■「事実」「現実」「真実」「真理」



 高校生の頃、友人と毎日のように議論した。

 私と親しくつき合おうとする友人は、特に議論好きな連中のようだった。ただし、高校生としてはまだ人生経験もそれほど豊富なわけではないため、議論はいきおい抽象的なものに終始する。読みかじりの哲学書の受け売りで、もっともらしい表現をこね回すだけの場合もある。

 やがて、お互いの議論がうまく噛み合わない場面に出くわす。原因を追求してみると、どうやらある特定の言葉に対して、お互いが持っている認識に微妙なズレがあるようなのだ。特に、「事実」「現実」「真実」「真理」という四つの言葉の使い方に関しては、人によってまちまちのようだった。

 それ以来、この四つの言葉の違いを明確に定義することが、書くことを職業として選んだ私にとっての課題として、今だに残されている。

 ひとつの試みとして、それぞれの言葉の反対語を考えてみよう。

 

 「事実」という言葉に対比されるのは、おそらく「見解」とか「私見」と呼ばれる言葉だろう。

 私の専門分野であるテクニカル・ライティングの世界では、「事実」と「見解」を明確に書き分けることが要求される。特に、私見や私情をはさまない書き方を要求される法律家やジャーナリストにとって、この書き分けは死活問題となる。

 かの文豪ヘミングウェイは、駆け出しの新聞記者として地方の新聞社に就職したとき、先輩の記者に「記事は形容詞を使わずに書け」とアドバイスされたという。これも私見をはさまないためのテクニックだろう。

 たとえば、次のような二つの文章では、どちらが事実でどちらが見解だろうか。

 「ジョージ・ワシントンは、アメリカ初代の大統領である」

 「ジョージ・ワシントンは、アメリカ最大の大統領である」

 この手の書き分けを、アメリカでは小学生の頃から学校教育の中で徹底的に仕込まれるらしい。こうした国語教育のあり方は、日本では圧倒的に立ち遅れている。私の経験で言えば皆無に等しい。

 右の例文では、答は言うまでもないだろうが、それでは次のような文章は、事実だろうか見解だろうか。

 「この超小型カメラは、第二次世界大戦中、イギリスのスパイ達に愛用されていた」

 まず、そのカメラが実際に大戦中、イギリスのスパイによって使われていたものであるかどうかは、調べればわかるだろう。

 気になるのは「超小型」という形容詞である。どの程度の大きさが小型で、それ以上は普通サイズないし大型かという認識は人によって違うだろうし、ましてや「超」という強調語をつけるべきかどうかとなると、「タテ・ヨコ・奥行き何センチまでが小型で、それ未満は超小型と呼ぶ」というような国際基準でも設定しない限り、客観的な事実かどうかは判断できない。

 それに「愛用」という表現にも引っかかる。たとえイギリスのスパイが実際に使っていたものだったとしても、イヤイヤ使っていたかもしれない。そこには筆者の個人的な感情の臭いがする。

 

 「現実」という言葉に対比されるのは「理想」とか「夢」とかいった言葉だろう。

 「理想と現実」という対比が問題になるとき、この二つの関係は、平行線のように永久に近づくことのない関係だろうか。それとも座標軸と漸近線のように、交わらないかもしれないが限りなく近づき合う関係だろうか。そもそも理想が現実化するという現象があるとしたら、理想はいつどんなふうに現実と入れ替わるのだろうか。

 アメリカでこんな実験が行われた。

 幼稚園から五年生までの子どもに学力テストを行い、それぞれ新しく担任になる教師たちに、各クラス数人の名前を挙げて「テストの結果、この子たちはずば抜けた成績で、今後も目ざましく伸びる可能性を持っている」と伝えた。

 しかし、これは偽りの予言だった。これらの子はまったく無作為に選ばれたもので、他の子どもたちより伸びる可能性があるという根拠はまるでなかった。

 ところが学年末にもう一度テストをしてみると、教師たちに名前を挙げた子どもたちは、例外なく明かな学力の伸びを示したという。

 専門的にはこれを「ピグマリオン効果」という。

 つまり、教師たちの期待が言葉や態度や接し方に現れ、子どもたちがその期待に応えたことになる。

 たとえば、ある二人の子が同じ誤りをしたとする。片方の子は名前を挙げられた子で、もう一方は普通の子だったとすると、教師は前者に対しては「たまたま調子が悪かったのだろう」と慰め励まし、後者に対しては「この子なら仕方がない」という態度になるに違いない。

 教師や親、周りの大人たちの態度をモデルとして、子どもたちは自己のアイデンティティ(自己同一性)を確立する。

 教師や親から期待され、目をかけられ、何かにつけて手を差し伸べられた子どもは、他人から期待されるに値する人間像へと自己を同一化する。

 一方、いつも大人から諦めの目で見られ、さげすまれ、無視された子どもは、まったく存在価値のない人間像へと自己を同一化する。そういう子どもは精神を病んだり、犯罪に走ったりすることも稀ではない。

 他人の期待ではなく、自分が自分に対してどのような期待を持っているかというふうに置き換えても、結果は同じだろう。人は自分が思い描いている人間像以外の人間にはならない。あらゆる期待は、それが自分のものであれ他人のものであれ、必ず現実のものとなる。

 よく「理想と現実は違う」とか「現実は厳しい、そんなに甘くはない」といった言い方を耳にする。現実というものに対して、そのような観念を持っている人にとっては、まさに現実は辛く厳しいものに違いない。

