「いのち、再び」

▼最初の日▲
午前十一時二十分。アキラの目の前に、妻サト子の死体が横たわっていた。死体といっても、まだ温かい。触ればわずかではあるが反応も返ってくる。しかし、サト子にはもはや自分で呼吸をする力は残っていなかった。規則的なリズムを刻む人口呼吸器だけが、サト子の命を支えていた。「脳死」・・この不思議な響きをもつコトバが、アキラの頭の中で何の手ごたえのないまま、静かに脈打っていた。
一時間ほど前、連絡を受けて急いでアキラが病院に駆けつけ、この病室に入ってきたときも、サト子は今と同じ状態だった。病室にはすでにアキラの母親のキヌエ、そしてサト子の母親のアヤ子が駆けつけていた。アヤ子は、アキラの顔を見ると、黙ってうなずき、横たわっている娘の方に向き直ったかと思うと、たしなめるように娘に呼びかけた。
「サト子、サト子、サッちゃん。アキラさんも来たわよ。どうしたのよ、みっともない。速く起きなさい。さあ、眼を覚まして」
そばにいた看護婦が、困ったような顔をしてアキラの方をちらっと見た。
アキラもキヌエもどうしていいかわからず、ただ成り行きを見守っていた。アヤ子はサト子の方にかがみ込んでさらに続けた。
「いい加減に悪い冗談はよしなさい。つい昨日まで元気でいたじゃない。いつまで寝てるつもりなの。さあ、速く眼を覚まして。アキラさんに笑顔を見せなさい。サト子、聞いてるの」
確かにその通りだった。つい昨日まで、いや、数時間前まで、朝アキラが家を出るときには、サト子は笑顔で見送ってくれたのだ。それがなぜこんなことに・・・。アキラにとっても、それが正直な気持ちだった。
看護婦が見るに見かね、「お母さん、呼んでも聴こえませんよ」と言って、アヤ子の両腕を取り、抱き起こした。アヤ子は、アキラの方に向き直って言った。
「アキラさん。ご免なさい、こんなことになっちゃって」
「いえ、そんな」
アヤ子は、サト子の方を一瞥してさらに言った。
「まったくしょうのない子ね。こんな格好、似合わないわよね」
アヤ子は、ハンカチで口を押さえながら、キヌエに一礼し、病室を出て行った。
お母さんらしい気丈な振る舞いだな、とアキラは思った。アヤ子は早くに夫を亡くし、女手ひとつでサト子を育ててきた。そしてその一人娘も今、失おうとしていた。
アヤ子でなくとも、アキラだってサト子を揺さぶって目覚めさせたい気分だった。アヤ子は、変わり果てた娘をわざとたしなめるような真似をして、アキラが取り乱す場面を救ってくれたのに違いない。アキラはアヤ子の気遣いに心の中で感謝していた。
* *
レントゲン写真を指さしながら、担当医師の説明が始まった。
「バイクとぶつかったときに、道路に後頭部を痛打したようですね。ここに出血が見られます。出血の量としてはさほどではありません。問題はここです。頭のだいぶ下の方で、低頭部というんですが、ここに骨折の線が見られます。だいぶ強く打ったようですね。この分だと脳幹部にかなりのダメージが予測されます。脳幹部というのは人間の呼吸を司っている部分です。ご存知のように、現状では自発呼吸は見られません。人工呼吸器に全面的に依存している状態です。今後、自発呼吸が戻る可能性がまったくないというわけではありませんが、ただ持ち直したとしても重い障害は免れないでしょう。そのへんはある程度覚悟しておいてください。
脳浮腫、つまり脳内の水分が増えて脳の内側が圧迫される状態ですが、これは現状ではそれほど強くありません。ただここ数時間の間に強くなっていく可能性があります。残念ながらこの状態だと開頭手術はきびしいですね」
ちょっと間をおいて、アキラがつぶやくように聞いた。
「つまり・・・脳死ですか・・・」
医師は、アキラの方をチラッと見て付け加えた。
「まだ確定したわけではありません。数時間後にもう一度検査します。持ち直す可能性がないとは言えませんから。どうか諦めないでください。われわれも全力を尽くします」
* *
医師の詰め所を辞してアキラが廊下に出ると、近くの病室から警官に付き添われて中年の男女が出てくるところだった。たぶん夫婦なのだろう。女の方はとるものもとりあえず駆けつけたという恰好で、憔悴し切った様子でうなだれている。サラリーマン風の男の方は、何か高まってくる感情を必死に抑えているといった様子だった。そしてとうとう堪え切れなくなったというように、押し殺した声でこう言った。
「いったいどうなってるんだ。あれほどバイクはだめだと言ったじゃないか。オマエが甘やかすからこういうことになったんだ」
「やめてください、あなた」
女が涙ながらに訴えた。しかし男はさらに声を荒立てた。
「どうするつもりなんだ、死んじまって、どうするつもりなんだ」
「お願い、やめて!」
「あいつはまだ十八だぞ。これじゃまるで犬死にじゃないか!」
「ひどい!」
女はハンカチに顔を埋めた。見かねた警官が男をなだめ、落ち着かせようとしている。やがて警官はアキラに気づき、そばへ寄ってきた。
「叶田さんですね」
警官はアキラの名前を確認すると、夫婦の方に目をやり、二人がサト子をはねたバイクを運転していた少年の両親であることを告げた。そしてアキラの耳元でこうささやいた。
「少年はたった今亡くなりました」
すると、女がアキラに気付いて近寄ってきた。何か言いたいのだが何も言い出せないでもどかしいという表情をしたかと思うと、ワーッと泣き崩れて、そのまま床に突っ伏した。男もハッと我に返り、アキラを見ると、女の横に来てガクリと床に手をつき、肩を震わせた。アキラもなすすべを知らず、ただ呆然とその場に立ちつくしていた。
