて去って行った。

 青年はなぜかいいしれぬいかりをおぼえた。少年の言うとおり、看護婦さんも先生も、そしておそらく院長先生も、みんなだれかに命令を受けているのだ。しかしそれはだれから発せられたのか特定できない命令だろう。おそらくは「規則」という名のボスからの命令なのだ。しかもそれは患者の都合で作られた規則ではなく、病院の都合で作られた規則なのだ。つまり、だれもが自分のために作られたのではない規則にしばられているのだ。だから、今自分が感じたいかりは、向けるべき相手のいないいかりであることも青年にはよくわかっていた。それだけになおさらむなしさだけがあとに残った。

 今度は遊戯室のおくから少年の母親が青年に声をかけてきた。少年も「お兄ちゃん」と青年によびかけた。青年が二人にあいさつすると、少年の母親は立ち上がって青年に近づき、

「今、先生とお話ししていました?」

と聞いた。

「ええ」

「なんのお話しだったんですか?」

「いえ、べつにたいした話しでは・・・。親戚の人かと聞かれたもんで、ヒカルくんの友だちだとこたえておきました」

青年は、それ以上のことは母親に言わないほうがいいだろうと思って黙っていた。

「そうですか」

少年の母親はそう言うと、読んでいた絵本を青年にわたした。その絵本の表紙には「ドン・キホーテの冒険」と書かれていた。少年の母親は絵本のつづきを青年にたのんで、また買い物に出かけた。青年が、じゅうたんの上にすわっている少年の横にこしをおろし、どこまで読みおわったのか聞こうとすると、少年は「絵本はもういいよ」と言った。

「お兄ちゃん、さっき先生とお話ししてたね」

「なんだ、キミも見てたのか」

「なんのお話しだったの?」

少年の母親にはあえて本当のことを言わなかったが、この子にはウソはつけないと青年は思った。いや、ついてはいけないと思った。

「きのうの注射のことでね、先生に言われたんだ、やっぱり規則だからいっしょにいちゃいけないって。キミのママやボクがそばにいると、看護婦さんがうまくお注射できないからダメなんだって」

「そう・・・」

「ごめんね」

「ううん、いいんだよ。みんないっしょうけんめいやってくれているんだ。それはわかっているんだ。みんなぼくの病気がはやく治るように、いろいろがんばってくれているんだけど、でもぼくの病気はだれにも治せないよ」

「えっ?どうしてそんなこと言うの?」

「だって、ぼくにはわかるんだ。ぼくはもうすぐ死ぬんだよ」

青年は、一瞬言葉につまった。この子は、自分の命がもう長くないことを知っているのだ。そう思うと、なんとこたえていいのか青年にはわからなかった。

「そんなことないよ」

「ううん、みんなそう言うけど。どうしてみんなにはわからないんだろう」

「いつ死ぬかなんて、だれにもわからないんじゃないかな。それより、病気を治してはやく元気になることを考えたほうがいいんじゃないかな」

「どうしてお兄ちゃんまでそんなこと言うの?」

「どうしてって・・・。気持ちはなんとなくわかるけど、でもそんなこと言ったらキミのママがかなしむと思うよ」

「わかってるよ。ママはかなしむだろうね。ぼくが死んだらママはひとりぼっちになっちゃうからね」

「ひとりぼっち?」

「うん。ぼくはひとりっ子だし、ぼくのパパはぼくが四歳のときに死んだんだ」

「そう・・・」

「でも、ぼくが死んでも、ママにはいつでも会えるよ」

「えっ?どういうこと?」

「死んで天国に行けば、ママにはいつでも会いたいときに会えるんだ。それに天国でパパがぼくを待っているしね」

「そうか・・・。でもキミはまだ六歳だろ。はやく病気を治して、元気になって、それからいろんなことして大人になって、パパのところに行くのは、それからでも遅くないんじゃないかな」

「ぼくだってそうしたいけど、でもムリなんだ。しかたがないんだよ」

「どうして?」

「だって、もう決まっていることなんだよ。ぼくの病気はだれにも治せないくらい悪いんだ。だからもう注射もお薬もやめてほしいんだ。注射は痛いし、お薬を飲むと気持ちが悪くなるんだ。あたまも痛くなるしからだも重くなるし、かみの毛もぬけるしね」

「そうか、わかるよ」

「それに、きゅうくつなんだよ」

「きゅうくつ?」

「うん。この病院もきゅうくつだし、病室もせまくてきゅうくつだし、それにからだもきゅうくつなんだ」

「からだが?」

「うん、とっても。まるでヨロイを着ているみたいなんだ、この人みたいにね」

少年はそう言って、絵本の表紙に描かれている鉄のヨロイを着たドン・キホーテを指さした。

             *           *

 余命短い少年が、自分のからだを重いヨロイのようにきゅうくつに感じているなら、それをぬがせてやりたいと、青年は思った。青年は、退屈している恋人をデートにさそうように、ほとんど衝動的に言った。

