■「なぜ」と問いかける力



 ネイティブ・アメリカンのタオス・プエブロ族のある人物が、こんなことを語っている。

 

 私はこれまで祖父や祖母にも、またほかの誰にも、「なぜ」などと尋ねたことは一度もなかった。「なぜ」などと尋ねれば、それは私がなにも学んでいないということを意味し、自分は馬鹿であると言っているようなものだからだ。ところが西洋人の社会では、「なぜ」と尋ねないと、馬鹿だと思われてしまう。

 私は「なぜ」と人に尋ねるのではなく、人の語ることに耳を傾け、自分で気づくようにしなさい、と言われて育てられてきた。そんな私にしてみれば、人々が私と同じように、自分のことや私のことについて、なにかの理解をもっている、つまり宗教をもっているのは、ごくあたりまえのことなのだ。そうやって自分のことを知れば、私たちは気持ちをひとつにできるし、たがいの理解を分かち合うこともできるようになる。

 

 当然のことながら、あらゆる学問は「なぜ」と問いかけるところから始まる。

 想像力の所作でもあるこの思考の営みは、デカルトの言葉を持ち出すまでもなく、人間存在の証しでもあるだろう。

 あなた達二十歳前後の若者たちとつき合っていると、私がその年代だった頃と比べ、相対的に見て、その「なぜ」と問いかける力が衰えているかに見える。なぜなのか、理由はいくつか考えられるだろう。

 いちばん大きいのは、日本の精神風土自体が、この「なぜ」と問いかける力(ここでは仮に「なぜ」力と呼んでおく)を養いにくいものになりつつあるということではないかと思う。この「なぜ」力が、人間存在の証しであるならば、端的に言って、まともな人間を育てる精神風土が衰えつつあるということか。

 そもそも私たちは、「なぜ」力を養うような教育を受けてきただろうか。これは私の母親や妻も含め、世の母親族の口からたびたび発せられる言葉だが、子どもが何か失態を演じると、母親は「なぜ(どうして)オマエは(そんなに)〜なの?」とわが子に詰めよる。

 

 東京心理教育研究所所長の金盛浦子氏は『子どもを追いつめるお母さんの口癖』(青樹社)の中で、子どもの心をささくれ立たせ、同時に口に出した本人の心もイライラさせる母親の口癖の例として、次のようなものを挙げている。

「何でオシッコっていわないの!」

「何でそんな悪いことをしたの! ちゃんと説明しなさい!」

「そのくらい、どうしてできないの?」

 なぜそのようなことをしてしまったのか、あるいはなぜそのくらいのことができないのか、その明確な理由を親は子どもに厳しく問いつめているわけだ。

 しかし、子どもにその理由が説明できるだろうか。できるくらいなら、はじめから適切な行動をとっているだろう。だから、子どもの行為に対し「なぜ、どうして」と問うのは、親が自分自身に対してやるべきことのはずだ。

 しかし、たいていの親(大人)は、子どもの行為を注意深く観察し、その理由や原因を推察し、しかるべき対策を立て、それを実行に移すといったプロセスを省略し、詰問だけを反射的に発してしまう。これは親(大人)自身の「なぜ」力の欠如にほかならない。

 

 学校教育の現場はどうか。

 しかるべき正解は常に教師が握っていて、子どもはそれに向かってあれこれと思考をめぐらす。その唯一の正解に到達しなかった子どもは、正当な評価を受けない。これでは、本来、正解がない問いに対して、自分で答えを見いだす能力であるはずの「なぜ」力が養われるはずもない。

 「なぜ」力は、自分で自分の人生を切り開いていくのに必要な根本的な能力である。つまり、子どもが自立するのに欠かせない能力である。教育でそれが養われないとしたら、何のための教育だろうか。

 家庭にしても学校にしても、ネイティブ・アメリカンの世界で行われている教育とはまったく正反対のものがまかり通っているわけである。自戒の念も込めやや大袈裟に言うなら、もはやまともな人間教育はネイティブたちの世界にしか残っていないのではないかとさえ思えてしまう。