* *
「奇跡よ、起こってくれ」そう念じながらアキラは再びサト子の病室に入った。しかし、サト子の様子はまったく変わりなかった。アキラはサト子の脇に腰掛け、混乱した頭を何とかまとめようと努めた。アキラの頭には、バイクでサト子をはね、自分も死んでしまった少年の父親が吐いた「犬死に」というコトバがグルグルと渦を巻いていた。「犬死に」・・いやなコトバだ。何の意味もない死。ただボロ布のように死んだだけ。バイクの少年の死が犬死にだとしたら、サト子はもっと犬死にではないか。少年はいい。勝手にバイクで暴走して人をはねて、自分も死んだのだから、自業自得というものだ。しかしサト子はどうなる。結婚して、子供を産んで、子育てと家事に明け暮れて、そしてある日突然バイクにはねられて死ぬなんて。冗談じゃない。そんなことが許されてたまるか。第一、ヒカルはどうなる。まだ四歳だというのに、まだ母親にたっぷり甘えたい年頃だというのに・・・。いったい私は父親として息子に母親の運命をどう伝えたらいいのか・・アキラはこみ上げてくる憤りと、やり場のない切なさを必死に抑えていた。
そのときだった、さと子の唇がわずかに動いたような気がした。アキラに何か言おうとしたのか。だとしたらアキラの存在に気づいているのか。それともただの錯覚なのか。アキラはサト子の唇をしばらくジッと見据えた。しかし、何の変化もなかった。やはり錯覚だったのだろう。改めてサト子の唇をながめてみると、赤々としていて、とても死んでいるとは思えない。最後にこの唇に触れたのはいつだったろう。そんな大事なことさえ、もう忘れてしまっていた・・・。
* *
目が醒めたら、きっとサト子に会えるだろう。目が醒めたとたんにサト子が目の前に立っているかもしれない。そしてやさしい口づけで起こしてくれるかもしれない。そんな予感のようなものがアキラにはあった。今は取り立てて何もすることはない。ただ再びサト子に会えるまで、こうして眠り続けていればいいのだ。アキラはこの時間が好きだった。
まどろみの中で、アキラは玄関のチャイムが鳴るのを聞いた。ベッドから起き上がり、眠い目をこすりながら鍵を開けると、眩しい朝の光が飛び込んできた。その光をオーラのように背負いながら、サト子が笑顔で立っていた。手にはコンビニの袋をもっている。
「よお、どうした。早いね」とアキラが声をかけると、サト子は照れくさそうに、
「へへえ、来ちゃった」と言ってペロリと舌を出して見せた。
「寝てた?」
「ん? うん」
「ごめん」
「いや、いいんだ」
「朝ご飯買ってきたわよ」
サト子はコンビニの袋をアキラの目の前に差し出した。袋を受け取りながらアキラが言う。
「おお、サンキュー。まあ、上がれよ」
「うん。お邪魔しまーす」
アキラは袋をダイニングテーブルの上に置き、奥へ窓のカーテンを開けにいく。
サト子は買ってきたものを整理し始める。
アキラがオーディオセットを操作しながら呟く。
「さてと、“何よりもまず音楽を”だな」
サト子がすかさず切りかえす。
「ないよりましな音楽ならね」
「こいつっ」
アキラは人差し指でサト子に狙いをさだめ、射つ真似をする。
サト子は胸に弾があたったふりをする。
アキラはプレーヤーにレコードをセットし、針を落とす。曲が流れる。
サト子は曲に耳をすまし、アキラに近づきながら言う。
「あっ、これ例のやつでしょ? すごくいいみたい」
「ああ、なかなか爽やかだろ・・・。さてと、何か飲もうか」
「そうねえ・・・」
サト子はしばらく考え込んでいたかと思うと、はにかみながら、指でアキラの背中を撫でる。
「何か飲んだら、唇が淋しいの治るかしら」
アキラは向き直ってサト子の肩を抱く。
「もっと別の治し方がある」
アキラがサト子にそっと唇を近づけ、サト子がそれを受け取る。
* *
午後二時十五分。再び担当医師からの説明があった。
「さきほど二度目の検査結果が出たところです」
「そうですか。どうでしょう」
「脳波は二度の測定ともフラット。瞳孔散大。脳幹反射も消失しています。自発呼吸も見られません。当院の脳外科の専門医が全員で結果を確認しました。脳浮腫がだいぶ進行しています。脳内圧が高まっているため、今減圧処置を施しています」
「やはりだめですか」
「残念ですが・・・」
「そうですか・・・」
しばらく沈黙が流れた。淀んだ空気を断ち切るように医師が一枚のカードを取り出し、机の上に置き、アキラの方に差し出した。アキラはその緑色のカードを一目見るなり、すぐにわかった。それは腎臓提供者カードだった。裏をひっくり返すと、サト子の名前があった。自分が死んだ後、自分の腎臓を移植に供する意志があることを証明するカードだ。
「奥さんの財布の中に入っていたそうです」
医師が沈黙を破った。
「まさか・・・」
「ご存知なかったんですか?」
「ええ、知りませんでした」
「そうですか・・・」
* *
「えっ、何これ」
サト子がカードを手に取って見た。そしてカードの表書きを読みながら言った。
「“腎臓提供者カード”・・・? 死んだら腎臓を提供しますってこと?」
「ああ」
アキラがちょっと自慢げに返事をする。
「登録したの」
「ああ」
「いつ?」
「ついこの間」
「へえーっ」