「お兄ちゃんと散歩に行こうか」

青年は、われながら思いきったことを言ってしまったと思った。その提案は、少年のためのものでもあり、青年自身をはげまし、行きづまった状況を打開し、行動へとあと押しするためのものでもあった。すると、絵本の表紙をながめながらどんよりとしずんでいた少年のひとみがにわかにかがやいた。

「うん、いいよ」

「そうか。自分で歩けるかい?」

「うん、だいじょうぶだよ」

「そうか。よし、行こう!」

青年は絵本を本棚にしまい、少年の手を取った。少年は、生まれたてのキリンの赤ちゃんのように少しよろけながらも、そのスラリとした足で決然と立ち上がり、しっかりと自分の足で立った。

「いいか、だれにも気づかれないようにするんだぞ。だれかに見られても、トイレかなにかに行くようなフリをするんだぞ」

「うん、わかった」

少年は、ミッキーマウスがプリントされた子ども用のスリッパをはき、青年の手をギュッとにぎったまま、青年とならんで歩き始めた。こうして二人の小さな冒険が始まった。

 しかし、こんなことをしていいのかどうか、青年にはまるで自信がなかった。自分から言い出したものの、途中で少年が発作でも起こしたらどうしよう。たとえ途中でなにもなかったとしても、帰ってきてから病状が悪化するかもしれない。そうなったら、自分の責任ということになるのだろうが、自分には責任など取りようがない。しかしその反面、規則を無視して、ほんのちょっとハメをはずし、自分の心の要請にしたがって行動するときのワクワク・ウキウキする気持ちも打ち消すことはできなかった。

 青年は遊戯室の入口から廊下をのぞいてみた。廊下にはだれもいなかった。青年は少年の手を引き、廊下に出て歩き始めた。その先には、最初の難関が待ち受けていた。ナースルームの前を通らなければならないのだ。幸いナースルームのガラス窓はゆかより数十センチ高くなっている。中では数人の看護婦さんが忙しそうに仕事をしていた。青年は、ナースルームにさしかかる寸前、少年のほうを見ずに小声で言った。

「あたまを下げて」

少年はおどけたようにこしを少しまげ、前かがみになってあたまを下げ、しのび足で少し小走りになった。青年はおかしくてしかたがなかったが、笑いをひっしにこらえ、少年のほうを見ずに黙ってまっすぐ前を見て歩いた。どうやら看護婦さんには気づかれずに、二人は最初の難関を通過した。

 ナースルームのとなりにはトイレがある。トイレの入口にはドアがついていない。中で看護婦さんが洗濯や掃除をしていることもある。ふりかえってこっちを見られたらおしまいだ。青年は、少年の少し先を歩いてトイレをのぞきこんだ。案の定、看護婦さんが中で洗い物をしていた。青年は少年を自分のかげに回らせ、そのままなにくわぬ顔でトイレの前を通り過ぎた。中の看護婦さんには気づかれなかったようだ。

 そして二人は、小児病棟のはしにあるエレベーターのところまでたどり着いた。小児病棟は建物の二階なので、階段で一階までおりてもよいのだが、少年の体力が心配だったし、それに看護婦さんは階段を使うことが多いので、途中で出くわす可能性があった。そこで青年はエレベーターを使うことにした。しかし中にだれか乗っていて、ドアがあいたとたんにハチあわせということもありうる。しかしここは運を天にまかせるしかない。青年はエレベーターのボタンを押した。エレベーターは一階からのぼってくるところだった。青年はドキドキしながらドアがあくのを待った。やがてドアがあき、どんどん広がっていくドアのすきまから中をのぞくと、だれも乗っていないようだった。青年はホッと息をつき、少年の手を引いて中に乗りこみ、一階のボタンを押し、はやくドアがしまってくれるように祈った。幸いあとから乗ってくる人はだれもいなかった。ドアがしまり、エレベーターが下がり始めた。二人はたがいに顔を見あわせ、ニヤリとほほえんだ。しかし、エレベーターが一階に着いてドアがひらくと、青年の心臓は一瞬こおりついた。エレベーターに乗りこもうとする看護婦さんとハチあわせしたのだ。看護婦さんは二人に気づくと、あわてて道をあけ、二人を先に通そうとした。青年はつとめて平静をよそおい、看護婦さんに軽く会釈して、少年の手を引き、なにくわぬ顔でエレベーターをおりた。青年は、もしかしたら不審に思われたかもしれないと、ちょっと心配になったが、見おぼえのない顔だったので、たぶんほかの病棟の看護婦さんだろうと思い、とりあえずだいじょうぶだと、自分に言い聞かせた。