 とはいえ、教育を受ける側であるあなたたちとしては、現代の教育の貧困さを嘆き、手をこまねいて改革を待ってばかりはいられない。とりあえず自己教育する以外には対策はないのだ。

 

 少なくとも私の周りには、十代の頃からことあるごとに私自身の「なぜ」力(つまり「なぜ」という問いかけを個人的にどこまで深めているか)を試そうとする連中が大勢いたように思う。平たく言えば議論好きな友人・知人ということである。

 たとえば高校の時分、ある同級生と議論の最中(もちろんその年代特有の他愛のない空理空論ではあるのだが)、私のたたみかけをやや疎ましく感じ、口を封じる意図もあったのだろうが、その友人は「口に出して話すことは、思考を停止させることに等しい」というような意味のことを言った。

 私はそれを聞いてハッとした。当然会話はそこで途切れる。彼の意図は見事に果たされたわけだ。つまり、私(あるいは私たち)は、しゃべるのを止め、スイッチを切り換えて考えるモードに入ったのだ。

 

 彼のこの発言は、「なぜ」力とは何かを考える上で、ある本質を突いているとも言える。

 前述した母親の口癖のように、「なぜ」という問いかけが発せられた瞬間、発した側の思考は停止し、問いかけへの答えの考案は発せられた側に引き渡される。発せられた側に問いへの答えを引き出す能力がない、あるいはその気がない場合、「なぜ」という問いは宙に浮いたままとなり、発した側の「なぜ」力はいっこうに深まらない。

 相手に「なぜ」と問うのを止め、その問いをすべて自分に振り向けるようにしたらどうか。ある日、会話の中からいっさいの「なぜ」が消滅し、無言の自問自答の海へ深く沈み込む。

「なぜ、目の前のこの人(子)は、このようなことを言う(する)のだろう」

その自問にひとつひとつ自分なりの答えを出しながらコミュニケーションは少しずつ前へ進む。また、こちらからの働きかけに対して相手がどのような反応を示したかによって、内なる自問自答に修正が施される。

 そのようにして「なぜ」力は養われるはずだ。ネイティブたちのコミュニケーションも、きっとそのように進行するのに違いない。つまり「なぜ」力とは、表現と表現の間に横たわる豊饒な沈黙を揺籃として育まれるものだとも言える。

 だとすると、この「なぜ」力が深まれば、言葉を交わさなくても相手の考えがわかるようになるのではないか。

 実際に、長年にわたりコミュニケーションを積み重ねてきた熟年夫婦が、ほとんど言葉を交わさずに満ち足りた時を過ごす様を、私たちは豊かな気持ちで目にしたりする。「以心伝心」というやつである。スポーツの世界にもそういうのがある。最近では「アイ・コンタクト」などという言葉もよく聞くが、長い練習の積み重ねをともにしてきたチームメイト同士が、視線を交換するまでもなく、相手の次の動きを瞬間的に察知するといったことがある。

 

 書くこともまた、「なぜ」力を養うのに大いに役立つ。

 書くという行為においては、常に書くこと自体が問題となる。「私はなぜ書くのか」ということを私は書く(書くことができる)。形而上学の誕生の瞬間だ。言語は「意味するもの」と「意味されるもの」との分かち難い関係(たとえば「コップ」という言葉は「コップ」という実体を意味するのであり、それ以外のものを意味しないという関係)から自由になり、「メタ言語」(つまり言語そのものを問題とする言語)となる。

「私はなぜ書くのかということについて、私は書く」

 書くという行為は瞑想に近い。

 静かに熟していく時の中で、気持ちを集中させ、浮かんでは消え、突然一点に収斂したかと思うと、次の瞬間虚空に拡散していく諸々の想念を、形ある確かな実体へと定着させていく。それは煉瓦職人が煉瓦を積み上げ、ひとつの建造物を形作るのにも似ている。

 繰り返される単純作業が、全体として意味を持ち目に見える実体を生む。考えるという行為が一種のシミュレーションだとするなら、書くという行為は、現実世界への定着作業だ。その二つの世界間のたゆまない往復運動が、「なぜ」力を深める。


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