サト子がアキラにカードを返す。アキラが事情説明を始める。
「面倒な手続きとか検査とか要るのかと思ったら、意外に簡単でね。電話一本しただけ。書類送ってきてさ、それに名前とか住所とか書いて、送り返すだけ」
「ふーん」
「取り消すのも電話一本で済むみたい」
「へえーっ」
「でもね、書類に近親者の同意の署名が必要なのね。それでオヤジとオフクロに見せたわけ。そしたらさあ、面白いの」
「何が?」
「ふたりの反応がさ」
「ふーん。なんて?」
「まずオヤジはさあ、なんやかんや言いながら署名したんだけど、最後に“今こんなのが流行ってるのか”だって」
サト子がクスクスと笑う。
「オフクロはさあ、断固として署名を拒否したね。登録はいつでも簡単に取り消せるんだし、オレが死んだときでも、このカードがあるからって、すぐに腎臓が取り出されるわけじゃなくて、もう一度家族の同意を得ることになっているから、イヤならそのとき拒否すればいいだろって言ったんだけど、“いざとなったら、うまく言いくるめられてしまうのよ”だって」
サト子がまたクスクスと笑う。
「まあ、オフクロにはちょっと酷だったかもしれないなあ。言ってみれば、オレが死んだ直後のことを想像してみろって言ってるようなものだからなあ」
「そうね。わかるわ」
「だからヘンな話だけど、このカードはオレのカードだけど、このカードが効力を発揮するときは、もうオレは死んでいるわけだろ。だからこのカードにゴーサインを出すか出さないかはオマエの問題ってことになるんだよな」
「どうして」
「だって、これからオマエはオレの配偶者になるわけだろ」
「うん」
「だから、オマエがオレの一番近い身内ってことになるわけじゃない」
「そうね」
「それからさあ、もう一つやっかいなことがあるんだよね」
「何?」
「“脳死”ってやつよ」
サト子はあわててアキラの口を自分の手で封じながら言った。
「もうそれ以上何も言わないで」
アキラは了解して話をやめた。
「腎臓が健康で、人にあげられて、よかったね・・・。わたしも登録しようかな」
サト子はそう言うと、しみじみとした表情を虚空に漂わせた。
* *
しばらく沈黙した後、医師が言った。
「それはとりあえずお返ししておきます」
「やられた」とアキラは思った。あの後すぐにサト子も登録したのだ。結婚前だったからアキラに同意を求める必要はなかったのだ。おそらく母親のアヤ子がサインしたのだろう。アキラは、順番から言えば、当然自分が先に死ぬものとタカをくくっていた。それも計算ちがいだった。
アキラは家に帰って、サト子のカードをキヌエに見せた。キヌエは、
「何これ?」と言って、カードを裏返し、
「サト子さんのじゃない!」と目を丸くした。
「あなた知ってたの?」
「いや」
「だって・・・」
キヌエはもう一度カードの裏を見た。
「一九八二年・・・そうか、あなたと結婚する前ね」
「ああ」
「どこにあったの?」
「サト子の財布に入っていたそうです」
「そう・・・。それで、先生何だって?」
「いや、何も」
「じゃ、どうして」
キヌエはアキラに詰め寄った。アキラは黙っていた。
「欲しいっていう意味でしょ」
「さあね」
「そうよ。欲しいっていう意味よ」
「医者がどう思おうと関係ないでしょ。決めるのはわれわれなんだから」
「そうよ・・・。それで、どうするつもり?」
アキラは考え込んでいた。
「夏目のお母さんは何て仰ってるの?」
「まだ話してません」
「そう。脳死だってことは知ってらっしゃるの?」
アキラはうなずいて言った。
「先生から聞いたそうです」
キヌエはカードを示して言った。
「これのことも?」
「たぶん」
「それで、何も仰らないの?」
アキラは黙って何度もうなずいた。
「そう。でもそれは、いやっていうことじゃない?」
「どうして」
「だって、よかったら、いいって言うわよ」
「そうですかね」
「そうよ。いやだから、何も仰らないのよ。あなたに遠慮してるのよ」
「そうかもしれません」
「そうよ・・・」
しばらく沈黙が続いた。ため息まじりにキヌエが口火を切った。
「脳死だの、臓器移植だの、他人事だと思ってたけど、こんなことになるなんて・・・。そりゃあ、病気の人のお役に立てるのは尊いことかもしれないわよ。でもそれでわたしは、サト子さんが生き続けるんだとは思えないわ。あなたは思えるんでしょ」
「どうかな」
「だって、いつかそう言ってわたしを言いくるめたじゃない」
アキラは何も答えられなかった。
「そらご覧なさい。他人事だと思うからそんなことが言えるのよ。いざ自分の身にふりかかったら言えないものよ」
アキラは図星をつかれたと思った。
「とにかく、わたしはいやよ」
「どうして」
「だって、何だか二度殺すみたいじゃない」
アキラは当惑した表情でキヌエを見すえた。キヌエがあわてて言った。
「ごめんなさい。でも何だか生々しくって」
少し沈黙があった。
「だいいち夏目のお母さんがかわいそうじゃない。やっぱり五体満足で送り出したいものよ。わたしもそうだもの。だからお母さん、何も仰らなかったのよ。そのへん、察してあげなくちゃ」
確かにキヌエの言う通りかもしれなかった。アキラは今まで自分の身の振り方ばかり考えていて、アヤ子の気持ちまでおもんぱかる余裕はなかった。キヌエが畳み掛けるように続けた。
「残酷なようだけど、そのへんはあなたがきちんとしなくちゃ。男の責任よ。親戚のことだってあるし・・・」