 しかし、世の中には同じ境遇にありながら、やすやすと楽しく現実を生きている人もいる。要は、自分というものに対してどのようなイメージを思い描くかによって、現実は変わってくるということか。

 

 「真実」という言葉に対比されるのは「虚偽」という言葉だろうか。

 法廷で証言台に立たされた者は、真実のみを述べるよう宣誓させられるが、その場合の真実とは「嘘や偽りがない」という意味だろう。

 しかし「嘘から出た誠」という言い方もある。本人は軽い気持ちで冗談半分に対処した事柄が、意外にも問題の本質に触れてしまった、という意味か。

 また逆に、本人がいくら誠心誠意取り組んでいるつもりでも、周りからそうは受け取られない場合もある。

 真実と虚偽は常に紙一重で、お互いの領域に明確な境界を設けるのはなかなか難しい。

 

 名前は忘れたが、あるカメラマンが報道写真でピューリッツア賞を取った。

 アフリカの飢餓難民の幼女が、翼を広げた禿鷲に背後から今にも襲いかかられようとしている。幼女は衰弱し切った様子でその場にうずくまっている。

 カメラマンは、写真家に与えられる最高の賞を取ったものの、「シャッターを切るより、幼女を助けるべきだったのではないか」という非難を浴びた。それが原因かどうかはわからないが、その後カメラマンは自らの命を絶った。

 しかし、カメラマンは写真を撮った後、すぐに禿鷲を追い払った、とか、幼女は自分の足で立ち上がり、結局禿鷲は幼女を襲わなかった、とか、写真には幼女と禿鷲しか写っていないが、そばには禿鷲に銃をかまえた関係者がいた、とか、子どもが禿鷲に襲われるのは、その難民キャンプでは日常的な光景だった、とかいった様々な証言が飛び出した。

 真相はハッキリしない。ただ、一人の報道カメラマンが一枚の写真を撮り、それによって賞賛と非難の両方を受け、そして自殺した。確かなことはそれだけだ。

 

 彼にとって真実とは何だったのだろう。

 幼女の命と自身の職業的野心とを秤にかけて、野心を選んだということなのだろうか。それとも日常的に繰り広げられるこの世の地獄を目の当たりにして、カメラマンとしてとるべき態度をとったということなのだろうか。そしてその結果が、自分の命を上回るほどの非難に値するものだったということなのだろうか。

 いくら推論をめぐらしても、真実に近づいたという実感を持つことはできない。それはつまり、対立する概念のどちらかを選ぶという態度では、真実には近づけないということを意味するのだろうか。

 

 ところで、自分の発言が一人の人間を死に追いやったかもしれないという人間にとって、真実とは何だろう。

 ルーマニア出身の思想家E・M・シオランは「充実した生とは、最良の場合でも、さまざまな差障りの均衡にすぎない」と言っている。均衡が崩れたとき、生が終わり、死が訪れる。幼女が死を免れたとしたら、そこでは均衡は崩れなかったことになる。崩れたとしたらその後だ。

 テレビのコマーシャルにこういうのがあった。バーの入り口で、風采のあがらない男がもう一人の男に金をせびる。せびられた方の男は金を渡し、そのままバーに入り、カウンターに陣取っていた友人と合流する。すると友人は事情を知っているらしく「あの人、病気の子どもがいると言っていただろう。でもそれはウソなんだ」と言う。すると気前のいい男は、動揺する様子も見せず「よかった、病気の子どもはいないんだ」と言って、旨そうにグラスを傾ける。

 ここでは見事に均衡が保たれている。ここには加害者も被害者も登場しない。対立する概念は何もない。

 

 私は、反対の意味を持つ言葉と対比することで、四つの言葉の違いを際立たせようと試みてきた。しかし、真実と虚偽の対比に至って、二つの概念を対立させること自体が真実から私たちを遠ざけるさまに、出くわしたように思う。

 最後に残った「真理」という言葉では、さらにそうした色合いが濃くなるように思う。「真理」に対比するにふさわしい言葉を私は知らない。

 

 真理とは、理想的ではあるが、気まぐれで気分をそこねやすい恋人のようなものだ。それは、離れることなく常に私たちのそばに、すぐ手のとどくところにある。それは私たちの命を司り、私たちの生きる理由であり、私たちはそれによって生きる喜びを得、それによって泣き、笑い、怒り、それの前では心を開かないわけにはいかない。

 しかし、それを手にいれようと、こちらに振り向かせ、それに触れ、言葉を尽くし、引き寄せようとすると、とたんにそれはヘソを曲げ、ソッポを向いてしまう。

 それでも私たちは、確実にそれを愛している。そして、それに愛されていると信じることもできる。

 かといって安心していると、とたんに遠ざかり、およそ理解しがたいものになってしまう。常に追求し探求していなければならないものである。

 どのような態度でか?

 オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインは次のように述べている。

 

 「すでに真理のなかでくつろいでいる者だけが、真理を語ることができるのだ。まだ虚偽のなかでくつろいでいて、たった一回だけ、虚偽からはいだしてきて、真理を手にいれただけの人は、真理を語ることができない」

 

 ヴィトゲンシュタインはここで、真理を語る上での態度について言及しているわけだが、そこへ「虚偽」という言葉を持ち出しているのは興味深い。

 どうやら、真理とは何かを語る試みを続けているうちに、真実とは何かを見いだしたようだ。真実とはおそらく、真理を追求するときに、私たちがとるべき態度のことだろう。