 さて、このまま少年を連れて病院の正面玄関から外に出るのは、あまりにも目立ちすぎる。だれかに不審に思われ、よび止められたらそれまでだ。青年は、受付や待合所のあるホールをさけ、一階のおくにある非常口から駐車場をぬけて外に出ることにした。青年は少年をだき上げ、少年のスリッパを持って非常口のドアをあけ、駐車場に出た。ここまでくればもう安心だ。青年はなんだか、刑務所を脱走して自由を手に入れた囚人のような気分だった。

 駐車場をぬけて病院のうら通りに出ると、そこにはきのうとかわらない風景があった。買い物袋を下げたご婦人、黒いカバンに制服姿の学生、荷物をつんだ小型トラック・・・。パジャマ姿の少年をだいた自分は、この風景にすんなりとけこんで見えるだろうか、それともうき上がって見えるのだろうか。青年にはわからなかった。青年は少年をだいたまま、いそいで通りを横切り、向かい側にある遊歩道に入った。そこには人通りはない。もう二人を見とがめる者もいないだろう。青年は歩みをゆるめた。そのときさわやかな一陣の風が青年のほおをなでた。青年はその風をむねいっぱいにすいこみ、ゆっくりとはき出した。少年も青年のリズムにあわせるように、大きな深呼吸をした。そうして青年は、自分の首にしっかりしがみついている少年と、しばしコンクリートの四角い壁から開放されたよろこびにひたった。

 遊歩道のつき当たりは小さな公園になっていた。人はいない。公園の真ん中にはブランコがあった。青年はそのブランコにこしをおろし、少年をひざの上に乗せた。太陽はすでに西にかたむき、ななめ横からさすゆるやかな日ざしがトウモロコシの穂先のような少年のわずかなかみの毛を黄金色にそめている。ふと見ると、少年のひざで、あの白い小さなライオンが気持ちよさそうにうたた寝をしていた。ライオンの白いたてがみも、うす黄金色にかがやき、風にふかれて波打っている。風が少しひんやりしてきた。

「寒くない?」

青年が聞いた。少年は黙って首を横にふった。それでも青年は、少年にカゼを引かせてはいけないと思い、はおっていたニットの上着のボタンをはずし、少年のひざをつつみこんだ。少年のひざで寝ていたライオンが、なにごとかというように上着のむなもとからピョコンと顔を出した。そのとき少年がポツリとつぶやいた。

「お兄ちゃん」

「なに?」

「ぼくはもうすぐ死ぬんだ」

少年のそんなつぶやきには、かなしいひびきはなく、まるでまぢかにせまった旅行の予定でも自慢するようないさぎよさがあった。青年は、急におへそのあたりからのどのあたりに熱いものがこみ上げてくるのを感じた。(なぜ?)という言葉が、青年のあたまの中で何度も何度も鐘の音のようにひびいていた。(この子はまだ六歳だというのに、なぜ死ななければならないんだ)青年の感覚を通して伝わってくる少年のからだは小さくて細いが、ピンとはりつめていて、まだこれから成長しようとしているように思える。そのからだ全体からは、新鮮な熱帯の果物のような生命力にあふれたあまいにおいが立ちのぼっている。(なぜ、こんな子が死ななければならないのか。なぜなんだ・・・)青年のあたまでひびいているその言葉は、出口をひっしにさがしていた。青年は思わず「なぜキミは死ななければならないんだ」と声に出しそうになった。それをなんとか思いとどまり、青年はかわりにこう聞いた。

「なぜキミは生まれてきたの?」

少年は突然の質問に動じる気配も見せずにこたえた。

「さあ、なぜかな。それはわからないよ。でもぼくは、死ぬ前にどうしてもやっておきたいことがあるんだ」

「なに?」

「みんな死ぬことは悪いことだと思っているみたいだけど、そんなことないよ。そう言うとみんな、そんなこと言っちゃいけないっておこるけどね。どうしておこるんだろう。みんな知らないだけなんだ。死ぬことはこわいことでも悪いことでもないよ。それをみんなに知ってもらいたいんだ。とくにママとお兄ちゃんにはね」