「親戚のことって?」
「お父さんのときがそうだったじゃない。手術手術の連続で。死んだときは体中傷だらけで・・・。親戚にずいぶん皮肉を言われたわよ。どうして静かに死なせてやらなかったんだって・・・」
「誰がそんなこと言ったんだ」
アキラは声を少し荒立てて言った。キヌエはびっくりしてアキラを見た。
「親戚がそう言ったって? 親戚がそう言ったからって、どうだって言うんだ」
「どうって・・・」
「親戚が何と言おうと関係ないじゃないか。オフクロは、オヤジに生きていてほしかったんだろ。傷だらけになろうがどうしようが、生きていてほしかったんだろ」
「そりゃそうよ」
「じゃあ、親戚に何と言われようが関係ないじゃないか」
「そりゃそうだけど・・・」
「だけどなんだい。オフクロはオヤジに生きていてほしかった。だからつらい手術に何度も何度も耐えさせた。そうだろ?」
「そうよ」
「だったら、どんなに傷だらけの体で送り出さなければならなかったとしても、毅然とした態度でいればよかったじゃないか」
今度はキヌエが沈黙する番だった。
「それがどうだい、オフクロは親戚の体面を取り繕うのに忙しくて、涙を流す暇もなかったって感じじゃないか」
「何よ、それ」
「オフクロはねえ、オヤジの妻として生きてきたんじゃないんだ。叶田家の嫁として生きてきただけなんだ。オレはあのときそれがハッキリわかったよ」
「何よ、ずいぶんひどい言い方するのね」
キヌエは急にこみ上げてくる感情を必死に抑えながら続けた。
「そりゃね、確かにお父さんとわたしは、あまり仲のいい夫婦じゃなかった。でもね、わたしはあなたたちのために一生懸命生きてきたんじゃない」
アキラは、取りすがろうとするキヌエを振りちぎるように言った。
「死にたかったのはねえ、オレの方だよ。オヤジでもない、サト子でもない。オレが死ぬべきだったんだ」
「なんてこと言うの」
そのとき電話のベルが鳴った。アキラは立ち上がって電話に出た。病院からだった。サト子に付き添っていたアヤ子が倒れたという。心労からくる軽い貧血だろうとのことだった。心配はないようだった。アキラは電話を切ると、キヌエに事情を説明し、急いで仕度をし、病院に向かった。
* *
午後四時四十五分。サト子のベッドの脇に簡易ベッドがしつらえられ、そこにアヤ子が寝かされていた。看護婦がアヤ子の点滴をチェックしていた。看護婦の話では、アヤ子は安定剤を与えられて寝ているとのことだった。心配はないようだった。看護婦がアキラに一礼し、明かりを落として出ていった。アキラは、アヤ子を起こさないよう、そっと傍らの椅子に腰掛けた。窓から斜めに射し込む夕日が、並んで横たわる親子の姿をオレンジ色に染め上げている。
お母さんも疲れていらっしゃるのだろう。アキラは、サト子やアヤ子のことを放っておいて、キヌエと言い争いをしていた自分を恥じた。
「アキラさん」
アヤ子に声をかけられてアキラはびっくりした。
「お母さん。起きてらしたんですか。大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっとめまいがしただけ」
アヤ子の声は思ったよりしっかりしていた。
「そうですか。とにかく無理をなさらないでくださいよ」
「ええ、大丈夫よ。ご免なさいね、迷惑かけちゃって」
「いえ、こちらこそ。少しお休みになった方が。後は僕が看てますから」
「ええ。ありがとう」
アヤ子はそう言って再び眼を閉じた。少しの間沈黙があった。
「アキラさん」
再びアヤ子が声をかけてきた。
「はい、何ですか」
「私はね、あなたを娘婿だと思ったことは一度もないのよ」
「そうですか」
「ずっと、実の息子だと思ってきたわ。もちろんあなたのお母さんを差し置いてということじゃなくて・・・」
「ええ。わかってます」
「サト子のことは、もう諦めています。お父さんの処へ先に行ってもらうわ。後のことはすべてあなたにお任せします。それより今はあなたがダメになることの方が心配よ」
「お母さん」
「もう少し落ち着いてから話そうと思ってたんだけど、そうも言っていられないようね」
「何ですか?」
「実はね、あなた宛ての遺書があるのよ」
「えっ? サト子のですか?」
アヤ子はコックリとうなずき、視線を天井に泳がせながら言った。
「こうなること、わかってたのかもしれないわね、あの子」
「まさか・・・」
アヤ子はアキラの心に浮かんだ疑念をあわてて否定するように首を横にふって続けた。
「勘違いしないでね。あの子、ヒカルちゃんが生まれてから、毎年書き変えてたみたいよ。いつか話を聞いたことがあるの。自分にもしものことがあったら、あなたに渡してほしいって。バカなことやめなさいって言ったんだけど。自分にとって精神安定剤なんだって。あなたとヒカルちゃんのことが気になって仕方がなかったんでしょうね。今思えば、こうなること知ってたのかもしれないわね、あの子・・・。怒らないでね」
「いえ、そんな。でも、全然知りませんでした」
「そういう子なのよ、あの子は」
「どこにあるんですか」
* *
アキラが家に戻ると、キヌエが居間の仏壇の前で一心に手を合わせていた。アキラに気づき、心配そうに声をかけてきたキヌエに、アヤ子の状態を知らせながら、アキラはタンスの引き出しを開け、引き出しの下に手を回し、外底をさぐってみた。その手の先にテープでとめられた封筒の感触があった。それを怪訝そうに見ていたキヌエが声をかけてきた。
「何してんの?」
「サト子の遺書があるんですよ」
「遺書?」
「ええ、お母さんに聞いたんです」
「まさか・・・」
「黙って書いてたらしいんです」
アキラは、引き出しの外底から封筒を引きはがし、中を開けて読み始めた。
「アキラさん
あなたがこの手紙を読む頃には、私はもうこの世にはいないのだろうと思います。そんなことにならないよう、いつも気をつけていたつもりですが、あなたやヒカルを残して先に旅立たなければならないようなことになって、本当にご免なさい。
ヒカルのことをどうかよろしくお願いします。ヒカルは頭がよくて感受性の鋭い子だから、幼い心が傷つかないように気を配ってあげてください。特にあなたは仕事がうまくいっていないときなど、イライラをヒカルにぶつけるようなところがあるでしょ。ヒカルはあなたの苛立ちを敏感に感じ取って、子どもながらにそれを一生懸命受けとめようとしていることに、あなたは気づいていたでしょうか。
ヒカルはあなたを写す鏡です。いえ、あなた自身といってもいいくらいです。あなたは、ヒカルがあまりにも自分にソックリだから苛立つのだと思います。どうかあの子を傷つけないでください。あの子を傷つけることで、あなた自身を傷つけないでください。
そうすれば、あなた同様、ヒカルには何か一つの事に熱中すると、ものすごい力を発揮するようなところがあるから、その力が正しい方向へ向かえば、きっと何かすばらしいことを成し遂げてくれるに違いありません。どうか優しく導いてあげてください。
それから、お母様を大切にしてあげてください。お母様は、お父様が亡くなられてから、あなたしか頼る人がいらっしゃらないはずです。あなたとお母様は、顔を合わせるたびに言い争いをなさっているみたいだけど、それはあなたがまだお母様に甘えているからだと思います。あなたが我を張らなければ、お母様も心を開いてくださるはずです。
それから、母のこともちょっと気にかけてね。でも、あの人はひとりでも大丈夫な人だから、お母様が九分、母が一分ぐらいの割合にしてください。
私にはわかっていました、私はあなたにとって決して理想的な妻ではなかったということを。わがままで、文句が多くて、愚痴ばかりこぼして・・・。「いや、そんなことはない、二人はベスト・パートナーなんだ」とあなたはいつも言ってくれましたね。ありがとう。でも、そう言うあなたの目は私の背後に私以上の何かをいつも見ていたような気がします。あなたの理想は高く、歩みは速く、私は後をついて行くのがやっとでした。時々追いつけずに取り残されていく自分を感じていました。でも私なりに一生懸命だったんです。どうか許してください。
だから私のことは早く忘れて、もっとあなたにふさわしい人を探してください。それはあなたのためだけじゃなくて、ヒカルのためにもなると思います。あの子はまだ幼くて、母親が必要だと思うので...。そしてヒカルに兄弟を作ってあげてください。あの子はひとりっ子で、兄弟のいる友達をうらやましがっていましたから。そして一日でも早く私のことは忘れるように仕向けてあげてください。
それでももし、ヒカルが私のことを忘れられずに、悲しみ、悩み、つらい思いをするようなことがあったら、どうかこう伝えてください。私は遠い処に行って、会えなくなったけれど、今でも、そしてこれからもずっとヒカルの母親であり続けると、そしてヒカルが一日一日と成長していくにつれて、再び私のお腹の中へ還って行くのだと・・・。
私は照れ性で、口に出して言うのが苦手だから、あなたにはずいぶん物足りない思いをさせてしまったと思います。でも、心ではずっと思っていました。あなたには才能があります。だから可能性を大切にしてください。だけど、短気で喧嘩っ速いところは直してね。それからお酒とタバコは控え目に。車の運転にも気をつけて。そうすればきっと実り多い人生が送れるはずです。私は夢を追いかけているあなたが好きです。
あなたに巡り会えて本当によかった。ありがとう。ずっとそばに居てあげられなくてご免なさい。さようなら。 サト子」
* *
ヒカルが、眠そうな眼をこすりながら居間に入ってきた。ヒカルには母親は用事で帰りが遅くなると言ってあった。母親の帰りを待ちくたびれて、ヒカルは一人で少し遅い昼寝をしていたのだ。ヒカルはアキラとキヌエのただならぬ様子を敏感に察知しているようだった。アキラは、もうこれ以上ヒカルに隠しておくことはできないと思った。
「パパ、ママは?」
「ヒカル、こっちへおいで」
アキラは、近寄ってきたヒカルの腕を取って言った。
「いいか、ヒカル。よく聞くんだよ」
「なあに」
「ママはもう帰ってこないんだ」
「どうして。どこへ行ったの」
「ママはね、遠い処へ行って、もうここへは戻ってこないんだ」
「どうして? ボクが悪い子だから?」
「そうじゃない。オマエはとってもいい子だよ」
「じゃあ、なぜ?」
「いいかい。ママだけじゃない。ヒカルもパパも、人間はみんな生まれたときから決まってるんだ。ある時がきたら、約束の場所へ行かなきゃならないんだ。オマエだって友達と約束したら、必ずその場所へ行くだろ」
「うん、でもボクは遊んだらお家へ帰ってくるよ」
「うん、そうだな。でもママは帰ってこられないくらい遠くへ行ったんだ。そこはね、オマエもパパもいつかは必ず行く処なんだ。そうしたらまたママに会えるよ」
「いつ行くの?」