「そうか・・・」

「だからお兄ちゃんからママに伝えてよ」

青年はなんと返事をしていいのかこまって、しばらく黙っていた。その沈黙をたち切るように少年が言った。

「お兄ちゃん、ブランコこいで」

青年は地面を軽くけってブランコをゆらした。

「もっと強く」と少年が言った。青年は足に少し力を入れてブランコをこいだ。

「ダメダメ、もっと強く!」

と少年がさけんだ。青年は

「よーし、しっかりつかまってろよ」

と言って足をいっぱいにつっぱり、ブランコをぎりぎりまでうしろにそらせた。少年は両手でしっかりブランコのくさりをにぎった。青年は「それ!」といきおいをつけ、つま先で地面をけった。ブランコは大きな弧を描いて前に飛び出した。青年はさらに足ではずみをつけ、ブランコの描く軌道を大きくしていった。少年はのどの中で水晶をころがすような声を上げてよろこんでいる。ライオンはふり落とされまいと子ネコのようにひっしに少年のパジャマのむねにツメを立ててしがみついている。青年がまだここにいる少年と同じくらいの歳のとき、手のひらにツメをくいこませてしっかりと立っていたライオンの姿が青年のむねによみがえった。

 青年はさらに大きくこいだ。くさりがいきおいについていけずにたわんだ。目の前の風景がはげしく上下にゆれている。ブランコは前後にゆれるふり子のようなものだ。そのふり子が目いっぱい前にふり切ったときには、からだが宙にうき上がりそうになる。自分がもしこのとき手をはなしたら、少年とライオンをコバンザメのようにしがみつかせたままフワリと宙にうき、そのまま地平線のかなたへ飛んで行けるのではないか。少年の求めるままにブランコをこぎつづけながら、青年はそんな空想にひたっていた。

             *           *

 青年が少年の手を引き、その一時間にも満たないささやかな冒険からふたたび病室にもどってくると、病室で少年の母親が待っていた。

「ヒカルちゃん、どこに行ってたの?」

「すみません。ちょっと散歩に行ってたんです」

少年のかわりに青年がこたえた。

「えっ、散歩に?病院の外に出たんですか?」

「ママ、ごめんなさい。ぼくがお兄ちゃんにムリにたのんだんだよ」

青年のかわりに少年が言いわけした。

「いえ、ボクがヒカルくんをさそって連れ出したんです」

「まあ、どこまで行ったんですか?」

「そこの公園まで」

「まあ・・・。エレベーターで見かけたと聞いたんで、てっきり病院の中にいるもんだとばかり思ってたら・・・」

少年の母親は、どちらにともなく、子どものいたずらをたしなめるように言った。どうやらあのときエレベーターですれちがった看護婦さんからさっそく報告が入っていたらしい。看護婦さんは親切で注意深く、そしていつでも職務に忠実なのだ。

「この子は、病院の外に出ちゃいけないって言われてるんですよ。カゼでも引いたらたいへんですから」

「すみません。ヒカルくんが退屈していたもので。ほんとうにかってなことをして、すみませんでした」

「まあ、とにかくぶじでよかったわ。さあ、ヒカルちゃん、手を洗ってうがいして。もうすぐ夕食よ」

「はい、ママ」

少年はすっかり聞きわけのいい子どもになっていた。本当にほしいものを手に入れたあと、ふだんはやりしぶることを妙に機嫌よく率先してやってしまう、あの子ども特有の素直さである。一方の母親は、外面こそ取りみだしてはいなかったが、内面の感情をひっしにおさえ、ものわかりのよい母親をつとめて演じようとしているように見えた。しかしその演技の間から不安やいら立ちがチラチラと顔をのぞかせていた。満足感をかくそうともしない少年と、不満をかくし切れない母親。ほんらいなら同じ目的に向かって同じ感情をわかちあってしかるべき親子が、なぜこうも反対の感情に引きさかれなければならないのか。間にはさまれた青年は、わり切れない気持ちをもてあましていた。

 しかし、青年は少年とともに経験した小さな冒険を後悔してはいなかった。冒険にはいつも危険と非難がつきものだ。そしてやったことに対する評価はいつもあとから遅れてやってくる。青年にはすでにすべてを受け入れる準備ができているように感じられた。母親のほうにその準備ができているかどうかはわからなかった。しかし、残された時間はごくわずかのように思われた。自分がなぜ今ここでこうしているのか、その意味をあきらかにするときがきたのだ。この機会をのがしたら、おそらく二度とチャンスはおとずれないだろう。青年はそんな声にせなかを押されている自分を感じた。

 青年は、少し話しができないかと、思いきって少年の母親をさそった。少年の母親がアルバイト先で青年に初めて声をかけたとき、おそらく今の自分と同じ決心をしたのにちがいないと感じながら。少年の母親は、青年のさそいを受け入れた。青年が店先でさそいに応じたとき、おそらくは同じ表情を母親に向けていたにちがいないと思われるような不安と期待の入りまじった表情を青年に向けながら。

 少年の母親が、お兄ちゃんとちょっと話しをしてきていいかと聞くと、少年は、だいじょうぶだ、夕食までおとなしくしているからと、すなおに応じた。青年と母親は病室を出て、休憩室のソファにこしかけた。