「それはわからない。神様に呼ばれたら行くんだ」
「カミサマって?」
「うーん。それはね、パパにもわからないんだ。でも、呼ばれたらすぐにわかるよ」
「ボク、すぐにそこへ行く」
「いや、だめだ。オマエにはまだやらなきゃいけないことが沢山あるだろ、お家や幼稚園やそこの公園で」
「でも、ママに会いたいよ、ボク」
「そうか・・・」
アキラは少し考えてから続けた。
「よし、じゃあこうしよう。今からママの行った処をパパと一緒に探してみよう」
「うん、いいよ。どうやって探すの?」
「望遠鏡でだ」
「望遠鏡で?」
「そうだ。パパがいつもお星様を観てるのがあるだろ。あれで探すんだ」
「えっ? アレ使っていいの?」
「ああ、いいとも。今日は特別だ」
「ホント!」
「ああ、ホントだ」
「でも、望遠鏡でママが見えるの?」
「空にはいっぱいお星様があるだろ。その中のどれかにママが居ると思うよ」
「お星様に?」
「ああ、そうだ。どのお星様にママがいるか探してみよう」
「でも、どうやったらママの居るお星様だってわかるの?」
「それは簡単さ。一番きれいなお星様を探せばいいんだ」
「うん、そうだね。でも、そのお星様にはどうやって行くの?」
「それはね、パパと一緒に考えよう。いろいろ研究するんだ」
「うん、わかった。約束だよ」
「ああ、約束だ」
二人は指切りをして、さっそくアキラの書斎から望遠鏡を持ち出し、ベランダに据えつけた。しかしその日はあいにくの曇り空で、星はあまり出ていなかった。それでも西の空に金星がひときわ輝いて見えた。アキラはそれに焦点を合わせ、ヒカルに覗かせた。
「あそこにママがいるの?」
「どうかな。見えない?」
「よくわからない・・・」
ヒカルは、望遠鏡でサト子の居場所を探せないことに気づき始めていた。アキラは何とかヒカルの気持ちを逸らそうとしたが無駄だった。ヒカルがだんだんイライラしてくるのがよくわかった。
その時、前の通りにタクシーが止まり、客が降りてくるのが見えた。
「あっ、ママだ」
ヒカルが叫んで下に降りて行った。
「ヒカル!」
アキラはヒカルの後を追った。
「ママ!」
ヒカルは玄関から外に出て叫んだ。しかし、タクシーから降りてきたのは隣家の人だった。ヒカルはそれを見るなり、プーッとふくれっ面をし、二、三度ジダンダを踏んだ。
「ヒカル・・・」
追ってきたアキラが声をかけると、ヒカルはアキラを押し退けるようにして家に入り、ダダッと勢いよく階段を昇って行った。アキラもその後を追う。
ヒカルはベランダに出ると、今まで見ていたアキラの望遠鏡の三脚を力まかせに思い切り蹴っとばした。三脚がひっくり返り、ガシャンという鋭い金属音がしてガラスの破片がベランダに飛び散った。アキラはただそれを呆然と眺め、立ち尽くしているほかはなかった。
「なんてことするの、ヒカルちゃん!」
アキラの背後からキヌエが叫んだ。
「ちょっと、いらっしゃい」
キヌエは、嫌がるヒカルの腕を取ってベランダから引き離した。アキラは、この状況で自分になすすべがないことを悟り、後をキヌエに託して寝室に引き篭もった。ヒカルがヒステリックな金切り声を揚げ、キヌエがそれを厳しくたしなめている様子が寝室のドアを通してアキラの耳に届いていた。その昔、自分がヒカルと同じくらいの歳だった頃、同じようにキヌエに叱責された苦い記憶が蘇り、アキラは天敵ににらまれてすくんで動けなくなった小動物のように、ただじっと息を殺していた。
しばらくすると、ヒカルの金切り声が激しい嗚咽に変わった。キヌエが盛んに慰め、落ち着かせている様子がわかる。そんなやり取りが続いていたかと思うと、ヒカルのしゃくり上げる声がだんだん近づいてきて、寝室のドアを開け、ヒカルが涙で顔をテラテラ光らせながら入ってきた。そしてアキラを見るなり、声を引きつらせ、コトバを途切れさせながらも、必死に言った。
「パパ、ゴメンナサイ」
アキラは何も言わず、しっかりとヒカルを抱きとめた。ヒカルはアキラの胸に顔を埋め、さめざめと泣いた。アキラはヒカルの熱い吐息と熱い涙を胸に染みこませながら、ただじっとヒカルの感情がおさまるのを待った。
やがてヒカルの嗚咽は少しずつ収まっていき、穏やかで規則的な呼吸に変わっていった。アキラはヒカルをそっと布団の上に寝かせ、自分も添い寝した。ヒカルは泣き疲れたのだろう、アキラに背中を向けたまま、静かな寝息を立て始めた。アキラは自分に背中を向けて寝入ろうとしている息子の耳元で、そっとささやいた。
「ヒカル、パパはどこへも行かないよ。いつでもオマエのそばにいるよ。パパは絶対にオマエのそばを離れたりしない。パパとヒカルはずっと一緒だ。ヒカルはとってもいい子だよ。パパはヒカルが大好きだ。わかったね」
するとヒカルは、アキラに背中を向けたまま、一度だけコックリとうなずいた。そしてそのまま深い眠りに落ちて行った。
これでヒカルがサト子の不在を全面的に受け入れたとは思えなかった。あとは、何度もこういうことを繰り返し、時間をかけてゆっくりと少しずつ母親の不在を納得させるしかないのだろう。しかし、この幼い魂は最初のハードルを確実に超えたのだ。さて、今度は自分の番だな。アキラは、そんなことを考えていると、自分の体が鉛のように重たく感じられ、やがてゆっくりと意識が遠のいていくのを感じていた。
* *