「かってなことをして、本当にすみませんでした」

「いえ、もういいんです。気にしないでください。あの子もだいじょうぶなようですし、それにあの子のあんなうれしそうな顔は久しぶりに見ました」

「そう言っていただけると、救われます」

「そりゃあ、わたしだってあの子をいつまでもこんな病院にとじこめておくのはしのびないんです。もっと自由にさせてやりたいと思っているんです」

「ええ、わかります」

「でも、あの子は今、科学療法を受けていて、からだの抵抗力が落ちているものですから、やたらに外の空気にふれさせて、カゼでも引かれたら、それこそ命取りになりかねないんです。先生にもそう言われてますし」

「ええ、よくわかります」

少し話しがとぎれた。次は青年が話す番だった。少年の母親もそれを待っているようだった。

「その科学療法なんですけど、ボクは素人で、よくわからないんですが、どうしても必要なものなんでしょうか」

「えっ?どういうことですか?」

「ヒカルくんは、治療をやめてほしがっているようです」

「えっ?あの子がそう言ったんですか?」

「ええ。副作用がつらいようです」

「あの子が、そんなことまで、あなたに・・・」

少年の母親は、自分が科学療法の副作用にくるしんでいるかのように、深くしずみこむような様子だった。

「やはり、やめるわけにはいかないんでしょうか?」

「そりゃあ、わたしだってやりたくはないですよ。でも、治療をやめたら、あの子は・・・」

少年の母親はその先をあわてて飲みこむように、言葉をとぎれさせた。

「ヒカルくんは、そのことも知っているようです」

「知っているって・・・、あの子がそう言ったんですか?」

「ええ」

「それで、あなたはそれを信じたんですか、子どもの言うことをまに受けて・・・」

「・・・」

「あなたまさか、あの子になにかふきこんだんじゃないでしょうね」

「ま、まさか、そんな・・・」

「だって、そうでしょ。あの子があなたになんて言ったか知らないけど、わたしとあの子の間をとりもつようなまねして・・・」

「いえ、べつにそういうわけでは・・・」

「でも、あなたの言うことを聞いていると、あの子は助からないと思っているように聞こえるわ」

「いえ、そうじゃないんです。決してそういうことではなく・・・、ただヒカルくんは、自分でそのことを気づいているということを言いたいんです。気づいていて、それで準備ができているという・・・」

「準備?!」

少年の母親は、青年の言葉をさえぎり、自分の耳をうたがうようにくりかえした。青年も、自分の言葉が適切だったかどうか、心の中でくりかえした。

「なんておそろしいことを・・・。あなたはやっぱりあの子がどうなってもいいと思っているのね」

「いえ、そんな、まさか」

「だって、そうでしょ。治療をやめれば、あの子は死ぬんですよ!」

少年の母親は自分の発した「死ぬ」という言葉に自分でおびえるように言葉をつまらせた。青年も先をつづけるのをためらった。すると突然、母親の表情が一変した。それまでの青年を非難するようなきびしい表情がかげをひそめ、深い疑惑の念にいろどられたまったくべつの人格が眠りから目をさましたように見えた。

「あなたはいったいだれなの?」

少年の母親は、青年をまるで死神でも見るような目で見つめた。青年はかえす言葉をうしなった。少年の母親はさらにたたみかけるようにつづけた。

「あの子をどうしようというの?ライオンだかなんだか知らないけど、そんなおとぎ話しみたいなこと言って、あの子と友だちづらして、いったいどうしようっていうの?!」

青年は、心の動揺をおぼえた。母親のこの言葉は、よくも悪くも、母親がずっと自分に対していだきつづけてきた本音なのだろうと思った。しかしここで動じてはいけないと思った。自分がなんのために、いや、だれのために、今ここでこうしているのか、ハッキリ示すべきときがきたのだ。青年はもはや、野球のときにエラーや三振をおそれてしりごみするような気弱な少年ではなかった。

 少年の母親は今、深い疑念といかりを青年にぶつけようとしている。それがにくしみにかわる前に、なんとか話しの流れをちがう方向にかえなければならないだろう。そこで青年はつとめて冷静に、前々から疑問に思っていたことを少年の母親に投げかけてみることにした。

「へえー、おどろきましたね。あなたがボクにそんなことを言うとは」

青年は、ちょっと皮肉っぽくそう言った。

「えっ、どういうこと?」

「だって、そうでしょ。あなたはボクが病院にあらわれるといつも、ヒカルくんをボクにあずけて、出て行ってしまうじゃないですか。だから、ボクを全面的に信頼してくれているのかと思ってましたよ」

「そ、それは・・・」

「それとも、ボクをさけていたんですか?」

少年の母親は、自分が青年に向かって投げかけたのと同じ力で、ボールが投げかえされたのだということに気づいたようだった。青年の言葉は、あきらかに少年の母親のふれてはいけない秘密の部分にふれたようだった。しかし、いつまでも黙っているわけにはいかない秘密もあるのだ。