アキラはサト子を車に乗せ、病院から家に戻ってきたところだった。キヌエとヒカルも迎えに出ていた。アキラはサト子を降ろすため、自分が先に降り、運転席側から助手席側に回ろうとした。その時だった、隣家の住人がアキラの目の前にヌーッと現れ、いきなりアキラに銃を向けて撃った。アキラの胸から血が流れ、激痛が走った。だんだん意識が遠のいていく。サト子やヒカルやキヌエの声が遠いこだまのようにアキラの耳に響いている・・・。
ふと我に返ると、アキラは、再びサト子を車から降ろすため、車の後ろを回り込んでいるところだった。そして目の前に再び隣家の住人が現れ、ナイフを取り出したかと思うと、アキラの胸をグサリと刺した。アキラの胸から血が流れ、激痛が走った。そして意識が遠のいていく・・・。
そんな場面が何度か繰り返され、アキラはハッと目が醒めた。ヒカルはまだ隣でスヤスヤと寝息を立てている。アキラは、まだ醒めやらぬまどろみの中で、今まで見ていた夢を振り返ってみた。ヘンな話だが、アキラは自分が夢の中で死なない人間になっているのを感じていた。銃で撃たれても、ナイフで刺されても、怪我はするし、痛みも感じるのだが、その苦痛を抱え込んだままで決して死なない。いや、死ねないと言った方が正しい。そこで、死にたい死にたいと一心に願っている自分を感じていた。
ふとアキラは思った。今まで自分にとって死とは、人間に課せられた運命、逃れられない末路というイメージだったが、本当は人間に与えられた権利なのではないかと。死ぬことが許される権利。たった今、夢の中で死ねないことの辛さ、苦しさを体験したばかりのアキラには、そう思えてならなかった。よく全知全能の神と言うが、そういう存在が居るとして、その神様は死ねないという一点において全能ではないのじゃないか。
アキラの中で、何かがはじけて広がった。
* *
午後七時十五分。アキラの目の前には変わらぬ姿でサト子が横たわっていた。死ねない死を享受しているサト子。誰かに決めてもらわなければ、生きることも死ぬことも自分で選べない。永久に死ねない死体。それが脳死というやつの正体かもしれない・・・。
ドアをノックして、担当医師が入ってきた。アキラが一礼して声をかける。
「先生、遅くに申し訳ありません」
「いいえ、構いませんよ。どうしました」
「あの、どうですか、女房の様子は」
「変わりありませんね」
「そうですか・・・。あの・・・」
「はい」
「女房の生前の遺志を尊重してやりたいと思うんです」
「えっ?」
「移植をお願いします」
医師はしばらくアキラを見つめてから言った。
「そうですか。わかりました。すぐに手配します」
医師はアキラの肩に手を置き、一度うなずいて病室を辞した。アキラはサト子の方に向き直り、ベッドの脇に座った。そしてサト子の手を握り、髪を撫でながら、心の中でつぶやいた。
「サト子、もう終わりにしよう。オマエを救い出してやらなければな、この身じろぎできない煉獄から。もちろんオレ自身も」
それからの時間はアッという間に流れた。担当医師が用意した書類に判を押す。医師は病院のコンピュータで腎バンクにアクセスし、サト子のデータを送信する。そしてサト子の腎臓に適合する患者が選び出され、移植のプロジェクトチームが動き出す。アキラの目の前でサト子が集中治療室から運び出され、腎臓の摘出手術が始まった・・・。
そして約二時間後、アキラの目の前には白い布をかぶせられたサト子がいた。アキラは、サト子のお腹のあたりの布をそっとめくってみた。サト子は手術着を着せられていた。アキラが、その手術着のヒモを解くと、ガーゼに絆創膏を貼られたサト子の腹部がのぞいた。アキラは少し浮いている絆創膏の端を指でつまみ、注意深くゆっくりとはがした。するとガーゼの下から縫合されたばかりの生々しい傷口が現れた。ホオズキがはじけるようにアキラの目からとめどなく涙があふれた。アキラは指先をその涙でしめらせ、その指でサト子の傷口にそっと触れた。アキラの涙は,砂漠に水が染み込むようにサト子の傷口を潤した。アキラは声にならない声でささやいた。
「サト子、よく頑張ったな・・・。さあ、ウチへ帰ろう」
▼数カ月後▲
玄関のドアを開け、キヌエとヒカルが外へ出るところだった。アキラがそれを見送る。
「じゃあ、行ってくるわね」
「はい、行ってらっしゃい。ヒカルをよろしく」
「はい」
キヌエはちょっとためらってから、アキラに目配せするように言った。
「よろしく言っといてね」
アキラは黙ってうなずく。
「おばあちゃん、速く!」
ヒカルが叫ぶ。
「はいはい、今行きますよ」
「パパ、行ってきます」
ヒカルが手を振る。アキラも手を振り返す。
「ああ、行っといで。気をつけてな」
アキラとキヌエの目が合い、もう一度互いにうなずき合う。キヌエはヒカルに追いつき、ヒカルの手を取って歩き出す。
二人を見送ると、アキラはそそくさと家の中に戻り、部屋の中を見回し、散らかっている雑誌、クッション、おもちゃなど、目につくものをマメマメしく片づけ始める。それからキッチンへ行き、お茶とお菓子の準備を始める。それが済むと、居間に戻り、鏡に自分を映して、身仕度を整える。そのとき玄関のチャイムが鳴った。
* *
町田ミドリと名乗る女性から電話があったのは、ちょうど一週間前のことだった。それに先立ち、サト子の担当医師から連絡があって、アキラは病院に呼び出された。何事かと思ったら、医師から意外な話が飛び出してきた。サト子から腎臓の提供を受けた女性が、どうしても遺族に会って礼を言いたがっているというのだ。アキラには断る理由が見当たらなかった。その人物にもちょっと興味を覚えた。当人同士の強い意志によるもので、万が一トラブルなどが発生しても病院側はいっさい責任を負わない旨の同意書を書かされた。
間もなく本人から電話があった。都合のいい日におじゃましたいとのことだった。電話の声からは何も悪い印象は汲み取れなかった。アキラは承諾し、今日の日を迎えることとなった。
* *
アキラが玄関のドアを開けると、朝の光を背に若い女性が立っていた。歳の頃は二五・六。色白で、長い髪を後ろで束ねている。スラッとした体形に花柄のワンピースがよく似合っている。
「こんにちは。町田と申します」
「やあ。よくいらっしゃいました。叶田です」
「どうも、はじめまして」
「はじめまして。道、すぐにわかりました?」
「ええ、何とか」
「そう・・・。あ、ごめんなさい。さ、どうぞお入りください」
「はい、お邪魔します」
アキラはミドリを中に招き入れる。
「どうも、散らかってまして」
照れくさそうに頭を掻きながらアキラが言う。
「いいえ、素敵なお住まいですね」
「いやあ、とんでもない」
「あの、これご霊前に」
ミドリはそう言って、持っていた花束を差し出す。
「やあ、これはご丁寧に、すみません。さ、どうぞお掛けになって。今、お茶をお持ちします」
「あの、どうぞお構いなく」
アキラはキッチンへ行き、準備していたお茶とお菓子を持ってくる。
「何もなくて恐縮ですけど」
「いえ、ほんとにどうかお構いなく」
「まあ、どうぞ」
アキラはミドリをソファに促す。
「はい。失礼します」
お茶をふるまいながら、アキラはミドリに聞いてみる。
「体の方は、もうすっかり?」
「はい、おかげさまで・・・。本当におかげさまで」
「やあ、そうですか。それはよかった」
しばらく間がある。
「あの、どうぞ召し上がってください。何んにもありませんけど」
「は、いただきます」
ミドリが、お茶を一口すする。
「お茶でよかったのかな。何んにもわからなくて」
「いえ、とてもおいしいです。煎れ方、お上手なんですね」
「いやあ」
二人とも話が途切れて、手持ち無沙汰な空気が流れる。
「あの、もし差し支えなければ、お線香を揚げさせていただけませんでしょうか」
「あ、はい、どうぞどうぞ」
アキラはミドリを仏壇の前に案内する。ミドリは仏前に線香を揚げ、深々とこうべを垂れて、サト子の写真に手を合わせる。そして再び目を上げると、サト子の写真を食い入るように見つめている。
「お綺麗な方ですね」
「いやあ、とんでもない」
ミドリはさと子の写真から目を逸らそうとはしない。このまま放っておいたら、何か別の世界に行ってしまいそうな気がして、アキラは疑問に思っていたことをミドリに思い切って聞いてみる。
「あの、純粋に好奇心からお聞きするんで、どうかお気を悪くなさらないでいただきたいんですが・・・」
「はい、何でしょう」
ミドリはようやくアキラの方に向き直る。
「普通、医者は患者の秘密を守る義務があって、ましてや臓器移植なんかが絡むと、とたんに口が重くなるものですが、よく説得なさいましたね」
「ご免なさい。ご迷惑でしたよね」
「いえ、とんでもない。そうじゃないんです。私はあなたにお会いできて、よかったと思っています。だから純粋に好奇心でお聞きしているんですけど・・・」
するとミドリは、意を決したように、改めてアキラの方に向き直って、語り始める。
「私、独りっ子で、小さい頃両親を亡くしました。だからもしかして普通の人の十分の一も家族の恩恵を受けてないかもしれません。でも、たった一つだけ両親から教わったことがあります。それは人に何か頂いたら、きちんとお礼を言いなさいってことです。それだけは幼な心に覚えているんです。いわば私にとって、両親の遺言のようなものです。それって、人間にとって一番大事なことだと思うんです。人間にとって一番大事なことを教えてくれた両親に恩返しをしたくても、もうこの世にはいないわけです。それでまた今、人間にとって一番大事なものを私にくれた人がいて、その人にお礼を言いたくても、もうその人もこの世に居らっしゃらない。あまりにも切ないと思いました。このままじゃ、恥ずかしくて、この先まともに生きていけないと、本気でそう思いました。その気持ちを正直に先生に伝えたんです」
「そうでしたか・・・。よく話してくれましたね。ありがとう」
「いえ、とんでもない」
長い沈黙の時が流れた。しかしそれは何かとても充実した沈黙のようにアキラには思えた。このままずっと二人で黙り込んでいても、きっと良かったに違いない。しかし、最初のチャプターを終わらせ、次の展開に移らなければならないとアキラは思った。
「あの」
「はい」
「音楽でもかけましょうか」
「あ、はい」
「何がいいですか」
「あの、何でも」
アキラはうなずいてオーディオの処へ行った。
「ええと、何がいいかな」
アキラが考えあぐねていると、
「あの」
と,後ろでミドリの声がした。アキラは振り返ってミドリを見た。ミドリは何か言い出そうとして迷っている様子だった。アキラは答えを促してみた。
「何かリクエストありますか」
するとミドリは、意を決したように、こう言った。
「あの、奥様が好きだった曲を」
アキラはハッと息を呑んでミドリを見つめた。ミドリもまっすぐな眼差しでアキラを見つめ返した。そして二人の唇に微笑みがこぼれた。