 少年の母親は、ひざのうらでソファのはしをけるようにして突然立ち上がり、はきすてるように言った。

「とにかく、もうあの子を放っておいてください。お願いします!」

少年の母親は身をひるがえし、そのまま青年のもとを立ち去った。あとにひとり残された青年は、しばらくその場を動けずにいた。

             *           *

 次の日、青年は病院に行かなかった。かといって、学校に行く気にもアルバイトに行く気にもなれなかった。一日中、部屋にこもってボンヤリと窓の外をながめていた。青年のむねには、きのう少年の母親が病院の休憩室で最後に言い残した「お願いします」という言葉が一日中ひびいていた。その言葉は、青年に同意を求めるというひびきではなく、もうこれ以上のかかわりあいはごめんだという最終の申しわたしのように青年には思えた。ムリもないだろう。少年の母親は、すでに夫をなくし、そして今、たったひとりの息子までなくそうとしているのだ。やりかたは正しかったかどうかわからないが、とにかく自分は伝えるべきことは残らず伝えたのだと信じたい。それを受け入れるか受け入れないか、あとは母親の意志にまかせるしかないのだ。青年は、たぶんこれで自分がはたすべき役割はおわったのだろうと感じていた。少年にもライオンにも、もう二度と会えないのかもしれない。青年は、自分がやりとげたことの余韻にひたりながらも、問題がすでに自分の手をはなれてしまったことへのさみしさにもさいなまれていた。

 しかし、青年の出る幕はまだおわっていなかった。夜になって少年の母親から電話が入ったのである。青年は、電話の声があんまり若くていきいきしているので、最初は同級生の女の子かだれかだと思ったほどだった。考えてみれば少年の母親と電話で話すのは初めてのことだった。それにしても、いつもの打ちしずんだ声とはずいぶんちがっていた。

「ごめんなさいね、こんな夜遅くに」

「いえ、いいんです」

「きのうは、あんなこと言っちゃって、本当にごめんなさいね」

「いえ、いいんです。気にしないでください。どうしたんですか?」

「じつは、今あの子、家に帰ってきているんです」

「えっ?ヒカルくんが?」

「ええ。あれからいろいろ話しをして、治療をやめることにしたんです」

「本当ですか?」

「ええ。先生にたのんでゆるしをいただいたんです。先生もあんがいそれを望んでいたみたいで」

「そうですか」

「そしたらあの子、よろこんじゃって。急に家に帰りたいって。それも先生に相談すると、二・三日家に帰るのも気分転換になっていいだろうって」

「そうですか。よかったですね」

「これもみんなあなたのおかげかもしれませんね」

「いえ、そんなことは・・・」

「わたしもなんだか、かたの荷がおりてホッとしたようで」

「そうですか」

「それで、あの子、あなたに会いたがっているんです」

「ボクに?」

「ええ。昼間から、どうしてきょうはお兄ちゃん、こないんだって、ずうっと言いっぱなしで。お兄ちゃんは学校やアルバイトで忙しいのよって言っても、どうしてもきょう中に会わなくちゃいけないって、きかないんです。なにか伝えたいことがあるみたいで」

「そうですか。今ヒカルくん、どうしてるんですか?」

「やっと落ちついて、寝る準備をしているところです。それで、あなたに会うまでは寝ないって」

「そうですか」

「それで、こんな時間にご迷惑かとは思うんですけど、せめてあの子が眠るまで、そばについていてやってもらえないでしょうか」

「ええ、いいですとも。すぐにうかがいます」

青年は、少年の母親から住所を聞くと、それをメモして、いそいでしたくをし、取るものも取りあえず出かけた。

 少年の家はすぐにわかった。あんがい近いところだったのでビックリした。少年の母親は笑顔でこころよく青年をむかえ、少年の寝室まで案内してくれた。少年はすでにベッドに入っていた。青年を見ると、やはり笑顔でむかえてくれた。青年が声をかけると、少年は笑顔のまま黙ってうなずいた。青年と母親は少年をはさんでベッドの反対側にこしかけるかっこうになった。

「お兄ちゃん」

「なんだい?」

「お兄ちゃんにあのライオンをかえすときがきたよ」

「えっ?」

「あのライオンをお兄ちゃんにかえさなくちゃいけないんだ」

「いいんだよ。あのライオンはずっとキミのものだ」

「ダメだよ。ぼくにはもう必要ないんだ」

「どうして?」

青年がそう聞いても、少年はただニコニコしているだけで、その質問にはこたえなかった。

「ちゃんと遊んであげてよ」

「そうか、わかった。だから安心して寝なさい。今夜はずっとついていてあげるから」

青年がそう言うと、少年はすっかり安心したように目をとじた。

 少年の母親が電気を少し暗くすると、少年はすぐに深い眠りに入って行ったようだった。少年の母親がそれを見とどけるようにして、話し始めた。

「寝たようね」

「そうですね」

「どうもありがとうございます」

「いえ、いいんです」

「あの、きのうあなたに言われて、わかったんです。わたしはこの子と取り引きしてたんだって」

「取り引き?」

「ええ、そうなんです。この子に死なないでほしい、だからつらい治療にもたえなさいって。どんなにつらくても、わたしのために生きていてって。そのかわり、なんでもほしいもの買ってあげるからって・・・。子どもと取り引きするなんて、最低の親ですよね」

「いえ、そんな・・・」

「でも、もうあきらめました。この子のために、わたしが生きなくちゃいけないんですよね」

少年の母親は、ふるえる声をひっしにおさえようとしていた。でも、あふれ出るなみだは止めようがなかった。

「理由はわからないけど、あなたはこの子に選ばれたんだと思うわ」

それは青年もずっと感じていたことだった。

「わたしは、あなたに嫉妬していたんだと思います。でも今は、あなたに助けてもらいたい・・・。この子があとどのくらい生きられるのかわからないけど、どうかできるだけそばにいてやってください」

「わかりました」

少年の母親は涙をふりはらうように二・三度首をふって立ち上がった。

「ごめんなさいね」

「いえ、いいんです」

「わたし、そっちの部屋にいますから、なにかあったら声をかけてください」

少年の母親はやっとの思いでそう言うと、すすり上げながら寝室を出て行った。

 少年の満足そうな寝顔に見入っていると、青年も少し眠気をおぼえた。青年はうでまくらで少年の横にそい寝して目をとじた。すると、少年が身じろぎして、こうつぶやいた。

「ああ、ぼくが見える」

青年はビックリして少年を見た。少年はまだ寝ていた。それが少年の寝言だとわかると、それを合図に青年はもうれつな眠気におそわれた。青年はそれに抵抗せず、ふたたび目をとじた。

             *           *

 青年の耳にまたあの音が聞こえてきた。地の底か空のかなたからひびいてくるようなあの音。そしてあのにおいもただよってきた。ほのかななつかしいにおい。遠くでだれかがよんでいるような気がした。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん」

同時に、青年はだれかにポンポンとかたをたたかれているように感じた。

「お兄ちゃん、起きて」

青年が目をさますと、ベッドの横に少年が立っていた。手のひらには白い小さなライオンを乗せていた。

「どうしたの?」

青年はベッドから起き上がり、目をこすりながら言った。

「お兄ちゃん、いっしょにきて」

「どこへ?」

少年はそれにはこたえず、ただニコニコしながら青年にかた手をさし出した。青年がその手をにぎると、少年のからだはフワリと宙にういた。青年のからだもそれにつられてフワリとういた。少年と青年は手をつないだまま、ゆっくりと上昇した。青年がふと下を見ると、ベッドの上で少年にそい寝している自分の姿が見えた。でもヘンな気持ちはしなかった。むしろこんなに幸せで安らかな気分は初めてだった。青年は少年に手を引かれてさらに上昇し、寝室の天井をスーッと通りぬけた。となりの部屋で少年の母親が寝ている姿が見えた。そしてさらに上昇し、とうとう少年の家の屋根が見えるところまで上がった。青年が少年のほうを見ると、少年は中がすけて見える羽衣のような服をフワリと身にまとい、かたにはライオンをとまらせていた。その服からすけて見える少年のからだは、まるまると肉がついて、ほおには赤々と血がかよい、そして全体がまぶしいばかりに光かがやいて見えた。そしてなんと、少年のあたまには黒々としたかみの毛がフサフサはえていて、生き物のように風になびいていた。

「これからお兄ちゃんに、もうひとつの世界を見せてあげる」

少年のくちびるは動かなかったが、青年の耳には少年の声がちゃんと聞こえた。

 やがて青年の家の上空を通過し、病院を越え、商店街が見えてきた。そこには青年がアルバイトをしているおもちゃ屋さんも見えていた。少年はライオンとともにこういう飛行をくりかえして、青年の姿も見ていたにちがいない。少年はなぜ青年が病院の近くにいて、少年の母親としょっちゅう顔をあわせていることを知っていたのか、その謎がとけたような気がした。

 青年が飛びながらまわりを見わたすと、ほかにもたくさん飛んでいる人たちがいた。青年は、自分たちはひとりぼっちではないんだと思った。そこには規則もなければ制約もない。命令する人もいないし、しばりつけるものもない。くるしみもかなしみもない。だれもがみな重いヨロイをぬぎすて、完全に自由なのだと感じた。

「どこか行きたいところがある?」と少年が声に出さずに聞いた。

「そうだな、キミとブランコに乗った公園はどうだろう」青年がそうこたえるがはやいか、青年はすでに公園でブランコに乗っていた。

「行きたいところがあれば、どこでもすぐに行けるよ」

「へー、本当に?じゃあ、太平洋のド真ん中の島なんてどうだろう」

青年がそう聞いた瞬間、青年は太平洋のド真ん中の島にいる自分に気づいた。青い海、白い砂浜、サンサンとふりそそぐ太陽、空には鳥が飛び、海ではイルカがはねている。

「へえー、すごいね。じゃあ、宇宙にも行けるかな」

そう言ったとたん、青年は宇宙空間をただよっていた。宝石箱をひっくりかえしたようにかぞえ切れないほどの星々がかがやいている。地球が野球のボールぐらいの大きさに見えている。

「キミはどこか行きたいところはないの?」

青年が少年にそう聞くと、少年はなにもこたえず、黙ってその場所に青年を案内した。そこは、太くて大きな木が何本もまっすぐはえている深い森の中だった。すき通った水の小川が木の間を流れ、地面には緑の草がフカフカのじゅうたんのようにおいしげっている。どこかで見たことのある風景だなと青年は思った。そうだ、少年の病室の壁にはってあった絵の中の風景だ。ふと気がつくと、少年はライオンとともに木もれ陽に照らされながら、木々の間をゆっくりと気持ちよさそうに飛び回っていた。ほかにもたくさんの子どもたちが、少年といっしょにそこらじゅうを飛び回っている。まるで天使のようだな、と青年は思った。いつまでもここでこうして子どもたちが自由に飛び回る姿をながめていたいと思った。

 そのとき、少年が手まねきをしているのに気づいた。青年は少年の横にならび、少年の指さすほうへ向かった。森をぬけると、そこはあたりいちめんまばゆいばかりの光に満ちあふれていた。その光の中からなにかがうかび上がってきた。よく見ると、それは今の少年と同じくらいの歳のころ、白い小さなライオンと遊んでいるおさない青年自身の姿だった。次に学校の校庭で友だちと野球をしている青年の姿があらわれた。青年は、飛んでくるフライに向けてグローブをかまえ、二・三歩後ろに下がろうとしている。そこへライオンが走ってきて、青年に体当たりした。青年はもんどり打ってたおれた。その青年のたおれたあたまのちょっと先に大きな石ころがころがっているのが見えた。もし青年がそのままもう一歩後ろに下がっていたら、石にあたまをぶつけていただろう。やはりライオンは青年を助けたのだ。じゃあなぜ、あれいらいライオンは自分のもとから姿を消したのだろうと青年は思った。すると、それから起こったできごとが次々と光のスクリーンにうつし出された。教室で勉強している姿、遠足、夏のプール、修学旅行、クラブ活動、アルバイト・・・。それは青年の今までの人生そのものだった。しかし、どのシーンを見ても、青年の表情はどことなくうつろで、ボンヤリしているように見えた。自分ではすっかり忘れていたつもりだったが、いつも心のかたすみで白い小さなライオンのことを思い出していて、姿を消したライオンをさがしていたのかもしれないと青年は思った。そしてライオンがあのとき姿を消した理由がなんとなくわかったような気がした。

 光のスクリーンから映像が消え、少年の姿があらわれた。

「さあ、お兄ちゃん。ここでおわかれだよ。ぼくは神さまのところへ行くからね。パパがむかえにきてくれたんだ」

少年の横には、少年をそのまま大人にしたような立派な紳士がいた。

「お兄ちゃんはもうもどらなくちゃいけないよ。ライオンが連れて行ってくれるからね」少年はそう言うと、父親に手を引かれ、光の中へ消えて行った。

             *           *

 青年はベッドの上で目をさました。横にはかわらぬ姿で少年が寝ていた。その向こう側にライオンもいた。青年はまさかと思い、少年のむねに手を当ててみた。少年の心臓はすでに止まっていた。しかし、その表情はなんと安らかで満ちたりていることか。少年は自分の死のシナリオをみごとに描き、そのとおりに演じてみせたのだ。おそらく自分はそのシナリオの配役のひとりだったのだろうと青年は思った。そして、少年の描いたシナリオはまだおわっていない。少年の母親が言うとおり、自分は少年に選ばれたのだろう、そのみごとなシナリオをみなに伝える役として。さて、今度は自分の番だな、と青年は思った。まずは、少年の母親を起こし、少年の死を知らせるところから始めなければならないだろう。そして、もう二度とライオンを手放すまい。この白い小さなライオンが自分の友だちであるということを、もう二度とかくしたりしてはいけない。青年は心の中でそう決心した。



  
    

   
      「白い小さなライオン」